半惚け翁 ニューヨーク2人旅

ア メ リ カ 合 衆 国 位 置
ニ ュ ー ヨ ー ク 州
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ア メ リ カ 合 衆 国 国 旗

 2017年9月1日(金曜日)~8日(金曜日)

 ハプニングの航行

 ミネアポリスセントポール国際空港へ定刻の13時25分(アメリカ時間・時差-13時間)に着いた。機材はAirbus A320 (双発) ボーイング777-200ER型機 3人掛けが横に3列という珍しいタイプで、座席数291席ほぼ満席だった。アメリカ人、外国人に関係なく入国審査があるので降機後は人の流れに付いて国際便到着(International Arrivals)という方へ進む。入国審査の列に20分ほど並び審査を受けた。パスポートと羽田空港のATM自動発券機で苦労して入手した[羽田⇒ミネアポリス][ミネアポリス⇒ニューヨーク]2枚の搭乗券を渡し、職員の質問に答える。
 「ミネアポリスからはどこへ飛ぶのか?」「New York」
 「その後、アメリカのどの州に都市に滞在するのか?」「New York」
 「アメリカ国内の滞在は合計で何日か?」「6 Days」
 「訪問の目的は何か?」「Sightseeing」
 質問が終わると指紋を採るために、片手を開いて掌を下にしてガラスに乗せる。両方の手の指紋を採られた。パスポートとチケットを返して貰い[税関]に進む。機内で書いた[税金の申告用紙]を渡すとパスポートは見せるだけで通してくれた。
 税関を通った後は、アメリカ方式というのだろうか、ミネアポリス空港で乗り継ぐ際、入国審査の後に日本の出発空港で預けたスーツケースをバッゲージクレームから受け出さなくてはならないのが面倒だった。荷物を受け出した後は扉を開けてスーツケースを預け直すエリアへと進む。[Baggage Check]と書かれたカウンターがある。バッゲージタグのバーコード部分を、従業員が持っている端末でスキャンしてもらい、行き先がちゃんと[JFK(ジョン・F・ケネディ国際空港)]となっていたのを確認し、自分でスーツケースをバッゲージクレームに乗せるのである。スーツケースを預け直すと、その先に荷物検査所が設けてある。ここでは、パスポートと、乗り継ぎ便の搭乗券を提示し、そしてセキュリーティーチェックヘと進む。
 私の手荷物はリュックサックだけ、ジャンパーと一緒に大きなトレーに入れた。X線検査である。Gパンだからベルトはしていない。靴を脱げと言われ同じトレーに入れた。靴下のまま直径2m・高さ3mの丸い囲いの中に入り両手を挙げる。自動カメラが360度回転し撮影される。囲いから出ると係員が私を台の上に乗せて素手でボディチェックをする。現金を入れた胴巻が発見され外せと言われた。胴巻きの中に[クレジットカード]を入れておいたので磁気を読まれたようである。胴巻きだけトレーに入れX線を通す。これで国内線への搭乗が可能となった。荷物検査が終わると、ゲートがある制限エリアになる。
 典型的なアメリカ国内にある空港という雰囲気である。先ずは電光掲示板で、乗り継ぎ便の出発ゲートをチェックした。掲示板は出発時刻の順番ではなく、行き先の都市名のアルファベット順で表示され、Atlantaが初めで、Washington DCが最後になっていた。
 ニューヨークのJFK空港DL-2214便を探すとF3ゲートとなっていた。羽田から到着する便はGゲートである。コンコースはAからGまであり、コンコース間はつながっていて、徒歩で移動できる。空港内は広いのに動く歩道(オートウォーク)が無いからFゲートまで15分も掛かった。
 乗り換え時間は6時間51分である。入国審査やスーツケースの預け直しなどで1時間20分が経過している。日本を9月1日の午後4時20分に飛び出し11時間5分飛行してきたのに、ミネアポリスはまだ1日の午後3時である。
 長時間をぼんやり過ごすのでは色気がない、乗り場は確認したので、F3ゲートから100m程の所にあるレストランに腰を据えた。プラスチックのジョッキーに入った生ビールを注文した。500ml入りが7$50セント(900円)である。機内サービスで、缶ビール・アサヒスーパードライ350ccを6本飲んできたが、ここでの1杯目は5分で飲んでしまった。

 今回の旅行でもKさんが一緒である。今ニューヨークに向かっているこの旅に至った経緯をお話しする。

そもそもは私の友人、ニューヨーク在住の、リアリズムの騎手として活躍中の 楊紹良画伯が今年の5月に来日したことから始まる。楊氏は現在ニューヨークに在住していて、日本にも千葉市稲毛区にアトリエを構え、三越や各地で個展を開催する際に利用している。
 来日すると、どんなに忙しくても必ず私に電話をくださり飲食を共にしている。今年の来日は5月に入ってからで、4日午後5時に秋葉原駅の[ヨドバシカメラ]入り口前で会うことになった。秋葉原では昨年9月にも会っている。その時は10数年住んでいた東中野のアトリエから、3年ぐらい前千葉市稲毛区に引っ越していた。秋葉原駅での待ち合わせは初めてで、土地勘が判らず楊さんは総武線を千葉方面に乗ってしまい、1時間30分も待たされた。が、現在は便利な携帯電話があるおかげで、連絡を取り合い何とか合流できた。
 9月4日の待ち合わせでは5時10分前に[ヨドバシカメラ]前に着き、携帯を覗いてみると、楊氏から何回もの電話記録が残っていた。直ぐ折り返しの電話を掛けると、
 「[中央改札口]付近にいる」と言う。
 「[昭和通り口]の改札口で待っています」と告げる、
 「直ぐそちらへ参ります」といい、暫くすると、スマホを見ながら楊さんが歩いて来た。
 「昨年この駅で一度会っているのに忘れちゃったの?」と聞くと
 「先生済みません。東京に出る時もこの駅は通りませんので覚えていないんです」楊さんは私が作家であり写真家でもあるので先生と呼ぶのである。実に照れくさい。
 「だって東中野から稲毛までは総武線で一直線なんですよ」余計なことを喋ったが、結果的には会えたのだからそれで良かったのである。
 楊さんはスマホをとても上手に使いこなす。アプリで地図を検索し、秋葉原駅構内図を出し、それに従って出口へやって来たのである。
 再会の挨拶を交わし、総武線脇ビルの5Fにある居酒屋に入った。楊さんは余りお酒は飲まない。私に付き合うのにビールをほんの少し飲む程度だ。所が何時も食べきれないほどの料理を注文する。この日も、お刺身の盛り合わせを始め、ローストビーフ、ホタテの焼き物、アサリ酒蒸し、野菜サラダ等々じゃんじゃん頼むのである。
 料理が出てくると、スマホで撮影し、料理の前の私をも必ず撮る。なにせ120㎇という大容量のスマホなのである。

 楊氏との出逢いについて触れておく

 楊氏は1961年中国の広東省深圳市生まれである。広東州の美術学校卒業後、深圳の大学で絵の教師をしていたが、本格的な画家を目指し、日本の武蔵野美術大学油絵学科へ入学するため、留学生として1990年来日した。武蔵野美術大学大学院在学中に中国人女性と結婚している。卒業後の活躍は目覚ましく、計算され尽くした構図、冴えわたる清澄な空気を伝える圧倒的な描写力から描き出された、多くの作品を発表している。
 2001年アメリカの永住権を取得、当時はロサンゼルスに滞在した。現在はニューヨークのスタテン島に新居を構えている。日本の各地で個展を開催し、日本橋の三越本店画廊では5回ほど個展を開いている。凄いと思うのはその出品作品の殆どが売れてしまうことである。
 現在楊氏の実力は一号(ハガキ一枚)150,000円との評価を受けている。
 私と知り合ったのは22年前の1995年10月である。私が身元保証人をした中国人留学生 戴宏恩(だいこうおん)君の親類が
 「東京中央区銀座8丁目の画廊で個展を開催中だから一緒に見に行って下さい」と誘われて行ったのが初めての出会いだった。ギャラリーで 楊紹良画伯の油絵を見て鳥肌が立った。きめの細かい描写、裸婦の体毛や血管が一本一本リアルに描かれていたし、風景画も美しく動きを感じ感動してしまった。どの作品にもうーん! とうなされる鮮烈さを感じたものである。
 私は来日間もない戴君を浅草寺で開催中の〈菊花展〉見学に連れて行き、境内の屋台で軽く一杯引っかけてからギャラリーを訪れた。顔に幾らか赤味を帯びていたのか、酒臭かったのか楊画伯が冷えたビールを出してくれたので急に親しみを感じてしまったのである。
 他にギャラリーが居なかったので、椅子に掛けてゆっくり話をすることができた。
 「実は私は肖像画を描いてくれる人を探しているんです。楊先生は忙しいでしょうから無理ですよね?」確かに肖像画は私の念願の一つであったので、厚かましくも聞いてみた。
 「いいですよ。描きましょう」という思いもかけない返事が返ってきた。
 「本当ですか。ラッキー!。私は55歳になるんですけどね、毎日腕立て伏せとかの筋トレをしていまして、筋肉隆隆の現在の、裸の肖像画を描いて頂けますでしょうか?」
 「結構です。鈴木先生の裸の肖像画が完成すれば、世界で初めてですよ」と笑う
 「お値段的には幾らぐらいするものでしょうか」恐る恐る伺ってみる
 「戴の大恩人、身元保証人様ですし、絵の号数を決めてから、特別安い料金で描きますよ」と話が決まり、楊画伯の日程調整をしてもらい翌年の2月から、私が東中野にあるアトリエまで通う条件で、1996年2月から、モデルとして通い始めた。
 キャンバスは縦位置の10号である。上半身裸になり椅子に座るといきなり細い筆に絵の具を付け描き始めたのには吃驚した。当時の楊さんの1号の値段は90,000円と話していたが、500,000円で描いてくれることになった。アトリエは以前八百屋だった店の後で、シャッターを閉めただけの、広いが寒々した所だった。裸でのモデルだから、石油ストーブを3つも点けてくれた。月に2回ずつ、計19回通い完成したのは11月中旬だった。
 その後も交流が続き、私の撮った写真[カナディアンロッキー・カラスの爪〈クロウフット氷河〉][九寨溝猫熊海(この絵は台湾で切手になった)]、妻の撮った[信州伊奈高遠(たかとう)の桜]を12号の油絵にして貰った。
 その他、新宿御苑の桜を楊画伯と共に取材に出掛け[さくら]12号に、河口湖の富士山取材にも一泊旅行をし[夕焼け富士][朝焼け富士]2作品を、共に15号で描いて貰っている。
 特に想い出となったのは2010年10月12日(火)~20日(水)まで、楊画伯との九寨溝取材旅行である。
 「先生[九寨溝]へ取材に行くんですが、一緒に行きませんか?」と誘ってきた。
 私はまだ九寨溝が観光地化されていない、発見されて間もない頃に個人旅行で行っているし、妻を伴ってのツアー旅行では、妻が[臥龍(がりゅう)のパンダセンター]で生後9ヶ月の子パンダを抱いた記念写真を撮った後[九寨溝と黃龍]を巡る旅をしている。
 「取材に行くんですか? 九寨溝へは2度行ってるけど、何時から行くんですか?」
 「10月12日から20日迄の日程です。中国では宿泊は部屋単位だし、料理も注文すると食べ切れないほど出ます。九寨溝の往復の車代は一人でも二人で乗っても同じですから、先生は航空運賃だけ出してくれれば結構です」と言うのである。
 この時私は退職し65歳までの再雇用も終え、好き勝手な毎日を過ごしていた。
 「行くとなれば、旅先で掛かった料金ぐらいは払いますよ。私は毎日が日曜日ですから、喜んで御一緒致しましょう」と即答した。
 当時は楊さんはまだ東中野に再婚した家族と住んでいた。私達が呑んでいる席から奥さんに電話して、素早く航空券を手配させていた。暫くして奥さんからの電話が掛かってきた
 「チケットは取れました。妻が、鈴木先生が一緒に行ってくれるというので大変喜んでいました。宜しくお願いします。有り難う御座いますとお礼を述べてます」と話す。
 「私の中国での滞在費を楊さんが負担することを知っているのですか?」
 「一緒に行ってくれるように、頼んで欲しいと言い出したのは妻なんです。実は前回一人で九寨溝取材旅行に行った時、2人組の強盗に襲われました。これしか無いと有り金を全部見せたんですが、ホテルまで付いてこられ、かなりのお金を巻き上げられたという嫌な事件に遭遇しました」
 「ホテルの人に助けを求めなかったんですか?」
 「後のことが怖いから、ホテルの人は助けてくれません。九寨溝では一人旅行は危険で物騒です。だから、鈴木先生が行ってくれると助かりますし安心です。個展に向けてのシリーズで九寨溝を描いていますので、どうしても行かなくてはならないのです」
 その旅後に描いて貰った楊画伯の作品は[九寨溝の滝]20号、[黃龍]12号である。今迄に油絵だけで9作品を描いて頂いている。
 「先生、私の絵は投資ですよ」と最もらしく話していたが、今になってみると驚きの財産となったようだ。
 楊画伯は水墨画も描く。繊細な筆遣いで桜の花びらを一つ一つ描き出し、艶やかに桜が満開に咲く掛け軸も見ている。
 彼は日本滞在中幾つかの[絵]の教室を持っていて、生徒達の作品発表展があった時の楊画伯の作品に[鷲]の掛け軸が展示してあった。鋭い眼光と曲がり尖った嘴、太い足でしっかり老木を掴み毅然と立つ雄姿が素晴らしかった。私は直ぐこの作品に惚れ込んで、特別注文し掛け軸にして貰っている。その時に、
 「先生、時間が空いた時でいいですから水墨画で[龍]を描いて頂けませんか?」と頼むと
 「私は[龍]は描きません」とあっさり断られてしまった。

 5月4日の飲食の席での、楊さんとの会話の続き

 「先生、私はニューヨークに[家]を買いましたよ」と楊さんが話す
 「それは御目出度う。で幾らした? 8,000万円ぐらい?」たぶん其れくらいかなと聞いてみる
 「いいえ」
 「ニューヨークの不動産の値段のことは全く判らない。幾らしたの?」しつこく問うと
 「200,000,000(2億)円しました」と、すました顔で言う
 「すっげー! 2億円もしたの」つい大声になってしまった。
 楊さんは日本の画商と契約し、給料を貰って[絵]を描いている。楊さんが描く絵は全て画商の管理下に置かれてしまうから、私が注文して描いて貰う絵は画商には内緒なので、見付かるとその作品は画商に渡さなければならないのだという。その代わり、日本とアメリカの住居家賃、中国海南島のアトリエ等の家賃は全て画商持ちである。給料制だから、どうやって2億円の家を買ったのか? 私には考えつかなかった。楊さんの話では、奥さんは台湾の出身で御両親が大富豪だと話していた。何処でお金を工面しようが大したものである。
 「プール付きで、土地は999㎡あります。是非遊びに来て下さい」と招いてくれた。
 私は2002年10月に、身元保証人を引き受けた 張偉宏君が天安門事件後カナダに亡命し、その後は日本人女性と結婚し永住していた。
 「新居を買ったから遊びに来て下さい」と言われ、張の家にホームステイしながら、ニューヨークを訪れた際に、楊さんの家(スタテン島)へ寄らせて頂いている。そんな事もあったから
 「楊先生が手透きの時に伺います。いつ頃がいいですか?」と聞いてみると
 「その時は私の休養日となりますから何時でもいいですよ。奥様と御一緒に是非来て下さい。大歓迎します」と言うので
 「妻の都合を聞いてみて、必ず参ります」この話が一段落した後
 「鈴木先生、[龍]の絵、描きますよ。随分前に頼まれたこと覚えています。私の都合で描かなかったのですから、あの時の値段で結構です。ですが、軸装代は先生が払って下さい。その手配は全て私がやります」と切り出してきた。
 「え! 本当ですか? それは有り難い。楊さん、折角描いて貰うのだから、龍の爪は皇帝の龍と同じ5本爪にして下さい」と、お金の工面は考えず頼んでしまった。
 「判りました。帰国したら直ぐに取り組みます。描き上がったらインターネットで図柄を送信します」
 「龍を描いて貰えるなら、皇后のシンボル[鳳凰」もお願いできますか?」酔ったわけではないが気持ちがデッカくなってきたようだった。
 「はい」と言い、スマホで[鳳凰]の図柄を私に見せてくれた。
 思いもしない出費となった。ニューヨーク行きの費用と、掛け軸 二幅(軸装代を含む)一対の代金を工面しなくてはならなくなった。私の宝物なのだから何とか工面しよう。
 という経緯があって、ニューヨーク行きとなったのである。その後、
 「妻は長期間家を空けることができないので、折角のお招きですが行けません」と丁重にお断りした。
 楊さんと再会したこと、ニューヨークへ行くことになったこと、100万円の出費は痛い、ということをKさんにMailしたら、勘の鋭いKさんは返信で
 「絵を買ったんでしょう? ニューヨークへはいつ行くんですか? 奥さんと行くんですか?」等と好奇心旺盛なKさんは聞いてきた。
 「妻は植木があるし、友人達と旅行へ行く予定があるのでお断りしました。6月にクルージング旅行に出掛けるし、出費が重なりますが、御一緒致しますか?」と、暗示めいたことを問うてみた。
 「俺が行っても構わないかな?」と、遠慮がちに乗ってきた。K氏は三越の個展会場で2度程楊氏とは会っている。そこでその事を楊氏に問い合わせると
 「大歓迎致します。どうぞいらして下さい」と快諾して下さった。
 「楊さんは歓迎してくれるそうです」とKさんに知らせると
 「俺ニューヨークは初めてなんだ。一緒に連れてってよ」となったのである。
 その時点では何時行くかはまだ決めていなかった。というのは、今年の6月17日から22日迄、ふれあい大学で知り合った友人夫婦2組とKさんと私6人で、台湾から乗船し沖縄の那覇・宮古島・石垣島をイギリス船籍の豪華客船[サファイア・プリンセス号]115,875tでクルージングする旅が控えていたからである。
 楊さんとはMailで交信している。掛け軸の代金も米ドルで良いのか? 等である。
 日程については夏休み後の9月1日(金)~8日(金)迄にした。ニューヨークには国際空港が3つあるので、楊家の近くの空港を聞き、JFK(ジョン・F・ケネディ国際空港)着チケットの手配をした。往復のフライト情報は楊さんに伝え、空港へ迎えに参りますという返事も貰った。
 もう一つアメリカに入国するにはVISAに替わる[ESTA]を申請し取得する必要がある。インターネットから申し込むと14$(1,680円)となっていたが、後日のカード決済では7,400円も引かれていた。
 ところが8月に入ると楊氏から私のMailに返信が来なくなってしまったのである。
 問い合わせたいことはまだまだいろいろある。画材やその他、日本で買って持っていく物はないか? 上海の中国人は固形カレーの[ルー]を好むので、楊宅でカレーは食べますか? (土産にと考えて)幾つかMailをしてみたが返信が無いので焦ってしまった。仕方なく、楊画伯の個展を開催した銀座歌舞伎座前の路地にある[靖山画廊]へMailを送り、自分と楊氏との関係を説明し、Mailのアドレスと電話番号を聞き出したのである。靖山画廊では楊氏との確認を取り、私に返信をくれた。
 その日は8月25日だった。楊氏からMailが届いた。
 「9月2日0時13分着・デルタ航空DL-2214便・JFK第4ターミナル承知しています。お迎えに上がります。鈴木先生どうやらアドレスのローマ字のlと数字の1が違っていたのではないですか?」と書いてあった。
 「[絵]の代金は日本円で、日本の銀行の私の口座に振り込んで下さい」と言い添えてあった。
 連絡が取れたのでホットした。
 取り敢えず[干し椎茸の箱詰]2箱と[カレールー辛口]2種類6箱は土産として用意しておいた。Kさんが
 「小さな子供が居るんだからチョコレートも買って行こうよ」と言うので、ドンキホーテヘ買いに行ったりした。

 再びミネアポリスの空港レストランに戻る

 3杯目のビールを注文すると店内の4人席から、コンコースが見えるテーブルに移ってくれと言われてしまった。そのテーブルは立って飲むスタイルだから、椅子に座っても足が床に付かない。貴重品の入ったナイキのリュックサックはテーブルの下に置くしかなかった。
 Kさんは無料の珈琲を注いできては飲んでいた。何度もトイレに通い6杯目を飲み終える頃にはかなり酔ってきて、時間は1日の11時30分になっていた。ゲートも開いたろうからとF3ゲート前に向かう。ゲート前のベンチに座り20分過ぎるとゲートが開いた。乗船のためのセキュリティーチェックはなくスムーズに搭乗できた。席に着きリュックからスリッパとか眼鏡を取り出そうとして、其処でやっと貴重品入れを置き忘れたことに気が付いた。慌ててゲートの入り口まで戻り、リュックを取りに行かせてくれと頼んだが、係員は出してくれなかった。無理に出たら拘束される危険を感じたので諦めるしかなかった。
 リュックの中には[キャノン40D・ズームレンズ付][スマホ][水晶のサングラス][老眼鏡][ビトンの小銭入れ(現金8,000円と家の鍵)][ビトンの定期入れ(約10,000円チャージしてあるパスモ、予備金として入れておいた20,000円)][ビトンの眼鏡ケース][クレジットカード3枚][プラチナ万年筆][米ドル250$]その他が入っていた。クレジットカードをリュックに入れたのはセキュリティチェックで引っ掛かると思ったからで、パスポートはジャンパーのポケットに、楊氏に何かの足しにして貰おうと思って用意した900$(100,000円)と予備金100,000円は腰に巻いていたので助かった。
 酔いが一変にすっ飛んでしまった。Kさんも待ち時間が長時間なのでビールを3杯は飲んだと思う。何時もなら「忘れ物は無いよね?」と声を掛け合うのだが、自業自得、飲み過ぎに対する厳しい〈お灸〉だった。
機材はAirbus A319・IAE社製エンジン(V2500-A5エンジン)2基搭載 座席数はファーストクラス8・エコノミークラス120合わせて128座席 通路を挟んで両脇3人掛け、ニューヨーク迄は2時間57分のフライトである。軽い機内食と飲み物のサービスがあった。ビールというと350mlの缶ビールとコップを出して6$(720円)と言われたが、ドルはリュックと一緒に紛失して手元にない、「ノーサンキュー」と断った。
 ニューヨークのJFK第4ターミナルには予定通り9月2日の午前0時13分に着いた。入国審査は済んでいる。手荷物がないから手持ち無沙汰で人の流れに付いて通路を進む。バッゲージクレームという表示を追えないまま突き当たった扉から出てしまった。
 此処で早くも荷物を忘れたことで後悔させられた。スマホの翻訳アプリを当てにしてきている。スマホを口に当て日本語で喋ると英語が文字で表示されるので、多いに活用しようと意気込んできたのに、紛失してしたから使えない。Kさんもガラケースタイルのスマホを持ってきているが、翻訳アプリの使い方が判らない。そばを通った空港の職員に
 「スーツケース、パッケージクレーム?」と聞くと、意味が通じたのか指を指すので、そちらの方向に向かって歩いた。其処はどう見ても出口の外と思える所なのである。右側にパッケージクレームの出口があったので、そこから荷物を受け出そうと入っていくと、警備員の服装をした男性が入っちゃいけないと阻止されてしまった。スーツケースを持ち上げるしぐさをして、「マイケース・ピックアップ」と言ってみたが追い出されてしまった。又先程の通路出口へ戻ると、インフォメーションボックスに女性スタッフがいた。
 「パッケージクレーム? マイケース・ピックアップ」仕草を交えて話すと、やはり同じ方向を指さすのである。Kさんもあまり英語を話せない。さっきのパッケージクレームに戻って荷物を受け出すしかないので、再度其処へ入ると、警備員は手錠を突き出し脅かすのである。又逆戻りしながら、楊さんが待っていないか出口の方も探してみた。
 先程のインフォメーションの女性が又来たのかと呆れ顔をしていたところへ、雑用係風の男性が空のキャスターを押しながら、俺に付いてこいと顎で合図を送ってくれた。付いて行くと、先程のパッケージクレーム出口のもっと先に、もう一つパッケージクレーム室の出口があった。男性に「サンキューベリーマッチ」と礼を言い、其処へ入ろうとしたら
 「鈴木先生」という声が聞こえ、ロープの外側で楊さんと奥さんが手を振っていた。そのロープは何の役割をしているのか理解できなかった? 我々が行き来したコンコース内に張ってあるのだ。
 荷物を受け出す前に楊御夫妻と御挨拶と握手を交わし、K氏を紹介した。楊さんが
 「三越で2度ほどお目にかかっていますので覚えています。ようこそいらっしゃいました」と歓迎の言葉を掛けてくれた。
 パッケージクレーム室へ入った。回転台のスーツケースが2巡後、脇に並べてあったスーツケースの列を見ると、私のスーツケースは黒い革製だから直ぐに見付けることができた。Kさんのスーツケースも近くにあった。
 既に午前1時を過ぎていた。JFK国際空港ターミナル4の駐車場から楊さんが運転する[トヨタ]に乗り、手荷物を無くした話や、連絡が取れなくてヤキモキした話をし、1時間20分掛けて楊氏の家に到着した。正面玄関の明かりが入り口の階段を照らしていた。中学3年生の次女 アリシア(Alicia)ちゃんが眠い目を擦りながら鍵を開けてくれた。
 玄関を入るとスリッパが用意されていた。楊家では日本式の生活スタイルである。
 私達がステイする部屋は階段を上がった突き当たり、荷物を運び入れた後、トイレ付きバスルームを案内された。それから1階の豪華なシステムキッチンの奥にあるテーブルに座らされた。真夜中の3時過ぎなのに、よく冷えたキリンの缶ビールを出してくれて、
 「鈴木先生の好きなビールは沢山買ってありますよ。赤と白の美味しいワインもありますよ」と薦める
 奥さんの リム(Lim)さんがリンゴを剥いてくれたり、[竜眼(ライチに似たムクロジ科の常緑小高木果実)]を出してくれた。リムさんは日本に10年近く滞在していたから、日本語は余り喋れないけれど我々の話はある程度理解できる。
 リムさんと2女アリシア(15歳)、3女のヨーヨー(正式名はChense 8歳)ちゃんは昨日(1日)台湾から帰国したばかりだそうだ。
 「時差惚けが抜けないから、先に失礼します」と寝室へ戻って行った。
 部屋に入る前に、腰に巻いていた米ドル900$(封筒入り)を取り出し、楊さんに 
 「足りないと思うけど、ほんの気持ち、滞在中の食費や交通費の足しにして下さい」と差し出すと、
 「とんでもないです。これは受け取れません。妻に叱られます」と言って押し返す
 「それじゃあ子供さんの本代にして下さい」と差し返す、Kさんも
 「笑われちゃうぐらい少しです」と口を添える
 「駄目ですよ。高い航空費を払って来てくれたのですからそれだけで充分です」と受け取ろうとしない。封筒はテーブルに置いたまま、ビールを飲み終えて休むことにした。
 「楊さんは何時も何時に起きるの?」
 「私は徹夜が多いので、何時も10過ぎ迄寝ています。鈴木先生も今日は疲れたでしょうからゆっくり休んで下さい」午前4時30分を過ぎていた。この日は風呂には入らず、衣類をハンガーに掛けるだけでベッドに横になった。
 娘さん二人の部屋を開けてくれていた。10畳ほどもある広い部屋に、高さが90cmもあるダブルベッドが2つ並んでいた。