3月13日(水曜日) 第5日 ドブロヴニク・スルジ山
朝食を済ませるとロビーのフロントに、昨晩切手を貼った絵はがき18枚を託した。日本迄なら1週間で着きますと言われた。
8時30分ホテル出発。昨日旧市街観光と城壁散策を済ませているので、今日はロープウエーに乗ってスルジ山展望台からの観光である。昨日のガイド・ルシヤさんと合流、城壁の外側の坂道を歩いてロープウエー乗り場へ向かう。ガイドが携帯電話で本日ロープウエーが動いていることを確認し、9時の始発に乗ることが出来た。
城壁に続くドブロブニクの必見観光スポットはスルジ山の山頂からの眺めである。

[スルジ山]は、クロアチア・ダルマチア地方のドブロヴニクの町の背後にある山である。標高は412mで、1806~1816年にナポレオン軍が占領中に建設した帝国要塞と白い十字架がある。1991~1995年のセルビアとの独立戦争では主戦場の一つとなった。1969年に完成し、戦争中から中断されていたロープウェイは2010年に再開された。
スルジ山の山頂への行き方は、ロープウェーかタクシー又は徒歩の3通りである。旧市街から麓のロープウェー乗り場までは徒歩約15分ほどであった。スルジ山のビューポイントへのアクセス方法で一般的なのは、麓から山頂まで4分ほどで到着するロープウェーである。
ロープウエーの一度の最大乗車人数は32人で、地上から山頂までの778mの距離を結んでいる。
今朝の山頂は快晴で風も無い。見渡せるのは周囲約60km先まで、旧市街の全景はもちろん、アドリア海の島々も視界にとらえる事ができた。
スルジ山のビューポイントとして3つのテラスがある。[パノラマビューレストラン][ギフトショップ][劇場(120人収容可)]などがあり、望遠鏡も設置されている。旧市街の全景を撮影すると、ロープウェーのケーブルがかなり邪魔になる。
(因みに、ドブロブニクの家の屋根が何故オレンジ色かと聞いてみると『ヨーロッパの土を使って焼いたからだ』との答えが返ってきた。ドブロブニクは雨が少ないため、屋根の瓦を安価な素焼きにしたことで、土に含まれた酸化鉄のため、瓦がオレンジ色になった。沖縄の赤瓦は昔、赤土ではなくて黒土を使って焼いていた。現在の首里城は、赤土で焼いている)
山頂駅のトイレから出てきたら誰も居なかった。他の観光客もまばらだ。見晴台と言うから山の上の方へ歩いて行ったら、3階建てのコンクリートの建物があった。建物の頂上で景色でもみているものと思い中へ入ったら、入場料を30Kn(540円)も取られた。

中は戦争記念博物館になっていて、1991~1995年のセルビアとの独立戦争(ユーゴスラビア崩壊に伴う紛争)当時の武器や軍旗が陳列してあった。屋上に登ってみたが、見晴台ではなかった。誰も居なかったし、ツアーの団体は、どうやら逆方向へ下ったものらしいと判った。集合時間が迫ってきたので山上のロープウエー乗り場に戻ってきた。この下の方にある、ナポレオンから贈られた十字架とか、ロブリイェナツ要塞を見損なってしまった。
旧市街のすぐ近くに浮かんでいる島はロクルム島というリゾート島である。ビーチが3つあり、シーズン中はかなりの数の人が集まるそうである。
《 真っ青に輝くアドリア海と純白の堅牢な城壁、そしてオレンジ色の屋根。その美しさから“アドリア海の真珠”と称される場所である。1929年にここを訪れたアイルランド出身の劇作家のジョージ・バーナード・ショーは、その感動を「もしこの世の天国を見たいのならば、ドゥブロヴニクに来るべきだ」と表現したという 》
スルジ山観光を終え、再び旧市街へ戻ってきた。

昼食は旧港の突端にあるレストランで12時からだという。旧市街のレストランは特別高く(クーナの残金のことも考慮してか)上田さんが飲み物の値段を事前に読み上げた。ビールが80Kn(1,440円)だという。その他の飲み物も驚く程の値段である。私のKnは残り少ないから昼食のビールは飲まないことにした。
2時間の自由時間となった。ツアーの人達の殆どは上田さんに付いて、スルジ山トレッキングに向かった。登山道から見るアドリア海の真珠も格別なのだという。
私は遊覧船に乗って海からドゥブロヴニクの旧市街と新市街の街並みを見ることにした。

料金はビールと同じ80Knだった。約20人乗りの遊覧船は、出航予定より15分遅れの10時30分埠頭を出航した。シーズンオフにしても本当に観光客は少ない。遊覧船の乗客は私の他フランス人夫婦の三人だけだった。
船は旧港を出ると海に面した城壁を見ながら進み、ロクルム島を一周して戻ってきた。風も無く波も静かで、海から見る赤い屋根の街並みも美しかった。下船して一人旧市街見学である。昨日閉まっていた小さな教会や大聖堂の中へ入ることが出来た。
今回の旅の食事の殆どは、篭に入ったパンと前菜に本菜、そしてデザ-トだけである。皿に盛って出される。これで終わりなの? 何か物足りなさを感じる。このレストランの本菜は[海鮮ピザ]だった。日本人は殆どの人が残すからと、半分だけが乗せてあった。一緒のテーブルに付いた、卒業旅行だという22歳の山田君は海産物は食べられないと言う。それならエビとかイカが混ざっていないピザの耳(縁)なら食べられるでしょうと、私と豊沢夫人が自分のピザの耳を切って山田君に食べさせた。
昼食後ドゥブロヴニクを出発し、プリトヴィッツェ(445Km、約7時間)へ向けての長距離移動である。今回の移動で一番長い移動(東京-京都間と同じくらいの距離)である。帰りにもネウムのスーパーマーケットに寄りトイレ休憩と買物タイムを取ってくれたので、ドイツの缶ビール2本と1ℓ入りペットボトルを買っておいた。
帰りのクロアチア(ドゥブロヴニク)からボスニアヘルツェゴビナへの出郷では、通関窓口まで行きパスポートを見せるだけで済んだ。ボスニアヘルツェゴビナからクロアチアへの再入境も同様だった。クロアチアへ再入国する際、国境にあるトイレに入った。ここのトイレは精算機に7Knか1€コインを入れないと廻転バーが作動しない仕組みである。私は小銭が無かったので、女性係員に両替してくれと申し出たが、NOと断られてしまった。これから2時間先までトイレ休憩が無い。諦めかけたら、3人で参加しているツアーの若い女性が1€を手渡して下さった。無論後でお返しした。
予定より1時間早く19時にプリトヴィッツェのMACOLAホテルに着いた。
夕食は19時30分から、ホテル0階のレストランで、バイキングだった。山田君も一人参加なので、食事の時テーブルが一緒になることが多い。姉妹で参加している加藤・久保田さんも同席だった。他のホテルの朝食よりメニューが少ないが、有るものを食べるしか無い。夕食にしてはお粗末なので、皆さんも不満そうだった。25Kn(450円)のビールを飲み終え、軽く食べ終えて部屋に戻りかけたら、出口の脇にも魚料理や野菜・果物、デザート類が並べてあった。同テーブルの3人に知らせてあげた。
山田君は彦根市に就職し、4月1日から出勤するという。私にどんな仕事をしていたか聞くので、公務員だったと話すと身体を乗り出して 「いろいろな事を教えて下さい」と迫ってくるので、
「食ベ終えて風呂に入ったら、ビールとブランデーがあるから、[水]持参で9時に私の部屋へいらっしゃい。部屋番号は312号室です」とお誘いした。
風呂に入り、パジャマに着替えて山田君を待ったが一向に来ない。
椅子が一つしか無いので、金属のゴミ入れの上にクロゼットから間仕切り板を外してきて乗せ、その上にベッドの枕を座布団代わりに乗せて、臨時の椅子にして待っていた。山田君が来ようが来まいが、私は一人で500ml入り缶ビールを2本飲み、ブランデーの水割りを飲んで、11時になるので寝ようかなと思ったら、山田君がやって来た。
「御免なさい。ベッドにごろんとしたら眠っちゃったんです。こんな遅くでも構いませんか?」と、ペットボトルを抱えて、いかにも申し訳なさそうである
「私もそう思ったよ。構いませんからお入りなさい」と部屋に入れた。 「なかなか来ないからビールは飲んじゃったよ。ブランデーだけだよ」
コップに3分の1程ブランデーを入れ、
「水加減はお好きなように」と手渡し、摘まみに貝柱、たこの燻製を出すと、
「僕、海産物は駄目なんです。アレルギーなんです」と言う。
「そういえば今日の昼食も海鮮ピザを食べなかったよな」
リュックの中に[干し納豆]があるのを思いだし、出してあげたら
「干し納豆というのですか? 初めて食べました」旨かったの不味かったのか? 怪訝な顔で食べていた。
取り留めの無い話しをした。公務員一年生としての抱負も聞いた。
「この旅行が最後だと思っています」としみじみと言う
「情けないことを言うなよ。就職したら休みが取れないと思っているんだろう? 公務員には年20日の年休が貰えるんだよ。私が100回以上も海外旅行が出来たのは公務員だったからだ。公休と年休を巧く組み合わせれば10間の旅行にも行ける、無論お金は掛かるけどね。年休は権利として使わなくちゃ駄目だよ」先輩ずらして話した
「知っていますけど、最初の5年間は休まないで頑張ろうと覚悟しているんです」山田君は大変真面目な青年だと思った。
遠慮して帰ろうとするのを、もう一杯飲んでおいでなさいと勧め、12時30分頃まで話していった。