モロッコ10日間

 第8日目 6月12日(火曜日)

 今日も好天である。ホテルのテレビでNHKの衛星放送を見ることができた。言葉は中国語でチンプンカンプンだが、米朝首脳会談は今日の午前9時(日本時間午前10時)から始まる予定で、トランプ大統領は既にシンガポール入りをしていると報じていた。
 6時30分にレストランに行くと、既にツアーの人達が食事をしていた。野菜サラダを中心に、ジュース、牛乳、ゆで卵1個、西瓜を2切れ、初めてバナナが出ていたので、1本という朝食だった。今日も沢山歩くので、出で立ちは昨日と同じ紫色の甚兵衛である。

 今日で事実上のモロッコ観光の最終日である。フェズ市内観光と同じく今日も終日徒歩で、世界遺産のマラケシュを5時間かけて観光する。ガイドについて、ジャマ・エル・フナ広場、メディナ、バヒア宮殿、スークの散策後、民芸品店にてショッピング、レストランでの昼食が組まれ、昼食後は一旦ホテルに戻って寛ぐのも良し、ジャマ・エル・フナ広場を自由散策するも良し、ホテルで休憩する人は午後6時出発で、自由散策組とジャマ・エル・フナ広場の郵便局前で合流、レストランで夕食、ホテル帰着は21時30分を予定している。

 午前9時をホテル出発した。今日の観光にも日本語の話せる男性ガイド アリ(崇高と言う意味)が同乗した。バスを降りると、アリに付いて徒歩観光である。イヤホンガイドをセットした。アリも日本語は上手じゃ無かった。

 最初に訪れたのは[クトゥビーヤ・モスク]だった。マラケシュにある市内で最も大きなモスクである。噴水のある公園前で下車し写真撮影だけの観光である。ミナレット(塔)はムワッヒド朝の第3代アミール、ヤアクーブ・マンスールの統治下1147年に着工され、その後モスク部分だけが完成したが、位置がメッカに対して正しくないとして破壊され、基礎部分だけ残っている。
 1199年にモスクが建て直され、現在のようなミナレットになった。

[ ク ト ゥ ビ ー ヤ ・ モ ス ク ]

 モスクの名称は図書館員を意味するアラビア語の[アル・クトゥビーイン]に由来する。これは、かつてモスクが本を売る人々に囲まれていたためだ。モスクはこの種の建築においては、重要なものの一つと考えられている。塔は高さ77m、側面の長さは12.8mである。6つの個室(1つは他のものよりも高い位置にある)は内部を構成し、ムアッジンがバルコニーへ登れるようその周りに傾斜路が設けられている。建物は伝統的なムワッヒド朝時代の様式で建てられており、4つの銅の球体で装飾されている。伝承によれば、これら塔の上にある4つの球体は純金で出来ており、3つになる前提だった。しかし、ヤアクーブ・マンスールの妻がラマダーン中の断食をしなかったことへの代償として、彼女は自身の黄金の装身具を溶かし、4つ目の球体にあてがったと言われている。
 アリは賑やかな商店街を案内した。

メッラー雑貨店雑貨店

 かつてのユダヤ人居住区メッラーの角に大きな広場があり、そこから細い路地をたどっていくと、アーケードになっていて、香辛料を売る店、壁に塗る塗料、雑貨類等商品ごとにブロックになった商店を見学して、狭い道をくねくね進みバヒア宮殿の入口に着いた。

 マラケシュのメディナの南方、古い時代のイスラムの建築物が並ぶ旧市街の一角に、[バヒア宮殿]がある。

イ ス ラ ム 建 築 の 特 徴 的 装 飾
天 井 の こ っ た 装 飾

 1985年に世界遺産に登録されている。この宮殿は19世紀末にアラウィー朝ハッサン1世の宰相アリ・バハメットの私邸として建てられた、いわば首相官邸である。まだ100年ちょっとしか経っていないのだが、保存状態は特別良いとはいえない。
 中は広くて、美しいイスラム建築の特徴的装飾が随所に見られる。宮殿らしい調度品があればもっと興味が沸くところだが、見学できたのは建築物と庭のみである。各部屋部屋は天井や壁の彫刻が美しく見応えがあり、ハーレムの中の間取りが面白かった。
 昔は一夫多妻の国だったモロッコ、妻は4人迄で、4人の妃の部屋がそれぞれあり、一つは観光客の出入り口になっていた。そして妻は平等といいながらも、一番好きだった妃の名前が付けられた宮廷である。
 部屋の天井中央から吊り下げられたランプと、真下に置かれた水鉢とを呼応させている。床一面にはびっしりモザイク模様。イスラムの文様と同様、建物もちゃんと配置やリズムを計算して作られているのだという。
 貢ぎものだったお妾さんも多く1,000人の子供が居たと、ギネスに載っている。この記録が塗り替えられることはなさそうである。
 一つ一つの部屋の異なったモザイクと、彩り鮮やかな壁のゼリージュタイル、スギの木のドアの文様、アーチの透かし彫り、精密画が描かれた天井のペインティングもきれいで、壁や柱の細かい彫刻など手抜きがない。この宮殿にも、スペインのアルハンブラ宮殿に似せた装飾が施されていた。鬱蒼とした樹木もたくさん植えてあり、宮廷の中央に水盤を配した中庭もある。

宮 廷 の 中 央  水 盤 を 配 し た 中 庭

 人気の観光スポットらしく、観光客が大勢見学に来ていた。 ここへ来る時に通った商店街まで戻り、再びバスに乗った。何処へ行くのかと思ったら、[民芸品店]だった。これもツアーに組み込まれたショッピングタイムである。

マ ケ ラ ッ シ ュ の 民 芸 品 店

 玄関に高さ3mのマジンガーZや、ライオンの狛犬が置いてある。3階建てのビルにエスカレーターがあった。それに乗るとアリは先ず2階の奧にあるトイレへ案内してくれた。1階は吹き抜けになっていて、2階から一階のゴチャゴチャした展示品が見下ろせる。日本のデパートのような空間が無い。圧倒されてしまう。
 2階は絨毯や毛布の類いの商品が3mもの高さにうず高く積み上げてある。何でも40分のショッピングタイムだという。3階まで上がってみた。あるはあるは、貴金属の装飾品、旅の途中で見学したモザイクをあしらった陶芸品類、等身大の錫で作った馬、シャンデリア類、テーブルや椅子や調度品、モザイクで造り上げた家具等々、ありとあらゆるモロッコの民芸品が展示してあった。3階の屋上に工房があって、職人達が貴金属の民芸品を作っていた。一通り物色して玄関まで降りた。ツアーの人が数人ベンチに座っていた。 店の前に[果汁100%ジュース]店があり、外国人女性が丸テーブルに座り何やら飲んでいた。時間はたっぷりあるので、モロッコ名物の[オレンジジュース]を注文したら10DH(130円)だという。500mlのコップに目一杯ジュースが入っていた。

 民芸品店を出ると又徒歩での移動である。

 [ジャマ・エル・フナ広場]はマラケシュ旧市街地にある広場である。11世紀後半にマラケッシュが首都であった頃から街の中心で、かつては公開処刑なども行われていた広場である。広場の入口道路に客待ちの2頭立て馬車が30台ぐらいの長い行列を作っていた。
広場の目印になるマラケシュのシンボル、先程近く迄行ったクトゥビアの塔が良く見える。アリの説明では、
 「尖塔の金色の球体は一番大きいのがイスラム教、二番目がキリスト教、三番目がユダヤ教を意味している」そうである。
 この広場は、アラブ世界最大の屋台街とも呼ばれ、現在も大道芸人や飲食物、金属細工を扱う屋台などがところ狭しと軒を並べ、混然とした賑わいを見せている筈なのだが、今日はラマダン中なので、屋台も出ていない。何時もならフナ広場には、ヘビ使いやダンサー、アクロバット芸など、大道芸人たちの稼ぎの場として賑わっているそうだが、今日は広場の左奥の片隅に常設の生ジュースを商う店のみが開いているだけで、閑散としていた。アリの説明では、
 「午後6時に、又ここに来た時は賑わっています」だそうである。
 古くからモロッコ観光名所の一つとなってきたが、近年、極端に治安が悪化しているため、観光客への安全を考慮し、広場に面したレストランなどから風景を眺める形式のツアーが多くなったそうである。
 2011年4月28日正午前にフナ広場で爆発事故が発生し、フランス人8名を含む17名が死亡、20名以上が負傷した。当初は屋台が用いていたガスボンベの爆発によるものと思われていたが、その後の捜査により遠隔操作の爆弾によるテロであることが判明した。 
 フナ広場は[死者の広場]と呼ばれているが、元々は、広場のすぐ近くのモスク、クトゥビアに対抗して大きな[喜びのモスク]を作ろうとしていた王様が建築途中に亡くなり、それと同時にモスクも崩れてしまったという事から[フナ(終末・終わり)]と呼ばれるようになった。 
 東はフェズ、西は大西洋、南はサハラ、北は地中海方面やヨーロッパから繋がる交易路の中心が、商業の街マラケシュである。そして、その街の道路のさらに中央となる交差点がフナ広場なのである。 広場からミナレットのある方へ歩いた所にレストランがあった。ガイドのアリとはここでお別れした。
 今日のメニューは[サラダ、鰯のつみれとジャガイモのタジン、デザートはオレンジ]であった。店内はクーラーが良く効いていた。フナ広場のレストランだけあって、ビール60DH(780円)、中瓶ワイン150DH(1,950円)、ジュース類50DH(650円)、500ml入ウオーターも50DHと馬鹿高かった。180mlのビールを、旅気分に1本注文した。男性3人がモロッコの民族楽器を演奏していた。今日のタジン料理も甘味で美味くない。
 永田さんが何やら話し始めた。
 「今回のツアーで旅行期間中に誕生日を迎えた方が3人居られます。お一人様でしたら誕生日当日皆さんとお祝い申し上げるのですが、3人様でしたので今夜にでもと考えておりました。幸いこのレストランで生演奏している方がいらっしゃいますので、お話しますと快く承諾下さいました。お誕生日をお迎えになったのは鈴木進次様、鈴木博様、川崎ヒロ子様です。ささやかですが、阪急交通社から、アウト・ベン・ハッドゥのクサールで画家さんが描いていた[あぶり絵(A5の画用紙に椰子の木と日干し煉瓦の家、その前に駱駝の親子が描かれ、SHINJI HAPPY BIRTHAY と書かれている)]とティシュカ峠で買った[駱駝の置物(5×15cm・首を持上げ座っている石のひとこぶ駱駝)]を贈りたいと思います」と一人一人に手渡してくれた。皆さんが拍手をして下さった。
 「3人様のところへ演奏者が参ります。皆さんでハッピーバースデーを歌ってお祝いしたいと思いますのでご唱和宜しくお願いします」1人1人の処へ来てはハッピーバースデーを演奏してくれた。
 私は立ち上がり、皆さんに頭を下げて
 「どうも有難うございます」とお礼を述べた。
 私はここ30年誕生日を海外旅行で迎えてきた。大概は旅行会社で何らかの祝いをしてくれた。一番記憶に残っているのは2003年にトルコで誕生日を迎えた時である。昔宮廷だったホテルで
 「他の方には内緒ですよ」と、スイートルームに泊まらせてくれたことである。一人で大きな2部屋をどうやって使えというのか?と嬉しいやら、戸惑ったことは忘れない。誕生日は幾つになっても嬉しいものである。
 一緒のテーブルで食事をしていた方から
 「お幾つになられたのですか?」と聞かれた。
 「㐂寿になりました」と答えると、
 「ええ! それは御目出度う御座います。てっきり60前だと思っていましたわ。お顔の肌も綺麗だし、皺一つ無いでしょう。それに何時も先頭を歩いていらっしゃって、足も速いしお強いから」てなことを言われ照れたものである。
 食後はフナ広場に残り自由に過ごす人と、ホテルに帰り寛ぐ人に別れた。午後7時30分にフナ広場の郵便局前で合流することになった。私は風呂に入り、あらまし荷物の整理をし、残りのDHを数え、1階のBERに行ってビールを2本買ってきて、言葉の分からないテレビを見て寛いだ。枕チップ10DHを枕脇に置く。今夜レストランで飲むワインとビール代として210DH残っているのを確認した。
 午後6時にホテル出発、6時20分にフナ広場に到着した。香辛料を買いたいとアブドルに案内して貰った人の他は、自由散策である。幾らか出店が出始め、蛇使いや楽隊が客を呼び込んでいた。
 昔ながらのとんがり帽子(色取り取りの花の刺繍、頭が4つも入ってしまいそうな帽子)を被り、目立つ真っ赤な民俗衣装をまとった水売りの男性が一人出てきていた。

民俗衣装をまとった水売りの男

 真鍮やら錫のコップを幾つも首に下げ、鐘を鳴らして動物の皮の水筒を肩に掛けている。現在はペットボトルの水を売るのだが、先ず買う人は無さそうだ。写真を撮らせてチップを稼ぐのが本業である。カメラを向けるだけでチップを要求されるそうだから〈触らぬ神にたたり無し〉にした。
 永田さんがスークを案内してくれるというので付いて行った。

 [スーク]とは、アラブ人やベルベル人の世界での商業地区の市場である。語源は、送る、運ぶ、手渡すという意味の動詞からの分かれである。総体としての市場を指す場合と、特定の商品を扱う個々の市場を差す場合がある。
 元来は、キャラバン(隊商)の通る街外れに定期的に立つ交易の市で、祝祭の場でもあり、部族紛争のときも中立性が保たれてきた。やがて恒久的なスークが登場し、現在のアラブ世界では、英語の[マーケット]とほぼ同じ意味で用いられ、物理的な意味と抽象的な意味の両方を含んでいる。
 [スークは以下の5種類に大別される]
 ☆ 一般的スーク(伝統的市場)
 ☆ スーク・ル・ハール(政府公認青物市場)
 ☆ スーク・ル・ジュムア(定期市)
[季節市]
 ☆ スーク・ル・インタージュ(年一度の地場産品市)
 ☆ 季節的なスーク
 スークは元来街外れに、ある年、ある月、ある週にだけ立つ市であった。たとえばメッカにはヒジュラ暦の戦いが禁じられていた神聖なズー・アル・カイダ月にだけ毎年立つスークがあった。家畜や農作物、工芸品が売られるだけでなく詩歌の出来を競ったりした。街中の空き地で、毎週決まった曜日にだけ開かれるスークは現在でもアラブ世界では珍しくない。アンマンの[水曜スーク]は毎週水曜だけ開かれ中古品を売買する。バグダットの[金曜スーク]はペットを、マラケシュのスークは歌やアクロバット、サーカスで有名である。

 [シャルジャ・セントラル・マーケット]今日では娯楽に重点が置かれておらず、売買の場となるこのタイプのスークが一般的となっている。

[シャルジャ・セントラル・マーケット]

 ウマイヤ朝の時代までは、広場に商人が屋台を運び入れ、日中のみ商いをして夜には屋台を撤収していた。先着順で、誰も広場の決まった場所を占有する権利はなかった。
 ウマイヤ朝になってはじめて、個々の商人に特定の場所が貸し出されるようになった。それ以後、広場に小屋が建てられ、そこに夜間商品をストックするようになり、スークの姿が一変した。当初、スークには多くの規制があった。スークの中に[ゴールドスーク]、[スパイススーク]、というように同じ商品を扱う者ごとに狭い一角にまとめて押し込められ、それぞれもまたスークと呼んだ。
 スークはやがて契約や課税という点からも街の行政の中心へ成長していった。市の中心部へと進出したスークは、取り引きの場、行政・司法の座、ハーン(キャラバンサライ)、モスク、マドラサ、ハンマーム等を内包する地区を形成した。外部から来た商人は、荷物をキャラバンサライの倉庫に入れて数日間宿泊した。
 アフリカでは今なお、人々はただ座って時を過ごしたり、語らうためにだけスークに集まってくる。アラブ世界の美しく典型的なスークとして、モロッコのフェス、シリアのアレッポ、イェメンのサナアの3つがあげられる。ただし、アレッポについては2011年よりシリアで続く内戦の影響で歴史的な店舗の大半は焼失してしまった。

 [マケラッシュのスーク]何処の国にもあるバザールと思えば良い。色彩豊かな雑貨など見ているだけでも浮き浮きしてくる。
ジャマ・エル・フナ広場の北側に、世界最大とも呼ばれるスークが広がっている。スークは網の目のように張り巡らされた迷路である。路地から路地へ、迷いながら歩き回り、無数にあるお店を見て回って、ショッピングを楽しむのが、日中のマラケシュの一番の楽しみ方である。スークのメインストリートは[スーク・スマリン通り]、入り口の[スマリン門]を抜けると、商品の種類ごとに店が集まっている。みやげ物・衣類・日用雑貨・絨毯・貴金属・羊毛・バブーシュ・銅や真鍮製品など、様々なお店が連なっている。その他には革職人・鍛冶屋・木工品・染色職人・スパイス・陶器・羊の革などなどのスークがある。
 ただし、カメラを向けるとチップを払えと要求されので、結構高いお金を吹っ掛けてくる。写真を撮るごとに値切り交渉をしなくてはならないのが面倒なので、写真は撮らないことにした。
 
 広場には縁日に付きもののゲームを楽しめる屋台なども多くでるようだ。屋台の生絞りたてオレンジジューススタンドやドライフルーツの店は名物のひとつで、日本のみかんジュースに近い甘さがあるというが、屋台は薄汚れて不衛生極まりない。我々がホテルやレストランで支払う金額の4分の1の値段である。飲みたい衝動に駆られたが、飲んだらたちまち腹を下すだろうから止めておいた。
 日本で言う[でんでん虫]を、ボイルして売っていた。山のように積み上げてある。永田さんは
 「モロッコではエスカルゴと言い、大変好まれています」と言い、20DH(230円)ばかり買った。紙袋(2合入り)にいっぱい入っていた。爪楊枝でテイスト、2つばかり口にした。薄い塩味だったと思う。このエスカルゴを売る店が方々にあった。
 時間が迫ってきたので郵便局前まで行った。

ジャマ・エル・フナ広場の 夕日

 丁度日没の時間で、スークの西の方が真っ赤に染まっていた。ジャマ・エル・フナ広場のシンボル、ミナレットも夕日で赤く染まっていた。我々が帰った後、もっと賑やかになると説明されたが、ラマダンではない時の賑わいを見たかった。
 モロッコに来て不思議に思ったのは、今迄観光してきた7日間、どの街を観光しても救急車や消防車のサイレンを一度も耳にしなかったことである。広場からレストランまで歩いて行った。馬車の行列は無くなり、ステンドグラスで作った灯籠のようなランプを道路いっぱいに広げて売り出していた。
 「モロッコ料理ばかりでは飽きてしまうとの御意見が御座いましたので、本日の夕食は地元で評判のレストランで〈ピザ〉をお召し上がりいただきます」永田さんの案内でピザ店に入った。テーブルに座ると、先ず飲み物の注文である。ビール80DH(1,040円)中瓶ワイン200DH(2,600円)だという。ぶったくりもいい加減にしろと腹が立った。ここで飲むのを止めにした。ホテルに戻ってから最後の宴をすることに決めた。民俗衣装を着た男性店員ばかりだった。
3種類のピザが出た。オリーブの味が濃くて、何処が評判なんだと思った。同じテーブルに座った中国人の娘さんが
 「明日はどんな甚兵衛を着るのですか? 楽しみにしていますのよ」と聞くので
 「明日は帰国日なので、Gパンにジャンパー、靴を履きます」と答えた。
 帰りのバスで永田さんから説明があった。
 「いよいよ明日は帰国です。モーニングコールは6時30分に致します。食堂は6時30分から開いています。8時までにスーツケースは扉の外にお出し下さい。空港まではそれ程時間が掛かりませんのでホテル出発は1時間遅らせ8時30分と致します」

 21時30分過ぎにホテルに戻った。
 ホテルのBERで、ビール3本と中瓶レッドワイン1本を買った。余った50DH(650円)はチップ。明日のトイレ料金のみを残した。
 出発準備は完了している。赤ちゃんビールを飲んだ後、レッドワインを飲み、少々残っていたブランデーも全部頂いて12時に就寝。

 第9日目 6月13日(水曜日) 帰国

ホテル・マケラッシュ・ル・セミラミス

 今朝も午前4時に目が覚めてしまった。今日の午後から長時間飛行となるので、エコノミー症候群に掛からないように念入りにミニ体操をこなした。食堂に行く時にスーツケースは出しておいた。
 今朝も中国人の娘さんと一緒のテーブルだった。何時もは念入りに御化粧しているのに、今朝は二人ともスッピンだった。
 「どうして御化粧しないのですか?」余計なことだが聞いてみた。
 「良く判りましたね。だって今日は飛行機で寝るだけですから」との答えだった。そう言えばモロッコに来る時も彼女たちは横になって寝ていたっけ。旅慣れた娘さんだと感心したものだった。
 今日はホテルからカサブランカ(約240km)のムハンマド5世国際空港迄直行するのみである。昼食の予定は無いというので、レストランからフランスパンを1個頂戴しておいた。
 空港でのチェックインは銘々行った。ツアーの場合はあらかじめ席が決められているようで、カサブランカからドバイまでは通路席が貰えなかった。
 「鈴木さん航空券を貸して下さい」と、永田さんがゲート前のカウンターでトイレ近くの前方の通路席と交換してきてくれた。30分程待つと搭乗が開始し、EK-0752便は13時45分飛び立った。
 機内食が2度出、ドリンクサービスも充実していた。7時間30分の飛行で、ドバイ国際空港へは現地時間の1時16分に着いた。 大空港なのにここもリムジンバスでの移動だった。席を替えて貰ったのは私と、中国人の新婚夫婦だけだった。最後にタラップを降りてきた私を永田さんと新婚夫婦が発車を待つバスで待っていてくれた。このバスに乗ったのは4人だけだった。空港ビルに入るとツアーメンバーは誰も居なかった。ツアー団体が降りた場所と別の所に連れてこられてしまったのである。乗り換え時間は搭乗開始時間になっていた。広い空港内を急いで歩き、EK-0318便に搭乗できた。 2時40分に飛び立った。後は成田国際空港まで9時間55分のフライトである。
モロッコへ旅をなさる方のガイドになれば幸いです。

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