第5日目 6月9日(土曜日)
今朝も午前4時に目が覚めてしまった。今日は私の77歳の誕生日である。ミニ体操の腕立て伏せは今日から1回増やし77回行うことになる。朝食は6時30分、スーツケースを部屋の外に出して食堂に向かう。
午前8時ホテルを出発した。今朝は曇り空である。今日も1日中バス移動、観光は無いのと同じだ。今朝は濃紺の大島紬の甚兵衛を着た。バスの中はクーラーが効いているので、1998年にフランスがサッカー・ワールドカップで優勝した時発売されたTシャツも着ておいた。
午前中はベルベル人の街などを通り山岳地帯を目指しイフレン(約65km、約1時間30分)へ向かう。途中で雨になった。
ミドル・アトラス山脈の中腹の途中にある1929年からの保養地[イフレン]は、杉の林に囲まれた標高1650mのリゾート村である。小川が流れるこの町はモロッコのスイスとも呼ばれているだけあって、アルペン・リゾートの雰囲気がたゆたう。
モロッコがフランスの植民地だったころフランス人によって避暑保養地として建てられた、日本の軽井沢のような町である。(ここに来る途中にフランス時代の軍事施設もあった)
真夏に涼を求め、モロッコの金持ちや政府要人が訪れる避暑地で、王様も別荘を構えているし、沢山の別荘やモロッコらしからぬ、ヨーロッパ風な瀟洒な家々が並んでいる。建物を見てなるほどフランスのなごりがと納得。冬場はスキーのメッカである。スキー好きの王様もプリンス時代に、よくここを訪れている。
20世紀初めまでモロッコの山間部の森林地帯には沢山のアトラスライオンが生息していた。現在、動物園で見られるライオンに比べたら大きい個体で1900年初頭に乱獲などにより絶滅されたという別名バーバリ・ライオンである。永田さんのガイドを聞く。
「[バーバリライオン]は、食肉目ネコ科に属するライオンの一亜種で、アフリカ北部(現在のエジプトからモロッコにかけて)に生息していました。記録された最大の個体は全長は4m以上(3.25mの頭胴長と75cmの尻尾)で、体重は200キロほどとか? この大きさはライオンの仲間の中でも現存のどの亜種よりも大型で、胴体まで伸びる長いたてがみと、厚い胸板が特徴的です。反面脚はやや短めでした。非常に黒いたてがみは長く伸びて胴にまで達していたと言われています。ですが、飼育下の個体のサイズと比較したことにより、この記録の信憑性は問われているところです。
ローマ帝国が栄えていた時代、北アフリカ征服に乗り出したローマ軍は、たくさんのバーバリライオンを戦利品として捕獲しました。見た目からして明らかにでかくて強そうなバーバリライオンは、見世物には打ってつけでした。そのためバーバリライオンは、余興としてコロッセオなどにおいて剣闘士とのデスマッチをやらされました。観客の興奮は、その熱気が天にも昇るかのような勢いだったようです。また、初代ローマ法王は死刑執行者としてこのバーバリライオンを重宝に使いました。当時弾圧の対象となっていたキリスト教徒や、犯罪者などの処刑する者として、バーバリライオンはよく用いられました。ローマ帝国が衰退した後も、バーバリライオンに安寧の時代は訪れませんでした。次々と列強国が進出してくると、今度は単純に、趣味のハンティングの対象としてバーバリライオンは狙われました。こうして生息地を減らしていったバーバリライオンは、アトラス山脈へと逃げこむことになったのです。厳しい自然環境の土地だったため、人間の開拓の手が及ばないそこは人の手が入りにくかったのですが、それはバーバリライオンにとって試練の土地にして最後の砦でもありました。だが、ハンティングの手は緩むことはあっても絶えることはなく、1922年に最後の個体が射殺されたことで野生絶滅種となってしまいました。
1996年にまさかの再発見の報がもたらされました。が、純血種かどうかはかなり怪しいという判定であり、しかも1頭しか発見されなかったことで、どの道絶滅判定がやや先送りになるだけでした。飼育下のバーバリライオンもほとんど混血種しか存在せず、実質絶滅状態のライオンとなりました。
〈奇跡の純血種生存〉これまでバーバリライオンは混血種か、純血種っぽい個体しか発見されませんでした。ですが、2012年になんと、かつてのモロッコ国王ムハンマド5世の私設動物園において、純血種のバーバリライオンが飼育されていることが判明したのです。当時、国内の各部族は王への忠誠の証としてこのバーバリライオンを献上しており、そんなバーバリライオンを集めて飼育していたのが、ムハンマド5世の個人的動物園だったのです。現在、後にモロッコ首都に開設されたラバト動物園において個体数の約半数が飼育されており、しかも開園直後に3頭のバーバリライオンが生まれるなど、明るいスタートとなりました。現段階で純血のバーバリライオンが地球上に生き残っていたというニュースは「あの動物も生き残っているかも……」という一縷の望みを人類に抱かせるに至りました。また生き残っていたとはいえ、生存数は100頭以下という繁殖体系はいつ野生絶滅してもおかしくなく、依然厳しい状況であることに変わりはありません 》
イフレンというのはアラビア語で[ライオン]という意味で、町で一番人気のシンボルは実物大(というがそれよりかなりデカい)ライオンの石像である。


石の彫刻と言うより岩を削った感じである。 イフレンに停まったのは、バーバリーライオン像の見学を兼ねたトイレ休憩だった。バス停の周りは何処にでもある高原の公園である。
「何処がモロッコのスイスなんですか?」と永田さんに聞いている人がいた。コテージ風のレストランが数軒あった。そのレストランでトイレを借りるのである。何かを飲んでも飲まなくてもトイレを利用すると5DH(65円)払わなくてはならない。
霧雨が降っていた。気温は20度位か? 甚兵衛姿だと寒かった。 永田さんはバーバリーライオン像が何処にあるのか、何も説明をしなかった。私だけがライオン像のある方へ向かい、写真を撮り終え戻ってくると、
「あそこに何があるのですか?」と聞かれたので
「イフレンの名物バーバリーライオン像があるんですよ」と話すと、数人が乗りかけたバスからライオン像を見に降りていった。
ここから又バスに乗りミデルト(約149km、約2時間30分)へ向かい昼食である。
山と山の間の、平らなエリアには緑があり、乾いた広大な土地は痩せた土塊に見えるが牧草地帯のようで、沢山の羊が放し飼いにされている。放牧しながら暮らす人達の小さなテント[ノマド(遊牧民)]が点在していた。雄大な景色に道一本、遠くには山、日本で見る事は出来ない風景である。生憎の天候で見ることが出来なかったが、晴れていれば右にモワイアン・アトラス、左にオート・アトラスを見られたのだが・・・・。
皆さんが寒いというので、クーラーを切ってもらった。
アトラス山脈のザッド峠2,180mを越えると、なだらかな山にスキー場があり、緑の谷間に、小さな村が点在していた。
エアシ山(3,737m)の麓に広がる静かな街ミデルト(標高1,488m)に着いた。
[ミデルト]は、モロッコ中部の町で、ベルベル人が多く居住する。モワヤンアトラス山脈とオートアトラス山脈の間の高原地帯である。ベルベル語で《中心》という意味で、メクネスやフェズなどの都市部とエルラシディアやエルフードのある砂漠地帯を結ぶちょうど中間に位置している。鉱物資源に恵まれ、フランス植民地時代に発展した。ミデルトの街はリンゴの産地でもある。あちこちにリンゴの木があり、街中のロータリーに(弘前を思い出させる)噴水を浴びる大きな林檎のモニメントがあった。建物の屋根の上や街路脇の電柱にコウノトリが巣を作っていて、巣作りに枝を運ぶコウノトリを間近で見ることが出来た。

砂漠地方に入ると、建物やホテルはカスバ風(ベルベル人たちが建てた南部モロッコの風土に合わせて、要塞化された住居のことである。今も道路わきに崩れかかったカスバのようなものが残っている。建築物の色はみな日干しレンガの土色で統一されている)になる。中庭には、噴水もあり、イスラムの国らしさを感じる。
異国情緒たっぷりの豪華ホテルでの昼食である。レストランには甚兵衛を脱いで、青地の胸にフランス国旗と[1998年FIFA]の文字がプリントされたTシャツを着て入った。今年ロシァでワールドカップが6月14日から開催されるので、タイミングが良かったのかな? ツアーの皆さんから思わず歓声が上がった。
「20年前にフランス大会を見に行ったのですか?」と聞かれた。
「いいえ、その翌年にフランスへ行った時買いました」と答えた。
昼食は野菜スープ(甘過ぎで不味い)、マスのホイル焼き、デザートはりんごのタルトだった。ミデルトに向かう途中ズイーズ渓谷を超えて行く。昼食のマスは渓谷下のズイーズ川で捕れた物だという。このホテルではアルコールを扱っていなかった。ラマダン中のウエイター(何故かウエイトレスはいない)は、無愛想で、料理を運んでくるより片付けるほうが早かった。私はグルメでは無いだけに、モロッコの料理は今一美味しくなかった。
ミデルトには昼食をするだけの停車だった。食後はさらにバス移動である。砂漠の玄関口エルフード(約210km。約4時間)目指してひた走るだけである。
この辺りまで来たら青空の好天になってくれた。しばらくしてから渓谷に沿って走り、また景色が変わり赤土の世界、何もない荒野になった。ほんの数十メートルの岩を掘っただけの、モロッコで一番長いとされるトンネルを潜った。
山に降った雪は解けて川となる。山脈の北に流れる川は、支流を集めて大きくなって、大西洋や地中海に流れる。しかし、山脈の南に流れるズィズィ川は、小さくなりやがてはサハラ砂漠に飲み込まれ、海に注ぐことはない。
殺風景な山肌に国道だけが貫いている。こんな所にと思える所にガソリンスタンドがあった。永田さんが
「このガソリンスタンドの売店で切手を売っています」と知らせてくれた。どうしてこんな辺鄙なガソリンスタンドで切手を売っているのか不思議に思った。言葉が通じないので通訳して貰った。
「エアメールstamp、ジャパン18 sheets」と言うと、9DH(117円)の切手を2枚貼れと言い、シールから36枚の切手をちぎり、324DH(4,212円)だと言う。ベネズエラや台湾なんかでは、規定の値段の切手が足らず、値段の高い切手を買わされたものだが、こんな辺鄙な所で必要枚数が買えてよかったものの、モロッコの郵便料金の高いのには吃驚した。今迄いろんな国から絵葉書を出してきたが、こんなに高いのは初めてだった。納得できなくても仕方ない、両替したDHの残金だけでこの旅行ができるかどうか心配になってきた。
[ズィズィオアシス]はモロッコ最大のオアシスである。だが、この広大なオアシスも年々規模が縮小しているという。

すり鉢状の底に広がるオアシス? は国道から見下ろすだけの風景である。はるか彼方まで続く緑は全てナツメヤシである。林の手前には土壁の民家が数件建っているだけ。《大パノラマ》と紹介されている。写真タイムで下車したが、私に言わせれば只のヤシ畑で、山に囲まれた窪地でしか無い。一つも感動が沸かなかった。長い行程での今日の観光はこれで終了である。
バスは走り続ける。殆どの人は眠っていたが、永田さんからエルフードについての説明が始まった。
「[エルフード]は、アルジェリアとの国境近くに広がる砂丘地帯です。1917年にフランス軍の駐屯地として建設されました。そのためか、碁盤目状の街並みとなっています。サハラへの入り口のひとつで、メルズーガ砂丘ツアーの基地として人気の観光スポットとなっております。
500年ほど前まで、エルフード近辺は海でした。その証に海の生物の化石、アンモナイトやサンゴ、三葉虫の化石などが沢山採掘されています。ここは化石の宝庫として知られ、化石の商品の販売のほか、化石の掘り出し・加工・商品への仕上げなどの全工程を行っていますし、10分もあれば端から端まで歩けるほどの中心街に化石を扱う店が軒を連ね、アンモナイトなどの化石を含む黒大理石を食器や家具の形に切り出し、磨きあげ土産物として販売しています。
[メルズーガ大砂丘]はサハラの入り口と言える大砂丘です。サハラの中で最も美しいと言われる絶景スポットと紹介されています。
[サハラ]は、アフリカ大陸北部にある砂漠で、氷雪気候の南極を除くと世界最大の砂漠です。その広さはアフリカ大陸の約3分の1を占め、南北1,700㎞、面積は約1,000万㎢もあり、アメリカ合衆国とほぼ同じ面積を要しています。
[サハラ]とは、元来アラビア語で[砂漠][荒野]を意味する一般名ですが、とくに北アフリカなどでは日常的にサハラ砂漠を指すことから、そのまま固有名詞としてヨーロッパの言語として定着しました。アラビア語でサハラ砂漠を指すときには、「アッ・サハラーゥ・ル・クブラー(最大なる砂漠)」などと呼んでいます。このように名称自体に[砂漠]の意味を含むことから、英語やフランス語では砂漠を意味する語(Desert)は添えず、単に The Sahara、Le Sahara と呼ぶのが正式の呼び名です。日本語では、[サハラ砂漠]と呼んでいますが、実はこれは重複言なんです。
サハラは西端で大西洋に接し、北端ではアトラス山脈および地中海に接しています。東側はエジプトと紅海に面し、スーダンとニジェール川を南の境としています。サハラの中は西サハラを含む10カ国くらいの地域に分割されています。サハラには標高300m程度の台地が広がり、中央部にはホガール山地(アルジェリア南部)、アイル山地(ニジェール北部)、ティベスティ山地(チャド北部)があります。サハラの最高点は、ティベスティ山地のエミクーシ山3,415mです。サハラの約70%は礫砂漠で、残りがエルグと呼ばれる砂砂漠と山岳・ハマドと呼ばれる岩石砂漠です」
午後3時、エルフードの町に入り、ホテル・エルフ-ド・ル・リアド着いた。ホテルの空き地には、4輪駆動の車がたくさん待機していた。砂漠ツアー用のものだろう? ホテルの周りには何も無い、ポツンと1軒ホテルがあるだけの、無音の世界である。ホテルに着く前に永田さんから明日の予定が話された。
「明日はサハラにて御来光を見学しますので、駱駝に乗る方も徒歩で行かれる方もホテル出発は3時15分と大変早いです。モーニングコールは2時45分に流します。ホテルから4駆に分乗して(約60km・50分)[メルズーガ大砂丘]まで参ります。そこから駱駝に乗る方と徒歩で行かれる方と別れます。食事のときに駱駝のレンタル料金を集めさせて戴きます。駱駝の料金は400DH(5,200円)か40€(5,220円)、45$(4,994円)、日本円で5,000円でも結構です。その他に、駱駝引きと、徒歩のガイドさんに、お一人20DH(260円)づつのチップをお渡し下さい。これはベルベル人の生活費の一部ですので、砂漠の入場料だと思って下さい。砂漠の気温は20度位と寒いですから、上に羽織るもの、スカーフのようなかぶり物があると、砂塵除けにもなりますし重宝します。砂の上は結構歩きにくいですから、履き慣れた靴かサンダルが良いと思います。バスを降りる際はそのままロビーまでお進み下さい。夕食は午後8時です」
こんなに早く着いても、《ラマダン(ヒジュラ暦の第9月。この月の日の出から日没までの間、ムスリムの義務の一つ断食(サウム)として、飲食を絶つことが行われる)》の最中なので夕食は8時からだという。部屋はツインだが、何とも狭い。スーツケースを置く台もないから使わないベッドに置いた。テレビがある台が机を兼ねていて椅子もない。モロッコのホテルはお粗末だが、そういうお国柄なのだろうと諦めた。
部屋に入ると先ず風呂に入った。明日の真夜中に御来光見学で砂漠迄行くので、合着の作務衣(長袖)を用意した。帽子は風が強いことを予想して、飛ばされないように後頭部で縛れる[蕎麦打ち]の時に使う汗止め頭巾にした。カメラは砂塵除けのビニール袋に包みリュックに入れた。
昼間買った切手を、日本から持参してメッセージを書いた[絵葉書]に張り付けた。1枚の切手そのものが大きいので、余白に2枚の切手を貼るのに偉い時間が掛かってしまった。エルフードは砂漠見学の為に造られたような街である。このホテルからハガキを出したら、一体何日かかるだろう? モロッコの郵便事情を調べたら、1ヶ月ぐらい掛かると書いてあった。最終宿泊地マラケシュから出だせば、2週間ぐらいで着くでしょうと永田さんから聞いた。が、本当にそんなに掛かるかどうか見てみようと、ホテルのポストに投函した。(後日談である。絵葉書が友人の家に配達されたのは23日後の7月3日だった)