3月11日(月曜日) 第3日目・クロアチア
今朝も4時に起きてしまった。朝の柔軟体操をこなし日記を付け、出発準備を整えてから6時にレストランへ行った。レストランはまだオープンしていなかった。韓国人のグループが15人程集まって大声で話しながら待っていた。外はまだ真っ暗で、雨が降っていた。
バイキングの料理は昨日と同じような物ばかり、軽く食べておいた。
8時には全員が集合していたが、BUSが遅れてホテル出発は8時20分になった。上田さんは今朝も元気で
「ドブロジュトロ、お早う御座います。今日もドライバーさんはボージュさんです」ボージュさんも
「おはよござます」と日本語で挨拶してくれた。
出発時には雨が降っていて、気温も10度、この日は温かくなるのではと上着は皮のジャケットにして、雨に備えてフード付き雨合羽の上着をリュックに入れた。
「パスポート持っていますよね? 何はさておいてもパスポートの確認が一番重要なので五月蠅いと思いますが済みません。そしてイヤホンも直ぐ取り出せるようにしてお持ち下さい。今日は昼食を挟んでスプリットへ(390Km、約6時間30分)の大移動日です。2時間程走った所でトイレ休憩を取ります。その後又2時間ほど走り昼食となります。ここで皆さんにお伝えしなければならないことがあります。この度クロアチア・スロベニア各都市にて宿泊する旅行者を対象に、宿泊都市ごとに滞在税の支払いが義務付けられました。これは各都市より宿泊ホテルを通じて個々のお客様へ請求され、チェックアウト時にお支払い頂くことになります。私達はツアーですので私が纏めて払っておきます。後程、徴収させて頂きます。スロベニアのホテルは3.14€(408円)、クロアチアのホテルは10Kn(180円)×4泊分40Kn(720円)となり、そして最後のホテルはオーストリアですので5€(900円)の滞在税です」旅行者に対する課税はやたらと増える傾向にあるが、不愉快な面持ちになった。
BUSのなかで上田さんのガイドに耳を傾けた
「クロアチア共和国・通称クロアチアは、ヨーロッパ南東部,バルカン半島の北西部に位置する共和制国家です。
1991年までユーゴスラビア社会主義連邦共和国を構成する 6共和国の一つでありました。本土では西にスロベニア、北にハンガリー、東にボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビアと国境を接しています。南はアドリア海に面し対岸はイタリア、飛び地のドゥブロヴニクでは東にモンテネグロと接しています。首都はザグレブです。
地形は大部分が山地ですが,ドラバ川(ドラウ川),サバ川の流域には肥沃な平野と丘陵が広がっています。住民はおもにクロアチア人で,カトリック教徒が多くを占めています。公用語はクロアチア語、文字はローマ字を用いています。初めは古代ローマの属州パンノニアおよびダルマチアの一部で,6世紀頃からクロアチア人が定住しました。フランク王国、ビザンチン帝国の支配を経て、クロアチア王国を建て、11世紀中頃に全盛期を迎えましたが、オーストリアなど支配勢力の交代を経て、1918年ほかの南スラブ人の地方と連合してセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国が発足しました。1929年国名をユーゴスラビア王国と改めました。第2次世界大戦下の 1941~45年には枢軸軍の勢力下で独立国となりましたが、1945年にクロアチア人民共和国としてユーゴスラビア連邦人民共和国の自治共和国となり、1963年に新憲法によりユーゴスラビア社会主義連邦共和国・クロアチア社会主義共和国と改称しました。その後の1991年に、それまで連邦を構成していたユーゴスラビア社会主義連邦共和国から独立しました。
面積は九州地方の約1.5倍の面積で56,594㎢。人口4,125,700 人 (2017年)が住んでいます。
国民の約90%がクロアチア人でカトリックを信仰、約4~5%がセルビア人で東方正教会系(セルビア正教)を信仰しています。V字を右に倒したような独特の形の国土は、内陸の北東部とアドリア海に面する南西部とに区分されます」
《 人口がたった4,125,700人 (115位)のクロアチアが2018年サッカーワールドカップで準優勝を飾ったことで、一躍有名になりクロアチアの名を何度も耳にするようになった。クロアチア旅行を思い立ったのはこのことも記憶にあったからである。
ナショナルチームである愛称の[ヴァトレニ]は、クロアチア語で[炎の男]の意味をもち、ユニフォームはクロアチアの国章に使用されている紅白の市松模様を基調としている。
ユーゴスラビア成立後の1956年にクロアチア選抜が結成された記録が残っている。1998年のフランス大会でのグループリーグでアルゼンチン以外の日本、ジャマイカと共に3チームがワールドカップ初出場と言う特異なグループに入り、アルゼンチンには敗れたものの、ジャマイカ、日本を破り2位でグループリーグを通過、決勝トーナメントに進出している。
決勝トーナメントではルーマニアを破り、ドイツとの対戦となった準々決勝でも3-0で勝利した。準決勝でこの大会の優勝国となるフランスと対戦し、1-2で逆転負けしたものの、3位決定戦ではオランダを2-1で破って3位入りを果たしている。
2018 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選では予選敗退の危機に就任したズラトコ・ダリッチ監督がチームを再生させ、プレーオフでギリシャを破り本大会出場を決めている。本大会ではアルゼンチンに3-0で快勝するなど、3戦全勝でグループDを首位で通過した。決勝トーナメントは1回戦のデンマーク、ベスト8のロシア、準決勝のイングランド戦のいずれも先制されながら同点に追いつき、3連続延長戦(うち2戦がPK戦決着)を勝ち抜いて旧ユーゴスラビアから通しても初めての決勝進出を果たした。決勝戦は20年前の準決勝で敗れたフランスと対戦し、再び2-4で敗れたもののワールドカップ準優勝という成績を残している 》
ガイドの続き
「風光明媚なクロアチアは、ヨーロッパのビーチリゾートとして知られ、年間1,300万人以上の観光客が訪れる観光立国です。観光資源に富んだクロアチアには、小国ながら世界遺産が9つあります。なかでも世界遺産の都市ドゥブロヴニクは[アドリア海の真珠]と称され、世界中から観光客を集めています。この他にも、アドリア海沿岸部にはコルチュラ、トロギール、オパティアなどの観光・保養都市が連なっています。内陸部では、美しい町並みが残る[小ウィーン]ザグレブ、プリトビツェ湖群国立公園などが観光スポットになっていて、ここ数年日本からの観光客がぐんと増えました。
もう一つの主要産業は農業で、内陸部のドラバ川(ドラウ川)、サバ川の流域の肥沃地域では小麦などの穀物、沿岸部ではオリーブやブドウなどが栽培されています。コタル山地、スラボニア地方などでは牛の飼育や林業が盛んで、沿岸部では漁業も盛んです。
ザグレブでは、機械・石油化学などの重工業が発達し、工業はザグレブを中心に発展しました。
2013年7月1日、クロアチアは28番目のEU加盟国として正式にEUに加盟しました。旧ユーゴスラビア構成国家での中ではスロべニアに続く2例目であります。
日本との関係では、独立後、1993年に外交関係を樹立。2008(平成20)年3月にはメシッチ大統領が来日しています。日本へのおもな輸出品目はマグロ、ワイン、繊維であり、日本からのおもな輸入品目は自動車、電気機器、バイク等です」
10時のトイレタイムはガソリンスタンドを兼ねた食堂と売店であった。ボージュさんの義務付けられた休憩もあってタップリ30分である。昨晩降った雪が残っていて、雪の中を歩いてアルプスを見に見晴台まで歩いた。ここのトイレは無料であった。雨は止んでいたが、雨合羽を着て外に出たから防寒着になった。
出発後上田さんのガイドが続く
「[スプリット]はカシテラ湾とスプリット海峡の間にある半島にあるクロアチア南部スプリト・ダルマチア郡の主都で、ダルマチア最大の都市です。温暖な地中海の魅力に包まれたスプリットは、歴史的建造物も多く1979年にはユネスコの世界遺産にも登録されており見所は豊富です。スプリットは地中海性気候で、暑く乾燥した夏期と温暖で湿潤な冬期に分けられ、ヨーロッパでも有数の日照時間を誇っています。またスプリットはこの地方の広域交通の中心であり、ザグレブ・スプリットハイウェイに加え、アドリア海沿岸の主要道路は全てスプリット市内を通過します。
1991年にクロアチアが独立を宣言したとき、スプリットはユーゴ海軍の本部と施設同様、ユーゴ人民軍の大規模駐屯軍を抱えていました。これが一ヶ月以上に渡り、ユーゴ人民軍とクロアチア国民防衛隊、警察との緊張関係を引き起こし様々な事件が勃発しました。最も悲惨な事件は1991年11月15日に起こった。ユーゴ人民軍のフリゲート艦スプリットが砲撃したのです。この事件で、クロアチア人が独占的に占めている旧市街が封鎖されました。攻撃の行われたのと同じ日、クロアチア勢力はフリゲート艦を損傷させ、艦を放棄させました。多くがクロアチア人であったユーゴ人民軍の艦船乗員は、同じクロアチア市民への攻撃を拒否し、艦の連隊を離脱しました。
1992年1月、スプリットにある全てのユーゴ人民軍及びユーゴ海軍施設が明け渡され、この後すぐに景気後退が始まりました。
2000年代に入ると再びスプリットでは開発の勢いが戻って来ました。観光地として注目を集めるようになり、現在ではクロアチアの有力な観光拠点や経済的な中心として多くの新しいホテルや、オフィスビル、住宅などが整備されました。また、多くの開発計画も再開され、新たなインフラの整備も進められ、2009年にはスプリット市の大きな計画の一つであるスパラデュームアリーナが完成しました。
2001年の調査によると、スプリット市の人口は188,694人でした。2007年には221,456人に増加し、スプリット都市圏にはおよそ人口410,000人が住んでいます。クロアチア国内で最大の人口増加地域の一つであります。
1979年スプリット歴史地区はユネスコ世界遺産に登録されました。クロアチア文化の中心の一つとして知られ、文学の伝統は中世より足跡が辿れます。スプリットの旧家はいまだ極度に、ダルマチア沿岸部の暮らしや価値に固執しており、しばしば古代都市の田園化に嫌悪感を口にします。
スプリットは古代と中世初期の2つの重要なものを収蔵する考古学博物館を抱えているのです」ガイドの後も走行時間はタップリある。
「お休みタイムと致しますが、時間が充分ありますので、子守歌のつもりでお聴き下さい。私はクリスチャンではないですが、皆さんも滅多にこんな話は聞けないでしょうから聖書の話をしたいと思います」と、天地創造から始まる旧約聖書の話しが始まった。
「世界の歴史上最も読まれた本をご存知ですか。実は[聖書]なんです。世界で累計50億部以上発行され、人類の歴史上最も読まれた本と言われています。そして世界の歴史を作ってきた本だとも言われています。今回は世界最大の名著[旧約聖書]の内容・あらすじについて、要点を絞ってご紹介します。
紀元前のユダヤ人の歴史と、神とユダヤ人の契約を綴った書物で、全39巻の書物から構成されており、作者は多数のユダヤ人です。紀元前11世紀から紀元前4世紀頃にかけて成立したと考えられています。
旧約聖書は神との古い約束であり、ユダヤ教・キリスト教・の共通の聖典になります。特に重要なのが[創世記]と[出エジプト記]になります。
[絶対神ヤハウェ]が、世界を創造し人間を作ります。1日目に光と闇を分けて昼と夜をつくりました。夕べがあり朝ができました。2日目には天をつくり3日目には大地をつくり海が生まれ、大地には植物ができました。4日目には太陽と月、そして星ができ、5日目には魚と鳥をつくりました。そして、6日目に獣と家畜、そして神の姿に似せて人間をつくりました。7日目には、ご自分の仕事を完成させ安息をとります。
エジプトでの奴隷状態を脱したユダヤの民が、預言者モーセを通じて、[神ヤハウェ]との間に[神の戒めを守る代わりにパレスチナの地を得る]契約を結びます。そして契約通り、パレスチナの地にユダヤ王国を建設しました。
しかしやがて、[神ヤハウェ]への信仰は薄れ、ユダヤ王国は分裂し、他国から占領されてしまいます。ユダヤ人たちは、自分たちが神との契約を破り、信仰を忘れたことに対して、神が罰を与えたのだと考えました。この信仰を忘れた者たちに対して、預言者たちが次々に警告を発するようになります。
『悔い改めて神の戒めを守れ』と、しかしユダヤ人は他民族から迫害を受け続けます。するとユダヤ人たちには、やがてこの世の終わりが来るという[終末思想]が蔓延します。罪に満ちたこの世は、神によって一旦滅ぼされてしまいます。
そして神は『新しい善なる理想的の世界を作り、選ばれた人のみが導かれるだろう』そして神は、『そのための[救世主]を遣わすはずだ。
その救世主は英雄[ダビデ王]の末裔から現れるだろう』ユダヤ人たちは、このように考えるようになりました。その考えは神の言葉として、旧約聖書の預言書に刻まれていくことになります。
そして紀元前4年頃、本当に救世主(イエス)が現れる(新約聖書)へとの流れになります。
重要な人物に要点を絞って、あらすじをご紹介します。特に注意しておいていただきたいのが、アダムからイエスに至るまでの血筋です。
初代アダムから生まれた血筋は、10代目ノアの時代に、他の血筋が一度全滅します。
そして20代目アブラハムの子孫から、ユダヤ人とアラブ人に分かれます。さらにユダヤ人の血筋である34代目ダビデ王の子孫から、救世主62代目イエスが誕生します。これは新約聖書にも関連する重要な流れになります」と、前置きして
「神は6日間で天地を創造し、最後に自分をかたどって、アダム(土の意味)とエバ(命の意味)を創造しました。しかし蛇にそそのかされたエバは、神に禁じられた[知恵の実]を食べて、エデンの楽園を追放されます。さらに女は[子を生む苦しみを大きくされ]、男は[生涯食べ物を得ようと苦しむ]という罰を与えられました。
これ以後に登場する聖書の登場人物、すべての人類はすべてアダムの子孫になります。人類最初の殺人が行われたとされるカインとアベルは、アダムの子になります。なお、旧約聖書によるとアダムが作られたのは紀元前4000年頃になり、彼は930歳で亡くなります。
ノアはアダムから数えて10代目の子孫にあたり、紀元前3000年頃の人物になるようです。有名なノアの箱舟の登場です。人口が増え、悪がはびこる人間たちに対し、神が洪水の罰を与えます。神は、神を信じる正直者のノアに対してのみ、箱舟を作って災いを切り抜けるよう命令します。神の言いつけを守ったノアとその家族は、大雨と大洪水を箱舟でさまよって生き残ります。旧約聖書によると、この時ノア600歳。ノアの家族以外の人類は全滅し、これ以後のすべて登場人物すべての人類はノアの子孫になります。その後ノアは950歳まで生きました。
アブラハムはアダムから数えて20代目の子孫で、紀元前2,000年頃の人物で175歳まで生きたとされています。神の声に従い、現在のイラクからパレスチナのカナンへ移り住んだ人物で、すべてのユダヤ人とアラブ人の父になります。すべてのユダヤ人とアラブ人はアブラハムの子孫です。アブラハムには異なる妻のもとにイシュマエルとイサクという子供を設けますが、イシュマエルから後のアラブ人が生まれ、イサクからからは後のユダヤ人が生まれていくことになります。アブラハムは、神の命令により息子のイサクを生贄に捧げようとしたことで、神の信頼を獲得し、子孫繁栄を約束されます。
紀元前14世紀頃モーセは神から授かった奇跡の力で、ユダヤの民を奴隷状態から救い出し、エジプトを脱出します。そしてユダヤ人たちを率いたモーセは、シナイ山において[神ヤハウェ]と、[神の戒めを守る代わりにパレスチナの地を得る]契約を交わします。有名な[十戒]はこの時に授かりました。モーセはパレスチナの地を得る前に亡くなりますが、120歳ほどまで生きたとされています。モーセの意思は弟子のヨシュアに引き継がれ、ヨシュアによってカナンの攻略が行われていきます」その後ダビデ、ソロモンの話が続き、最後に
「旧約聖書の登場人物ではありませんが、重要な人物なのでご紹介しておきます。イエスが誕生したのは紀元前4年です。[聖母マリア]を通して[神ヤハウェ]の子として生まれたとされています。アダムから数えて62代目、ダビデから数えて28代目の子孫であり、旧約聖書でその出現が預言されていた[救世主キリスト]であるとされています。つまりイエスはユダヤ人でユダヤ教徒、そしてダビデの末裔ということになります」
街道の途中の景色の説明を挟みながら上田さんは話し続けたのである。何かを読んでいる訳ではない、記憶力がたいしたものだと感心した。 私は20歳の時、[世界の永遠のベストセラー]として旧約・新約聖書を、全部読んだことがある。殆ど忘れてしまったが、何でこんな話をするのだろうと思いつつ懐かしかった。殆どの人が子守歌のように聞き、半眠り状態だった。
午後1時過ぎに昼食のためBUSは駐車場に停まった。レストランまで5分程歩くという。ボージュさんが近道を知っているというので付いていくと、工事中で行けず、引き返して別の路を歩く羽目になった。坂道と階段をくねくね歩いて、20分も掛かってしまった。
昼食のメインは焼き魚だった。少し汗ばんだので、3€のクロアチアビールは美味かった。
午後3時30分頃スプリットに着いた。

ス プ リ ト の 旧 市 街
レストランやカフェ、南国風のヤシの木が連なる美しい海岸のプロムナードの奧にあるのがスプリトの旧市街である。
美しいロマネスク様式の鐘楼に象徴される旧市街は、古代ローマ時代の宮殿の上に築かれ、その独特な成り立ちからも世界遺産にも登録されている。港には多くの大型クルーズ船が停泊し、連日世界中からの観光客で賑わっている。
イヤホンを首に下げる。皮のジャケットにはポケットが沢山あって、胸のポケットにイヤホンの本体が収まってぶらぶらしなくなった。
現地スプリットの、金髪で背の高い女性ガイドと合流した。上田さんの通訳を聞きながら旧市内観光が始まった。
スプリットの旧市街は、295年-305年に古代ローマ帝国の皇帝ディオクレティアヌスが宮殿を建造したことに始まった。

宮殿の広さは南北215m、東西180mである。ペリスティルという広場を中心に北は兵舎、南はディオクレティアヌス帝の私邸として使われていた。ペリスティルにはコスプレした古代ローマ兵士がいるので、一緒に記念撮影することもできるとの説明があったが、この日は一人も居なかった。
古代ローマ時代の名残りは、その昔ディオクレティアヌスの霊廟だった大聖堂、現在は洗礼室になっているジュピター神殿、宮殿を囲む城壁等に見ることができる。中でも、中世の時代に食料庫として利用されていた宮殿地下は、現在一部がショップになっているほか、当時のままの広い空間が残っており、地上階を支えるための貴重な構造になっている。
古代ローマ帝国の滅亡後、7世紀になると南スラブ人などの異民族の侵入から逃れようとした人々が、高さ20m、厚さ2mにも及ぶ要塞のように堅固な城壁で囲まれたディオクレティアヌス宮殿に移り住むようになった。そのため、宮殿の基礎を残したまま建物が増築され、古代と中世の様式が複雑に混在する不思議な街へと発展した。
旧市街の象徴である鐘楼は、中世の時代に大聖堂の横に隣接して建て加えられ、古代ローマとロマネスクの様式が見事に調和して作られている。鐘楼から眺めるアドリア海の美しい海とスプリットの街並みはとても素晴らしく素敵だった。
[ディオクレティアヌス宮殿]は、クロアチアの都市スプリットに残っている宮殿で、3世紀末から4世紀初頭にかけて古代ローマのディオクレティアヌス帝によって建てられたものである。
ディオクレティアヌスは3世紀末、内戦の絶えなかったローマ帝国を安定に導き、20年の統治ののち西暦305年5月1日に帝位を退いた。後に隠棲しようと、生まれ故郷のサロナに近いスプリットに巨大な宮殿を建て移り住んだ。実際の建造は、ディオクレティアヌスが帝位を退く10年前の、295年から始められていた。それはダルマティアの皇帝属州州都サロナから6.5 km ほどにあたる、ダルマティアの海岸から伸びる短いイストリア半島の南側の湾に置かれた。その地域は海に向って緩やかに傾斜しており、典型的なカルスト地形で、石灰岩の尾根が東から西に走っている。高さ20m以上の強固な城壁で囲み、4つの門を設けた宮殿には、皇帝の居室、霊廟、3つの神殿などがある。
中世が終わった頃には、西欧では本宮殿の存在そのものが実質的に分からなくなっていた。7世紀にスラブ人などの侵攻によりサロナが廃墟となると、逃れてきた住民が宮殿の石材を利用して、新たな町を造り住み着いたことでスプリットは発展した。
この状況が打破されたのは、1764年のことである。この年に、フランス人の芸術家・古物収集家シャルル・ルイ・クレリソをはじめとする創案者たちの意向で、宮殿の調査を行っていたスコットランド人の新古典派様式建築家ロバート・アダムが、その成果を[ダルマティアのスパラトロにあるディオクレティアヌス帝の宮殿遺跡]として公刊したのである。アダムにとっての宮殿は、新古典主義の新しい様式を生み出すための刺激になった。そして、実測図の出版は、ヨーロッパの建築用語にディオクレティアヌス宮殿が持ちこまれる契機となった。本宮殿は現在、他の重要な歴史的建造物群とともに、スプリットの中心市街にある。
宮殿の平面図は西側、北側、東側のファサードからそれぞれ塔が突き出ており、不規則な長方形をしている。宮殿は豪奢な別邸の特質を備えている一方で、巨大な門や見張り塔の存在によって軍事施設の特質も混ぜ合わせている。宮殿は城壁に囲まれており、時には9,000人以上を収容した。
宮殿地下の一部は半円筒ヴォールトを具えた石造建築物である。

宮 殿 の 地 下 売 店
南側のファサードのみは直接海に接し、極めて海に近いため、無防備である。その上階にあるアーケード付き柱廊の精緻な建築上の組み立ては、より地味な他の3つのファサードとは一線を画している。それぞれの壁の中央につけられた堂々たる扉は、中庭に繋がっている。南の海に面した扉[銅の門]は、形式と寸法の面で他の3つよりも簡素で、皇帝が私的に海に向かう場合や必需品の納入の際に用いられた勝手口であったと推測されている。
デザインは別邸の様式にも城塞の様式にも起源を持つが、この二重性は内装にもはっきりと表れている。横に走る道(デクマヌス)は、東門[銀の門]と西門[鉄の門]に通じており、建造物群を二分している。南半分はより豪奢な建造物群で、皇帝の公的・私的な各居住区画や宗教施設が置かれている。皇帝の居住区画は海沿いにあるが、地面でなく土台になる構造物の上に建てられている。これは、傾斜した地面が高さに著しい差をもたらすことから、調整する必要があったためである。
宮殿地下の土台部分は何世紀にも渡りゴミで埋められてしまっていたが、それらを取り除き空間にしてある。保存状態は良好で、その上にあった当時の部屋割りがどのようなものであったかを伝えている。高い天井までの石組みは当時の高度な技術を駆使して工夫されている。皇帝の胸像や机、ローマ時代の水道管などが展示され、随所に往時を彷彿させる遺構が残されている。
〔南から眺めた宮殿〕周柱式と呼ばれる素晴らしい中庭は、皇帝の居住区画への北面の通り道にもなっている。

同時に東はディオクレティアヌス廟(現・聖ドミヌス大聖堂)への通り道に、西は3つの神殿(2つは現存しないが、旧ユピテル神殿は現在洗礼堂になっている)への通り道になっていた。
宮殿の北半分は、北門[黄金の門]から中庭へと南北に走る道(カルド)によって二分されている。これらの区画の保存状況は余り良くないが、一般には、兵士や召使たちの居住区画であった。どちらの区画も通りに囲まれていて、外壁沿いに長方形の建物[貯蔵庫]が並んでいる。
宮殿は地元の白い石灰岩や高品質の大理石で建てられた。大理石の大半はブラチ島の石切り場から、凝灰岩の大半は近隣の河床から運ばれ、煉瓦の大半はサロナ製である。エジプトの花崗岩の円柱やスフィンクスなどのように、装飾に用いられた材質は輸入されたものである。

また、護岸やいくつかの柱頭に用いられた良質の大理石は、プロコネソス製である。
この宮殿は現在、他の重要な歴史的建造物群とともに、スプリットの中心市街にある。ディオクレティアヌス宮殿は、その保存状態の良さによって、一地域にとっての文化財というだけにとどまらない。この宮殿は、クロアチアのアドリア海沿岸では、最も有名でよく整っている建築的・文化的な遺産であり、地中海の宮殿、ひいてはヨーロッパや世界のものに目を移しても、その中で際立ったものといえる。それゆえに、1979年には国際連合教育科学文化機関は、ディオクレティアヌス宮殿と周辺のスプリット歴史地区を、世界遺産に登録した。(世界遺産に登録されているにもかかわらず、市議会は2006年11月に宮殿内に店舗など20軒以上の新しい建築物を立てることを許可する決議を行った。背景には、地元不動産業者たちのロビー活動があり、多分に政略的なものだとされている)
スプリットに来たということはディオクレティアヌス宮殿を訪れたということだと思う。
1時間程上田さんの通訳ガイドを聞きながら、ディオクレティアヌス宮殿を見学した。
Knに換金する為に銀行へ行く事になったが、現地ガイドさんによると2時に閉店になったという。ここで現地ガイドさんと別れ、上田さんの後に付き、宮殿外の両替店へ行った。
「この店はレイトが高いです」と話す。80€(10,400円)を換金したら588.80Knだった。
40分間の自由時間となった。宮城から出ると海岸の縁だから風は冷たく、晴れ間が見えてもかなり寒い。雨合羽が役に立った。大きなテントが長々とが張ってあり、その下は椅子とテーブルが連なっている。

泥棒除けなのか風で飛ばされないようにしている為か、椅子とテーブルがロープで結びつけられていた。アイスクリームを売る屋台があった。丁度上田さんが来たので、一緒にマンゴーアイスクリームを食べた。
午後6時に今夜泊まるドゥーゴボリェの街に着き、駐車場からレストランまで5分程歩いた。今夜はクロアチアのビール・オジュイスコ(ザグレブにある醸造所で生産されている。スッキリとした苦味が特徴的なラガービールはアルコール度数5%だ。オジュイスコの語源はクロアチア語で[3月]を意味するオジュイャクである。日本語に訳すと[弥生ビール]といったところである。クロアチア人にこよなく愛されている国民的ビールで[ジュヤ]というニックネームで親しまれている)に挑戦してみた。大ジョッキーで20Kn(360円)だった。もう雨は降らないだろうとBUSの中に雨合羽を置いて来てしまったら、レストランを出た時はかなり強い雨が降っていた。BUSまで急ぎ足、そこからホテルKATARINA迄は10分、19時30分に着いた。
「明日は国境を2度超えますので、上着を御用意下さい」いつものように部屋のキーと12日の案内を受け取り部屋に入った。今日の部屋はツインベッドだった。