奇跡の岩 ゴールデンロックと ミャンマー5日間

2019年8月16日(金曜日)~20日(火曜日)

ミャンマーの地図

ミャンマーの国旗

ミャンマーの国章

今年の3月に[クロアチア・スロベニアの旅]を楽しんできた。私の小遣いを上回る出費となったが、有効期限10年のパスポートを取得したのだから、元気で動けるうちにまだ行ったことのない国を訪ねたいと思うのである。6月9日で78歳になった。いつも誕生日は海外で過ごすことにしてきた。だからこの日に会わせて旅の商品をあれこれ物色する。 比較的に旅行代金が安いアジアで、まだ行ったことが無い国はインドとミャンマーである。いつもなら3ヶ月前ぐらいに申し込むところを、クロアチア・スロベニアの旅から戻り、紀行文を纏めていたから、5月に入ってからの申し込みになってしまった。6月7日出発のインドを申し込んだら、キャンセル待ちだった。確実に行ける保証がないので諦めた。


そんな時に阪急交通社から《おひとり様だけの旅》というパンフレットが届いた。誕生日に拘らないで頁を開いてみると《奇跡の岩 ゴールデンロックを訪れる ミャンマー5日間》というのが目にとまった。3年前にミャンマー旅行を計画し、インターネットからビザを申請したのだが料金だけ引き落とされビザを取得できなかった苦い経験がある。(2018年9月30日まではミャンマーへの入国はパスポートだけではなく、ビザが必要だった)
パンフレットによると、2018年10月1日からの1年間同国を訪れる日本と韓国人への短期滞在ビザ(査証)を暫定的に免除したと書いてあった。(さらに今年5月27日ミャンマーのホテル・観光省管轄の民間組織[ミャンマー観光連盟]は東京でミャンマー観光セミナーを開催し、2020年9月30日迄[短期滞在ビザ免除]を、一年延長したと報じていた。
私は前々からミャンマーの[奇跡の岩 ゴールデンロック]をこの目で見たいと思っていた。
長期間続いた軍事政権が、ようやく共和制国家(民政)としてスタートしたが、新たな問題が起きているミャンマーへは二の足を踏んでいた。
そこで、これから旅をしようとする国、ミャンマーの歴史と現状をかいつまみ調べて見た。

【 1988年にネ・ウィン退陣と民主化を求める大衆運動が高揚し、ネ・ウィンは7月にBSPP議長を退陣(8888民主化運動)した。が、同年9月18日に政権を離反したソウ・マウン国軍最高司令官率いる軍部が再度クーデターにより政権を掌握し再度ビルマ連邦へ改名した。総選挙の実施を公約したため、全国で数百の政党が結成された。軍部は国民統一党を結党し体制維持を図った。民主化指導者アウン・サン・スーチーらは国民民主連盟 (NLD) を結党したが、選挙前の1989年に自宅軟禁され、以降、彼女は長期軟禁と解放を繰り返していた。
2007年10月12日にソー・ウィン首相が死去したことに伴い、軍出身のテイン・セインが2007年10月に首相へ就任すると、軍政主導の政治体制の改革が開始された。
2008年5月、新憲法案についての国民投票が実施・可決され民主化が計られるようになった。(この年2008年5月2日サイクロン[ナルギス]がエーヤワディー川デルタ地帯に上陸し、甚大な被害をもたらした)
2010年10月、国旗の新しいデザインを発表し、11月には新憲法に基づく総選挙が実施され、政府はアウン・サン・スーチーの自宅軟禁が期限切れを迎えると発表し、総選挙の終了直後に自宅軟禁が解除された。
2011年3月30日、テイン・セインは総選挙の結果を受けて召集された連邦議会の議決を経て大統領に就任している。同月国家平和発展評議会 (SPDC) は解散し、その権限は新政府に移譲された。11月、アウン・サン・スーチー率いる国民民主連盟 (NLD) は政党として再登録された。 2015年11月8日、民政復帰後初めてとなる総選挙が実施され、NLDが圧勝した。NLDは党首のアウン・サン・スーチーの大統領就任を要求したが、ミャンマー連邦共和国憲法の規定と国軍の反対によってそれは認められず、次善の策としてスーチー側近のテイン・チョーを自党の大統領候補に擁立した。
ミャンマーで文民大統領が誕生するのは54年ぶりで、半世紀余に及んだ軍人(及び軍出身者)による統治が終結した。さらに、NLD党首のアウン・サン・スーチーが国家顧問、外務大臣、大統領府大臣を兼任して政権の実権を握った。新政権は[事実上のスーチー政権]と評されている。
2016年からミャンマー国軍によるイスラム教徒の虐殺、民族浄化が続いており、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)により非難されている。2016年以降、軍部によるロヒンギャ虐殺の被害者数が6,000人以上の月もあったことが報道されている。
2017年8月25日には、反政府武装組織アラカン・ロヒンギャ救世軍がラカイン州内の治安組織を襲撃した。軍の大規模な反撃を契機に、数十万人規模の難民がバングラデシュ側へ流出した。同年9月以降、アウン・サン・スーチー国家顧問は、国連総会への出席を取りやめ国内の混乱収拾にあたっているが? 未だ解決のめどが立っていない。

【 [ロヒンギャ問題]50万人を超えるロヒンギャの人々が、ミャンマーから隣国バングラデシュへ難民となってあふれ出ている。雨期のなか、故郷のラカイン州西北部から国境のナフ河を越え、着の身着のままで脱出し、受け入れ態勢不十分な土地でなんとか生きようともがいている。1991年のノーベル平和賞受賞者アウン・サン・スーチーが国家顧問を務める国で生じた大規模難民流出だけに、国連をはじめ国際社会の注目度は高まっている。今回のミャンマー旅行ではラカイン州には行かないが、この事態を無視する訳にはいかない。
[ロヒンギャ]とは、ミャンマーの西部にあるラカイン州というところに約100万人が住む、主にイスラム教徒の住民の総称である。歴史的に不明な点が多く、民族集団、宗教団体、政治結社のいずれなのか判らない。そのため[少数派のイスラム教徒]と表現されている。ロヒンギャ問題で一番の当事国となっているミャンマー政府は、彼らのことを[不法移民のベンガル人(バングラデシュ人)]であり、自国民ではないという立場を一貫してとっている。一方で、バングラデシュ政府も、ロヒンギャは自国民ではなく、[ミャンマーに属する民族集団]という立場をとっているので、どちらの国籍をも持つことができないでいる。
ミャンマーの反ロヒンギャ感情には《①人種的差別の心理(彫りの深い顔や色の黒い肌など、見た目への差別)②言語的差別(ロヒンギャが上手にビルマ語を話せないこと)③宗教的差別(ミャンマーの国民のほとんどは仏教徒だから、保守的なイスラム教徒に対する嫌悪感がある)》がある。
ミャンマーとしては、自国民と見た目にも感覚的にも違う集団が、不法に住み着いている状態に不快感を抱いてきた。特にこの不快感をあらわにしたのが仏教過激派組織で、2012年にロヒンギャと大規模な衝突を起こしている。この衝突により、多くのロヒンギャが殺害され、10万人を超えるロヒンギャが住処を失ったため、ミャンマー政府は避難民キャンプを作って、そこへ押し込めている状況である。
仏教過激派組織の969運動と呼ばれるロヒンギャ排斥運動はエスカレートしていき、暴力を恐れたロヒンギャはミャンマーからの脱出を試みた。ロヒンギャはまず、陸路で一番近いバングラデシュに向かった。バングラデシュには政府公認の仮定住キャンプが2か所あるが、逃れてくる何十万のロヒンギャをカバーしきれない。おまけに、ミャンマーとバングラデシュの国境警備も強化され、公認キャンプ以外で非難するロヒンギャも不法入国者として罰せられるようになってしまった。
次にロヒンギャは海路でタイやマレーシアを目指した。しかし、タイやマレーシアを始めとする東南アジア諸国は、ロヒンギャを[難民]ではなく、[経済移民]としてみなし受け入れを拒否した。
難民とは難民の地位に関する条約で[人種、宗教、国籍、政治的意見もしくは特定の社会的集団に属することを理由に迫害を受けるか、受けるおそれがある人々のこと][紛争に巻き込まれたり、人権を侵害されたりして国外に逃れた人々のこと]であり、一方、経済移民とは、[経済的貧困に陥り、雇用や所得を求めて他国に移住しようとする人々]のことをさす。タイやマレーシアからみると、ロヒンギャは後者にあたり、不法に入国して労働しようとしている犯罪者ということになるため、受け入れを拒否しているのである。
では、次にどこに向かうか? 暗躍するブローカーに運命を委ねる(不法であっても、他国への逃亡を手助けしてくれる闇集団ブローカーのこと)。しかしこのブローカーが人身売買組織と繋がっていて、ロヒンギャは更なる非人道的扱いを受けることになってしまった。
2015年にタイ政府が取り締まりを強化し、人身売買組織が動けなくなると、上陸して邪魔になったロヒンギャは虐殺され、これから向かうロヒンギャは行き場をなくし海上の木造船でさまようだけとなってしまった。数千人にのぼるロヒンギャが、どの国からも受け入れを拒否され、ボートピープルとなって漂流している事態に国際社会は衝撃を受けた。そして危機的なロヒンギャ問題が露見した。
アウン・サン・スーチーさんは何をしているの? この未曽有の事態に、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)も、これは民族浄化ではないかと危惧しており、国連機関もロヒンギャ支援に乗り出してきた。
ロヒンギャ難民の上陸希望先であるタイやマレーシア、インドネシアも受け入れに対して対応を若干軟化させたが、ミャンマー政府は、ロヒンギャへの掃討作戦は虐殺ではなく、ミャンマー批判は公平を欠くとして、逆に国際社会を非難する強硬姿勢にでた。
ここで脳裏によぎるのはノーベル平和賞を受賞した、ミャンマー民主化の象徴アウン・サン・スーチーの動向である。アウン・サン・スーチーは、国家顧問として、大統領に助言を与えることができるポストにいるが、ミャンマーの憲法は軍事政権下で作られたもので、軍や警察を動かす権限が彼女にはないという事情がある。また、別の説によれば、969運動の指導者がアウン・サン・スーチーの支持者であるので、積極的に静止しないのではという見方もある。いずれにせよ、誰もが解決を望む事態であるにも関わらず、国連人権理事会の調査団の派遣の受け入れを拒んだり、9月の国連総会を欠席したりとロヒンギャ問題に消極的な姿勢しか見せていない。
この事態を憂慮した母校のオクスフォード大学では、アウンサンスーチーの肖像画を撤去したり、ノーベル平和賞の取り消しを望む声があがり、ネット上で署名が集められたりと批判が高まっている状況である。今後、軍や民衆を巻き込んでどんな行動をとれるかが注目されている。
ミャンマーは小さい国だと思いがちだが、国の面積で見ると 67.66万 km²で、日本より約1.8倍も大きい。人口は 5,337万人(2017年)である 】

いずれの国も多かれ少なかれ問題を抱えているのだから、ミャンマーの別の側面に期待して訪れてこようという気になった。
このツアーは、お一人様限定である。(普通のツアー商品は2名一部屋での募集である)夫婦や友人などのグループ(20歳未満)は御遠慮下さいというのだから面白い企画だと思った。全コース1人1室を確保してあり、お一人様追加料金は取られない。参加者は60~70歳代が多く、6対4で女性の方が多いそうだ。添乗員は同行しないが現地ガイドがアシストしてくれる。最少催行人員は8名となっているが、募集条件は催行決定である。今迄この種の商品があることすら知らなかった。
8月16日(金曜日)出発[奇跡の岩 ゴールデンロックを訪れる ミャンマー5日間]は旅行代金が119,800円、成田空港利用税2,610円、ミャンマー空港利用税2,850円、石油サーチャ-ジ9,000円、出国税1,000円、保険金200円・合計135,460円である。短期日程にしてはちょっと高い。
8月9日に旅行日程表が届いた。台風8・9・10号が続けて発生し日本列島に接近してきた。その中でも10号が超大型で、モタモタ小笠原付近に停滞していた。なかなか進路予報が定まらず、12日にようやく動き出し15日に九州・四国地方に上陸し、その後一旦日本海に抜け17日には北海道を襲うようである。16日に関東地方に接近するとの進路予報もあったので、飛行機が欠航になってしまうのではないかとヤキモキさせられた。
日程表資料の中に[ANA国際線のご搭乗手続き(チェックイン)方法の御案内]というのが入っていた。[利用便出発24時間前からANAホームページより、お客様自身でお手続き頂きます]とあったので、早速ANAのインターネットチェックインから操作方法を調べた。旅行代理店を通じて[航空券番号]を聞き、操作したところ既にe-チケットは出来上がっていた。
私は10年前に[前立腺癌]の手術をしていて、トイレに頻繁に行かなくてはならない体質なので、何としてもトイレ近くの通路座席を確保したいのである。出発当日早めに空港へ行ってのチェックインで取れるかどうかが心配なのである。
15日の11時25分(NH-0813便出発の24時間前)過ぎにANAのホームページからアクセスすると、パスポートナンバーやら個人情報を打ち込むことで、後部トイレから3つ手前の[38C]席を確保できて一安心した。(帰国の際は現地のチェックインカウンターで事情を話して通路席を取るしかない)
スーツケースは何時も[QLライナー]の空港宅配便を利用している。スーツケースを駅まで転がしたり、電車への持ち込みや乗り換えの事を考えると、家まで集荷・配達してくれるから便利で助かる。その上インターネットから申し込むと通常200円割引の上に、何故かさらに300円も安くなる。往復宅配料金は4,110円である。お盆の時期なので10日に予約を入れたら、何時もなら出発2日前の集荷なのに、11日(4日前)の12時から3時50分の集荷しか受け付けてくれなかった。早い申し込みで正解だった。即刻荷造りを開始した。ドンキホーテ迄、旅行中ホテルで飲酒する際の摘まみと、ミャンマーは雨期なので使い捨てのビニールの雨合羽(250円)を買いに行ってきた。シェーバーの充電等もして荷造りを終えた。

8月16日(金曜日) 出発

成田空港第一ターミナル4F出発ロビー南ウイング Kカウンターに9時25分集合だから、家を出たのは6時20である。台風10号の影響で雨が降っていた。家を出る時に傘の柄がポキリと折れた。余り凶兆を信じない方だが、何か嫌な気分になった。
ミャンマーは熱帯又は亜熱帯に属するため、一年中30℃以上の気温になる。ヤンゴンに限らず、ミャンマーの都市の年平均気温は30℃を越える。日本が冬でも夏服を用意して行くことになる。
今回のミャンマー旅行は8月である。Tシャツに短パンで観光したいところだが、ミャンマーの観光スポットの殆どが佛に関係する所ばかりなので、短パン・靴・靴下が禁止されている。ミャンマーでの旅行中は長ズボンをはくが、空港迄は暑いだろうから、私は家を出る時から甚兵衛と草履風のサンダルという出で立ちで出発した。

ヤンゴン直行便はANA便のみなので[NH-813][NH-814]便を利用しての往復となる。2011年軍政の権限は新政府(一応は民政)に移譲された。それを受けて2013年からは,集客の増加も見込まれることを予測して機材を大型化したようである。
たまたまANAを検索していたら[顧客が選んだ世界の航空会社ランキングトップ10]というコラムがあって、実際の利用者の投票で順位が決めるランキングの2019年度が発表されていた。その中の、同ランキングに関連するウェブサイト[今年の最優秀航空会社]をみると、客室乗務員ランキングでは全日空が3位、日本航空が8位。また清潔さのランキングでは日本航空が2位、全日空が3位。さらに、空港でのサービスに関するランキングでは全日空が1位、日本航空が3位にそれぞれランクインされていた。競争が激しい世界の航空業界で日本勢の大健闘ぶりは誇り高く思った。

午前8時に成田空港第一ターミナルに着いた。受付カウンターで、スーツケースに貼るタグに名前を書き込み、阪急交通社の旅行バッジ、  e-チケットを受け取る。チェックインはATMで座席券とクレームタグ付きのスーツケース預けシールを出させ、カウンターにてスーツケースを預けるのである。座席は予約しておいた 38C が、38D になっていた。これは通路を挟んだ3人席の真ん中の座席ではないのか? もしそうだった場合は客室乗務員に話して事情を説明し、通路座席に換えて貰うしかない。
例によってレストランで中瓶ビールを注文し、一人で出発式である。早めに出国審査を受けた。免税店でガラス瓶でない、プラスチック容器のスコッチウイスキー540cc入りを買い、38番ゲートに向かう。成田空港でのANAはハブ空港でないから、一番奥まったところである。途中売店で500ccの缶ビール2本と摘まみを買い、ゲート待合室の窓際にある足を伸ばせる椅子に座った。ビールを飲み終えても、摘まみはとても食べきれない。隣に座っていた若い女性に
「召し上がりませんか?」と話し掛けると「宜しいのですか? 御馳走様です」と袋ごと受け取って下さった。

NH-0813便は成田国際空港を定刻の11時25分に動きだした。座席38Dは一番後ろの通路席だった。窓からA・Bで、通路を挟んでD・E・Fとなる。ホットした。この便はガラガラ状態である。キャビンアテンダントパーサと思われる女性が来て、
「一番後ろで寂しく御座いませんか? お好きなお席にどうぞ」と言ってくれた。私が、
「前立腺癌の手術をした関係でトイレが近いもので、こんなに空いていると思わなかったものですから、インターネットでこの席を取ったんですよ」と話すと、
「もう何方も乗ってきませんから横になられるといいですよ」と、いろいろ気遣って下さった。
滑走路で待つこと40分、ようやく飛び立ったものの、飛び立ってからシートベルト着用サインがなかなか消えない。私には50分ぐらいの長さに感じた。待ちきれずにトイレに向かった乗客はキャビンアテンダントパーサに制止されてしまった。実は私も破裂しそうな位オシッコが溜まっていた。何度も後ろを向いた。キャビンアテンダントパーサがトイレの前に乗務員用のシートベルト嵌めて動かない。仕方なく、ブランケットを股の上に掛けて[ブランケットを包んでいたビニール袋]を〈何処でもトイレ〉に使用した次第である。そのビニール袋をトイレに流そうと立ち上がると
「大変長らくお待たせして申し訳御座いませんでした」とキャビンアテンダントパーサが謝っていた。
到着後席を立つと、キャビンアテンダントパーサが私に飴の入った袋をくれた。その中に手書きのメッセージが入っていた。

WELCOME ON BOARDというカードに
《 本日はNH813便ミャンマー行きを御利用頂き有り難う御座います。御病気や手術を乗り越えて明るく接せられるお客様に、こちらが元気を頂きました。今後も是非世界各国色々な国への旅を楽しんで下さい。また機内でお客様の笑顔に会えますよう祈っております ☆ NH813クルーより 》と書いてあった。忙しい中良く書いたものだと嬉しかった。
「帰国便でもお会いできるといいですね」と送り出してくれた。

何時も機内で飲んだアルコールのことを書くので、皆さんに顰蹙を買うが、成田からヤンゴンまでの所要時間7時間10分に飲んだ350ml缶ビールは5本、レッドワインはコップに2杯だった。

ヤンゴンにはほぼ定刻の16時05分に着いた。日本とヤンゴンとの時差は、日本より2時間30分遅れである。(今迄行った国で、30分と半端が刻まれた時差国は初めてである)
[ヤンゴン国際空港]は、ミャンマーの旧首都、ヤンゴンにある国際空港である。旅客数においてはミャンマー最大の空港であり、また面積はマンダレー国際空港、ネピドー国際空港に次いで第3位の空港である。 ミャンマー・ナショナル航空、ミャンマー国際航空、ゴールデン・ミャンマー・エアラインズ、ヤンゴン航空、バガン航空、エアKBZ、マンダレー航空、アジアン・ウィングズ・エアウェイズのハブ空港として利用されている。
国際線ターミナルは2007年5月に開業した。それに伴い、旧ターミナルは国内線専用となっている。滑走路が一本しかなく構内も手狭で、経済発展に伴う航空便の増加に耐え切れなくなっている。そのため2016年現在はヤンゴンから北東80kmのバゴー(旧名ペグー)付近にハンタワディ国際空港を建設する計画が進められ、2022年に供用を開始する予定である。
[ミャンマーの通貨]はチャット(kyat)と呼ばれ、補助通貨としてピャー(Pya)がある。100ピャーが1kyatだが、インフレが進行し現在ではピャーの単位はほとんど使われていない。おもに流通している紙幣の種類は50、100、200、500、1,000、5,000、10,000の7種類である。
2019年8月12日現在の為替レート1kyat=0.0698円である。
一番大きなお札10,000kyatは約698円だが、円から米ドルそれからチャットに換金した手数料を含めると、チャット単位で1/10にすると、大体日本円での額になる。近年はミャンマー通貨に対して円高傾向にあるため、旅行のコストも下がってきている。
ミャンマー・チャットは日本円を現地優良両替所で両替して手に入れるのが得であるが、両替は現地ガイドの指示に従うしかない。今回の旅行は中4日と短いので、取り敢えず新札の100米ドル(11,207円だった)に換金してきた。
機内でミャンマーの入出国カードが配られなかった。客室乗務員に尋ねると、
「入国審査の所で書いて頂くようになっております」との答えだった。人の流れに従って入国審査の所まで行ったが、そうした書類もないし、カウンターもない。言葉は通じないが、係員に紙に文字を書く仕草をしてみると、審査カウンターに並べと手招きされた。割合と空いていたのでスムーズに審査を受けられた。入管職員にパスポートを渡すと、私の顔を見たり、パスポートを機器に読み取らせたりしてスタンプを押してくれた。入出国カードや税金の申告書は、ビザ同様省略されていた。  先に進みターンテーブルからスーツケースを取り出し、出口に出ると阪急交通社の男性職員と現地ガイドが、プラカードを持ち通路の端で待つように言う。全員が集まると、待機していた傍にある4つの両替所で、 「米ドル・ユーロ・シンガポールドルならkyatに換金できます。日本円では両替は出来ません。新品札で高額程レイトが高く、古い札や汚れた札は両替して貰えません。左から数えて3軒目の店がレイトが高いです」と案内していた。私は新札の100ドル紙幣を換金したところ152,057kyatだった。若い娘さんが
「この100ドルは駄目だと言われました」と戻ってきて、阪急職員に最近の100ドル札と取り替えて貰っていた。
スーツケースを引いてBUSに乗った。阪急交通社の男性は 小笠原 と名乗り、現地ガイドを紹介してくれた。
「ガイドさんは ヘイン さんです。4日間のミャンマー旅行を案内してくれます。ヘインさんはとても日本語が上手な優秀ガイドさんです」と話す。マイクを持ったガイドが、
「私の名前は ヘイン です。拙い日本語ですが、精一杯頑張りますので宜しくお願いします。通常ですと此処からホテルまで40分で着きますが、ヤンゴンは一日中渋滞していますので、1時間になるか、1時間30分になるか道路状況次第です」と話し出した。
BUSは40人乗りの中型バスである。このツアー参加者は女性6人、男性6人の合計12名である。パンフレットでは高齢者が多いと書いてあったが、20歳代が5人、30歳代が2人、50歳代が1人、60歳代が1人、70歳代が2人、80歳代が1人と若い人が多く参加していた。ホテルに着くまでの間にヘインが、そこそこ判る日本語で説明し出した。
「ミャンマーは日本のような文化国家では御座いません。ですので、ミャンマー旅行での注意点を説明致します。ミャンマー全体に言えることですが、路上に出ている飲食店の利用は避けた方が良いと思います。ミャンマーはまだまだ衛生観念が弱く、食器洗いは貯めておいたバケツの水を使いまわしたり、料理の際にも手をキチンと洗いません。また、ミャンマーでは油をふんだんに使う料理が多いのですが、古い油を繰り返し使うためにお腹を壊すこともあります。露店で様々なローカルフードを食べ歩くのはアジアの町ならではの旅の楽しみですが、大きなリスクも抱えていることを頭に入れておいていただければと思います。民主化後の経済成長のおかげでインフラ整備も少しずつ進んできたヤンゴンですが、町を歩くと穴の開いた歩道や、むき出しの排水路などがまだ沢山あります。夜間などちょっとした路地に入ると、街灯が少なくて足元が見えづらいので、散歩の際には足元にはご注意下さい。懐中電灯があれば使ってください。また、道路を歩いたり横断するときは車の動きに注意してください。ヤンゴンではこの数年で急速に車の数が増えました。しかし運転者のマナーはまだまだです。日本の様にきちんとした教習を受けていないドライバーが多いので、事故に巻き込まれない様気を付けて下さい。
ヤンゴンに限らず様々な場所で水が原因でお腹を壊すことがよくあります。例えばローカルな食堂。最近は少ないですが、お店からコップで水を出されても飲まないようにして下さい。どの店でもペットボトルのミネラルウォーターを売っていますのでそちらを注文して下さい。それから料理が出された時のスプーン、フォークが濡れていた場合は乾いたものに代えてもらうか、よく拭いて水分を取り除いて下さい。そしてもうひとつ、ホテルの水道水も飲まないで下さい。お腹が敏感な方は歯を磨く際にもミネラルウォーターをお使い下さい。
ヤンゴン市内、繁華街の中心部であっても蚊に刺されます。ミャンマーの蚊は刺された瞬間痛い事もあり、痒みは体感的に日本の蚊の3倍以上です。日本の殺虫剤も、あまり効果がありません。蚊が媒介する病気も多く、特にデング熱は毎年1万人以上が感染します。ミャンマーにおいてデング熱は子供がかかる病気ですが、日本人は免疫がないため大人でもかかります。肌をあまり出さないことと、明るい色の服を着る、虫除けスプレーの使用など、蚊に刺されないのがデング熱に対する一番の予防法です。もうすぐホテルに到着致します。簡単なミャンマー語をお教えしますから、御一緒に声を出して覚えてください。
『お早う、今日は、今晩は』は『ミンガラーバー』で全部通じます。
『ありがとう』は『チェーズーティンパーデエ』。
丁寧な『ありがとうございます』は『チェーズーティンバーデー』と伸ばします。友人同士なら『チェーズーベー』です。
軽い別れのあいさつ『バイバイ』は『タッター』。
英語の『サンキュー』なら『テインチュー』です。簡単でしょう。
ここで明日の日程についてお話し致します。明日のホテル出発は、午前9時30分です。出発15分前までにチェックアウトを済ませてください。明日は約5時間30分(235km)の移動です。途中バゴーという街で昼食を食べます。食後もバスに乗ってキンプン迄行き、そこから阪急交通社が特別にチャータした47人乗りの[トラックバス]に乗り買えて[ゴールデンロック]が有るチャイテーヨー山頂まで参ります。そして明日はこの山頂のチャイテーヨーのホテルに泊まります。トラックバスにはスーツケースを持ち込めませんので、一泊分の最低必要なお荷物を小さなバッグなどに詰めてお持ちください。ホテルはスカイスターホテルです。門の入り口左に24時間営業のコンビニがあります。街のコンビニと同じ値段で、何でも安く買えます」
「枕チップは幾らぐらい置けばいいのですか?」70歳の女性が聞くと 「1,000kyat(100円)で結構です」と教えてくれた。
土曜日と言うこともあって、BUSは7時30分にホテルに到着した。スーツケースはポーターがロビーまで運んでくれた。ウエルカムドリンクが出た。
「お部屋のキーをお渡しします。夕食はこのホテルの1階にあります。フロントはG階ですからこの上になります。夕食は8時からと致します。一旦お部屋に荷物を置いて、風呂のお湯が出るか等のチェックをして下さい。エレベーターはフロントカウンターの奧です。このエレベーターは、ルームキーを読み取り装置に翳してから目的階のボタンを押して下さい。スーツケースは御自分でお持ちになった方が早いです。明日の朝食は今晩食べたレストランと同じ所です。6時30分から食べられます」
説明が終わったので、スーツケースをロビーに置いたままコンビニへ向かった。70歳の女性・山中さんが付いてきた。Myanmar・500ml缶ビールが1,200tyat(120円)だったので2本買ってホテルに戻った。
8時に1階のレストランに入った。テーブルは6人が向かい合わせるようになっていた。料理は簡単な2品だけである。ヘインが飲み物の種類と値段を説明した。
「お飲み物はMyanmarビール大瓶が6,300kyat(630円)、缶ビールと生ビールは4,000kyat(400円)、コーラやジュース類は3,500kyat(350円)、珈琲は4,000kyatです」ホテル料金は高いが、私は瓶ビールを注文した。

ミャンマーの代表的なビールといえば[Myanmar]である。このビールのシンボルカラーは緑。商品名に国名を掲げているだけあってネーミングに恥じないビールで、海外でも高い評価を受けている。どこのレストランにも必ず置いてあり、さっぱりした飲み口で、クセがなく、とっても飲みやすく、ビール特有の苦さがうっすら舌の上に控えめに広がる感じである。さっぱりとは言っても日本のアサヒスーパードライよりは甘みがあり、軽くてたくさん飲めるビールという感じだ。アルコール度数は5%。ミャンマービールの歴史は1995年にタイガービールで有名なシンガポール企業との合弁で設立され、製品はヤンゴンと新首都ネピドーの中間あたりにある国内工場で生産されている。外国資本との合弁ということもあって、世界的に通用する味と製法であっという間にミャンマーを代表する銘柄に成長した。もはや地ビールの域は完全に超えたインターナショナルブランドに急成長した。
その他の銘柄としてアジア各国で広く飲まれているトラのパッケージ[Tiger]があった。超有名ビールである。アジアンビールな薄めの味で、フルーティーなところも好感度大だ。アルコール度数は5%。とりあえず安心感抜群の大御所ビールも嗜んだ。その他売れ筋のミャンマービールはアンダマン、ダゴンビール等がある。どの缶ビール(350ml)もスーパーで買うと800Kyat(80円)以下で買える。
夕食を終えても時間は9時前である。夜は長いから
「スコッチウイスキーとビールとお摘まみがありますから、私の部屋においでなさい。一緒に飲みましょう」と数人に声を掛けた。先程一緒に買い物に行った山下さんが、飛行機で買ったという焼酎と缶ビール3本と摘まみを沢山抱えてやって来た。その後20歳代の女性1人と男性が1人、50歳代の男性がやって来た。
後からドアをノックする人がいた。60歳代の男性で小笠原さんという。レストランでビールを飲んで釣り銭を受け取らずに帰ってしまった人で、私が預かっていると聞いて受け取りに来たのである。
「一緒に飲みましょう」と誘うと喜んで飲んでいった。
私の部屋はツインベッドで、椅子が3つしかない。個人タクシーをしている隣の部屋の男性岡村さんが椅子を2つ運んできてくれた。自分の部屋へコップを取りに行く人、珈琲カップでいいという人等が、自己紹介をしながら11時近く迄歓談していった。
皆さんがお帰りになった後、バスタブにお湯を張って、軽く入浴をしてミャンマー時間12時BEDに横になった。

8月17日(土曜日) 第2日目

部屋はクーラーが効いていて、酒の勢いもあって幾らか眠ったが、4時には目が覚めてしまった。テレビを点けたが、砂嵐だけがガーガーしてどのチャンネルも映らなかった。歯磨き、髭剃り、洗顔の後一泊分の荷物をリュックに詰め、レストランが開くまでの間に日記を書いてしまう。外はまだ暗い。今日から神聖な佛がらみの観光なので、妻に拵えて貰ったモンペ風・綿の長ズボンを穿いた。観光の度に素足にならなくてはならないので履き物はサンダルである。上着にはインドネシア旅行の帰りに機内で買った、超ド派手なデザインのTシャツを着た。
6時30分にレストランに向かう。既にツアーのメンバーが5人程来ていた。ヨーロッパのバイキングと違って、ハム・ソーセージ・チーズはなかった。ビーフンの野菜うどんを温めて貰い、目玉焼き、バナナを1本食べた。バスの長い移動のトイレ調整も考えて、オレンジジュースと、ちょっと心配だったが牛乳を飲んでおいた。
食後ホテルの門を出てみた。天気はまずまずの好天である。広い道路に車が行き来しているだけで、これといって見る物はなにもない。ひと気のない歩道を托鉢僧が素足で一列になって歩いていた。何やら吹いているのは来たことを知らせているのだろうか? つまらないから部屋に戻り、トイレを済ませスーツケースも纏めて、ベッドに仰向けになっていた。

9時30分ホテルを出発した。今日のBUSには若い助手が添乗していた。スーツケースはヤンゴンのホテルに預けた。先ずはゴールデンロック麓の町キンプンへ向けての移動である。1泊分の荷物をリュックに詰めて持った。
「ミンガラーバー。お早う御座います。今日は約241kmの長いバス移動です。途中ガソリンスタンドでトイレ休憩を取ります。それからバゴーという街で、昼食となります。食後はキンプンのトラックバス乗り場まで約2時間走ります。其処でトイレを済ませて下さい」ヘインの朝の挨拶があったが、運転手と助手の紹介はなかった。助手が500mlのペットボトルを座席まで持ってきてくれた。
ホテルを出発して暫くは、土曜日の朝のヤンゴン市内を走った。
[和をもって尊とし]を心がける敬虔な上部仏教徒のミャンマー人の通勤風景も、御仏の教えを実践する信頼と思いやりにあふれた場なのである。ヤンゴンを走っている車の種類を見ていて、何か変なのである。暫くして、近隣のアジア諸国と比べての決定的な違いに気付いた。インドネシアやマレーシア、ベトナムの通勤道路はバイクで溢れて渋滞しているのに対して、ヤンゴンではバイクと自転車がまったく見当たらないのである。その理由をヘインに聞くと、ヤンゴン市内は市街中心部から特に離れた2区を除く全33区中31区でバイクが禁止されているからだという。自転車も大きめの道路の通行が禁じられているため、実質、中心部を走ることができない。という訳で朝の幹線道路は路線バスとタクシーだけで埋め尽くされている。
最近では乗用車を持つ人が増えてきているが、まだまだ少数の部類で、企業によっては軽トラックの荷台を改造した従業員送迎車両を用意したり、近隣の従業員同士でタクシーに相乗りさせてタクシー代金を補助しているという。だが、やはり庶民の通勤はバスが圧倒的である。

【 何故バイクが駄目になったのか? まだ軍事政権下にあった15年前に禁止になった理由には諸説がある。
[政府高官息子のバイク事故死亡説]
「息子が死んだ原因になったバイクは禁止してしまえ!」という理由。一個人の感情で禁止されたというのも私としては、開いた口が塞がらない心境だった。
[ベトナムを反面教師にした説]
ミャンマーの政府高官がベトナムを訪問した際に現地の道路事情を見て、
「ミャンマーも今のうちに禁止しないとこうなってしまう」と危機感を覚えたからだとか。(政府高官がバイクに抜かされてムカついた)車で移動中の政府高官がバイクに抜かされて怒ったというのであるが、バイクを運転していたのはヤンゴンのブリティッシュカウンシル(イギリスの国際文化交流機関)所属のイギリス人という噂もセットになっている。
[バイクでの暗殺を恐れた説]
当時の軍事政権による圧政下では暗殺の危険性は高かったことが理由としてはあげられそうだ。
[星占い師の進言説]
ありえないと思われるかもしれないが、占いを重要視するミャンマーでは実は最も信憑性が高い説である。政府高官はみな専属占い師を抱えており、政策に関しても進言を受けているというのがもっぱらの噂なので、ヤンゴンからネーピードーへの遷都も星占いで決めたとか決めないとか? どの説が正解かは判らないが、政府高官の思いつきがきっかけになったことは確かなようである 】

《ミャンマーの車事情》
ヤンゴンは時間帯によって、激しい渋滞に遭遇する都市である。
渋滞の理由として、ここ数年で急激に車の交通量が増えたこと、道の整備が整っていないこと、路上駐車の数が非常に多いことがあげられる。他にも子供たちの学校が始まると、保護者が車で学校までの送り迎えをするので、学校付近ではいつもなら5分もあれば通れる道が1時間近くかかった。その他の理由として、ミャンマーのドライバーには譲り合いの精神がほぼ無い。これらの事から多くの場所で渋滞が発生してしまうのである。
[ナンバープレートの色について]
ミャンマーには、黒、赤、青、白、黄色の5色のナンバープレートが有る。黒ナンバーは一般車、赤ナンバーは営業目的の車輌、青は観光車輌、白が外国人車輌、黄色はお坊さん専用である。
ミャンマーの自動車販売の9割以上が日本からの輸入中古車だった時期があって、ミャンマーでは日本の中古車が目立つ。特に軍事政権後の規制緩和により、短期間で急速に日本の中古車が急増した。特に2011年に規制緩和を実施してから2016年6月末までに476,679台の個人所有車が登録され、そのうちの329,793台が中心地のヤンゴンにあるということで、ヤンゴンの渋滞が酷くなり渋滞が問題となった。
このため、2017年の1月から、中古車の輸入許可対象を2015年以降に製造された左ハンドル車に限定し、2018年からは重機を除く自動車は左ハンドルに限られ、右ハンドル車の輸入は認められなくなった。そのため、今まで日本の中古車を扱っていた企業には大ダメージとなった。この規制で今後は一部の富裕層しか車が買えないという反対意見も多く出ている。
タクシーや一般乗用車・商用車でも日本の中古車が多くを占めている。今では日本では余り見られなくなったが、日本のタクシーからの廃車を活用して、塗装は日本交通・グリーンキャブ・都市交通・日の丸自動車・チェッカー無線などなど、塗り替えないでそのままで走っている。 セドリックやクラウンはLPG仕様からディーゼルエンジン仕様へ改造して活用している。
[初乗り710円][深夜割増][自動ドア][東京ディズニーリゾート]などの表示も残されたままだった。商用車バンでもタクシーを営業でき、日産AD、カローラバンなども、[○○商事][XX工場1号車][JR東日本]等の社名や[XX学習塾][XX教習所]などを消さずにそのまま走っていた。以前は軍事国家だったことから輸入はタイ経由だったが、中古車の輸入に対して規制緩和が行われ直接ミャンマーに輸入されるようになった。但し、ミャンマーの貿易取引は全て許可制のため、輸入者は事前に現地で輸入ライセンスの取得が必要である。
市内を走る路線バスの多くが日本の中古車で、神奈川中央交通・相模鉄道・東武バスなどが、車体の色をそのままに走っている。その中でも多くを占める元・神奈川中央バスの車両は、[運賃前払い][出入口][神奈中運転士募集]などの表示がそのままであった。なお、ミャンマーでは日本と違い右側通行なので、一部を除き右側にドアを取り付ける改造がおこなわれた。
そして現在は、少しずつ新しい車の買い替えが進み、モダンな自動車が走る光景が、ヤンゴンでは急速に日常化してきた。ヤンゴンの公共バスシステム[ヤンゴン・バス・サービス(YBS)]では現在、バス4,300台が運行している車両のうち6割以上は新車に買い換えられた。
ミャンマーで自動車を購入・輸入する税金が自動車購入費用の半分を占めるほど高い。ミャンマーでは自国の自動車産業振興策として、中古車輸入緩和による国民からの支持拡大を選択するのか、逆に中古車輸入を規制し、外資の自動車メーカーを呼び込んで国内の工業化を図るのか、どちらに舵を取るかが課題になっていた。政府の新しい政策では、まず中古車輸入規制を強化し、外資のノックダウン生産を奨励、かつ部品の現地調達を促進することに舵をきった。現在、現地生産車に課せられる税金や登録料は、輸入車に比べ大幅に低く設定されている。
スズキの新車販売の好調は、これらの施策が追い風となっている。スズキが中国から撤退し、インドとミャンマーに注力する戦略を評価しており、もしトヨタが生産拠点を展開するようになれば、ミャンマーはASEANで次のタイ、インドネシアになれると期待している。経済成長を追い風に新車市場が広がっているミャンマーで、スズキの販売が急激に伸びている。今年1~6月の累計販売台数は前年の約3.3倍の約3,600台で、市場シェアの52%を占めている。
現地生産でコストを抑えているため販売価格が比較的安いことや、知名度も向上したのが好調要因で、2カ所の現地工場でフル生産しており、生産能力拡大に向けた判断を迫られている。2013年に現地生産を始めたスズキは、最大都市ヤンゴン近郊のティラワ経済特区で2カ所目となる新工場を今年1月から稼働して供給力を拡大した。販売促進活動も商業施設などで強化した。中でも30~50代の事務系会社員らをターゲットにした多目的車[エルティガ]や、セダン[シアズ]が売れている。価格は23,170,000kyat(約170万円)からと、同じクラスの輸入車より2割強安い。
ミャンマーで車のナンバーを取得するのは大変難しい。ヤンゴンナンバーの登録は、交通渋滞の緩和を目的として2016年3月25日から中止されていた。今年4月以降国内で生産された車に対して優遇措置を取り始めた。
[自動車所有権証(COE)制度]はシンガポールで実施されている制度で、政府が毎年適正な新車の登録数を設定し、入札を行って落札者に新車購入権を与えるもので、落札額は車両本体価格とほぼ同額と高額になっている。ヤンゴン管区政府はこの制度を参考に、ミャンマーに相応しい制度を模索している。
[シェゴンダイン高架橋] 渋滞対策としてミャンマー初となる高架橋の建設が開始された。シェゴンダイン高架橋は全長420m、ヤンゴン中心部のランドマークになると期待されていた。建設工事は日本のJFEエンジニアリングが2012年に受注したもので、現地スタッフと共同の工事により、2013年12月に完成し渋滞を劇的に解消した。

BUSは街を抜けて国道に入った。ヘインのガイドとしてはまあ上手な方の日本語で、ミャンマ-についての紹介があった。
「[ミャンマー連邦共和国]通称ミャンマーは、東南アジアのインドシナ半島西部にある共和制国家です。独立した1948年から1989年までの国名はビルマ連邦でした。東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟国であります。通貨はチャット、首都はネピドー(2006年まではヤンゴン)であります。南西はベンガル湾、南はアンダマン海に面しています。南東はタイ、東はラオス、北東と北は中国、北西はインド、西はバングラデシュと国境を接していて、インド東部とミャンマー南西部はベンガル湾を挟んで相対しています。
多民族国家で、人口の68%をビルマ族が占め平地に住み、他に、シャン族9%、カレン族7%、カチン族、カヤー族、ラカイン族、チン族、モン族、北東部に中国系のコーカン族などの少数民族がおり、周辺山地にそれぞれの州を形成しています。ビルマ語が公用語です。行政的には 7州 7管区に分かれ、独自の言語を持つ民族も多くいます。仏教徒が人口の 88.2%を占め、キリスト教6.2%、イスラム教4.3%、精霊崇拝0.8%、ヒンドゥー教0.5%等です。仏教は生活にも深く浸透しています。そしてミャンマーの人口の13%が僧侶で占めており、約800万人もの僧侶がいます。
教育制度は小学校5年、中学校4年、高校2年の五・四・二制で、義務教育が憲法で定められており、義務教育の小学校の授業料は無料であります。僧院での寺子屋教育が盛んで識字率は男93.7%、女86.2%(2003年)と高いです。平均寿命は男63.1歳,女67.2歳(2013年)です。
ミャンマー語を公用語として、英語も広く用いられています。一部で日本語も話されます。新聞はミャンマー語、英語が用いられ、ラジオ放送、テレビ局、通信社もありますが、メディアはいずれも国有であります。
[民族衣装]ミャンマーの観光では、独自な文化に触れることをお楽しみ下さい。ミャンマーは周辺国と比べても閉鎖的で、外国資本や海外から入って来る文化もまだまだ少ない状況です。そのため街では独特な風景や風習を見る事が出来ます。
パゴダと呼ばれる仏塔や公園、湖は家族、友人同士、カップルで訪れる人気スポットとなっています。そこに集まるミャンマー人は男女を問わず、ロンジーと呼ばれる民族衣装を着て、顔にタナカ(WiKi)を塗っています。
[ロンジー]は、ミャンマーで日常的に着られている伝統的な民族衣装で、男女ともに普段着であり正装にもなります。

《 私は15年前にスリランカ旅行中に着たことがあるので、ミャンマー観光中もロンジーに身を包めば良いのかもれしれないが、湯上がりにバスタオルを腰に巻く要領で着用しても、すぐにズレ落ちてしまうので何度も巻き直しが必要になるし、歩くのにも慣れないから不便だった 》

下半身に着用する筒状(輪状に縫った布)の衣類で、男性用のロンジーは[パソー]、女性用のロンジーは[タメイン]といいます。男性は腰に巻きつけて固定し、通性は体の正面で布をたぐり寄せ絡めて挟み込みます。女性は左右いずれかに布を寄せて結びつけます。長さは通常足首丈までで、ミャンマーの都市部ではスカート風にした丈の短いロンジーを着用する女性もいますが、そうした場合でも丈を膝より短くすることはありません。ロンジーは伝統的な上着であるエンジーと共に着られるだけでなく、女性はブラウスやTシャツ、男性はワイシャツやTシャツなどの既製服と合わせて着ています。
ミャンマーの女性は、上下の衣服の色柄の組み合わせやロンジーの丈の長短によって自分ならではの個性を表現します。生地には一般的に木綿が使われますが、式典や特別な行事では高価な絹織のロンジーを着用します。男性の場合は絹のロンジーにタイポン・エンジーと呼ばれる上着に、ガウンバウンという帽子、女性の場合は絹のロンジーと上着の上に羽織るレースのヴェールが正装です。

《 ロンジーはミャンマーでの日常生活に適した衣服と思われている。山道を登ってのパゴダの参拝、高所への移動で脚をかかげたり股を大きく開いた場合でも、布地に余裕があるから脚を簡単に隠すことができる。裾をたくし上げれば水浸しの場所でも布を汚さず、服を着たままでの水浴びにも適している。実用面以外にも伝統文化への愛着と、長らく続いた輸出入の統制が続き外国製の衣服の入手が困難だったことが、日常的に着用される理由である。ミャンマー政府は日常的に着用されるロンジーを国民が伝統文化に対して抱く敬意の象徴とした 》

学生と教師は緑のロンジーと白のエンジー、看護師は赤のロンジーと白のエンジーといったように、ロンジーとエンジーには民族、職業ごとに決められた色と模様があります。
[アチェイッ]と呼ばれる波模様はビルマ族の代表的なロンジーの柄であります。18世紀にはインドのマニプールから招いた織物職人によって、アチェイッをあしらった絹織物がマンダレーの宮廷で流行ました。緯絣(横糸のかすり)のタメインは[チェンマイ]を意味するジンメーの名前で呼ばれており、タイ族がシャン州で広めたものだといわれています。鉤、菱形、斜めに走る縞模様が緯絣で表現されている点がジンメーの特徴で、タイ、カンボジアからの影響を受けています。人気のある絵柄の一つに[キモノ]と呼ばれるものがありますが、これは東京の布団屋が在日ビルマ人の要望を受けて考案した、布団用の布地に金箔をちりばめたシングル幅の綿布であります」

ミャンマーには高速道路はないが、有料道路がある。各所に料金所があり、その区間は3車線になり舗装もしっかりしている。その有料道路区間にも藁葺き屋根や、トタン屋根の掘っ立て小屋のような民家が何やら商いをしている。沼沢に高床式の、今にも倒れそうな家がある。電気は来ているようだが、日中でも室内は真っ暗である。あんな所に住む人々のトイレとか寝る部屋はどうなっているのだろうか?
時々賑やかな街を通り抜ける。やたらと丸いテーブルと椅子を並べた食堂が目立つ。午前中に1度ガソリンスタンドでトイレタイムがあった。トイレは無料だった。其処にコンビニがあるが、買物はしないで下さいと言われた。
12時過ぎにバゴーの街に到着した。昼食はミャンマー料理だそうだが、中華料理風で、味付けは皆甘酸っぱく、とにかく油が濃くて喉を通らない。ミャンマーではココ椰子油を使用している。
此処での大瓶ビールは3,000kyat(300円)と安かった。ビールの助けを借りて、何とか野菜類を流し込んだ。デザートは丸い白っぽい物で、やはり油が強く中に砂糖の塊が入っていた。
此処より2時間近くチャイテーヨー迄トイレ休憩はないという。レストランでしっかり用を足しておいた。
食後の長時間移動中、熱心なガイドがあった。
「[ヤンゴン]は、ミャンマーの旧首都で、1989年にラングーンから改称されたヤンゴン管区の州都であり、国内最大の都市であります。2006年からは[ネピドー]が首都となっています。名前のヤンゴンは[戦いの終わり]という意味です。エーヤワディー川のデルタ地帯に位置しています。ヤンゴンは政治・経済の中心地であり、ミャンマーにおける重要な貿易品[米、チーク材、石油、綿、鉱石]の輸出拠点であります。主な産業は精米、木材加工、石油精製、鉄鋼業などです。
ヤンゴンは、6世紀に当時ビルマを支配していたモン族によって、ダゴンの名で創設されました。ダゴンはシュエダゴン・パゴダをほぼ中心とした小さな漁村でした。1755年アラウンパヤー王がダゴンを征服し、ヤンゴンと改名しダゴンの周囲に入植しました。英国は、第一次英緬戦争中に低地ヤンゴンを占領しましたが、戦後ビルマに返還しました。
1841年、街は火災で壊滅してしまいました。
[1911年のヤンゴン]英国は、1852年の第二次英緬戦争によって、ヤンゴンおよび低地ビルマ地区を占領し、その後ヤンゴンをラングーンに変更、英国領ビルマの商業的かつ政治的な中心地に変えました。軍の技師だったアレクサンダー・フレーザーの設計に基づき、英国はバズンダウン川の東側およびヤンゴン川の南側と東側に接するデルタ地帯の都市計画に基づき、新都市を建設しました。
1885年の第三次英緬戦争で英国が高地ビルマを支配下に入れた後、ラングーンは英国領ビルマの首都となりました。
1890年代までに、ヤンゴンの人口および商業活動の増加により、カンドーヂー湖とインヤー湖の北側に裕福な郊外住宅地が出現しました。
英国人はラングーン総合病院や、ラングーン大学を創設しました。植民地時代のヤンゴンは、広大な公園や湖、近代的な建物と伝統的な木造建築の融合が見られ、[東の庭園都市]と呼ばれました。20世紀の初期までに、ヤンゴンは公共サービスおよび社会的インフラで、ロンドンと肩を並べるほどになりました。
第二次世界大戦前、ヤンゴンの人口500,000人の約55%はインド人あるいは南アジア人であり、ビルマ人は総人口のわずか約1/3で、その他は、カレン族、華人、英国人とビルマ人の混血および他民族でした。
[第二次世界大戦直後のヤンゴン]第一次世界大戦後、ヤンゴンは、極左のラングーン大学生達が率いたビルマ独立運動の中心地となりました。1920、1936、1938年の大英帝国に対する3度の全国的なストライキは、すべてヤンゴンで開始されました。1942年から1945年にかけて、ヤンゴンは日本軍による占領を受け、第二次世界大戦中に甚大な被害を受けました。1948年1月4日、英国から独立を勝ち取った際に、ヤンゴンはビルマ連合の首都となったのです。
1948年のビルマ独立後すぐに、植民地時代の街路や公園などの名前の多くは、ビルマの国家主義的な名前に変更されました。
1989年、現在の軍事政権は、多くのビルマ名の英語の音訳名を変更すると同時に、街の英語名を ヤンゴン に変更しました。軍事政権の名称変更が不適切であると考えている多くのビルマ人や、BBCを含む報道局ならびに英国、米国などの国家にこの改名は受け入れられていません。 独立後、ヤンゴンは郊外に向かって拡大しました。
1950年代に政府は、タケタや北オッカラパおよび南オッカラパなどの衛星都市を建設し、1980年代には、ラインタヤ、シェピタや南ダゴンを建設しました。今日、大ヤンゴン都市圏は約600㎢もの地域に及んでいます。
孤立主義者のネ・ウィンの治世下 (1962-88) で、ヤンゴンのインフラは不十分な管理によって悪化し、増加する人口に対応できませんでした。 1990年代、現軍事政権の市場開放政策は、国内および海外の投資を引き寄せ、街のインフラの近代化が若干動き出しました。市内の居住者は新しい衛星都市に強制移住させられました。市当局は約200の植民地時代の有名な建物を市の遺産リストに登録すると同時に、多くの植民地時代の建物を、高級ホテルや官庁、ショッピングモールなどへの道を造るために取り壊わしました。主要な建設計画により、6本の新しい橋と、市と内地の工業地帯を結ぶ5本の新しい高速道路を完成させました。それでもヤンゴンの多くの地区では、24時間の電気供給や定期的なゴミの収集などの基本的な行政サービスが行われていません。
2006年、タン・シュエ率いる軍事政権により、ミャンマーの首都はネピドーに移されました。首都移転以降も、ヤンゴンはミャンマー経済の中心地としてその地位を維持しています。
[鉄道] ヤンゴン中央駅はミャンマー鉄道のメインターミナルです。総延長5,403kmにおよぶ鉄道網は上ビルマ地域(ネピドー、 マンダレー、 シーボー)、ビルマ高地(ミッチーナー)、 シャン高地(タウンヂー、ラーショー)、タニンダーリ沿岸地域(モーラミャイン、ダウェイ)を接続しています。
[ヤンゴン環状線]は総延長45.9km、39駅のコミューター・レール網であります。ヤンゴンの衛星都市群を接続しています。この交通システムは多くの市民によって愛用されており、毎日約150,000枚の切符が販売されています。2007年政府がガソリン補助金の引き下げを行うと、ヤンゴン環状線の利用率は急激に高まりました
2014年8月16日からは、かつて久留里線で使用されていた国鉄キハ38形ジーゼル車が、ヤンゴン環状線で営業運転を開始しています。ミャンマー国鉄では初となるエアコン+自動扉装備車両として、2時間に一本程度のペースで運転されています。
[河川交通] ヤンゴンの4つのフェリーは中心市街地の河岸にあり、主にダラ郡区からタンリン郡区までを運行しています。エーヤワディーデルタ地域に向けた地方フェリーも発着しています。
1990年代にヤンゴンからエーヤワディ管区に抜ける道路が完成するまで、35kmのトゥワンテ運河のフェリーがヤンゴンからエーヤワディーデルタ地域に抜ける最短ルートでした。現在もデルタ地帯へ向かう旅客フェリーは運用されています。一方で、上ビルマ地域へ向かうエーヤワディー川の航路のほとんどは、現在旅行者用のリバー・クルーズのルートになりました。
ミャンマー人は上座部仏教を厚く信仰し、仏教徒の子供は10歳前後の年齢で、たとえ短期間でも見習僧として修行生活を経験することが普通です。出家の時期については明確に何歳からという決まりはありません。その際に得度式があります。[得度]とは正しい作法を通じて、僧侶としてふさわしい姿になり、仏の教えを信じ仏の徳を見につけることです。
得度式は師匠に髪をそり落として頂き、衣、袈裟、坐具、応量器(托鉢用の壺)といった僧侶が生きるために必要最低限の物を頂き、僧侶の仲間入りをするのですが、ミャンマーの子供の得度式は大変華やかなものです。子供達は[シンラオ]というきらびやかな衣装を身につけます。男の子は純白のサテン地の上下にきらきらした帽子、女の子はピンクかオレンジの衣装になります。この服装は釈迦族の王子だったゴータマ・シッダールタ(後のブッダ)にちなんだものです。この儀式は2日に渡って行いますので、まだ小さい子供たちにとっては堅苦しいものになります。
ミャンマーの子供の出家ですが、男の子と女の子の違いがあります。
男の子は剃髪しますが、女の子は儀式を終えたというしるしに、耳に金のピアスをしてもらいます。剃髪は、まだ小さい子にとっては大変なことなので、泣いてしまう子もいます。原則として、女の子は儀式を受けるのみで出家はしません。
頭を丸めた男の子たちは裸になって水で全身を洗い、儀式用の化粧をおとして、エンジ色の僧衣を着せてもらいます。そして、僧侶の話を聞いてお経を授かり、最後に子供の親が急須に入れた水を一滴たらして2日間にわたる得度式を終えます。男の子の場合、剃髪後は僧侶として数週間か、数十日お寺に預けられますが、その後は俗世に戻ります。そのままお寺に残り、大人になるまで修行する子もいます。まだ子供である時期に短期間でも修行に耐えるのは、それだけでも偉いことです。
227に及ぶ厳しい戒律を守って僧院に起居するポンジー(僧)は民衆の尊敬を集め、托鉢僧に食物を捧げるのが民衆の毎日の生活の始まりとなっています。ヤンゴンにある、高さ99mの金色に輝く尖塔をそびえ立たせるシュエダゴン・パゴダは、仏教国ミャンマーの象徴であります。家の守護神、村の守護神に食物や花のお供えを絶やさないナッとよばれる、アミニズム崇拝も民衆の間に根強いものがあります。ビルマ人と並んでシャン人、モン人も仏教徒ですが、山地民族には自然崇拝や精霊崇拝が多いようです。キリスト教各派伝道師は布教に努力しましたが、カレン人など一部の山岳民族に入信者を得たにとどまっています。インド系住民はヒンドゥー教を守り、中国系住民は儒教、道教を心の支えとしています」
【 [ナッ]というのはミャンマーで広く信仰される土着の精霊のことである。基本的にはアニミズム的な精霊崇拝(万物に精霊が宿っているという考え方)に基づいていて、森の精や樹木の精、水の精など、名前の知られていないものも含めると、ミャンマーには数えきれないほどのナッたちが棲んでいると考えられている。自然霊のようなものから、神さまのように崇拝されているものまである。中には非業の死を遂げた人間が死後にナッになる場合もあって、この場合は非常に強力である。
これは、日本の御霊信仰(崇徳天皇や菅原道真など、死後、怨霊になって都を襲ったので、その祟りを鎮めるために御霊として祀った)に似ている。ナッは人々に不幸や病気をもたらすこともあるので、祭儀を執り行って供物を捧げて宥めている。
ナッの中でも特に有名なのはザジャー・ミーンやミーン・マハギリなどの 37人のナッの首領達である。11世紀、パガン王朝(ビルマ族最初の王朝)のアノーヤタ王が、上座部仏教を軸にした国家づくりを推し進めたときに、土着のナッ信仰が大きな障害になった。そこでアノーヤタ王はナッたちの中から特に強大なものを36人選んで、その最高位にザジャー・ミーン(帝釈天)を据えた。これが 37人のナッの首領達である。最高位に仏教の帝釈天を置くことで、ナッ信仰を仏教の中に取り込もうとしたわけである。もともと仏教も、バラモン教を排除できなかった。仏教で「~天」というのはバラモン教の神さまを仏教に取り込んだものである。こういう集団を仏教では[天部]という。帝釈天はバラモン教の神々の王であるインドラが仏教に取り込まれたもので、この天部のトップに君臨している。アノーヤタ王は、この天部の王である帝釈天をナッの王にしてしまったのである。現在のミャンマーの仏教では、ナッ信仰は公式には認められていない。それでもまだ、土着のナッ信仰は残っていて、仏教と共存している。ミャンマーの仏教寺院には、仏像と一緒になって、ナッの像が安置されている。ナッは仏を守護する存在なのである 】

「此処からはお休みタイムと致します。チャイテーヨーに近づいたらお知らせします」とマイクを置いた。
既に私以外の人は殆どの人が眠っていた。国道の両脇は行けども行けども15m程の高い木が生い茂って壁のようになっている。ヘインも鼾をかいて眠っていた。ゴムの木の林が長々と続いている。雲が垂れ込め雨が降ってきた。
「はいお疲れ様でした。間もなくキンプンに到着します。今現在のチャイテーヨーの天候は濃霧状態だそうです。この時期は雨期ですので、山頂が晴れるということは余り有りません。キンプンでバスを降り、47人乗りのトラックバスに乗り換えます。雨が降ってきましたので、合羽を持参の方は着替えてからトラックバスに乗って下さい。今着替えても結構です。合羽を持っていない人はいますか?」4人程が手を挙げた。私は素早くBUSの中で合羽を着てしまった。
「バスが到着すると合羽売りが殺到してきますが、合羽は私の方で纏めて買います。1つ1,200kyat(120円)です。手荷物は運転席に置けますから雨に濡れる心配は御座いません」
バスが到着すると出口の前に20人位の現地人が、合羽を売ろうと押し寄せてきて大騒ぎとなった。助手が纏めて買ったようだった。
雨が強く降ってきた。BUSを降り、ヘインがトラックバスの手配中にトイレを済ませておいた。


バスステーションには数台のシャトルバス(荷台を客席に改装した日本の中古車ダンプトラック)が並んでいた。木の板に厚めに布を巻き、ビニールで包んだ長イス座席である。1列に6人が座らされ7列あり42人が乗りこむ。シートベルトは付いているが結んであって使えない。その他運転席に5人乗り、定員は47人と決められている。背もたれが後部座席の手すりになっているから、なんとか体を支えることができる。トラックは人が満員になる迄出発しない。
私たち団体は阪急交通社がチャーターしたトラックバスなので、ヘインを含めて13人だけである。現在のトラックバスには全車両に屋根は取り付けられている(2年前には屋根のない車もあった)。ヘインの説明では現在トラックバスは150台あるという。トラックバスが決まり、荷台の高さの階段付きの登乗台(高さ1.7m)から跨いで椅子席に降りた。屋根は有るものの、運転席の屋根から我々の座席には覆いがない。走り出すと雨がまともに顔に降りかかってきた。合羽のフードをかぶっても容赦なく顔にぶつかってくる。
途中までは対面通行であった。道路の舗装状態が悪いうえにスピードを出すので、ちょっとした遊園地の乗り物に乗せられたような気分である。手すりに必死になって掴まっていないとお尻が宙に浮いてしまうから、周りの風景を撮るのは無理である。5kmくらい走ったあたりにトラックの中継所があった。この先の道が狭くてトラックがすれ違えないため、登り下りのトラックを無線で制御しているので10分くらい止まっていた。一般の乗り合いバスでは、バス料金をこの中継交換所で徴収していた。外国人は2,500kyat(250円)である。始発駅で徴収しないのは、この山中では途中から乗ってくる人もいないので確実に徴収できるかららしい。
ここから先の道路を出発して恐ろしくなった。急勾配で急カーブの道が5kmほど続いた。アクセルをふかして急ハンドルを切っている。かなり無茶な場所に道路が作られているため身体が左右に揺れる。雨が降り続き霧が段々濃くなって、10m先が見えない状況の中をトラックはガンガン登って行くのである。嵐の日にジェットコースターに乗っている雰囲気であった。
旅行代金の中に[保険金200円]というのがあった。ゴールデンロックの交通機関が加入している補償額は一人あたり一律1,000US$(108,000円)である。トラックバスが転倒したり、崖から落ちたらまあ一命はないだろう?
山麓駅から10kmほどのところに[ヤテタウン]バスステーションがあった。そこには現在も建設中の[ゴンドラリフト]乗り場がある。ところがその駅前には誰もおらず閑散としていた。(キンプンから先は一般車両は乗り入れできないため、タクシーでもケーブルカー乗り場まで乗り入れることはできな。結局トラックバスに乗ってくることになる)ヤテタウンでトラックを下車しケーブルカーに乗り換える人はほとんどいなかったし、悪天候の為かリフトは止まっていた。
《 ヤテタウンから標高1,100mのパゴダの山頂まで約10分間で結ぶケーブルカーの運行は、1917年12月から始まった。開発・運営を担うのは韓国とミャンマーの合弁会社スカイ・アジアである。スカイ・アジアはケーブルカー事業に2,000万米ドルを投資。韓国側が8割、ミャンマー側が2割を出資している。ケーブルカーの車両はフランスから輸入した43両を投入、1両当たり約8人を輸送できる。
運賃はミャンマー人が片道4,000kyat(400円)・往復6,000kyat(600円)で、外国人は片道7,000kyat(700円)・往復14,000kyat(1400円)、僧侶らは無料である 》

かつては専用トラックはここまでで、ここから先は徒歩で1時間の登山が必要だった。(現在は乗ったままで山頂まで行ける)最後の急坂の途中にまた交換所があった。[御布施]集めが回ってきたが、あまり寄進している人はいなかった。
ゴールデン・ロックはヤンゴンから約220Km北東にあるチャイトーのキンプンという町の山頂にある。巨大な総門がお出迎えしてくれ、この門から先がゴールデンロックである。
山頂のトラックバスステーションから、ゴールデンロックまでは歩いて700mくらいである。大した坂もないので楽に歩ける。トラックバスを降りると籐で拵えた背中に背負う大きな篭を持った荷物運びの人足が待ちかまえていた。山頂のホテルに宿泊する人が利用するくらいだろう。一人の客を四人の駕籠かきでかつぐ駕籠も、乗ってくれと付いてきた。
巨大な樹の下の参道の両側に無数のトタン屋根の土産物屋が並んでいた。車と人がひしめく活況的な町だとの説明だったが、今日はどの商店もビニールシートで被い閉まっていたし、観光客はまばらだった。
バスを降りて15分程歩いたところに、チャイティーヨー寺院の門が出迎えてくれる。門の両脇には15mもある2体の[チンテ(獅子像チンシー・ビルマ古来の神獣で一対の獅子像である。日本の狛犬と同じく、入り口で寺院の守護をする。現在のミャンマーの国章には、左右に一対の獅子像が配されていて、紙幣や貨幣などにも印刷されている)]が口を開けて座っている。巡礼者らしき人は誰も居ない。ヘインは此処でチケットを買っていた。
この先にゴールデン・ロックがある。この手前に今晩宿泊する チャイトー・ホテルがあった。午後4時に着いた。ロビーでルームキーを受け取り、荷物を置いて、雨合羽を着て、カメラはビニール袋に包んで4時30分からゴールデンロック目指して出発した。ホテルから2分の所に門があった。
門の前には赤い看板が立ててある。セキュリティ用の枠(ゲート)をくぐったが、こんなんで危険物のチェックなのだろうか首を傾げてしまった。ここから先は土足禁止で、靴と靴下を脱いで裸足になる。敬虔な仏教徒の国ミャンマーでは、寺院などに入るときは素足でなければならない。私は阪急交通社の旅行ガイドから情報を得ているから、裸足のサンダル履きで観光している。サンダルをビニール袋に入れて歩くのは写真を撮るのに邪魔であるから、1,000kyat(100円)払って、下駄箱にサンダルを預けた。
視界5mまさに雲の中である。ゴールデンロックを見に来たのに、晴れ男の私の旅では最悪のコンディションである。なにも見えないがヘインが翳す小旗の後に付いていった。

 

[チャイティーヨー・パゴダ(ゴールデン・パゴダ)]は、ミャンマーのモン州にあるパゴダ(仏塔)である。パヤ-(日本ではミャンマー様式の仏塔を意味している)の中にはブッダの毛髪が2本入っている。日本の仏塔と同様[仏舎利(釈迦仏の遺骨等)]または[法舎利(仏舎利の代用としての経文)]を安置するための施設である。
ミャンマーの人々にとって、パゴダは釈迦がお亡くなりになって以来、釈迦に代わるものであり[釈迦の住む家]なのである。従ってパゴダを建てることは、ミャンマーでは[人生最大の功徳]であり、そうすることにより幸福な輪廻転生が得られると信じている。
どうやって作ったのか? チャイティーヨー山の頂上にこの岩とパゴダがある。ただの石ではなく、ゴールデンロックは落ちそうで落ちない状態でずっと存在し、とても不思議な光景となっている。楕円形の巨礫(花崗岩)の頂上に、高さ7.3mの金色のパゴダが乗せてある。
巨礫は巡礼者の寄付によって貼り付けられた金箔に覆われて輝いている。伝説によると(不確かではあるが)、ゴールデン・ロックは仏陀の遺髪の上に載せられているという。
《お釈迦様の髪の毛が岩に入ってるから、押しても落ちない》と信じられているが、絶妙なバランスを保っていると言うよりは、ほぼ“浮いている”状態に見える。(仏教の熱心なミャンマー人によると30年ほど前までこの岩は浮いていた。が、人間の邪念が多くなってきた為に現在の位置まで下りてきたのだとか?)仏教徒の巡礼地として知られている。
岩は、恒久的に、今まさに丘を転がり落ちそうな状態に見える。地球との間に働く万有引力と、地球の自転による遠心力との合力を見せ付けているかのようである。近くで見ると少ししか接点がなく、なぜ落ちないか不思議である。ゴールデンロックはミャンマーの人にとって神聖なものであり、まさしく[聖地]なのである。それと同時に[一生に一度は訪れたい場所]として憧れの対象となっている。
岩の表面に貼られている金箔は、買うことが出来て(1,800kyat〈180円〉、4×4cmの金箔が5枚入っている)仏像に貼るように、ここでは男性に限り、その金箔を奇岩に貼ってお祈りをするのである。信仰上の理由から女性は奇岩に手を触れることが許されず、3m以内に近づくこともできない。オフリミットの女性達は、岩の横に設けられた柵越しの区画で、岩に祈りを捧げる。金箔を貼ることが許されるのは男性だけなので、女性は男性に頼んで金箔を貼ってもらう。奇岩の脇には鉄の格子柵付きの横幅2mの歩道橋が設置されている。この歩道橋から金箔を貼るのだというが、今日は我々のツアー客以外は、土産物売りの数人しか見当たらない。金箔を貼っている人は居なかった。

【 金箔は、金を微量の銀や銅とともに金槌で叩いてごく薄く延ばし、箔状態にしたものである。紀元前1200年頃に古代エジプトで製造が始まっている。現在は真鍮からなる[洋金箔]も普及している。本来の意味での金箔は[純金箔]として区別されていたが、純金の表示が純金のみで製造されていると誤解を受けるため、金のみで作られたものを《純金箔》、銀および銅を合金しているものを《金箔》としている 】
ヘインの説明では、乾期なら此処は信者でごった返しており、金箔を貼るのに行列が出来るそうだ。だが今日は誰一人金箔を貼る人はいないし、金箔を売る寺務所も閉まっていた。
上座部仏教ではブッダは金のイメージがあり、東南アジアでは多くの仏像が金色である。仏像などに金箔を貼る行為は徳を積むことにあたり、お布施のような意味合いがある。(直接金箔を貼ることが難しい岩の裏側や上の部分などは、数年に一度竹の足場を組んで貼り直しが行われる)
上座部仏教が信仰されているミャンマーは大乗仏教の戒律が厳しく、修行のために結界を張ることがしばしばある。裸足だと、天気の良い日は黒い石を踏むと火傷しそうなほど熱いという。


ミャンマーではヤンゴンのシュエダゴン・パゴダ、マンダレーのマハムニダ・パゴダ に次ぎ、ゴールデン・ロックは三番目に重要な巡礼地である。この[摩訶不思議なバランス]を一目見ることで、多くの人々に仏教へ帰依するための霊感を与えている。
時たま霧が薄れ、写真に撮れる程になったが、すぐまた霞んでしまう。
ゴールデンロックの下にも通路があって、そこから崖下を覗いたらゴミが沢山散乱していた。聖地なのだから、掃除ぐらいすればいいのにと興醒めした。下の通路から巨岩を見上げると、今にも落ちてきそうで、押しつぶされそうで、ちょぴり怖くなった。横から見ると隙間が見えて、ほんの少し浮いているように見えた。実際には半分以上岩に乗っているので、見た目程落ちる心配はない。ゴールデンロックを時計回りで一周した。こんなにゆっくりゴールデンロックを鑑賞できるなんて、(雨が降っていても)贅沢な独占観光だったと言える。
ヘインの説明を聞く
「伝説によれば、お釈迦様の〈髪の毛〉を2本隠し持っていた高僧(お釈迦様の弟子)に、王様が『聖髪を譲ってほしい』と懇願したところ、高僧は『自分の頭と同じ形の岩を探せれば渡します』と答えました。王様は帝釈天(仏教を守護する善神の一つで、釈提桓因〈しゃくだいかんいん〉ともいう。もとはヒンドゥー教の神で,雷神・武神であった。仏教に入って釈迦の成道をたすけ,仏法の守護にあたる神となった)の力を借りて、海中にあった岩を見繕って数十個、山頂まで念力で運び上げました。高僧が一番気に入った岩が現在のゴールデンロックです。王様は僧から聖髪を譲り受けて岩の上に仏塔を祀りました。お釈迦様の霊力で岩は浮いて落ちませんでした。 山頂のあちこちにある大きな岩は、高僧が首を縦に振らなかった岩の残存です」


《 帰りの乗り合いトラックは夜遅くまで走っていない。今の時期の最終便は午後6時である。最終便を逃すと歩いて帰るか、山頂で1泊することになる。山頂に一泊する場合は、野宿かホテルに泊まることになる。乾期では沢山のミャンマー人達が、野宿の支度をしてこの広場の硬い床の上で寝るのである。治安的には問題無いが、一番の問題は寒さである。季節にもよると思うが、海抜1,100mの朝晩はとても冷え込むから、野宿をするミャンマー人達は寝袋や毛布などをしっかりと準備して来るそうである。ホテルは山頂にいくつかあるが、ミャンマー人には高くて泊まれない 》

ゆっくり1時間かけてゴールデンロックを一回りしてきた。ホテルの道路向こうがホテル営業のレストランである。午後6時から夕食となった。此処は聖地なので、アルコールは一切禁止だそうであるが、特別このレストランに限り飲めるという。一応バイキングだが、6品目ぐらいしか食べ物はなかった。大瓶ビールは4,000kyat(400円)だった。この近辺ではアルコール類は売っていないが、翌朝のレストラン(隣)でなら、ウイスキーでもブランデーでも飲めるという案内だった。山の中で何にもないから、
「私の部屋へいらっしゃい。ウイスキーがありますよ」と数人に声を掛けたら、山下さんを初めとする初日のメンバー2人と、千葉君という若い男性が来て、10時30分迄歓談した。

 8月18日(日曜日) 第3日

6時30分にレストランに向かう。このレストランの窓から日の出が拝めるとの案内だったが、山頂はスッポリ雲に包まれて、小雨も降っている。視界は10m程である。ホテルを出ると、托鉢僧が裸足で一列に並んで立っていた。昨日閉まっていた商店は店を開いていたが、誰がお坊さんに食べ物を渡してくれるのか? これが修行なのだろうか訝しく思った。土産物売りが、たった道路を横断するだけなのに群がってきた。 食堂にはお粗末な食べ物が数品並べられていた。幸いお粥があったので、しょっぱいゆで卵で2杯だけ食べておいた。山頂だけに牛乳はなかった。
チャカッワイン僧院でお坊さんの食事風景を見学する関係で7時30分ホテル出発である。ホテルの他の団体がスーツケースをロビーに並べてチェックしていた。こんなに沢山の人達がこのホテルに泊まっていたとは知らなかった。慌ただしく部屋を出てきたから、ヘインに言われるまで気付かなかったのだが、部屋のサンダルを履いて出てきてしまったのである。夜中に何度もトイレに行った。小さい方のシャワーの栓が完全に閉まっていなかったようで、トイレは水浸しになってしまっていた。シャワーの栓をきっちり止めて、夜中にトイレの洪水を掃除して、ホテルの部屋にあったサンダルに履き替えたのである。色違いの同じようなサンダルだったからだが、おちょこちょいぶりを笑われてしまった。
合羽を着て、ホテルからトラックバス乗り場まで歩いた。昨日見た籐篭にスーツケースを4つも乗せて歩いているポーターが何人もいた。たった400m位の距離なのに、駕篭に乗っている人もいた。駕篭に乗る方が辛いのではないか? と思うのだが、駕篭かき人夫の稼ぎ時である。
トラックバスが決まると出発である。昨日前の方に乗って懲りたから、今日は後ろの席に座った。登ってくる車は少ないのに、何度も対向車待ちをしていた。相変わらず視界は10m位の中を、昨日登ってきた急カーブな急坂を、かなりのスピードで下って行く。座席の高さから道路を見降ろすと、谷底へ突っ込んでいくようで、パイプを握る手に力が入り、足を踏ん張っていた。怖いから道路は見ないようにした。トラックバスは街中の道路上で泊まった。おぼつかない乗降台の手摺りをしっかり持って道路に降りた。我々のバスが待っていた。
「ミンガラバー。ミャンマーは雨期ですから、一日中晴れの日は御座いません。ここからバゴー迄(約120km・2時間)の移動となります。バゴーのチャカッワイン僧院までトイレ休憩はなしで参りますが、大丈夫ですか?」暫く走ってからガイドが始まった。
「バゴーは、最大都市ヤンゴンからほど近いバゴー地方域の州都であります。人口は284,179(都市部規模としては東京都の墨田区と同じくらい)人で、ヤンゴンから北東におよそ80kmのところにあります。白鳥が住むという伝承から[白鳥の町]を意味する名前が付けられました。
宗教文化都市バゴーは、573年に二人のモン族の王子によって造られました。9世紀のタトゥン王国の時代に、この町でタトゥンの王子がインドの軍隊に勝利した伝説が残り、町は王子の事績を記念してUpay(機知によって)kū(打ち破る)と命名されました。
1550年ビルマ族のタウングー王朝によりバゴーは首都となり、1630年に首都はアヴィに遷都され、その後バゴーはモン族の首都に変わりました。
バゴーはその昔、ペグーという王朝の首都でした。ペグー朝は13世紀に誕生したモン族の国で、16世紀にビルマ族のコンバウン朝に滅ぼされるまで、300年近くに渡って栄えた国であります。そして当時のバゴーは[ハンタワディー]という名前でした。大航海時代以降に町の名前はポルトガルを通してイギリスに伝わり、後のイギリス統治下にペグーと呼ばれるようになり、1991年に軍事政権によってペグーからバゴーに改名されたのです。
バゴーはミャンマーで一番といっても過言ではないほど観光名所が豊富で、その巨大な寝仏やパゴダの数々は国内外の巡礼者や観光客にとっての聖地になっています。バゴーの街並みはバゴー駅を境に東が繁華街、西が観光エリアとはっきり東西にで別れています。
[チャカッワイン僧院]はミャンマー南部の古都・バゴーにある屈指の僧院であります。市街中心部を流れるバゴー川沿いにあり1864年に創設されました。ミャンマーでは第2都市マンダレー・アマラプラにある[マハーガンダヨン僧院(1500人)]に次ぐ、1,000人近くの僧侶たちが修行している大規模な僧院であります。
国内には小さな仏教僧院は数多くありますがこのような規模のものは少なく、屈指の僧院といえます。この僧院では僧侶たちの日常生活風景を見学することができ、バゴー観光には必ず組み込まれる見どころとなっています。5時30分からと、10時30分から始まる僧侶の食事風景を見学します。お坊さんの食事の制限は厳しく、早朝と正午前の2回だけで、正午以降は翌朝まで一切食べることは許されません。僧侶たちは托鉢から戻ってきた後1~2時間を自由に過ごします」

午前10時にチャカッワイン僧院に着いた。お坊さんの食事時間までは大分時間があった。坊さんが歩いてくる廊下はかなり長く広く、120mくらいの廊下を2度曲がり食堂に辿り着く。
集合場所を決め、自由行動となった。
大鍋で焚いた御飯が炊きあがると、担当のお坊さんが、縦に吊した赤い丸太を木槌でつついて合図する。と、何故か数十匹の犬が吠え始めた。

10分程して銅鑼を鳴らすと、僧侶達は10時30分頃に宿舎から出て、一列で廊下に並び食堂へ向かう。沢山の(300人以上か?)僧侶が食堂までの長い通路を進んでゆく。

 

 銘々が蓋付きの丸い鉢を右肩から下げ右手で押さえている。通路の両脇には地元信者や、写真を撮ろうとする外国人でごった返している。先頭を歩く僧侶は位が高いのか、信者達はアイドルに駆け寄るように近づき、捧げ物や御布施を渡そうとする。僧侶が気に入った金額だと鉢の蓋を持ち上げて受け入れ、無表情で先へ進むのである。長い列が延々と続き、子供の坊さんの列になる。食堂の入り口手前の両側に、直径1.5m・深さ1.5m程の金属の容器があり、その中に炊きたての御飯が入っている。信者が金属の皿に御飯を山盛りに盛って僧侶に手渡している。鉢の中に御飯を空ける僧、皿ごと受け取る僧等様々である。子供の坊さんにはコンビニで売っているような菓子類と、少額の紙幣が寄進される。


食堂(ホール)には僧院で調理したおかずが、6人が座る丸い卓袱台に並べてある(食事の準備をする担当の僧侶は毎日交代で決められている。寄進者がある日は、托鉢の時間は勉強の為に使われる)。
全員が座ると大きなホールで300人? が一斉の食事となる。食べる前に全員の僧が一斉にお題目を唱え始めた。大音声である。
それぞれの僧達が様々な家庭から托鉢して食べ物を貰って来るので、おかずの種類は雑多となる。そのおかずは肉、魚、野菜サラダ等で、そのおかずとご飯が皆の昼食になるので、変な味のおかずになるのではと思われるが、その味こそがミャンマーの僧院ならではの美味しいおかずなのだそうである。最近では修行と勉学に時間を使う為、街へ出ての托鉢は行われないとヘインは言う。
その様子は見ごたえたっぷりとの触れ込みだが、お坊さんが大人数で御飯を食べているのを見学するだけのことである。午後からなら僧侶が経典を読み、真摯に修行に励む光景を見学することができる。仏教国ミャンマーならではの観光スポットとなっている。

この僧院は100年以上の歴史があり、全国にその名が知られている。 100年前と比べ、寄進者による建物の数も多くなり、僧侶たちの修行生活の設備も徐々に増えている。僧侶たちの仏教検定国家試験などもこの僧院で実施されていて、バゴー管区の僧侶たちにとっての仏教大学である。

僧院の境内に[アウン・サン将軍(オンサンAung San、1915年2月13日- 1947年7月19日)]は、ビルマの独立運動家。〈ビルマ建国の父〉として死後も敬愛されている。

ミャンマー民主化運動を指導し、現在は国家顧問として実質的な国家指導者の地位にあるアウン・サン・スーチーは長女である)の騎馬像があった。銅像に着色した造り?のように見えた。
《 太平洋戦争開戦後の1941年12月16日に、アウン・サンと同志たちは南機関の支援を得てバンコクにビルマ独立義勇軍を創設した。日本軍と共に戦い、1942年3月にラングーンを陥落、1942年7月ビルマからイギリス軍を駆逐することに成功し、ビルマ独立義勇軍をビルマ防衛軍に改組している。南機関はバー・モウを中央行政府長官に据えビルマに軍政を敷き、鈴木大佐は離任した。1943年3月にはアウン・サンは日本に招かれ、わずか28歳の若きリーダーと称えられ旭日章を受章し、同年8月1日にバー・モウを首相とするビルマ国が誕生すると国防相になった。ビルマ防衛軍はビルマ国民軍に改組された。この時期には、『面田紋次』という日本名を名乗っていた。この頃、アウン・サンはビルマ国民軍への日本の待遇のあり方やビルマの独立国としての地位に懐疑的になり、その後インパール作戦の失敗など日本の敗色濃厚とみるや、イギリスにつく事を決意した。すでに1943年11月にはイギリス軍に[寝返りを考えている]と信書を送り、1944年8月1日、独立一周年の演説でビルマの独立はまやかしだと発言。8月後半にはビルマ共産党、人民革命党と提携して〈反ファシスト組織〉の軍事的リーダーとなりひそかに組織を広げていった。
1945年3月、北部でビルマ国軍の一部が日本軍に対し決起した。3月下旬に至り、反乱軍に対抗するためとの名目で、アウン・サンはビルマ国軍をラングーンに集めた。そして3月27日、日本軍に対して銃口を開いた。反ファシスト組織に属する他の勢力も一斉に蜂起し、連合国に呼応した抗日運動が開始され、5月にはラングーンを回復している。6月15日には対日勝利を宣言。反ファシスト組織は拡大し、[反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)]と改称された。連合国軍は戦後のビルマ独立を認めるつもりは無かったが日本軍を崩壊させるために利用価値があると判断し、各種の援助を行った。
1945年5月、アウン・サンは連合国軍のルイス・マウントバッテン司令官と会談し、ビルマ国軍が[ビルマ愛国軍]と改称した上で、連合国軍の指揮下に入ることで合意した。(中略)1947年7月19日、翌1948年1月4日のビルマ独立を見ることなく(親日家のウー・ソオが自分の野心のために)6人の閣僚とともに暗殺された 》
アウンサン将軍の騎馬像は日本の軍服を着て馬が左足を上げている。 騎馬像について説明します。とヘインが話し出した。
「騎馬像の足の形は馬上の人がどんな亡くなり方をしたかを示しています。馬が両足を上げていれば、騎乗者は戦死です。片足の場合は銃殺死です。4つの足がついていれば自然死を表わしています。これは国際的共通ごとです」これは、初めて聞いた話だった。

チャカッワイン僧院の近く所にあるレストランで昼食となった。南国の天気は変化が激しく、レストランに入る時は青空が見えていた。例によってヘインが飲み物の注文を取った。幾分喉が渇いていたので私は瓶ビール4,2000kyat(420円)を飲んだ。
前菜なのか、擂り鉢状の容器に米粉を平に伸ばして油で揚げた煎餅みたいな物がテーブルに乗っていた。私は一口口にして、余りにも強烈な塩の油味なので、直ぐ食べるのを止めたが、皆さんはビールの摘まみに丁度いい、美味い美味いとあらまし食べてしまった。ミャンマー料理とかいうのが数品でて、最後に寒気がする程の甘い油餅のような物が出た。
トイレを済ませてBUSに乗り込んだら、一番最後に20歳代の女性が真っ青というか、蒼白な顔をして乗ってきた。食当たりしたのか、気持ちが悪くなったという。
「大丈夫ですか? 吐いたのですか?」と皆が声を掛けていた。
「吐きませんでした。御心配掛けて済みません。大丈夫です」

シュエモートパゴダを訪れた。

食事中に降り出したスコールはシュエモートパゴダに着いても、幾分小降りになったが止まなかった。合羽を着て、カメラを包み込み、バス備え付けの傘を差しての観光となった。具合の悪くなった女性も付いてきていた。
[シュエモートパゴダ]はヤンゴンのシェエダゴンパゴダ、ピィのシュエサンドーパゴダと並ぶミャンマー三大パゴダの一つである。バゴー市内の地図を見ると、正方形の堀に囲まれた城塞都市のような地割りがあり、パゴダはその中にある。バゴーのシンボル的存在のシュエモードパゴダは高さが114mありミュンマーで一番高く、バゴーで最大の黄金色仏塔である。(ヤンゴンのシュエダゴンパゴダより20mほど高い)
シュエモード・パゴダは、[黄金の神]という意味である。いい伝えによると982年と1385年仏塔内部には、仏舎利(仏陀の歯)、寄進者たちの宝石が納めら晴れた日のパゴダれ、現在ではミャンマーで最も神聖な場所の一つとされている。
この仏塔は1200年以前、8~9世紀頃、仏陀の2本の聖髪を奉るために、モン族の人々によって高さ23mの塔を建てたのが起源である。825年に25m、1385年に84m、1796年に91mと伸びたが、1931年に立て続けに地震の被害を受け、1917年の地震が発生した際に、この崩落した仏塔の先端部分が残ったのは、仏陀の聖髪と仏舎利のおかげであるとして信じられた。1954年に再建された。
建立から1000年以上の歳月が経過していると推定されている。その後は、いく度かの改築による改築を重ねていくうち114mになった。
被害を受けた1931年の地震では塔が崩れるなどの被害が大きく、ミャンマーの人々の基金やお布施によって、第二次世界大戦後の1954年に現在の高さのパゴダが再建された。ミャンマーの仏教建築は、レンガ造りが基本である。レンガ造りは、ローマ帝国時代の石造建築や、日本の飛鳥・奈良時代の木造建築に較べて風化が激しく、また地震や戦乱により破壊されることも多かったため、度々修復されている。見た目には創建当時と同じ形状でも、実態は新しいパゴダであることが多い。古い建造物である筈のものを、真新しくピカピカに光らせてしまうのである。

【 ミャンマーの仏教建造物の保存・修復の概念は、日本とは違うようである。由緒あるパゴダや寺院は、歴代の王が次々と既存パゴダを建て替え、さらに大きいパゴダとし、新しいパゴダも追加した。
パゴダや寺院が古くなって傷んできたら、新しく造り変えるか大幅に修復する。建て替えにより、形状が以前と異なっても余り頓着しない。汚れたり傷んだものを綺麗に修復することが功徳になると信じられている。汚れた壁画の上に、新しく綺麗なコンクリートを塗り、金箔が剥げてきたら新しく張り替える。原点があるから、造り変えても古いことには変わりなく、建築・修復の最大の目的は功徳なのである 】

ユネスコの世界遺産の方針は、遺跡はできるだけ原点のまま保存するのが原則である。日本でも寺院などの世界遺産の修復は、執拗なまでの調査・研究により、古来の姿のままで修復されている。今回観光旅行した全ての古都の仏教建築群は、世界遺産の価値が十分あると思うが、世界遺産に登録されたものはなかった。

山門が見えてきた。

ミャンマーの山門は大きくなると、車が双方向で通行できるように真ん中に柱が立ち2間にしてある。山門をくぐると、右側はバスターミナル、左側には本坊と思われる建物が見える。
入り口の獅子像チンシー は巨大だ、3階建てのビルくらいの高さがある。この時も視界が15m程の靄の中で、写真に修めることが出来なかった。回廊の入口で、放鳥屋? のおばさんが声をかけてきた。鳥カゴの中にはキンパラというきれいな小鳥(文鳥に似ている)が詰め込まれ、しきりに囀っている。この鳥を買って放してあげると、功徳を積むことになるという。ヘインの話では、鳥は訓練されていて、放された後このおばさんの家に戻るので、何度でも使えるのだとか? 極楽浄土へでも行くつもりで放鳥してみた。500kyat(50円)だった。おばさんがそっと小鳥を握らせてくれる。鳥も馴れていてあまり暴れない。手のひらを広げると、すぐに飛んでいってしまった。
シュエモートパゴダには、東西南北に4つの門がある。

我々は北口から入場した。外国人専用の入り口なのか、300kyat(30円)払うことでサンダルを下駄箱に入れることが出来た。50mもある回廊の柱には金箔が施してある。天井も高く寺院とは思えない豪華さであった。
境内はとても広く、数多くの小さなパゴダや八曜日仏などが建ち並んでいる。パゴダの北東の一角には地震で崩落したパゴダの先端部分が、そのままの状態で保存されていた。
(このパゴダは、何度も地震で被害を受ており、1917年のマグニチュード7以上の地震でパゴダの上部が壊れ崩れたことがあった。仏塔の中はレンガとコンクリートを詰め込んで造られているので、とても危険極まりなかったのだが、壊れた上部は下まで落ちずにパゴダのテラスの上に止まったのである。

現地の人達は仏舎利と聖髪のおかげで下まで落ちなかったと信じた。そのため、今でもそのままの状態で保存されている)
その壊れた仏塔の、後ろの寺院の大広間(教場)で中学生ぐらいの尼僧学生が試験中だという。お嬢さん座りで、横長の和机で真剣に試験と取り組んでいた。

全員が剃髪し、ピンクの僧衣を着て茶色のサロンを肩に巻いていた。目を見張るような可愛らしい尼僧の卵達だった。大広間は教場になっているらしく、2m程の階段を上がったところである。そっと上がって、写真を撮らせて頂いた。

《 ミャンマーでは、男女の権利が非常に不平等である。出家・修行の面も男女で異なる。男性は何度も出家と還俗を繰り返せるが、女性の尼僧は還俗は許されず、一生仏灯と共に生きる。か、もう一つは、一度だけ還俗のチャンスがあるということである。一生尼になるか、還俗すれば二度と仏道に入ることはできない。どちらにしても、男性と比べて女性の地位は非常に低い。しかし、僧侶が着る茶色の僧服より、尼の服装はとても鮮やかである。ピンクの上着にだいだい色のサロンを合わせ、肩にかけた赤い布は、何処にいてもとても目立つ。ミャンマーの尼は非常に清貧な生活をし、托鉢により自分で布施を請うほか、どんな力仕事も自分でやらなければならない 》
時計回りで大パゴダを歩き始めた。

暫く歩いたら、昼食の時に飲んだビールと雨水の中を裸足で歩いたせいか、オシッコが我慢できなくなってしまった。ヘインにトイレの場所を聞き、待ち合わせ場所を確認し私だけ直行した。説明は聞きそびれたが、待ち合わせの場所に戻ってくると、別の教場にも尼僧の卵が沢山集まっていた。試験を終えた子尼僧達が一列になって歩いて行った。

この寺院は尼僧の学校になっているのかヘインに聞くことができなかった。
シュエモートパゴダは高い丘の上に建てられているので、どこからでもよく見え、夜になるとライトアップもされる。この境内には、100年以上の寿命を持つ大きな、釈迦が悟りを開いた時の菩提樹の子孫の木なども多く、静かでゆっくりお祈りできるので、時間を問わず参詣者が訪れる。
日本人が寄付した、サイズが日本の大仏より少し小さめの[鎌倉大仏]が安置されていた。
この街にはいくつかの仏像、塔があるが、町のどこからでもシュエモートパゴーダを見ることができる。雨でなかったら、黄金の眩いパゴダが見られたろうに、雨期に来た私が粗忽だったから仕方がない。

次ぎに向かったのはシュエターリャウン寝釈迦のお堂である。雨が降りだしたので、BUSに備え付けのワンタッチ傘を借りた。
[シュエターリャウン寝釈迦]はミャンマー南部の古都バゴー市街西部にある仏教寺院にある。

994年モン族のミガディパ王により建立された。山門はアーチにライオンの人形が載った、遊園地のような入口である。寝釈迦は大仏殿に収まっており、一対の獅子像チンシーを左右にひかえた層塔様式の山門が入口になっている。
山門から先は両側に仲見世が続く。仏像や佛具などを販売する店が多く目立つ。仏像は全般的に高い。値切ってもあまり安くならなかった。こうした商品は観光客価格なのだろう。日曜品の店まであった。
階段手前の注意書き(A3写真4枚に×印)には、靴禁止、靴下禁止、ミニスカート禁止、半ズボン禁止の4点が貼ってある。
入口を入った幅広い参道部分から階段そして寝仏像が安置される広場まで全体が、高い天井屋根に広く覆われていることで、水浸しの境内の大理石の上を歩く苦行からは免れた。

大仏殿は鉄骨トラス構造で、寺院建築というよりは、巨大な工場か駅舎を思わせる造りである。体育館のような建物(お堂?)の中に入ると、入り口から寝仏の一部が見える。すごくデカイ。階段の手すりは、毒々しい濃い緑色のヘビの造形で、うろこがガラス・貝殻・石などをちりばめたモザイクミラーで装飾されていた。
この階段を登ると寝釈迦様とご対面である。全長55mの金色の僧衣を着た巨大な寝仏が、御堂の中に横たわっている。これが、シュエターリャウンの寝釈迦である。すなわち屋内50mプールより大きな建物に入っているのだから、その大きさに唖然となってしまう。
この寝仏の高さは16m、顔の大きさが6.86m、目の幅1.14m、口2.3mという巨大なものだが、肌は白く塗られ、仏様らしく柔和なお顔をなさっておいでである。大きな手の爪には金色のマニュキアが塗ってある。
開いた目がくっきりと描かれた笑顔は独特なお顔で、肌が真っ白なのはミャンマー仏の特徴である。日本で寝釈迦というと涅槃仏(亡くなった姿)だが、ミャンマーの寝仏は、南枕で横になって教えを説いている姿であるゆえ、目を開いているのである。

【 寝仏(涅槃仏)には目を閉じているものと開いているものがあるが、目を閉じているのはすでに入滅したお姿、開いているのは最後の説法をしているお姿である 】

正面にはお祈りするスペースがあって花が飾ってありお賽銭箱があった。賽銭箱にお札を入れる際に、入り口が小さくてうまく入らいない時のために、お札を押し込む木の棒が置いてあるのが面白かった。
仏陀の前の大広間には絨毯が敷いてあるので心置きなく礼拝できる。
礼拝の方法は、お顔の前で手を合わせてから伏すという所作を3回繰り返せばよい。伏したとき、ひたい、手のひら、ひじ、ひざ、つまさきの5箇所が地に着くようにする。五体投地の簡略である。男性は正座、女性は両足を斜めに揃えて座る。
仏陀は宝箱のごとき箱まくらでお休みなされている。その周りには寄進した人々の名前が金属プレートで掲示されている。日本人の名前も幾つかあった。150ドルの寄進でけっこう大きく貼り出して貰える。
背面の台座に寝仏建立の経緯が描かれていて、簡単な英語の訳文もついている。

『13世紀にミガディパという王がいて、邪教を信仰していた。あるとき、王子を狩に行かせたところ、森で美しい女性と出会い連れ帰って結婚することになった。しかし妃は王の信仰する神像を拝まず、仏陀の像ばかりを拝むので、王は妃を邪神へのいけにえとして殺させようとした。そのとき、妃は3つの宝石を持って邪神像が粉々になってしまうように願うと、まさにその通りになった。それを見た王は怖くなって、仏教を信奉するようになり、紀元994年にこの寝釈迦を作らせたという』
バゴー王朝の滅亡と共にいつしかジャングルに覆われてしまい、その存在も忘れられていた。しかしイギリスの植民地時代の1880年、鉄道建設のために訪れたインド人技術者によって、森に埋もれていた寝釈迦が偶然発見されたという、とてもドラマチックな歴史を持った寝仏である。因みに、映画[ビルマの竪琴]で主人公の水島上等兵が隠れていたのはこの寝仏像である。映画では屋根はなく、お顔の肌ははげ落ちていた。今のお姿は後世現代風に美しく整形、彩色したものである。逆にそれが世界遺産になれない一因なのだとか?
足も同じく巨大で爪には金色のペディキュア、足裏の長さは7.77mあり、仏の持つ三十二の優れた特徴の一つである千輻輪相が、螺鈿(らでん)やモザイクで見事に表されている。仏陀には[三十二相]といって、常人とは異なる身体的な特徴があるとされている。足でいえば、土踏まずがないこと、足の裏に模様があること、扁平であることなどである。

特に足の裏の[千輻輪]という模様は特異で、指紋のような丸い模様だけでなく、将棋盤みたいな格子模様のなかに細かいアイコンが並んでいる。この足跡をかたどったものが仏足石である。(寝仏の足の裏には108の煩悩や宇宙観を示す文様が描かれていると言われている)
寝仏の足裏は普通左右並んだ形であるが、シュエターリャウン寝仏は右足裏が殆ど上を向いた珍しい形をしている。涅槃仏の多くは、足の裏が揃っていて、しかも足の指の長さも10本とも同じでまっすぐに並んでいるものが多いが、この仏陀は足の指は比較的普通の形状で、しかも両足の面が揃っていない。休憩している寝釈迦の特徴なのだろうか?
「寝仏が生きているかお亡くなりになっているかは、足の裏を見れば判ります。お亡くなりになった仏陀の足裏には千福輪は御座いません」とヘインが付け足していた。

【 仏像には立っている姿の立像、座っている姿の坐像、寝ている姿の涅槃像がある。立像は修行中でまだ悟りを開く前のお姿、坐像は修行して悟りをまさに開こうとしているか又は開いた直後のお姿、涅槃像はすべての教えを説き終えて入滅せんとするお姿である 】

バゴー観光を終えてヤンゴン(90km・約2時間30分)へ向けての移動である。今回のツアーの添乗員ヘインも敬虔な仏教徒である。(でも昨晩は山下さんに勧められてビールを飲んでいた)長い移動時間中にミャンマー人の宗教についての話を始めた。昼食の後だし、適当に歩いたからお昼寝タイムには丁度良い寝物語だった。
「ミャンマーは人口の90%が仏教徒です。僧侶が街を歩く姿などを沢山見かけたと思いますが、ミャンマーの人口の13%(約800万人)が僧侶という国です。ミャンマ-の仏教は[大乗仏教]とは違い、[上座部仏教(小乗仏教)]です。日本や中国などで信仰されている仏教とは違うものです。大乗・小乗の[乗]とは乗り物を指します。大乗仏教は乗り物が大きく、信仰さえあればどんな人間でも救いがあると説くのに対し、小乗仏教は乗り物が小さく、厳しい修行を積んだわずかな人のみが救いを得ることができるという考え方です。
インドからお釈迦様によって説かれた仏教の教えがシルクロードを通り、中国で訳され、その後、伝来していくうちに様々な解釈が加えられ、日本にも伝わってゆきました。インドでは出家した一部のもののみが救われ、一般の人たちは救われないとされる仏教でしたが、日本に伝わったころには、出家せずとも一般庶民であっても救われるという教えになりました。そういう歴史を経て、インドでは上座部仏教(小乗仏教)、日本や中国などでは大乗仏教が信仰されているのです。
インドではお釈迦様の教えを守り、厳しい教えを忠実に守り、殺生や淫行、飲酒などをはじめとする[10の戒・殺生をしない・盗みをしない・異性に触れない・嘘をつかない・酒を飲まない・午後に食事をしない・歌や音楽踊りは視聴しない・指輪ネックレスという装身具香水は使わない・大きいベッドをつかわない・お金を受け取らない]と[227の律]、つまり戒律を守った人のみ救われるとされます。
ミャンマーではその戒律を正しく守る僧侶は特別な存在であり、尊敬の念をもって崇められます。最もお釈迦様の教えを忠実に守り伝えているのは、現在、世界各国を見てもミャンマーのみといわれています。
[仏教徒一色]と思われているミャンマーですが、実はキリスト教もイスラム教も、ヒンドゥー教も、さらにミャンマー独自の[ナッ]という信仰もあります。
ミャンマーはその歴史でもわかるように非常に多くの民族が暮らす国です。実に130を超える民族がいて、それぞれが信仰を持っています。
近年、ミャンマー西部の地域でイスラム教を信仰する少数民族ロヒンギャ族と仏教徒が衝突し、これによって宗教争いがミャンマー全土に広がりを見せています。しかし、国民の9割という仏教徒が我が宗教のために戦うことについて、政府は鎮圧に消極的です。政府がもしも本格的に鎮圧に乗り出せば、仏教徒がほとんどのミャンマー国民から、[異教徒を助ける裏切り政府]と言われかねないからです。
またこの争いについては、今まで軍事政権だったため、[表現の自由]が制限され、様々な情報に対する、人々の免疫が低いこと、また高名な僧侶の発言がいかに強い影響力を持っているかを示しています。
日本は宗教間の争いという事がない国です。無宗教という人もいますから、ミャンマーのように宗教の事に関して暴動が起こるということの理解が難しいかもしれません。しかし、古くからミャンマーは仏教の教えを守ってきた国です。
ミャンマーには美しい[パゴダ]がそこかしこにありますが、これも、信仰心を持ち、国を作り上げてきた現れなのです。
ミャンマーの人々が、仏教を心の礎として長い歴史を作ってきたことが、遺跡、また現存する建物からもしっかりお解り頂けると思います」 トイレ休憩の合間に
「ミャンマー人の平均年収は幾らぐらいですか?」と聞いてみた。
「ミャンマーはアセアン諸国の中でも、最低水準の国なので、平均年収は、約130,000円です。日本と比べたら1/40位です。日給が400円くらいですから、時給は50円が平均です。
ミャンマーの職業別年収は職業によって貰える平均年収も異なります。私は良くこの質問をされますので調べました。日本円に換算しますと、サービス業は48,000~96,000円。タクシードライバーは180,000~300,000円。医師は300,000円~480,000円。母国語以外も話せる人は480,000円。
IT系の技術者(SE/プログラマー)は600,000円~1,200,000円。弁護士は720,000円です。
ミャンマーでの所得税は給与の2%です。スキルの有無によって大きな差はありますが、まだまだ安い水準です。
2012年に成立した最低賃金法(公務員)などもあり、民主化後は急なペースで給与相場が上がっています。タイや日本や中国をはじめとした近隣諸国からの外資系企業の進出が増えていることもあって、人材が不足するようになり、今後しばらくは上がり続ける傾向にあります。
特に、日本企業の進出増加にともなって、日本語が話せる人材の給料が高騰しています。それにともなって、日本語学校も増えてきており、ミャンマーでは今後ますます日本語が得意な人材が増えていくと予想されます」と、きめ細かに話してくれた。
所得税が2%というのは夢みたいな安さだと感心してしまった。日本の場合平均年収が660万円から1000万円だとして、収入金額の10%+120万円が所得税である。月割りで給料から差し引かれるから、幾ら取られているのか知らないで過ごしてきている。それにしても医師の年収が低すぎると思った。
ヤンゴンに近づいてきた頃ヘインが、ツアーに付きものの行商を始めた。
「このツアーでは土産物店への御案内はしておりません。お土産は、明日ヤンゴン市内の地元スーパーマーケットへ御案内致しますから其処でお買い求め下さい。私が店内を御案内致します。その後民芸品店に御案内致します。工芸品の殆どを取り揃えております。特にルビーを始めとする宝石類は一級品ばかりです。私も指にはめておりますが、ミャンマーのルビーは世界でも特級品ですし、安いです。お客様にミャンマーのお土産って何だと良く聞かれます。其処で当社では手頃な値段で、タナカで拵えた石鹸と、ミャンマー産の珈琲を用意致しました。
[タナカ]は、ミャンマーで使用されている、天然の化粧品です。色は主に黄土色で、茶色っぽいものから、白っぽいものまであります。化粧としてだけでなく、日焼け止め及び冷却効果もあります。タイの農村や、ミャンマー国境付近を中心に見られる原料であるタナカの木から作られます。タナカの原料となる樹木は数種類あり、ミャンマー中央部で豊富に成育しています。主にタナカと呼ばれるゲッキツ属の複数種の樹木が原料になりますが、ウッドアップル(別名 ゾウノリンゴ、ナガエミカン)も原料になります。タナカの木が、良質な原料として育つには、少なくとも35年は掛かります。タナカの木は、小さな丸太状のものを個々にあるいは束にして販売されます。しかし今日では粉末状またはペースト状の商品も販売されています。ペースト状のタナカは、タナカの木の根や木材や砕片などを、少量の水と共に挽臼ですりつぶして作られます」
《 ロンジーと共に、ミャンマーのお土産として売られているが、日本の御婦人には、こんな化粧品を使う人はいないと思う 》土産物の噺は尚続く
「タナカの石鹸はお肌に優しく、美容効果も抜群です。これはよそでは売っておりません。当社が独自に作らせた物です。又、ミャンマーの珈琲は美味しいことで世界でも評判です。タナカの石鹸と珈琲をセットにして、可愛いミャンマーの生地で造った袋に入れてあり、1つが日本円なら500円、米ドルなら5$、kyatなら6,000kyat(600円)です。このバスの中で御注文を頂ければ、明日お渡しできます。返りの空港で、スーツケースに詰める時間を取ります。只今見本を廻します」
「御希望の方は手を上げて下さい」と商売熱心だった。
「ヘインさん何処の国でも5つ買うと1つおまけが付きますが?」と旅慣れた山下さんが聞くと、
「10個買えば1つオマケします。5つではおまけは付きません」
すると山下さんが私に
「鈴木さんお買いになるの? 私も買うから、2人で10個にして1つオマケを貰いましょうよ」と誘われて、不詳不詳買う羽目になってしまった。布の袋の模様は数種類あって、生地は厚手で赤い紐が付いて巾着袋のようになっていた。
午後5時50分頃ヤンゴン市内に到着した。日曜日だから、渋滞は少ない方だという。レストランに直行し、先にミャンマー料理の夕食となった。食後にシュエダゴン・パゴダの観光もあるので、昼の苦い経験もあったから、軽くジョッキービールを飲むに留めておいた。3,000kyat(300円)だった。具合の悪い女性はなにも食べなかった。
「抗生物質なら有りますけどお飲みになりますか?」と声を掛けると、

「薬なら持ってきております。有り難う御座います」との答えだった。

午後7時から満腹の状態で、ライトアップされたシュエダゴン・パゴダの観光となった。相変わらず雨が降っていた。
[シュエダゴン・パゴダ]はヤンゴン中心部の小高い丘の上に建つミャンマー最大の寺院であり、ミャンマー仏教の総本山である。釈迦および釈迦以前にこの世に現れた3人の菩薩の遺体の一部が納められている重要な聖地とされている。

シュエダゴンは黄金を意味する[シュエ]とヤンゴンの旧名[ダゴン]を組み合わせた言葉である。[パゴダ]は仏塔を意味する英語で、現地の言葉では[パヤー]である。[シュエダゴン・パヤー]とも言う。
この仏塔は今から約2500年前、モン族のある兄弟の商人がインドを訪れた時に、仏陀から直接貰い受けた8本の聖髪をモン族の王に献上し、王が仏塔を建ててその中に聖髪を納めたことが起源とされている。考古学の研究によれば6~10世紀の間に建立されたと考えられているが、それ以後も60以上の仏塔が周りに建てられて現在の形となった。地震によって幾度も破壊されており、現在の仏塔の原型は15世紀ころ成立したと考えられている。
1608年、ポルトガルの探検家フィリプ・デ・ブリト・エ・ニコテは、シュエダゴンを略奪し、1485年にShin Sawbuを引き継いだダマッゼディ王によって寄贈された30トンの鐘を取り上げた。ブリトは大砲を作るために鐘を溶かすつもりだったのだが、鐘を運んでバゴ川を渡る際に、鐘を川に落としてしまい回収できなかった。
2世紀後、第一次英緬戦争中の1824年5月11日に英国が上陸し、シュエダゴンを街全体を見下ろして指令を行う要塞であると考え、すぐさま奪取、占領した。その後、1825年、第一次英緬戦争中にイギリス軍が、1788年にシングー王によって鋳造された[マハーガンタの釣鐘]を持ち出そうとしたところ、船への積み込みに失敗して鐘を川底に沈めてしまった。が、のちにビルマ人によって引き揚げられ、シュエダゴン・パゴダに納められた。そのときの様子を描いた絵も飾られていた。
バリー語で[偉大なる鐘]を意味するマハーガンタの釣鐘は23トンと重たい。そして、2年後に退去するまでストゥーパを要塞のようなものとして残した。
シュエダゴン・パゴダの境内は、東西南北の門から入れ、階段を登った上部にある。ミャンマー人は入場料が無料である。外国人は値上がりして現在は10,000kyat(1,000円)である。ミャンマー人にとってシュエダゴン・パゴダは祈りの場であり、家族の憩いとピクニックの場であり、若い男女のデートの場でもある。
4つある入り口の、我々一行はツアー特権で外国人専用ゲート南口からの入場した。このパゴダも裸足で入る。団体用のプラスチック容器に履き物を入れると、係員が保管してくれる。スタッフが冷たい水(500ml入りのペットボトル)とウェットティッシュをくれた。形式的なセキュリティチェックがあったが厳しくはなかった。ゲートを潜ると胸に四角いシールを貼ってくれた。
短パンの者は此処で1,000kyat(100円)払ってロンジーを借り、腰に巻き付けなくてはならない。
ミャンマー独特の金色の屋根で作られた寺院風の建物の中に入ると50mの長い回廊がある。入り口の前のエレベーターに乗る。途中の階はなく、降りたところが5階で、ライトアップされたシュエダゴンパゴダが見えた。境内にはメインの仏塔のほか数多くの御堂や祠が林立していた。目を見張る世界がそこにあった。煌びやかであるが、ギラギラしたドギツさは感じなかった。昼間見たバゴーのシュエモードパゴダのように閑散としてはいない、かなりの数の信者で賑わっていた。
ヘインは先ずシュエダゴォン・パゴダの南端にある100年を超えた大きな菩提樹の木の前で説明を始めた。

「100年前、ブッダガヤーにある菩提樹の木の種を持ってきて、シュエダゴォン・パゴダの境内の中に植えました。菩提樹の木の下に仏像が祀られ、周辺はとても静かですので瞑想する人や数珠を数える人たちのお気に入りの場所です。菩提樹イコール仏陀だと思うミャンマー人が沢山います。4月の満月には、菩提樹の木に水を捧げる人々やお祭りなどがあり、落ちている菩提樹の葉っぱは踏まないという熱心な仏教徒もいるほどです」
黄金に輝く仏塔の高さは99.4mである。

その頂上の先端には宝石がちりばめられているが、驚くのはその数である。仏塔の頂上には風見鶏が付いていて、その下に76カラットのダイヤモンドを始めとする、5,451個のダイヤモンド、1,383個のルビーや翡翠、合計で7,000個近い数の宝石が丸い形にちりばめられている。これらの宝石はミャンマー国民の寄付である。信仰心の高さというか凄みを感じた。このパゴダの名前を[メーラ・パゴダ]という。《メー》というのは太陽、《ラ》は月という意味である。
周囲には、インドのブッダガヤにある寺院に似せて建てられた[マハーボディ寺院]を含め大小60を超える仏塔や廟が林立する空間になっている。夜間はライトアップされる。その幻想的な姿はこれぞミャンマー、必見である。境内はとても広く、ぐるっと回るのにはかなりの時間がかかる。参詣の人々は時計回りに仏塔を回わる。境内は大理石で敷き詰められている。滑り止めの幅1.5mの歩行専用シートが敷いてある。余りにも巨大なパゴダを撮るのにシートから外れたらつるんと滑った。危うく転倒するところだった。
一周すると願いが叶うと信じられている。境内の東西南北には祈願所(礼拝堂)があり、シュエダゴン・パゴダゆかりの仏陀像が祀られ、人々が熱心に祈りをささげている。外周に沿って小さな祭壇もあって、佛の背面に(後光のつもり?)、そぐわないLEDの照明をくるくる回してキラキラ光らせていた。その中でも熱心な仏教徒が祈りを捧げていた。

ミャンマーには 八曜日 という伝統暦があり、人々の生活の一部となっている。何歳に誕生したのか? よりも何曜日に生まれたのか? のほうが重要で、相性を見ることができるそうである。

シュエダゴンパゴダの周りを囲むように、境内の東西南北に祭壇が置かれ、祭壇には後ろに曜日の守り神(金色)、その前に仏陀が安置され、その台座の下に曜日の金色の守護動物が祀られている。

【 [八曜日]ミャンマーに古くから伝わる占星術の一種で、ミャンマーの人たちにとっては今でも生活の一部である。ミャンマー人は、自分が何曜日に生まれたのかを必ず知っている。水曜日が午前と午後に分けて考えられているため、月曜日から日曜日まで全部で8つの曜日が存在し、これを八曜日としている。
八曜日には各々定められた方角、星座、守護物が割り当てられており、ミャンマーの人たちは、自分の誕生曜日を非常に大切にしている。血液型占いのように、生まれた曜日によって、その人の基本的な性格や人生、さらには他人との相性なども決まると考えられている。
ミャンマーでは、生まれた曜日によって付けられる名前が決まっており、名前を聞けばミャンマー人ならその人は何曜日生まれかが分かり、ミャンマーの人々は庶民であれお金持ちであれ、大きな国家的事業の開始日などでも、曜日占いに委ねる 】

ミャンマー人には誕生曜日ごとに、曜日・方角・象徴となる守護動物が決まっている。それぞれの守護動物ごとの性格は次のとおりである。
日曜日(北東)鳥[ガルーダ]自立心が旺盛な合理主義者。物事に積極的に関わるタイプ。面倒見がよく、周囲の人々から頼られる存在。少々自信過剰でお節介な所が玉に瑕。贅沢を好む傾向があり、散財にはご注意。リーダーシップがある。一目惚れしやすい。
月曜日(東)虎[ジャア]スマートな堅実派。周囲に柔和な印象を与えるタイプ。控えめな性格ですが少々頑固な一面もあり。気分屋で判断が変わることもあるが、直観力があり強い感受性を持っている。
火曜日(南東)ライオン[チェンティ]上昇志向が強く少々わがまま。チャレンジ精神旺盛で考えるよりも行動するタイプ。真面目な性格だが、自分の考えが正しいと思うと周囲の話を聞かず突っ走ってしまう。無駄遣いが多いので気を付けて。お金に苦労しない。
水曜日 午前(南)牙のある象[スィーン]自分の時間が大切な自由人。自分の時間を大事にするタイプ。好奇心旺盛で、色々なことにチャレンジするが、1つの事に集中するのは苦手。自分にあまり自信がないので褒められて伸びる性格である。知性的。     お金を散財する。
水曜日 午後(北西)牙のない象[ヤフー]冷静な秘密主義者。おしゃべりタイプ。密かに自分の中で計画を立てる傾向がある。直観的に行動するが、自分の都合で周囲への気持ちが変化する。短気。神秘的なものが好き。
木曜日(西)ネズミ[チュエ]プライド高い賢者な変人。自信家で何でも自分でこなすタイプ。自分に厳しい性格なため、周囲からは堅い人と思われがちで、少し冷たい人と思われる一面もある。他人の価値観を受け入れられれば大成する。慎重かつ温厚。
金曜日(北)モグラ[プー]美と贅沢を好み、クール。感受性豊かで派手な事が大好き。オープンな性格で誰とでも仲良く出来るが、自己中心的な性格のため注意が必要。言葉遣い等周囲への配慮に欠ける。欲望に従順。
土曜日(南西)竜[ナーガ]マイペースに猪突猛進。普段は静かに過ごしたいタププ。自立心が旺盛で、常に自分の世界観を大事にしており、自分が成し遂げたい事に     は後先考えずに進むため、周囲から誤解されやすい。心配性。なまけもの。
《 月曜日・水曜日午前・木曜日・金曜日はなぜか2つずつ祀られているのに、他の曜日は1つずつしかなかった 》なんで8つ明るい時間の月曜祭壇を均等に並べないのか? 変に思った。

私が生まれた1941年6月9日は月曜日である。月曜日の祭壇も二段の円形タイル張り水槽になっている。上の水槽内にはお釈迦様が鎮座し、水槽の後ろには金色の、鎧を纏った守護神が立っている。下の水槽内には立った姿の虎が祀られていた。
参拝の作法は、置かれているコップに聖水を注ぎお釈迦様へ、自分の歳の数だけかけ(5回でもよい)、曜日の守り神(動物)へ3回かける(一回一回コップで水槽内の脇にあるある壺の〈無くなると僧侶がプラスチックのバケツで補充する〉聖水? を注ぐのである)。

ミャンマーの人達も熱心に 自分の曜日の守り神へ参拝してお祈りを捧げていたので、私も月曜日の御神体に5回、守護動物の[虎]に3回聖水を掛けて手を合わせたものである。
発展途上国で停電の多いミャンマーだが、このシュエダゴン・パゴダの照明は絶対に消えたことは無いそうである。
最後に参拝したのはパゴダの反対側に建つ、一段高いお堂の中に安置された[翡翠の座像仏]である。

高さは約1.2m。ヘインの説明では
「最近新しくサウジアラビアのキンニョン第一書記から寄付された仏陀です」だそうで、その名のとおり 翡翠で作られていた。
「このシュエダゴン・パゴダ全体に使われている〈金〉はどのぐらいだと思いますか?」ヘインが問いかけてきた。
「20トン」「10トン」「100トン」と銘々が答えると、
「全体の金の合計は7トンです」と言う。バゴーのシュエモードパゴダもこれと同じ位の規模の寺院だから、ミャンマー人の生活ぶりから見て、良くもまあこれだけの浄財を集めたものだと、吃驚もしたが呆れてしまった。
翡翠の仏陀を見てから時計回りに出口に向かう。ヘインが途中で直進した。パゴダを半周したところに、パネルにはめ込れた[頂上部分の宝石レプリカ]が有り、それを見るためである。

話しながら歩いていた山下さんが、急に居なくなってしまった。この大群衆の中で人を探すのは至難の業である。若い千葉君が探しに戻ったが、見付けることができず、先に出口に戻った。
「胸に付けられたシールで入場したのが南口と判りますから、皆さんはエレベーターを降りてトイレを済ませて待っていて下さい」と言われた。ヘインもエレベーターを上がって行った。トイレを出てきたら山下さんが戻ってきていた。
雨に濡れた[黄金のパゴダ]ライトアップは見事であった。
午後8時10分に初日に泊まったスカイスターホテルに着いた。銘々スーツケースを引いて部屋に戻っていった。何人かの人に
「私の部屋においでなさい」と声を掛け、今夜も山下さんとビールを買いに出た。この日集まったのは岡村、新井の男性と山下さん3人だけだった。12時にお開きした後、山下さんが置いていった焼酎2合を全部飲んでしまった。

8月19日(月曜日)最終日

観光最終日である。今朝も午前4時には目が覚めてしまった。6時30分にレストランに行き、軽めの朝食を済ませ、玄関前に出てみたら、名前の知らない野鳥が数種類、美しい声で囀っていた。お日様は出ていないが青空が見えていた。今日は終日ヤンゴン市内観光で、夕食後はヤンゴン国際空港へ行き帰国となる。BUSの中はクーラーが効いているし、機内もそこそこ寒いのでナイキのTシャツに、合着の作務衣を着た。履き物は今日も寺院で裸足にさせられるので、来た時のサンダルである。スーツケースを纏め、何時でも出発できるように準備は整えた。この部屋ではテレビは点いたが、NHKの衛星放送は映らなかった。出発まで2時間近くあったから、BEDに横になった。目が覚めると9時10分過ぎ、これは大変と急ぎで部屋を出てチェックアウトした。暫くして、ベッドの上に作務衣の上着を忘れたことに気が付いた。部屋に戻ろうとしたら、ヘインがボーイから上着を受け取っている所であった。こうした物忘れが多くなった。

9時30分ホテルを出発した。昨日体調を崩した女性は今朝も青い顔でBUSに乗ってきて、ヘインの後ろの席に座った。今朝も食事は食べなかったそうである。ヘインがマイクで、
「ミンガラバー。2日間大移動で、皆様大変お疲れ様でした。            残念ですが今日で、ミャンマー旅行は終わりです。お忘れ物はないですか? パスポートはありますか? 今日は終日ヤンゴン市内観光となります。スケジュールを申しますと、最初に[僧院学校]日本式に申しますと〈寺子屋〉へ御案内致します。親元を離れ〈徳〉を学ぶ沢山の子供達の勉強ぶりを見て戴き、皆様に阪急で用意したお菓子を手渡して頂きます。今日は月曜日ですので、ヤンゴンは何処を走っても大渋滞をしています。車の流れの様子を見て、チャウタッジー・パゴダを参詣し、空港に6時30分に着くよう夕食も早めとなります関係で、早めの昼食と致します。昼食後にスーレーパゴダ・マハバンドゥーラ公園・ヤンゴン市庁舎・最高裁判所・中央郵便局を車窓観光して戴きます。昼食後になると思いますが、お土産をお買い求めになれる、地元の大スーパーマーケットへ御案内致します。その後、民芸品店にもお連れ致します」との案内があった。
ヘインの話したとおり、ヤンゴン市内は日本の40年前の東京のような大渋滞ぶりだった。通常なら15分で行ける僧院学校なのに1時間近くのろのろ走って着いた。
まず最初に訪れたのは[阪急交通社オリジナル企画]とかの僧院学校〈寺子屋〉見学である。
ミャンマーは古くから、特別な文化と伝統をもつ国である。ミャンマーの伝統的な教育の起源は、11世紀のアノーヤター王時代の僧院教育に遡る。
【 ミャンマーの教育の特徴として僧院学校が挙げられる。家庭や地域の事情により公立学校でも教育を受けられない生徒(カチン州やシャン州などの未だに紛争が絶えない地域では子どもが戦争に駆り出されるのを防ぐためにヤンゴンの僧院に送るという例もある)は無料で、寮付きで勉強のできる僧院の学校へ入ることができる。そこで育った学生は僧侶にならなくともよく、15歳くらいで自立したり、公立学校へ転入することもできる。この僧院学校があるお陰で貧しくても、最低限度の教育が受けられるのでミャンマーの識字率は高い 】
BUSを降りて、両側にみすぼらしい商店が数件有る、ぬかるみの狭い路地を歩いた奥に門があって、奧に4階建てのビルを持つ校舎があった。
[スーパー寺子屋]では一つの教室に50人以上の子どもたちがひしめき、大きな声で教科書を読み上げる声が響き渡る。ここには民族・宗教の壁を超えて孤児や貧困層の約400人の子どもたちが集まっている。シャン州の内戦に伴う国内避難民の子どもや、ラカイン族、ムスリムと多様である。
『仏の道に従って、困っている人たちに手を差し伸べるだけです。その子供が異民族・異教徒であることは関係ありません』と、この学校を創立したクーマーラ・ラーマ僧侶の言葉をヘインが紹介する。
『2000年に僧院を立ち上げ、集まった浄財を活用して2009年に身寄りのない子ども9人を預かり、孤児院兼学校であるこの施設を開校しました。現在はボランティアを含む10人の教員、経営に携わる弟子の僧侶たち、多くの寄付者に支えられ400人規模の生徒を受け入れています。そのうちおよそ250人は孤児で、残りが貧困のため公立学校に通えない子供達です。それぞれに困難を抱えて、親に連れられてやってきました。最近では内戦状態のシャン州から逃れてきた子どもが全体の約8割に達しています。中にはシャン語が母語であるため、ビルマ語の授業についていくのに苦労する生徒もいて、現場の教員は教科を教えるだけでなく、それぞれの事情で心に傷を負って入校してくる子どもたち一人ひとりに目を配り、不安を取り除くことも重要な役割になっています』
2年生の英語と算数担当のイエン・ティン・ルゥイン教員(19)はさらに話す。
『科目は公立学校と同じですが、進め方は私たち教員で子供達の理解度を見ながら独自の方法をとっています。子どもたちは時折不安げな表情を見せることがあります。みんな純粋で可愛い反面、見ていて心が痛みます。必要としているのは何よりも私たちの愛情です』とも話してくれた。
ミャンマーでは公立学校は[一定以上のお金がある家庭の子どもが行くところ]と言われている。放課後に教員が開く補修クラスに参加するのがほぼ必須の慣例となっている。一般的には1レッスン10,000kyat(1,000円)程度(1科目・週に1回)で、これを生徒4~5人の家庭で分担する。それが払えないことは授業についていけなくなることを意味し、学校を続けられない子どもも多いという。内戦や貧困など社会的・経済的問題に翻弄され、教育機会を失う子どもが後を絶たないのが現状である。
ミャンマーでは公教育が必ずしも、すべての子どもたちを受け入れる場になっていない。そんな中、僧院学校はミャンマー社会にとって、困難な状況にある子どもたちにも教育を提供できる、最後の砦のような存在になっている。
私達が到着すると、ビルの狭い階段から子供達が駆け下りてきた。1階の教場に300人を超えるだろう子供達が行儀良く並んで胡座を組んで座った。先生の合図で全員が立ち上がり、校歌を歌って歓迎し、声を揃えての読経の後、手を合わせての挨拶をしてくれた。この寺子屋は男の子ばかりである。女の子の寺子屋も別な所にあるようだ。
説明は無かったが、黄色の襟に海老茶のシャツを着た(頭は剃髪ではない)2/3の子供は幼稚園児から小学2年生ぐらいの子供達か? 大人と同じ海老茶の僧衣を着ている子供達は小学生から中学生? 剃髪である。再び全員を座らせた。私達ツアーのメンバーが、箱に入っている菓子を一人一人の子供に手渡した。2つも欲しがる子供も居た。
教場の前、先生が授業で立つ所の脇に1m四方のお賽銭箱というか募金箱があった。こうした施設の一助になる金額に少ないが、10,000kyat(1,000円)寄付をした。嫌みったらしく沢山の札を押し込む為の棒が置いてあった。

複雑な気持ちで、寺子屋を後にした。ヘインが
「この渋滞では日程通りで観光すると、予定の時間に空港へは行けませんので、この近くですから、車窓からの名所、イギリス植民地時代の建造物観光を先に致したいと思います」と言い、昨日注文を取った土産物を配り始めた。私は成田空港でウイスキーを買った時にくれたビニール袋に、11個の土産物を入れた。ひどい渋滞の街中を進み車窓観光が始まった。順を追っての説明を要約する。
[スーレーパゴダ]はヤンゴンの中心地にあり、道路のロータリーの中に建っている。スーレーパゴダはシュエダゴンパゴダに並んで、ヤンゴンでの2大パゴダの一つである。このパゴダは2000年前に仏陀の聖髪を納めるために建てられた。1880年の植民地時代にイギリスは、このスーレー・パゴダを中心にヤンゴンの街を設計・開発した。シュエダゴン・パゴダと同様、八曜日の守護仏が祀られている。高さは48m、ミャンマー内では丸い形のパゴダが一般的だが、スーレーパゴダは8角形の仏塔が特徴的である。
周りはほとんどがバスターミナルのような形になっている。スーレーパゴダが中心にあって、パゴダの周りがロータリーになっていて、その周りにバスターミナル、バス停がある形である。スーレーパゴダは周りがお店で覆われている。中のパゴダを外から見ることができなかったが、車窓から見ても存在感のあるパゴダだった。金色なので太陽の光が反射してキラキラ輝いていた。塔の頭の部分しか見えなかった。
[マハバンドゥーラ公園]
公園の名前は、第一次英緬戦争でイギリスと戦ったMaha Bandula将校に由来している。広々として緑が多い公園内と、塔の周囲は一面芝生で、地元の人が思い思いに過ごす憩いの場になっている。公園の中央に聳え立つのは[独立記念碑]である。1948年1月4日イギリスからのビルマ独立を記念して、この場所に置かれていた英国ビクトリア女王の彫像に代わって、この塔が建てられた。高さは50m、円柱の土台の上に天空に向かって円錐形の太い柱が伸びている。白い塔で、下部にはその周りに獅子の像が配置され短い剣のようなものが並んでいる。全体が白く一部金色のリングがあり、とてもモダンな造りである。BUSは公園をぐるり一回りした。
[ヤンゴン市庁舎]スーレー・パゴダの東隣に建つ直線的なデザインの白亜の建物は、ヤンゴン市の遺産リストに記載されているヤンゴン市庁舎である。南側のマハバン・ドゥーラ公園方向からみると、とても綺麗に見える。市庁舎の西側には、路線バスのバス停が並んでいる。[ヤンゴン・セントラル駅]を設計したビルマ人の建築家U Tinによって設計された。「Pyatthat」と呼ばれる階段式屋根(寺院風)が特徴の、伝統的なビルマ建築様式の建物である。建設は1926年に開始され、1936年に完成した。 建物は、ミャンマー建築の良い例であると言われている。
ヤンゴンの市庁舎のあるあたりは、コロニアル様式の建物が建ち並ぶ一角である。ミャンマーはイギリスの植民地であったから、イギリス式の建物が数多く残っている。ヤンゴン市庁舎のあるあたりが官庁街で、他には最高裁判所、中央電話局、税関、中央郵便局、いくつかの国の大使館などがある。車が多すぎて写真に撮っても何が何だか判らない。
[最高裁判所ビル]スーレー・パゴダの裏手、左手の赤い煉瓦色の建物が最高裁判所である。コロニアル建築の建物がずらりと並ぶ官庁街でもひときわ目を引くこの建物は、2006年に首都がヤンゴンからネーピードーに移るまでの約100年間、最高裁判所として利用されてきた。ミャンマーは首都機能をヤンゴンからネピドーに移転したため最高裁判所は同時に移転された。建物は一部を除いて閉鎖されたが、そのままそっくり残されている。イギリス植民地時代を象徴する建物で、建築家ジェームズ・ランサムが設計、1911年に完成した。ヤンゴンの都市遺産リストにも登録されている。ロンドンにあっても不思議ではない。クイーン・アン様式と呼ばれ、複雑な構造の重厚な造りである。右手の時計塔が印象的である。現在も取り壊される様子はない。因みに、屋根にあるライオン像はイギリスを象徴しているそうである。
[ヤンゴン中央郵便局]は、もともとはグラスゴー出身の兄弟が経営するミャンマー有数の貿易会社のオフィスだった。1930年に起きた地震で当時の中央郵便局が破損したことがきっかけで、政府がこの建物を買い取り、現在の中央郵便局になった。
この建物はイギリスの植民地であった1908年に貿易会社のオフィスとして、海に繋がるヤンゴン川のほとりに建てられたビルである。コロニアル様式の建物と説明されているが、[コロニアル]の意味〈植民地の〉からきたネーミングである。
ヤンゴンの官庁街に並ぶ建物で、内部まで見学できるのは少ない。が、この中央郵便局は誰でも中に入ることができる。外観だけではなく、内部にも入ってみたかった。
いつも私は、海外旅行に出た時は必ずその国から[絵葉書]を投函してきた。A4の[プリンタラベル]に18名の宛名が印刷できるので、以前行ったことのある国なら自分の写真を絵葉書にして18人にお出ししてきた。
【 日本のように郵便事業がしっかりしている国は先ず少ない。何処の国でも切手を買うのに偉い苦労をさせられる。例えばその国で定めたエアメールの葉書代が日本円で80円だとする。ところが、その切手の枚数が足らず100円とか120円の切手を買わされる羽目になる。台湾などでも同様だった。ベネズエラに行った時などは首都カラカスの[シモン・ボリバル国際空港]内の郵便局でさえその有様だった。ミャンマ-の滞在ホテルでは、郵便切手などは置いてなかった 】
帰国後暫くして何人かの友人から絵葉書が届いたという連絡を頂くが、出したハガキが何処かへ消えてしまう場合もあった。で、今回選んだ[奇跡の岩・ゴールデンロック]が有るミャンマーの郵便については超不安であったから、出掛ける前にミャンマーの郵便事情を調べてみた。
2013年よりミャンマー在住のフリーライター田島えみさんのコラムによると
《 ヤンゴン在住者でも[郵便ポスト]を見たことがあるという人はごくわずかです。もはや幻の存在では? と言われていますが、実際にはあります。[赤いポスト]は日本のポストと同じ雰囲気ですが、日本の各家庭にあるポストをちょっと大きくした感じです。幹線道路沿いに立つポスト、ゴミ山の向こう側で到底投函できない場所に立つポスト等、利用者にとってポストの立地が厳しい上、ヤンゴンに2年間在住していても郵便物を回収している場面に遭遇したことがありません。日本からの手紙は約1週間で到着しますが、途中紛失し到着しない手紙も多々あるのが現実です。最悪ともいうべきミャンマーの郵便事情ですが、今後は少しずつ改革が進んでいくと思います 》とあった。
切手を買うには郵便局に行くしかない。今回の旅行スケジュールでは最終日にヤンゴンの中央郵便局の前を通るだけなので、絵葉書を出すのは止めにした。

昼食はシャン料理店だという。2階の個室に通された。奧にトイレが付いていた。土産代を払ったら小銭は5,300kyatしか残らなかった。夜のビール代とトイレ代を残し、生ビール3,000kyat(300円)を頼んだ。
「時間の関係で少し早めの昼食となります。ですから軽めのメニューを用意しました。今日の料理はシャン族の郷土料理です。シャン族は、ミャンマーの少数民族のなかではビルマ族に次ぐ人口を持つ、北東部の山岳地帯に住んでいる人々です。シャンスパイスが控えめで油分が少なく、発酵食品を豊富に使う料理となっています」との説明だったが、出てきたのはビーフンで拵えた麺の[野菜うどん]だった。スープの色は薄味風だが、油がギタギタ浮いていたし、ミャンマーの山奧で採れた生野草が乗っていた。
ヘインが小鉢に入ったグロテスクな、さなぎの唐揚げを持ってきて、
「これは竹蟲です。竹の中にいる幼虫です。クセはありません。カリッとしてえびせんのような味です。シャン料理には欠かせません。ミャンマー人は大好物です。ミャンマーに来た記念に試食してみて下さい」というが、私はパスした。好奇心から試食している人もいた。
次に、[シャン豆腐の和え物]が出てきた。ヘインが
「シャン豆腐は毎日手作りします。生姜と唐辛子で和えてあります」
とのことである。豆腐は日本のものとは違っていて、ちょっと硬めの杏仁豆腐みたいな食感だった。上に、ピーナッツと生姜、ネギ、パクチー、ゴマなどが載っている。唐辛子が効いて見た目以上に辛かった。

昼食後は雨の中の移動となった。昨日から具合の悪かった女性は走行中は身体を横にしていて、無論昼食も食べなかった。食後BUSに乗り込んできた3人の若者が蒼白になっていた。3人とも吐いてしまったという。12人中若い人ばかり4人が食あたりとは、やはりミャンマー旅行は人に勧められる国ではないようだ。
「何が原因だったのかしら? 完全に食中毒ですよね?」と山下さんに聞かれた
「たぶん油でしょう。昨日出たお煎餅みたいな揚げ物、私は一口口にしただけで止めにしましたが、若い人には珍しく、丁度良い塩加減だったから、美味い美味いと食べていましたけど、ミャンマー料理全体に使われている油がいけなかったんだと思いますよ。古い油を使っているんだと思います」と答えた。山下さんがヘインに聞いていた
「ミャンマーで使っている油は何の油ですか?」
「ココ椰子油です」ツアーのメンバーが不調だと判っても、私は最初に注意したはずだと言わんばかり、何のホローもしてくれなかった。
〈ヤシ油(椰子油)ココヤシから作られる油脂で、ココナッツオイルのことを指す。ココヤシ果実(ココナッツ)の巨大な種子内部の胚乳から抽出精製されるものである。アブラヤシ(パームヤシ)の果肉から作られるパーム油もヤシ油と呼ばれるが、これとは異なる油である〉
相変わらず道路は渋滞していた。レストランからチャウタッジー・パゴダ迄約1時間も掛かってしまった。先程具合が悪くなった20歳代の女性が失禁してしまった。(渋滞を見て止めてくれと言えなかったのだろう)匂うといけないからとタオルで椅子の周りを拭き取っていた。
渋滞中に次ぎに向かうチャウタッジー・パゴダの説明を始めた
「カンドージー湖の北側に位置する[チャウタッジー・パゴダ]は高さ17.7m、長さ65.8mというヤンゴンで最大の大きさを誇る寝釈迦仏が安置されています。因みに世界一の寝釈迦仏は、ミャンマーのチャウッタロンという村にある 高さが28m、全長約183mの巨大な寝釈迦仏であります。この大きさになってもなお建設中で、完成時期は未定です。昨日拝観した、バゴーにあるシュエターリャウン寝釈迦は高さ16m、全長55mです。
何でまた寝釈迦仏なのか? 他に見るものはないのか怪訝に思うでしょうが、この寝釈迦仏だけが持つ必見すべき特別な物を備えているから敢えて拝観に加えました。チャウタッジー・パゴダに入る前に先にトイレへ御案内致します。トイレは有料です。300kyat(30円)御用意下さい」
BUSが停車すると、山下さんがトランクルームからスーツケースを取り出させ、失禁した女性の為に[何処でもトイレ・パンツ式]を出してあげていた。
今回の[おひとり様だけの旅]で特に親しくなった山下さんは、膠原病を患いその薬の副作用で、腰に金具を入れる手術をしたり、乳癌の手術をしたり大変な思いをしてこられている70歳の女性である。
「生きている内に、動けるうちに、海外旅行続けるつもりなの。治療のない月だけ、2ヶ月に1度海外旅行に出ているの」と言う。だけに旅で必要な薬、医療用品等持ち歩き、具合の悪くなった人への介護に長けていた。
入り口の軒下でBUSを停めてくれたから雨に濡れずに済んだ。山下さんが
「又靴下を脱ぐんですか? 昨日寝釈迦物を見たからもういいわ。バスに残っていてもいいんでしょう?」
「それは構いません。約30分程お待ち下さい」山下さんの他に具合の悪くなった4人もバスに残ってしまった。
大きな寝釈迦仏が安置されているので、此処の建物もかなりの大きさである。近代的な鉄筋の柱が組まれており、ここも体育館や格納庫のような雰囲気である。大きな屋根を支えるための鉄筋の柱が目立つ。
ゴールドの袈裟を纏い優美に横たわる寝釈迦仏は、穏やかな表情を湛えており、そのお顔はミャンマー随一の美しさとも言われている。寝釈迦仏の周りは一周することができ、中でも108の仏画が描れた足の裏は見る価値がある。シュエターリャウン寝釈迦佛とはちょっと違う組み方である。その絵は仏門・宇宙・自然・動物等々宇宙観図絵である。それぞれの絵に意味があり、絵の意味についてはミャンマー語と英語で書かれたパネルで確認できる。
チャウタッジー・パゴダの寝釈迦仏は、元々は1907年に作られたものだが、その後痛みが激しく修復が必要となり、信者たちによって1966年に現在の寝釈迦仏に作り直されたものである。最初に作られた寝釈迦仏の写真が残されており見比べてみると、姿勢や表情は現在のものと大きく異なり、半身を起こしたような体勢で、ガッシリとした男性的な雰囲気だった。仏像と言えば、通常は男性的であったり、中性的な感じだが、チャウタッジー・パゴダの現在の寝釈迦仏は、頭髪も螺髪ではなく[重ね団子型]で、肌は白く塗られ、長いまつ毛にブルーのアイシャドウにクッキリとしたアイライン、真っ赤な口紅と、手足の指にはピンクのネイルを塗って、とっても優美で女性的である。
チャウタッジー・パゴダの見学の際も、他のパゴダと同様に入口で靴を脱いで裸足で上がる。入口からは長い参道が続いており、階段を登り歩いて寝釈迦仏が安置されているお堂まで向かう。ここの参道の両脇にも土産物やお供え物店が並び賑やかである。
寝釈迦仏の周囲はぐるりと一周することができる。堂内を見学していたら片隅に小型の寝釈迦仏が2体あった。これは、寝釈迦仏を再建する際に作られた模型で、1体はスラッとした容姿にぱっちりとした大きな目の仏像、もう1体は伏し目がちの仏像である。ヘインの説明では、
「人気投票で大きな目の仏像に決まりました」そうである。市民の人気投票で仏像の容姿を決めるなんて、笑っちゃうが、いかに仏像がミャンマーの人々にとって身近なものかが窺えた。
寝釈迦仏の正面の床の一部分には、絨毯が敷かれている。そこでは参拝に訪れた人々が熱心にお祈りを捧げたり、瞑想をしており、ミャンマーの人々の信仰心の厚さを見ることができる。お祈りの後はしばらく座ったまま寛いだり、記念写真を撮ったりと思い思いの時間を過ごしている。釈迦仏の足元には、全体像が撮影できるように鉄筋製の台が設置されていて、台の上からこの優美な仏像の全体をカメラに収めることがでるはずが、お堂内は工事中で鉄骨の櫓が組んであって、全体像を撮すことが出来なかった。広々とした堂内の寝釈迦仏の周辺に、沢山の仏像や高僧の像が安置されており、壁面には仏教説話が色鮮やかに描かれていた。壁の一部は吹き抜けになっており風通しが良く、屋外よりも涼しいため、あちこちで犬や猫がのんびりと寝そべっていた。
境内には、僧侶や子どもの見習い僧もたくさん来ていた。お堂の端の方で寝転んで勉強している10人程の見習い僧がいた。外国人に見られているのにお行儀なんか気にしない。何ともおおらかである。
ヘインがスマホの画像を開いて見せながら、
「この寝釈迦佛の特徴は眼です。眼に直径2mのガラスを使っており、特殊加工で瞳を人の眼と同じように造り上げております。これは世界でただ1つ、この寝釈迦佛だけです」スマホの画像にはお釈迦様の目を掃除する人の姿が写っていた。眼の直径より人間の方が小さかった。
「これを見て戴きたくて、お連れ致しました。もう一つの特徴は、寝釈迦様の眉間にある炎のような形をした白い物です。白毫(びゃくごう)という《光を放ち東方一万八千世界を照らし出す》第3の眼であります」

《 白毫は、仏(如来)の眉間のやや上に生えているとされる白く長い毛を差す。右巻きに丸まっており、伸ばすと1丈5尺(約4.5m)あるとされ、眉間白毫ともいう。これはお釈迦さまの特徴[三十二の完全な偉人の相]の一つで、31番目であり、白毫相、眉間白毫相ともいう。シヴァ神などいくつかのヒンドゥー教の神は、その位置に第3の目を持っている。(ヒンドゥー教徒が同じ位置にする装飾であるビンディーやティラカと混同されるが、直接の関係はない。毫は巻き毛をあらわしたもので、仏の知恵をしめし光を放って人々を救うとされる。白毫があるのはお釈迦様、観音様、如来様、菩薩様で、四天王や不動明王にはない 》

チャウッタージーパゴダにも八曜日の祭壇があった。直径3mの六角形高さ1mに、八曜日の神々が祀られていた。
チャウタッジー・パゴダ周辺には、僧院が幾つかあり、数百人の僧が日々修行に励んでいる。ミャンマーでは、男性は一生に一度は出家して修行しなければならず、男子は10歳前後で通過儀礼として頭を剃り、夏休みなどの時期にコーインと呼ばれる見習い僧として出家する。ミャンマーの仏教では、僧侶が結婚することや事業活動によって生活の糧を得ることはできない。そのため、在家の人々からのお布施や早朝の托鉢による食糧の施しが必要なのである。このように出家と在家の区別ははっきりとしているが、比較的行き来は自由であるため、一般の人が人生の節目に短期間出家僧として過ごすなど、出家と還俗を繰り返す人も少なくない。また、ミャンマーの人口の約90%が敬虔な仏教徒なので、功徳を積む行為とされるお布施や参拝などは日常的に行われている。  BUSに戻ると山下さんが、
「シュエターリャウンの寝仏と何処が違っていたの?」と聞くので、
「直径2mの寝仏の眼が特殊加工のガラスで出来ていて、世界に1つだけなんですって」と答えると
「それだけ判れば充分だわ。ありがとう」と礼を言われた。

これでミャンマーの観光は終了である。空港に行く時間を割り振って、地元の大スーパーマーケットへ連れて行かれた。
「空港で買うより安いですから、お土産なら此処でお買いになった方が良いと思います。私も一緒に店内に参ります。お買いになりたい物があったら、仰って下されば御案内致します」一応全員が店内に入った。
「チョコレートは何処にありますか」と聞いた
「ミャンマーではチョコレートは造っておりません」と言われたので、皆さんが群がっているコーナーに行ってみた。90,000kyatも残っている。ドルに換金するのも癪だから、皆さんが買っていたミャンマー珈琲の袋詰めを5つ買った。30,000kyat(3,000円)だった。山下さんが、土産物の本を持ち込んで、本に載っているワインなどを買っていた。食中毒になった4人も何やら買い込んでいた。私が最初にレジへ行った。割引してくれたのか2,000kyat(200円)お釣りをくれた。するとヘインがやって来て、自分のスマホに私が払った金額のポイントを読み込ませていた。全員が買物をしたと思う。その支払いポイントを全部ゲットしたのだから、まさに〈坊主丸儲け〉だ。その事を山下さんに話すと、
「え! そんなことをしていたんですか? 断りなしにですか?」
「レジに張り付いて全員のポイントを読み込ませていましたよ。山下さんは気が付きませんでしたか?」
「それは狡い、私達のスマホにポイントが付く訳は無いにしても、一言断るべきだわ」と怒りもし呆れていた。さらに話す
「若い娘さんが買い込んだ石鹸ね、ヘインが売りつけた土産物の石鹸と同じだったわ。1,500kyat(150円)ですって」と憤慨していた。
最後に民芸品店へ案内された。
「この店にはミャンマーの民芸品が全て揃っております。宝石類は上質で、しかもどの国より安いです。タップリ時間を取ってあります。店内には冷たい飲み物、お茶のサービスもあります」此処ではタップリ1時間缶詰状態にされた。一人元気だった20歳代の女性が宝石売り場に張り付いて、ヘインに値引きの交渉をさせていた。
午後5時に夕食のレストランに着いた。ミャンマー料理は鼻について食欲は無くなっていた。最後の生ビールを飲むのに300tyat(30円)足りないのを山下さんに出して戴き、最後の晩餐宜しく(具合の悪い人は水で)全員で乾杯した。
空港には6時40分に到着した。ヘインがお礼の挨拶をしていた。皆でお礼の拍手をしたが、運転手とアシスタントのことには一言も触れなかった。
空港ロビーの端っこで、スーツケースに買い込んだ土産物を詰め込んだ。詰め終わった人からチェック・インを済ませた。私は前立腺癌を手術したのでトイレが近いことを話し、ビジネスクラスの直ぐ後ろの、通路に挟まれた3人掛け通路側を取ることが出来た。山下さんが同じ列の反対側通路席に座った。真ん中の席には誰も来なかった。
出国審査を済ませ、残った60,000tyatで、2本セットのスコッチウイスキーを買った。不足分はカードで支払った。

ヤンゴンから成田国際空港迄の飛行時間は約6時間10分である。