モロッコ10日間

 2018年6月5日(火曜日)~14日(木曜日)

モ ロ ッコ の 位 置
モ ロ ッ コ の 地 図
モ ロ ッ コ 国 旗
モ ロ ッ コ の 国 章

 2017年は1月にロシア、6月に豪華客船〈サファイアプリンセス号115,875屯〉に乗って、台湾から那覇・宮古島・石垣島クルージング、そして9月には、2億円の豪邸に暮らす友人の 楊紹良画伯を尋ねるニューヨークの旅と3回の海外旅行を楽しんだ。そして素晴らしい感動を心の内に溜め込んで、10年以上長生きできるだろうとほくそ笑んだものである。
 アクシデントもあった。ニューヨーク行きの初日のフライトで、乗り継ぎ時間7時間の ミネアポリス国際空港での待ち時間にビールをたらふく飲み、酔って? カメラやスマホ、クレジットカード、水晶のサングラス、愛用の万年筆、家の鍵とセコムの施錠等の他、貴重品の入った、リュックを置き忘れるなどの失態を演じてしまった。幸いパスポートと米ドル・十数万円は胴に巻きつけておいたので何とか旅を続けることができた。が、同行してくれたKさんが居なかったら、にっちもさっちもいかず、かなり難渋したことと思う。
 アメリカはクレジットカード無しでは食事もできないし、スマホ無しでは全く動きが取れない国である。
 己の惚けぶりを、多いに笑うだけでは済まされない大失態だった。この旅ではKさんと、楊画伯御家族皆様の御協力を得て無事帰国できたのだと思っている。
 今年の年賀状には私と妻が、共に㐂寿になりますと書いた。
 今年の誕生日をどうしようか考え始めたのは2月の下旬だった。先ずは恒例の海外旅行ということになる。折角の旅なので今迄行ったことのない国へ行きたいものだと考えた。いろんな旅行会社からパンフレットが送られてくる。財布の中身と相談して、たぶん今年は1回だけになるだろうからと、10日間ぐらいの旅程商品にも目を向けた。
 阪急交通社のトラピックス倶楽部2.3月号の、〈海外増刊号〉の一番後ろの頁に載っていた[エキゾチック モロッコ10日間]というのが目に付いた。私の癖の衝動買いへと繋がる。
 妻は植木で花を育てている関係で、長期旅行には参加しないし、妻自身の誕生祝いは彼女自身で考えるから心配は要らない。
 申し込む前に8回の海外旅行を御一緒してきたKさんに伺うと 「今年の3月でパスポートの有効期限が切れたので、海外旅行は卒業する」と言うし、ロシア旅行と台湾クルージングを御一緒したAK御夫婦の奧様に
 「今年の誕生日はモロッコへ行こうと思うのですが」と打診したら
 「御免なさい。私が一番最初に海外旅行をしたのはモロッコだったのよ。それに主人も今年4月でパスポートの期限が切れるから、更新を考え中なのよ」と仰るので、今年は〈1人部屋追加料金〉を払って1人で参加することにした。私の誕生日は6月9日なので、6月5日出発を申し込んだ。運良く[おひとり様応援キャンペーン(5000円割引)]出発日だった。
 旅行代金 189,000円 1人部屋追加料金 40,000円
 国内空港税 2,610円 海外空港税(暫定額)7,000円
 航空燃油サーチャージ(暫定額)14,000円 合計 253,410円
である。阪急交通社は未だに、クレジットカードで支払う場合は直に営業所へ行かねばならない。交通費を払ってまで行く気になれないから、そこで私は常時利用しているセゾンカードの関連会社[Tabiディスク]へ申込んだ。
 この旅行代理店で扱える旅行商品については3%分の割引分を後日〈全国共通ギフト券〉で払ってくれるのが利点だ。旅行代金の3%5,670円の内千円以下切り捨てで5,000円分の、1,000円ギフト券5枚が貰える。私が数十年使ってきたセゾンカードはポイントが永久に加算されるクレジットカードで、千円に付き1ポイントが付く。今迄ずっと累積された23,000ポイント分を旅行代金として支払えるので、幾らになるか問い合わせた所103,500円になりますというので、ポイントを旅行代金に充当させた。歳も歳なので何時か役に立てようと考えていた。23,000ポイントとは、私がこのカードで23,000,000円使ったと言うことである。

 出発まで3ヶ月もある。早速現地から発送する[絵葉書]の宛名シール(18名)を印刷をした。ニューヨーク旅行では貴重品を入れたリュックの中に、宛名を印刷したシールも入れておいたので紛失、残念ながら絵葉書は出せず仕舞いだった。
 [モロッコ入出国カード]の書き方を調べた。後は出発を待つばかりなのだが、この旅行には[終日徒歩観光]が2日組まれている。1日20,000歩以上歩くことになりそうなので、それに備えてもっぱら足腰を鍛えることに励むことにした。
 3月だった。私が契約しているJcomの会報4月号に[湘南・横浜バス旅行]という招待状が入ってきた。契約者は招待で、6,700円払えば他3人まで参加できるとなっていた。コースは[横浜でのファクトリー工場見学・横浜中華街での昼食・鶴岡八幡宮・江ノ島]である。
 妻が行くというので、何時も国内旅行を御一緒している大山御夫妻もお誘いした。行く気になったのは発着が春日部駅西口の[りそな銀行前]だったこともある。
 3月15日午前7時30分出発の大型バス(55人乗り)は満席だった。参加者の中にふれあい大学の同窓生大橋さんのお顔も見えた。バスは首都高から東名高速を走る。渋滞で思うようにバスは進まず予定より大幅に遅れて、最初の見学場所[高木ミンクファクトリー]に着いたのは11時を過ぎていた。
 安い団体バス旅行の定番、製品の説明と販売である。バスを降りるといきなり説明会場に押し込まれ、約25分間自社製品の説明を聴かされた。《ムートン・シーツ》という、羊の胸毛部分(一番柔らかな部分だという毛の長さ30mm・皮の幅は4.5cm、長さは12cmを縫い合わせてある)だけで拵えた布団である。皮の裏に強力なネオジウム永久磁石を装着したもので、磁力を利用して患部を治療する為の家庭用[永久磁石磁気治療器]として布団に仕上げてある。体内の臓器全般と足腰・膝関節に効能があると説明する。ようやく説明会場から出ると、実際にベッドに敷いてあるムートンシーツに横になっての体験ができる。
 妻は晴れた日には1階から2階まで[敷き布団]を担いでテラスに天日干しをしているが、重い布団を担いで階段を登り降りするのがキツいとこぼしていた。
 女店員が妻に張り付いて、売り込もうと一生懸命口説き落としていた。私はトイレを済ませてから売り場へ入った。妻の傍に行き女店員の話に耳を傾けると
 「この布団は羊毛ですから、冬は暖かく暖房具は不要です。夏はひんやりしていて、夏掛け布団を掛けたままで熟睡できます。ムートン自体が発汗作用を持っていますから、身体から発散した水分は除去してくれますので、生涯天日干しの必要は御座いません」等と力説する。女店員の説明する効能を半分も信用してはいないが
 「ママは布団を干すのがもう限界だと言っているんだから、買っちゃえば?」と冗談交じりにちゃちを入れると、妻が
 「お値段は幾らなの?」と女店員に聞く。どうやら妻は値段も聞かずに説明を聞いていたようだった。
 「キャンペーン中なので定価の45%引きの61万円です。が、お客様は良い時にお出でになりました。3月中に限り特別セール月間開催中なので、さらに割り引いて50万円でお買い求め頂けます」と言う。妻もだが、私もその値段を聞いて吃驚してしまった。せいぜい20万円位だと思っていたのである。妻は考え込んでいる。すると女店員はすかさず
 「こちらへどうぞ」とカウンター席へ連れて行くのである。   「最初から買うつもりはなかったけど、そんなに高いとは思わなかったわ」椅子に座ったものの、おいそれほいと買える金額ではないので躊躇している。
 「今が買い時ですよ。こんな機会は滅多に御座いません。奧様私の権限で、さらにムートン製のお座布団を2枚サービス致します」と猛チャージを掛けてきた。
 妻は最近[株]を売って幾らか儲かり余裕があるらしく
 「干さなくて済むのなら、㐂寿の祝に奮発しちゃおうかな?」と、幾分興味を示すと、手回し良くすかさずピンクとねずみ色の、磁石の入っていないムートン座布団2枚(羊毛の長さ30mm・40㎠)を手渡されたので、売買手続きを始めたものである。支払いはクレジットカードは駄目で、製品が届けられた際の現金での着払いだというのが気に食わなかった。妻が手続き中手持ち無沙汰になった私は買う気など全然無しに
 「私のベッドはダブルサイズなんだけど、ダブルサイズだと幾らするの?」と参考までに聴いてみた。
 「パパのベッドはセミダブルだわよ」脇から妻が口を出す。女店員は直ぐに食い付いてきた。
 「寸法が大きくなりますから、奧様と同じ特別キャンペーン価格で68万です」と言う。
 私は健康管理の為に股割りやスクワット50回、腕立て伏せを年の数、1日10,500歩前後を歩いているが、3日続けて歩いた後など階段の登り降りに膝がガクガクする時がある。それはウォーキングを休むなどして調整しているが、6月にモロッコへ行った先の脚の事も気になって
 「60万円なら買ってあげるよ」と言ってみた。すると女店員は上司に聴いて参りますと一旦席を外し戻ってきて
 「62万円までなら勉強させて頂きますが如何でしょうか?」と譲歩してきた。そこで私は
 「じゃあ要らない」と素っ気なく言う。これは買物の駆け引きでもある。特別欲しいという訳でもないし、この店としてもこの機会を逃さず絶対値引くだろうと踏んでいる。すると又女店員は上司の元へ行き、オーナーだという女性を伴ってきた。
 オーナーが
 「お客様、あと1万円上乗せして下さいませんか?」と迫ってきたが、私は
 「特別欲しいという訳じゃないんだ。60万円に負けるなら買ってあげるよ」と無視し平然としていた。すると妻が
 「貴方も買うの? お金あるの?」と、自分で買っておきながら呆れ顔である。すると女性オーナーは暫く電卓をはじいていたが
 「お客様、他のお客様には絶対に言わないで下さいね。私の裁量で本当に特別なんですよ。60万円と言うことでお願いします」と折れてきたので、結局妻と二人して買うことになってしまった。2人合わせて1,100,000円である。
 一日のうち三分の一は寝ているのだし、100歳まで生きるとして後23年、少しでも健康の役に立つのなら、まあいいか。[モロッコ10日間]と[ムートン磁気シーツ]が私から私への㐂寿の贈り物となった。
 妻の[ムートン磁気布団]は気に入ったピンク色の在庫があったから妻の在宅日を指定して届けて貰うことにした。が、私のサイズは黄色い製品しかなかったので、見本の中から汚れの目立たない焦げ茶色を選び、出来上がり次第送ってくれるよう手配した。
 「3ヶ月位掛かりますが?」
 「今年中に届けてくれればいいですよ」
 「そんなに長くは掛かりません。なるべく急がせます」
 この店で買い物をしたのは我々だけのようだった。店の入口は施錠して外に出られないようにしてあった。大山さん御夫婦や他のお客さん達は、菓子類や小物土産コーナーで待たされていた。たっぷり1時間以上、居たくもない高木ミンクファクトリーに閉じ込められた後、バスは横浜中華街へ向かった。動き出すと直ぐに添乗員が[餃子やシュウマイ等の加工物、月餅や饅頭]のチラシを配り
 「5,000円以上買うと、自分で持ち帰る方には5,000円相当の[紹興酒1本]を、宅配希望の方は[配送料無料]ですので、今すぐ注文品を書き込んで下さい」と言い、数分して現金を受け取りながら回収に来た。私は紹興酒が貰えるというので、妻に5,000円分の注文をさせた。すると大山さんが
 「私も注文して、紹興酒は鈴木さんにあげるわよ」と注文して下さった。横浜中華街の高速道路下にあるバス駐車場から歩き始め、近くの[延平門]を潜り[関帝廟]前でツアー客全員の記念写真撮影をした。関帝廟から道路2本目を曲がった所の中国料理店に押し込まれた。狭い階段を上がった、2階の席での食事となった。特別料理を希望しなかったので、最低のコース料理だった。料理は冷め掛かっていたが、旅行代金が安いだけに文句は言えなかった。ツアー客の中でビールを飲んだのは私だけだった。
 中華街を出発してから、鎌倉の[鶴岡八幡宮]参詣、江ノ島散策後、午後8時に春日部へ戻ってきた。

 5月12日・土曜日に、私が親子二代の身元保証人をした中国人の息子 馮(ふう)佳捷が日本人の娘 西田夕紀子さんと結婚式を挙げるので是非出席して欲しいと言ってきた。上海に住んでいる馮輝・李媛(両親)からもMailで出席を促してきた。
 佳捷は12年前に日本へ留学生として来日し、日本語学校卒業後国士舘大学の工学部に入学、成績が良かったのか、日本の企業に就職が決まった。その時の身元保証人にもなっている。大阪に転勤して間もなく大阪に家を建てたと知らせてきた。無論親が資金を出したのであろう。結婚相談所を通じて夕紀子さんとの縁が実り、目出度く結婚となったのである。両親とは7年ぶりに再会できるので、新幹線で結婚式場の《大阪天満宮》へ行ってきた。私の年齢になると結婚式に呼ばれることは少ない。久々に古式ゆかしい雅楽入りの神前結婚を見ることが出来た。12日の夜は両親とレストランで歓談し、新大阪駅近くのホテルに一泊したりして、旅行の出発日を待った。

 5月29日に旅行の日程表が送られてきた。そして6月1日同行する添乗員 永田和代さんから電話があって、
 「モロッコの通貨DH(デルハム)の換金は現地空港でなさって下さい。ホテルでの換金は米ドルかユーロ、円での換金は出来ません。サハラを観光する時には気温が20度位と寒いですから、上に羽織るものを持参なさるとよいでしょう。モロッコ全体の日中は34度位、帽子とサングラスは必携です。エミレーツ航空は3時間前から受け付けてくれます。Cカウンターです。パスポートを見せるだけでチェックインができ、成田からドバイと、ドバイからカサブランカ迄の2枚の搭乗券を受け取って下さい。チェックインを済ませてから阪急のカウンターへお出で下さい。何か質問は御座いますか?」等と説明があった。
 特に聞く事も無かったが、同じイスラム国のパキスタンはアルコール類については一切持ち込み禁止だったし、ホテルやレストランでもアルコール類は禁止されていたので、一応聞いておいた
 「モロッコへはブランデーなんかを持ち込めますか? まして今はラマダン中ですよね? レストランやホテルの食堂でビールとかワインを飲めますか?」
 「酒類の持ち込みはできます。ホテルやレストランも宗教上アルコールを扱わない店もあります。特にラマダン中ですので期待しない方がいいと思います」
 「分かりました。宜しくお願いします」と電話を切った。
 日程表と一緒に300円安くなる[QLライナー空港宅配サービス]の割引券が入っていた。面白い時代である。これをインターネットから依頼すると、成田空港までのスーツケース宅配往復料金が、さらに300円安くなり4,110円となった。成田国際空港第2ターミナル・北団体カウンター集合は18時50分である。夕方のラッシュアワー時間帯に掛かるので、QLライナーを利用する事にした。

6月5日(火曜日)出発日

 成田国際空港第2ターミナルには18時に着いた。3階のQLライナー出発カウンターからスーツケースを受けだし、エミレーツ航空でチェックインを済ませた。私はトイレが近いので、トイレ近くの通路側を希望して、両便とも希望通りの席が取れた。
 阪急交通社受付カウンターは、Cカウンターの直ぐ近くだった。添乗員の永田和代さんから《イヤホンガイド》と、永田さんがモロッコの地図に観光ルートを書いたもの、モロッコ通貨と物価の目安表を受け取り、座席番号を告げると
 「全員での集合はしません。66ゲートは一番奥です。出発30分前迄にゲート前にお越し下さい。最初の機内食は23時過ぎになると思いますから適当に何か召し上がった方がよいと思います」
 EK-0319便は21時20分発である。時間はたっぷりあるので、軽く蕎麦でも食べておこうと、何時も利用している[そじ坊]で生ビールで喉を潤し、盛りそばを食べておいた。いつもはKさんが一緒なのだが、久しぶりの一人参加は歯が抜けたような感じだった。 何もする事がないのでゲートの近くで待つ事にした。永田さんが言ったように66ゲート迄はかなり遠い奥まった処だった。途中の売店で500ml缶ビール2本とお摘まみを買い、暮れなずむ滑走路を眺めながらビールを飲み、ゲートが開くのを待った。
 ほぼ定刻の出発だった。永田さんが座席の確認に来て
 「ドバイで降りたら、通路で待っています。全員が集まってから乗り継ぎゲートまで移動します」と告げていった。
 イスラムの国だけに機内食のメニューは、チキンと魚料理である。
ビールは日本人向けに[スーパードライ]350mlが用意されていたが、今一美味くない。2本程飲んだ後は赤・白ワインをいただいた。

 第2日目 6月6日(水曜日)

 成田からドバイまでの所要時間は10時間40分である。ドバイとの時差は-5時間である。ドバイ時間の午前1時30分に軽食が配られ、3時にドバイ国際空港に到着した。
 ここはアラブ首長国連邦のドバイにある国際空港で、ドバイに本拠を置くエミレーツ航空拠点であり、フライドバイのハブ空港でもある。経済成長著しいドバイの玄関口として、世界各地と結ばれている。15kmほど離れた所に格安航空会社の就航が多いシャールジャ国際空港が、40km離れたところにアール・マクトゥーム国際空港がある。将来的にはアール・マクトゥーム国際空港とは、ドバイ・メトロによって結ばれ、当空港の機能を補完することになっている。2014年に国際線旅客数でイギリスのロンドン・ヒースロー空港を抜き世界首位に浮上した。合計で4個の国際線乗り継ぎターミナルを持ち、2016年に新規開業したドバイ国際空港としての最新ターミナル[コンコースD](国際線第四ターミナル)を含めた利用者数は年間9千万人を誇る、国際線乗り継ぎ拠点であり、シンガポール・チャンギ国際空港と並ぶアジアと欧州との連絡拠点や、南アメリカ大陸とアフリカ大陸を結ぶ、世界最大規模の国際空港としても、欧米各国で知られている。

 ドバイの空港で全員が顔を合わせた訳であるが、見知らぬ人ばかりなので会話を交わす人は居ない。永田さんが人数確認後
 「空港内は大変広いです。乗り継ぎの3Cゲートまで20分近く歩きます。搭乗まで3時間30分程ありますが、取り敢えずはゲートまで御一緒願います」とコンコースを歩き出した。
 昼夜問わず航空機が離着陸を繰り返すため、空港施設はほとんどが24時間営業である。空港内は眩い照明で時間を感じさせないほどにぎわいを見せている。真夜中だというのにいろいろな商店が開いている。掲示板を見ながら長々と歩いた。
 ゲートを確認したので、モロッコで飲むブランデーを買いにボトルショップへ行った。

 【 モロッコはイスラム教の国である。運悪く丁度ラマダン(宗教行事・今年は5月16日から6月14日迄)時期に入っている。我々旅行者には直接関係ないが、国自体がラマダン時期に入ると、街中の飲食店は閉まり、モールも普段とは違った装いとなる。ラマダン(ラマダーン)とは、[イスラム暦(ヒジュラ暦)の第9月]の事を言い、世界中のムスリム(イスラム教徒)が夜明けから日没まで[断食(サウム)]に入る。基本的に全てのムスリムはラマダン期間中は断食をする必要があるのだが、旅行中の人、妊婦、病人、高齢者、重労働者、10歳以下の子ども等は免除される。ラマダンの時期は、太陽が昇っている間は食べることができない。すべての成人ムスリムは、夜明けから日没までの間は、飲食、喫煙、性交渉を慎む事とされるが[強制]ではない、あくまでも[義務]である 】

 モロッコでは数少ないコンビニでも、この期間はアルコール類を販売しないというし、そもそも一般の商店にはアルコール類を置いていない。なので乗り継ぎのドバイ空港で1,000ml入りのブランデーを手に入れておいた。無論免税・日本円で1,600円は安かった。 昨年までドバイには税金が無かったが、ドバイ、サウジで2018年1月1日より、ついに本格的な税金が導入された。今回導入されたのは、VAT(付加価値税)日本でいう消費税みたいなものである。税率は5%で、食品、日用品、車のガソリンなどが課税の対象となった。広い空港内を見て歩く気にもならないから、ゲート近くのBARに腰を据えた。500ml入るグラスで、黒ビールを含む4種類の生ビールを飲みながら日記を書いたり、永田さんが用意してくれていた[入国カード]に記入したりして過ごした。
 ゲートが開いたらしく、永田さんが大声で
 「鈴木さん、何処に居るんですか?」とBARの脇を走って行った。
 「ここに居ます」と合図を送ると
 「もう乗船が始まっています。飲み終わってからでも大丈夫ですから遅れないように」と促してくれた。ビール代をカードで払ったら5,320円これには吃驚した。
 ドバイ時間7時25分 EK-0751便は飛び立った。成田-ドバイ間と同機種である。後ろの席はガラガラ状態だった。飛び立つと直ぐに空き席3席分・4席分の肘掛バーを持ち上げて、旅慣れた客がブランケットを数枚使い、ごろりと横になる。この機も冷房が効きすぎで、スーツケースにジャンパーを入れてしまったのを後悔した。自分の椅子にあったブランケットはしっかり確保した。
 ドバイからカサブランカ迄は8時間20分のフライトである。飛び立って1時間後に軽食が出た。アルコールのサービスは無かった。 言葉が分からないテレビ映画も見飽きて眠ろうかなと思ったら、キャスターにアルコールを積んでサービスが始まった。眠り薬にドバイのビールと赤ワインをリクエスト、50分程眠った。トイレの脇が飲み物コーナーになっていたので、トイレに行く度にワインをいただいた。
 モロッコとの時差はサマータイム中で-8時間である。モロッコ時間の午前10時頃、機内食サービスがあった。これから旅行が開始するのは分かっているが、食事にワインをリクエストした。気が張っているせいか多めに飲んだ割には充分眠れなかった。

 カサブランカのムハンマド5世国際空港には11時45分に到着である。

 【 ムハンマド5世国際空港は、モロッコ王国のカサブランカにある空港である。モロッコの国王ムハンマド5世(1909 – 1961年)を記念して命名された。ロイヤル・エア・モロッコなどがハブ空港としている。もともとアメリカ空軍のヌアッサー空軍基地であった場所で、今でも地元民は空港のことを郊外の地名である「ヌアッサー」と呼ぶこともある。1950年代初期から中期にかけて、アメリカ空軍がソビエト連邦に向けて爆撃機を配備していた。1956年にモロッコがフランスから独立した後、当時の国王ムハンマド5世は米軍に撤退を要求し、1959年12月に米軍がモロッコからの撤退に応じ、1963年に米軍は完全撤退した。モロッコの玄関空港は首都ラバトではなく、大都市カサブランカのこの空港である 】

 規模はさほど大きくない。今時なのに飛行機からはタラップを降り、シャトルバスでターミナルまでの移動である。ターミナルは3つあり、日本との往復で使うのはターミナル1と2である。
 空港建物内に入るとまずは入国審査である。パスポートと入国カードを手に持って、審査待合室に入って吃驚、我々の搭乗機以外の旅客が長い列を作っていた。いきなりの関門である。旅客人数に対して窓口が少ないうえに、入管の職員は長蛇の列でものんびりした仕事ぶりだ。小1時間耐えてようやく入国スタンプを押してもらった。
 バゲージクレームに進むと我々グループのスーツケースは、入国審査に時間が掛かりすぎたせいか、ベルトコンベアの脇に並べてあった。到着ロビーの下りエスカレーター脇に両替所が並んでいた。中の男性がこっちへ来いと手招きしていた。まさか店によってレイトが違う訳ではなかろうに、そのボックスへ行くと男は喜んでいた。永田さんから空港が一番レイトが高いし、日本円で換金できるからと案内されていた。私は絵葉書を18枚出すので、切手代の金額を含めて、取り敢えず15,000円だけの両替しておいた。1,153.8DH(1DH・13円)だった。「スモールマネー」と言い細かい紙幣を多めに貰っておいた。
 スーツケースを引いて空港の外に出る。これが国際空港か? と首をかしげてしまう程こぢんまりしている。

ム ハ ン マ ド 5 世 国 際 空 港

 イスラム国家だからか、ほとんど看板はなく、質素ですっきりしている。横に長いが2階建て、空港ビルの前には椰子の木が植えてあり、アフリカだけにトロピカルである。永田さんが駐車場まで迎えに来ない、現地ガイドを探しに行った。のんびりしたものである。駐車場までスーツケースを引いて移動し、大型バスに乗り込んだ。今回のツアー人数は19人だという、45人乗りのバスだから一人でワンボックス占有してもまだ余る。
 午後2時過ぎに《カサブランカ市内観光》(約1時間)へ出発した。500mlのペットボトルが配られた。毎日1本お配りしますとの事だった。
 現地ガイドは白人男性の29歳、名前はやたらと長いが、一番終いの[アブドル(アラーのしもべと言う意味)]と呼んで下さいという。アブドルは英語で永田さんにガイド内容を伝え、それを永田さんが日本語でガイドするのである。
大西洋に面しているカサブランカは比較的温暖な気候である。6月は最低気温が21度、最高気温が27度程である。湿度が低いので、太陽の日が陰ると寒く感じ、夜は冷え込むので薄いジャケットや、ストール、長袖のシャツが要る。(冬は日本と変わらない寒さなのでキルティングコートが役に立つそうである)
 モロッコはイスラム教の国なので、特に女性はタンクトップなどの露出の多い服装は避けたほうがよいとガイドブックに書いてあるが、ヨーロッパ系の女性は超露出度で観光している。観光客はスカーフをかぶる必要はないが、現地では何処へ行ってもカラフルなストールやスカーフが売られているので、ファッションとして楽しむのもよいし、またストールは埃っぽいときや肌寒いときに役に立つ。
 
 永田さんによる《カサブランカ》概要によると
 「1515年に、ポルトガル人によって町の再建が行われ、町を”Casa Blanca”(ポルトガル語で「白い家」)と名付けました。しかし、1755年に起こったリスボン大地震によってカサブランカも甚大な被害を受け、ポルトガル人はカサブランカを去ってしまいました。
 カサブランカはアラウィー朝モロッコに統合され、1770年からムハンマド3世によって町の再建工事が行われ、町は要塞化されました。18世紀からはスペインと、19世紀に入るとそれに目を付けたヨーロッパの列強諸国との間で交易が始まり、主にウールの積出港として発展し、人口も急激に増大、1830年に600人だった人口は、1868年に8,000人にまでになりました。
 しかし、ヨーロッパ列強に対する住民の不満は募っていき、1907年に港湾工事を行っていたヨーロッパ人労働者を、住民が殺害したのを機に暴動に発展。フランス、スペインが軍艦を派遣し、カサブランカを砲撃、フランス軍はカサブランカを占領しました。1912年、モロッコはフランスと保護領条約を締結し、カサブランカはフランスの保護領となったのです。
 フランス保護領モロッコの初代総督に就いたウベール・リヨーテ将軍がカサブランカを商業の中心として整備しました。第二次世界大戦中はドイツ軍によってフランスが占領されたために、戦争当初は親独のヴィシー政権の支配下にありましたが、連合国軍の北アフリカ侵攻によって連合国軍に占領され、自由フランスに復帰しました。1943年にはカサブランカ会談が開かれています。
 第二次世界大戦後の1956年にモロッコがフランスから独立し、フランスはカサブランカから撤退しました。その後カサブランカはモロッコ最大の都市として繁栄し、世界各国から観光客が訪れ、モロッコの経済の中心地の地位を占めています」

 [国連広場]に着いた。

国 連 広 場

 カサブランカの中心で、広場と言うより狭い空間という感じの、カサブランカの繁華街である。主な道路はこの広場から放射状に延びている。映画[カサブランカ]で有名なハイアットリージェンシーホテルの目の前である。ムハンマド5世通りとハッサン2世通りの交差地点、1920年に造られた時計台のある噴水広場である。頻繁に走っているトラムに《国連広場》という駅があり、また多くの路線バスが発着する交通の要衝となっている。
 何時もなら露店が出ており、観光客が沢山行き来しているそうだが、ラマダンの時期である為か観光客も少なく、名物の水売りの姿もない。噴水の周りに鳩だけが取り巻いている。その数は半端じゃなかった。
 まわりにカフェやファストフード店などが見えるが、ショッピングするような場所はない。国連広場からハッサン2世モスクの、ミナレットがくっきり見える。少し歩くとムハンマド5世広場(旧国連広場)に出るという。5世広場に面して建っているのは南に市庁舎や財務省、東に大きな建物の裁判所、西の方向にはPPT郵便局などが建ち、映画館やショッピングセンターなど、モダンなデザインを取り入れた伝統的なイスラム建築の建物が立ち並ぶ。
 これといった見所はない。下車して写真撮影をしただけの拍子抜けのスポットだった。
 頻繁に行き来するトラム(市電)が目に付いた。

カ サ ブ ラ ン カ の 市 電


 [カサブランカ市電]は、モロッコのカサブランカを走る路面電車で、2012年12月11日、モロッコ国王ムハンマド6世により開業式が行われ、フランス首相ジャン・マルク・エローなどが出席した。開業時の総延長は31km、48停車場を持つ。赤い縁取りのカラフルなデザインで6両連結が路面を走る。市電を運行するCasa Tramは、パリ交通公団傘下である。噴水より市電を写す方に熱中してしまった。

 バスはハッサン2世モスクの正門前で停まった。《イヤホンガイド》による説明を聞きながらの観光である。
 [ハッサン2世モスク]モロッコの港町・カサブランカの有名な観光スポットとして知られる。ハッサン2世モスクはアフリカの中でも最も巨大で、世界的に見ても7番目という巨大さを誇る、国内最大級のモスクである。大西洋を臨む海外線に建っている。
 ハサン2世は
 「神の座は大水の上にある」というコーランの一節により、海の上にモスクを造りたいと願い、海側から見ると本当に海の上にモスクが建っているかのように見えるように、大西洋の突き出たところに建築した。また、モスクの床の一部がガラスで作られている部分があり、ここでお祈りをする事で、まるで海に浮いているような感覚に浸ることもできるようになっている。が、この場所は一般の人の立ち入りは禁止されている。
 全長200m(60階相当の高さにもなる)の高さの、世界最高を誇るミナレット(尖塔)を擁していて、ミナレットの尖塔から放たれる光はメッカの方角を指している。

ハ ッ サ ン 2 世 モ ス ク の    ミ ナ レ ッ ト

 市内のどこからでもこのミナレットを見ることができ、頂上からはレーザー光線が放たれ、35km離れたところからでも見ることができるという。
 ベージュにグリーンの美しい装飾が施されたミナレットの塔のてっぺん、縦に並んだ3つの玉は、現世、来世、神の世を表している。
 このモスクは1961年にモハメド5世が死去した事をきっかけに、ハッサン2世の命により建造が開始され、1986年から8年がかりで完成した。5億8,500万ユーロ(1,798億円)と見積もられるその膨大な建造費は、モロッコ国内でも議論の対象となった。この予算の多くは一般の人々からのお金で賄われた(最低額は5DH・約65円)。
 20世紀最高の芸術作品のひとつと言われ、大西洋に面した敷地は9㏊の広さがあり、モスク内が2㏊という大きさで、全敷地には8万人、内部には25,000人が収容可能だと言う。近隣の街区の取り壊しや、モスクに至る参道の拡張工事も含め、大規模な都市改造を伴うプロジェクトであった。
 また、ハッサン2世はアメリカにおける自由の女神のごとく、北アフリカの象徴となるような建造物にすると宣言し、モロッコ全土から職人と芸術家約1,000人を動員し建築させている。基礎材料のほとんどは国内から集められた。大理石、御影石、石膏、瓦、木材、タイル等々である。
 マラケシュやサフィの街からは化粧漆喰、杉天井はモワイアン・アトラスから、その木材彫刻職人はフェズやテトゥンより集められて、美しくて緻密な幾何学模様が彫られた。イタリアからはベネチアのムラノ(カラフルな色合いが特徴のヴェネツィアン・グラスの生産地)より55ものシャンデリア、白大理石の支柱などが運ばれた。
 全土から数多くの職人を集めて、タイルの小片で美しい模様を作り上げる伝統的な[ゼリージュ〈小さくカットされた施釉(せゆ)タイルを組み合わせて幾何学模様のモザイクにしたもの。エメラルドグリーンがベースになっているが、よく見ると赤や青や黄色など様々な色が散りばめられていてカラフル〉]という技法は一見の価値がある。
 水汲み場の両側にある壁面装飾は、ひし形の網目模様になっていた。こちらもエメラルドグリーン一色に見えるが、中央に異なる色を配色することで奥行きのある印象を醸し出している。長い年月をかけてこの美しい装飾を作り上げてきたのかと思うと、職人の技術にただただ圧倒されるばかりである。ここは観光客の記念撮影スポットである。
 モスクの地下1階には参拝客のためのアブルーション(手や体を清める泉)があり、回廊の地下には浴室がある。入浴後に飲み物を飲めるようにカフェもあって、遠い地方からやって来た人々のために至れり尽くせりの施設が整っている。アブルーションでは数人の男性が身体を清めていた。私達はその奥にあるトイレをお借りした。
 広大な敷地内には神学校や図書館、博物館が併設されている。信仰のためにこれだけの施設が国民の寄付と税金で建てられたのである。1961年にイスラム教が国教となって、イスラム教スンニ派が99%を占める(キリスト教とユダヤ教も禁止されてはいない)とは言え敬虔な信仰心を煽りこれを成し遂げた事には兜を脱いだ。
 設計はフランス人建築家ミッシェル・パンソーである。
 ハサン2世大モスクの壁は、石膏細工やゼリージュ(彩色タイルモザイクの技法)で覆われていた。モザイクタイルにはいろいろな形があり、それぞれ特有の色彩と名称が与えられている。ある種のモザイクタイルには、イタリアのマヨルカ焼(白地に鮮やかな彩色を施し、歴史上の光景や伝説的光景を描いたもの)とアンダルスのアズレホ焼(ムーア人が城壁に用いた陶製レンガ)の強い影響が見られる。文様の種類はきわめて多く、幾何学文は無限に繰り返されて装飾文字と組み合わせられる。
 モスクを支える花崗岩の柱には、鍾乳石飾りや柱頭飾りがついていて、アトラスシーダー材でできたいくつものドームにも、細やかな装飾が見られる。
 階上には、5,000人が一度に入れる女性用の礼拝室もあり、マシュラビーヤ(寄木や曲げ木細工、透かし彫りや彫刻による装飾パネル)で人目から守られている。
 門からモスクまでのだだっ広い広場は、モザイク模様の敷石である。ミナレットにしてもモスクにしてもとにかく大きかった。

 約40分の見学を終えバスに戻った。モロッコの代表的な街の見学がたった1時間足らずであったのにはがっかりだった。ここからは約91km先の《ラバト》への移動である。
 カサブランカ市内にはモロッコの赤い国旗が道路脇に立ててある。500m置きぐらいに1本とか3本、大きなロータリーにはポールを扇型にして5本セットを数カ所にという具合である。

 《 モロッコの国旗は深紅の色で、預言者ムハンマドを象徴しており、真ん中に緑の五芒(ぼう)星「スレイマン(ソロモン)の印章」が表されている。現王朝のアラウィー朝が始まった17世紀ころには赤旗が用いられていたが、1912年に(ほかの多くの赤旗と区別するため)緑の星が付け加えられた。国旗の背景の赤は、勇敢さ、忍耐力、力強さを意味し、緑は、愛、喜び、希望を意味するイスラムの色である 》

 無論市の予算で立てているのだと思うが、色褪せれば取り替えるのだろうから、膨大な費用が掛かっていると思った。
 旅行初日だし、移動中は永田さんのガイドに耳を傾ける。機内でたっぷり寝てきているらしく、眠っている人は居なかった。

 「[モロッコ王国]通称モロッコは、北アフリカ北西部のマグリブに位置する立憲君主制国家であります。首都はラバト。日本語の表記は、モロッコ王国で、通称[モロッコ]。漢字の当て字は、摩洛哥・馬羅哥・莫羅哥・茂禄子などです。
 アラビア語の国名にある[マグリブ]は、[日の没する地・西方]を意味します。マグリブは地域名としては北アフリカ西部を指します、モロッコはマグリブの中でも最も西の果て[極西]にある国です。
ヨーロピアンなイメージの温暖な地中海と内陸の気候のサハラ砂漠に囲まれているため、気候は地域によってさまざまです。私は今[サハラ砂漠]と申しましたが、[サハラ]自体が[砂漠]と言う意味なので[サハラ砂漠]は[砂漠・砂漠]と言う重複後になりますので、以後は[サハラ]で統一致します。
 一年中ほとんど雨が降らず、乾燥していますが、ベストシーズンは、比較的気候の穏やかな春と秋です。一年中温暖な地中海沿岸や大西洋沿岸の内陸部なら、冬の観光もオススメです。日本人が観光でモロッコを訪れるのは毎年3万人程度です。
言語はモロッコ方言のアラビア語ですが、それぞれの地方によって微妙に異なる、ベルベル語というモロッコ独自の言葉を話す人たちもいます。
 [ベルベル語]ひとくくりにベルベル語といっても、一つの言語ではなのです。正確にはベルベル諸語となります。つまり[ベルベル民族という人々がいて、その中でもいくつかの地域によって異なる言葉がある]ということです。
 ベルベルというのは、外部から来た人々が、
 『ここの人々は何を言っているのか分からない。ワーワー言っているな』という意味を込めて、[ベルベル人]と呼ぶようになったのだとか。勿論、本人たちはこの呼び方を嫌っています。彼らが自分たちを名乗る時には、[アマーズィーグ(自由の民)]と言ます。さらに、彼らの言葉をベルベル語というのは少し軽蔑的な意味合いが含まれるので、代わりにタマジグトという呼び方が広く使われています。
 [タマジグト]とはベルベル諸語の中の一つの言語で、それが、ベルベルの全ての言葉を代表するようになったということです。モロッコ旅行中にベルベルの人に出会ったら、アマーズィーグと呼ぶようにして下さい。彼らの言葉はまとめてタマジグトです。
 また、かつてはフランスの植民地だったので、フランス語を話す人も多く、モロッコの一部の土地にスペインが残ってるため、北部ではスペイン語も通じます。
 アラビア語以外の多くの言語での国名である[モロッコ]は、以前の首都マラケシュに由来します。トルコ語での国名は[Fas]で、1925年までの首都フェズに由来します。
 東にアルジェリア、南に西サハラ(サハラ・アラブ民主共和国)、北にスペインの飛び地セウタ・メリリャに接し、西は大西洋に、北は地中海に面しています。
 南に接する西サハラはスペインが放棄後、モロッコと現地住民による[亡命政府]である、サハラ・アラブ民主共和国が領有権を主張しています。モロッコは西サハラの約7割を実効支配していますが、国際的には認められていません。
 サッカーが盛んです。代表チームは過去ワールドカップに4回出場、アフリカネイションズカップの優勝経験もあります。今年のロシア大会には20年ぶりの出場を勝ち得ています。アフリカの強豪国の1つとして数えられ、著名なプロクラブとしては、ウィダド・カサブランカ、ラジャ・カサブランカなどがあります。2013年と2014年には自国で、TOYOTA Presents FIFA Club World Cupが開催されました。 
 2017年8月11日にモロッコが2026年ワールドカップ開催に立候補を表明しました。モロッコは1994年、1998年、2006年、2010年のワールドカップ招致に立候補しましたがいずれも敗れており、5度目の挑戦でモロッコ初の開催を目指しています。
 モロッコの気候のイメージは、サハラのイメージからモロッコは、灼熱の太陽が降り注ぐ、とにかく暑くて乾燥している国という印象がですが、モロッコの気候は意外に変化に富んでいます。
 大西洋とアトラス山脈、サハラに囲まれたモロッコは南北に細長い国です。大西洋沿いは地中海と大西洋に挟まれて温暖、アトラス山脈には雪が降るのでスキー場があるし、南に広がるサハラは昼は暑く夜は寒いなど、気候の変化に富んだ国なのです。どこを旅するかによって、また時間帯によって気温差が烈しいのです。
 [モロッコの位置]ラバト, モロッコの座標は緯度34.02度、経度-6.84度。東京の座標は緯度35.68度、経度139.68度です。九州と同じくらい、アメリカのフロリダ半島と同じくらいに位置しています。日本とモロッコの距離は11,520kmです。面積比較・モロッコ45万㎢・人口3,185万人、日本38万㎢なので日本の約1.2倍です。
 モロッコの日差しは強いので、肌を露出するより一枚羽織ったほうが涼しく感じます。サハラの民族衣装はターバンに長袖の衣装です。日光が直に当たらないように工夫し、暑い時間帯でもTシャツの上にシャツを羽織ると、直接体に太陽の熱が入らないので涼しく感じます。また日差しがなくなるころには急激に気温が下がるので、体温調節にも欠かせません。日差しを遮る意味で、季節を問わず帽子とサングラスは必ず用意した方がよいと思います。
 モロッコの街を歩くと、男性も女性もジュラバと呼ばれるガウンのような衣装を身にまとっています。スカーフやバブーシュ、サルエルパンツなど、旅行の醍醐味を味わって、モロッコの伝統衣装を着てみると、旅の雰囲気がぐんと盛り上がるかも知れません。
 モロッコの祖先はベルベル人です。十分な量の情報が文字として残っていないので、ベルベル人の祖先を遡るのは簡単ではありません。ベルベル人の祖先だと考えられているのはガラマンテス人です。[ガラマンテス人]とは、古代南西リビアで高度に発展した文明を築き上げた人々でした。モロッコがアフリカ北西部にあるのに対して、リビアはもう少し東にあります。当時アフリカ北部には古代、カルタゴという巨大な国家がありました。これがギリシャと戦争を繰り広げる中で、ガラマンテス人を兵力として組み込みました。
 古代カルタゴは捕虜として、ギリシャ人を多く国の繁栄に利用しました。例えばギリシャの芸術や建築様式、さらには神々の信仰などです。当然その場にはガラマンテス人も多くいたので、ここで両者の繋がりが生まれ、戦争が終わった後ガラマンテス人はここで得た文化的学びを南へと持ち帰り、王国建設に利用したのです。このようにして発展を遂げたガラマンテス人が、ベルベル人の起源ではないかと言われています。
 産業は農業、手工業などの伝統産業とプランテーション、鉱工業など近代産業の二重構造。リン鉱石は埋蔵量世界1位、工業製品、食料品を輸入し、野菜、果実、ワイン、小麦、魚缶詰やリン鉱石などを輸出しています」

 途中ガソリンスタンドでトイレ休憩があった。
 「ここで20分のトイレ休憩を致します。トイレを使用する際に2DH(26円)の使用料を払って下さい。まだ小銭をお持ちでない方は、男性はガイドのアブドルが纏めて払いますから一緒に行って下さい。女性は私と御一緒に参りましょう」
 ラバトには予定より遅れて着いたが、明日予定の観光スポット[モハメド5世廟]がまだ開いているというので予定を変更して見学しますと言う事になった。5時15分を過ぎていたので正門は既に閉まっていた。裏門から入場した。

 [ムハンマド5世廟]は、フランスからの独立を勝ち取った二代前のモロッコの国王であった、モロッコ独立の父・ムハンマド5世の霊廟である。

ム ハ ン マ ド 5 世 廟

 ムハンマド5世の2人の息子であるハッサン2世(1999年に埋葬)とその弟アブドゥラー王子の石棺も安置されている。ラバト市内のハッサンタワーから道路を隔てた向かい側にある。1971年に完成した。同じ敷地内には[ハッサンの塔]と呼ばれる作りかけのモスクの遺跡があり、首都のラバト随一の観光スポットとなっている。
 ハッサンの塔は、高さ88mの予定が44mで未完のままのミナレットである。セルビアのヒラルダの塔、マラケシュのクトゥビアと並ぶ世界三大塔の一つである。
 ラバトは一応モロッコの首都であるが、主に政治機能が集中しているところで、商業の中心地カサブランカ、観光の中心地マラケシュと比べると、やや地味な感じである。それでも、街並みはヨーロッパ風で、大西洋岸のさわやかな風がそよぐすがすがしい都市である。
 街の中心にあるムハンマド5世廟のてっぺんは、緑色のタイルで葺(ふ)かれた方錐形の屋根をもち、外部壁面はイタリア産の大理石で精緻な彫刻が施されている。近代アラウィー朝建築の傑作として知られている。 緑は赤と並んで[イスラムの色]である。
 [汎(はん)アラブ色]とは、アラブ諸国の国旗に用いられる配色の名称で、イスラム・アラブ色とも言われている。フサイン・イブン・アリーがアラブの反乱で用いたアラブ反乱旗が起源とされ、赤、黒、白そして緑を基調とするのが普通である。赤・白・黒の国旗を採用しているのはエジプトおよびイエメンである。これに緑を加えた国旗は、アラブ首長国連邦、イラク、クウェート、シリア、スーダン、ソマリランド、西サハラ、パレスチナ、ヨルダン、リビアで使われている。汎アラブ色のそれぞれの色は、歴代のアラブ系指導者やムスリム政権を表している。黒は預言者ムハンマドの色であり、白はウマイヤ朝において、バドルの戦いを思い出させるためのシンボル色とされた。緑はファーティマ朝においてアリー・イブン・アビー・ターリブを支持することを示す色とされ、赤はハワーリジュ派の旗となり、後には北アフリカ(マグリブ)やイベリア半島(アル・アンダルス)の政権の色となった。

 下車して門に近寄ると、4か所ある霊廟入口と霊廟内部の4隅には、青の帽子に白いダイヤマーク入りの軍帽を被り、真っ白な衣装に赤と白のベルトを締め込み、首から脹ら脛まである長い真っ赤なマントを纏っている。

ム ハ ン マ ド 5 世 廟  の 近衛兵

 真っ白い手袋の左手はベルトの臍あたりに置き、右手で足下から立てたライフル銃を掴んで、近衛兵が厳かに、直立不動の姿勢で立っている。この近衛兵が意外とイスラム様式の建築物とマッチしていた。
 通常、モロッコでは、警察や軍人の姿を写真に収めるのは禁止されている。が、ここの警備兵は写真を撮っても良いそうなので、タイムスリップしたような仰々しさがある制服とともに、モロッコ土産に数枚撮影させてもらった。
 ムハンマド5世と二人の王子の石棺は2階から見下ろすようになっている。

ム ハ ン マ ド 5 世 と 二 人 の 王 子 の 石 棺

 ホテル・ヘルナンシェラーには18時30分に到着した。バスの中で説明があったが、バスタブがあっても、一斉にお湯を出すと水になってしまいますので、シャワーでお済ませ下さい。
 嬉しかったのは、バスを降りる際にスーツケースを自分で引いて行かなくても良かった事である。最近の海外旅行ではこうしたサービスは珍しい事である。
 「食事は午後8時からとなります。この階の左奥が食堂です。ラマダン中ですので、最後のコーランが終わる7時過ぎにホテルの従業員が先に食事を済ませる関係で、旅行客は後回しになりますが御理解下さい。明日の日程表はプリントして、各部屋にお配り致します。その時に部屋の不具合などありましたらお申し出下さい。ムハンマド5世廟を繰り上げて観光できましたので、明日の出発は30分遅らせて8時と致します」
 ホテルは変な造りで、1階と2階の間、2階と3階の間にも部屋がある造りなので、エレベーターを利用しても階段を登るか降りるかしないといけない。 
 「ポーターがスーツケースを部屋まで運んでくれますが、御自分でお持ちになさる方が宜しいかと思います」永田さんがそう言うので、殆どの人はスーツケースを引いてエレベーターに乗った。
 部屋の鍵は昔のままの真鍮の鍵、2度ぐるぐる回さないと開かない。私は一人部屋追加料金を払っている関係かツインの部屋だった。
 狭苦しい造りだが、一人で利用するには十分である。バスタブに湯を出して水回りを調べる。が、クーラーが作動しない。そうこうしている内に永田さんが明日のスケジュール表を持ってきてくれた。
 「冷房が作動しないんですが」と話すとスイッチを調べてくれたが、状態は変わらずだった。
 「直ぐにボーイに直すよう言いますから、少し待って下さい」
 ボーイがすぐき来てくれて、テレビの処からクーラーのリモコンを渡してくれた。壁の調整器は壊れていたようである。
 時間がたっぷりあるので、バスタブに浸かっておいた。永田さんに聞いた近所の商店まで出向き冷たいビールでも買おうと思ったが、7時で閉店だからと売ってくれないし、別の店でビールというと呆れ顔をされてしまった。イスラムの国ではアルコール類は扱わないのである。
 ホテル脇の路上にバスが停まっていた。スーツケースを収納する格納庫の扉を開けて、その中でこのバスの運転手とアシスタントが何かを食べていた。このツアーは全コースこのバスで移動する。運転手にはホテルの部屋割りがあると思うのだが、アシスタントはこの格納庫で寝、掃除などもする。運転手見習いで、無報酬でこうしたバスに2年間奉仕して、運転や道路を覚えるのだという。

 7時50分にロビー前に行くとツアーの人全員が集まっていた。バイキングである。料理をピックアップしてテーブルに収まる頃、永田さんが飲み物の種類と値段を説明する。
 「ビールは60DH(780円)、中瓶のワイン(100DH(1,300円)、大瓶ワイン130DH(1,690円)、生ジュース類は50DH(650円)です。御希望のお飲み物を言って下さい」テーブルごとに廻ってリクエストを取っていた。
 私は旅行の初日でもあるし、ビールと中瓶ワインを注文した。瓶ビールを見てビックリ、よくもまあこんな小さな瓶を作ったものだと感心もしたが、180ml入りなのに780円と知って腹が立ってきた。が、15年ぐらい前に旅行したパキスタンよりは、アルコールを出すホテルがある分だけ増しなのだと割り切った。
 後は部屋に戻り、日本から持参した[ホタテの貝柱][さきイカ][柿の種]を摘まみにブランデーを水で割って少々飲んでベッドに横になった。

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