半惚け翁 ニューヨーク2人旅

 9月4日 (月曜日)  自由の女神

 今日9月の第一月曜日はアメリカの公的祝日・労働者の日(Labor Day)日本でいう[勤労感謝の日]で夏の終わりを示す日なのだそうである。
 今朝も9時30分に1階の小食堂に降りた。長女のリンリンちゃんは祝日でも学校へ出掛けたそうである。今朝もアーロン君は食器類を片付けていて、私達を見ると
 「御茶にしますか? 珈琲にしますか?」と聴き、テキパキ出してくれた。小さな子供達は実に大人しい。子供用のスマホだかゲーム機なのかで静かに遊んでいる。
 今朝は楊さんも早く下に降りてきた。椅子に座ると奥さんが隣に座り、楊さんに身体を預け肩に手を回す。私達に果物を剥いてくれたり、軽食を出してくれたりしながら、直ぐに又、肩を組んで話している。それを見てKさんが、アーロン君に
 「君の家の両親は何時もああやってイチャイチャしているのかい?」と余計な質問をする
 「ええ!」と困った顔をして答えてくれたが、ここはアメリカなんだということがKさんには判らない? つまらない質問をしたものである。
 今朝も9時過ぎにアリシアちゃんはミネアポリス空港のレストランと遺失物掛かりに問い合わせをしてくれたが、公的祝日なので、電話は繋がらなかったそうである。
 今朝は昨日と打って変わって、朝から気温が高かった。日中は25度以上になるとの予報だった。
 「今日は自由の女神に行きましょう」見学希望場所は伝えてあるから、楊さんは今日も観光ガイドを務めてくれるようで有り難い。
 「今日は暑くなるから、甚兵衛を着て行こうかな」と言うと、
 「女神のいるリバティ島迄はフェリーに乗るので、風が冷たく寒いですから長袖のほうがいいですよ」と助言してくれた。暑くないかなあと懸念したが、作務衣で出掛けることにした。
 今日はスタテンアイランド鉄道に乗って、ステタン島フェリーでマンハッタンまで行き、バッテリー公園(Battery Park)から出航しているフェリー船に乗船し、南西約2.6kmにある[リバティ島(Liberty Island)]に渡ることになる。
 家を出る際にKさんは、楊家の四つ角の道路標識を撮影し、アイランド鉄道の[グレート・キル]駅名もしっかりカメラに収めていた。
 ステタン島フェリーを下りてバッテリー公園に向かうと、公園の入り口近く迄行列ができていた。午前11時40分から行列の最後部に並び[キャッスル・クリントン]という砦跡の広場内に入る。

[ キ ャ ッ ス ル ・ ク リ ン ト ン ] 砦 跡

 そこで[Statue Cruises ferry]のフェリーチケットを売っていた。
 この城壁建造物は1812年、まだ米国とイギリスが戦争をしている最中にイギリスによって建設され、その後エンターテイメント施設、移民の入国手続きをする為の施設、後には水族館、そして今は観光施設として生まれ変わった、他に類を見ない施設である。
 並ぶこと約1時間20分だ。チケットは3種類あるが、我々はリザーブチケット(Reserve Ticket・島見物のみ)を購入した。リバティ島・エリス島へのアクセス、オーディオツアーが含まれていて、料金は、大人18$(2,250円)、シニア(62才以上)14$(1,750円)、子供(4~12才)9$(1,125円)、幼児(0〜3才)無料である。
 チケットを入手してから、「キャッスル・クリントン」を出たフェリー乗り場へと向う海側の建物へ通じている列に並んだ。ここでも50分以上並ばされた。公的祝日とあってか世界中から観光客が押し寄せたのだ。と思いきや、このフェリーは一年中このような状況なのだそうで、2~3時間待つのは当たり前、フェリーの始発は9時からなので、旅行通は朝7時にはバッテリーパークに来て行列に並ぶという。10時から3時ころが一番混雑するようだ。船待ちを兼ねて、建物の中でのセキュリティチェックにも時間がかかった。保安検査は空港並みで、靴を脱ぎベルトも外された。女神像の中を見学する人はそこでも再チェックが有り、水や液体物は没収される。

フ ェ リ ー の デ ッ キ

 気温は上昇し、既に25度以上になっていた。帽子も貴重品入れの中に入れていたから無帽である。太陽は容赦なくスキンヘッドの頭を照らす。暑くてたまらないから作務衣の上着を平安時代の女性みたいに両手で持って被衣(かづき)みたいに頭にかざした。ニューヨークでは街中でタバコを吸うと罰金を取られるという情報があったが、公園内でも沢山の人がタバコを吸っていたので、Kさんも遠慮無くタバコが吸えてコニコニして行列に並んでいた。
 ニューヨークを代表する観光の人気ナンバーワンの観光スポットは自由の女神とエンパイア・ステート・ビルである。この2つは1年中最も人気があり混雑する観光スポットだ。
 自由の女神の島[リバティ島]へ渡るためには、自由の女神行きの専用フェリーの船着き場から出発する[スタチュー・クルーズ]に乗船しなければ行けない。船の構造は2階建と3階建てがある。

[ ス タ チ ュ ー ・ ク ル ー ズ 船 ]

 乗船時間は約15分である。
 クルーズ船の上から徐々に近づいてくる自由の女神像を観るには、船の進行方向右側のポジションを確保したい。2階の上はデッキになっているからそこからのカメラアングルを狙いたいところだが、我々が乗った船は満員状態だったから、1階船室の窓から見ての観察となった。(場所が確保できるのであれば右手先端に出たかった)
 私は15年前に来た時に屋上デッキからバッチリ女神を撮っているから、空いている椅子に座って反対側[1 ワールドトレードセンター(One World Trade Center)]を始めとするマンハッタンのビル群を眺めていた。
 [自由の女神]があるリバティ島(Liberty Island)は、アッパー・ニューヨーク湾にあり旧称はベドロー島 (Bedloe’s Island)といった。

リ バ テ ィ ー 島

 マンハッタンのバッテリーパークや、ニュージャージー州ジャージーシティのリバティ・ステート・パーク (Liberty State Park) からフェリーでこの島に来ることができる。リバティステートパークから約600mの距離にあり、バッテリーパークからは約2.6km離れている。また、隣接するエリス島からはおよそ1.6kmの距離にある。リバティ島の面積は59,558㎡である。
 ヨーロッパ人がハドソン川河口に入植してきた17世紀、アッパー・ニューヨーク湾の西部には干潟がいくつかあり、カキの採取場となっていた。満ち潮時にも海に沈まない島がいくつかあり、そのうち三つの島(現在のエリス島、リバティ島、ブラック・トム島)は、ニューネーデルランドの入植者たちにオイスター島と名付けられていた。以降ほぼ3世紀に渡ってこのあたりでカキが豊富に獲れたが、20世紀に入ると道路建設工事で生じた土砂で海岸線を埋め立てられたため、カキの漁場は消滅してしまった。
 1800年2月15日、ニューヨーク州議会はこの島と、エリス島とガバナーズ島を連邦政府に軍事要塞として用いるため譲渡した。この島の11の角(堡塁を形成している)を持つ星型の城壁は1806年に着工し1811年に竣工した。
 1886年、フランスによってアメリカ独立100周年を記念し自由の女神がこの星型の城壁の上に建てられた。1916年に創設された国立公園局によって、この島の一部分 8,100㎡ が1933年に、残りの部分が1937年に取得され管理下に置かれ、1944年にはすべての軍事施設が完全に解体された。 【 [自由の女神像(Statue of Liberty)]の正式名称は[世界を照らす自由 (Liberty Enlightening the World〈ローマ神話の自由の女神リベルタスをかたどった立像〉]である。自由の女神像はアメリカ合衆国の独立100周年を記念して、独立運動を支援したフランス人の募金によって贈呈され、1886年に完成した。アメリカ合衆国の自由と民主主義の象徴であるとともに、19世紀以来絶えることなく世界各地からやってくる移民にとって新天地の象徴ともなった。G.エッフェルの製作した鉄製の骨組みを銅板でおおった女神像である。銅製だが、緑青の為に緑色になっている。像の頭の部分までの高さは33.86m、台座からトーチ(たいまつ)までの高さは46.05m、台座の高さは47m、台座部分も含めると93.05m、総重量は225tである。彫刻家バルトルディF.A.Bartholdi(1834~1904)が設計した。
 右手には純金で形作られた炎を擁するたいまつを空高く掲げ、左手にはアメリカ合衆国の独立記念日である「1776年7月4日」とローマ数字で刻印された銘板を持っている。

[自由の女神像]の正式名称は[世界を照らす自由 ]

 足元には引きちぎられた鎖と足かせがあり、全ての弾圧、抑圧からの解放と、人類は皆自由で平等であることを象徴している。女神がかぶっている冠には七つの突起がある。これは、七つの大陸と七つの海に自由が広がるという意味である。
 台座部分にはエレベータが設置されている。エレベータの最上階(10階)からは像の中のらせん階段を上って王冠部分の展望台に登ることができる。2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件後は安全のため、同展望台は閉鎖されていたが、2009年7月4日、独立記念日に合わせて約8年ぶりに再開された。再開後は、同展望台に入場できる人数が1時間あたり30人まで、1日240人までと制限されたほか、入場には予約が必要となった。たいまつは灯台とするためのものであったが、雲に反射して船舶運航の妨げになるということで中止された。また、像は元々灯台であったためニューヨーク港を向いている。
 なお、自由の女神像はフランス系フリーメイソンリーとアメリカ系フリーメイソンリーの間に交わされた贈り物であった。台座の記念盤には以下の文言が刻まれている。
 (この地にて1884年8月5日、《世界を照らす自由の女神》の像の台座の礎石は、ニューヨーク州メイソン団のグランド・マスター、ウィリアム・A・ブロディーによる式典とともに設置された。グランド・ロッジの構成員ら、合衆国およびフランスの政府の代表ら、陸軍および海軍の将校ら、諸外国の使節団の構成員ら、ならびに名高い市民らが参列した。この銘盤はかの歴史的事件の第100周年を記念してニューヨークのメイソン団により捧げられる)
 像のデザインはウジェーヌ・ドラクロワの絵[民衆を導く自由の女神]とバルトルディの母親をモデルにしたものである。

 資金集めのため記念像建造キャンペーンとして、宝くじや、1878年の万国博覧会であるパリ万博に完成頭部を展示し約400,000$相当の寄付金を集めた。1884年にフランスパリで仮組み完成され、214個に分解してフランス海軍軍用輸送船イゼール号でアメリカに運ばれた。
 台座部分の建設資金は、[ニューヨーク・ワールド]紙社主ジョセフ・ピューリッツァが資金集めのキャンペーンを行い、アメリカ国民の寄付によってまかなわれた。台座部分の設計はアメリカのリチャード・ハントが行った。
 1886年10月28日に除幕式が行われた。当日はあいにくの雨であったが、グロバー・クリーブランド大統領をはじめ100万人以上の観衆が集まり、顔にかけられたフランス国旗を製作者のバルトルディが除幕した。その後、像が置かれることになったリバティ島(当時はベドロー島)の庭園の設計はロバート・ザイオンが担当した。
 1924年にアメリカ合衆国国定記念物、1966年にアメリカ合衆国国家歴史登録、1984年に世界文化遺産に登録された。1990年代に白人か黒人かとの議論となり、双方にそれらしい理屈が上がったため、意見の一致をみることは無さそうであった。しかし、結局のところ像の色が緑であることから《緑人》ということで議論は終息している 】 リバティ島は楕円形の島である。フェリーの乗降場は自由の女神像の右肩側にある。船を降りると女神像の中を見学するチケット売り場が目に付いた。フェリー発着場の近くではアイスクリームを売っており、木々に囲まれたテラス席で食事もできる。
 自由の女神は、右足を後ろに引いてつま先を立てて裏が平らの草履を履いて、左足で踏ん張っている。楕円形の島の海側にぐるりと舗装された遊歩道があり、一回りできるようになっている。星条旗を高々と掲げたポール前を右に曲がると、マンハッタンの摩天楼を一望できる場所がある。

リバティー島から見た[マンハッタン]

 マンハッタンを眺めると、中央に新しいワールドトレードセンタービル、左側奥にエンパイアステートビル、右側にはブルックリンブリッジが見える。このスポットの後ろは小さな森になっており、観光客が縁石に腰をかけ日差しを除けて一休みする。
 世界中の人々が押しかけて来る女性のファッションを観察すると、白人も黒人も超短いホットパンツにタンクトップ、又は両肩を露出したシャツにサングラスをかけ、サンダル履きという出で立ちである。この日は28度にもなった真夏日だから、日陰に人がたむろした。ここを右に進むと、いよいよ女神像の真下に出る。女神像はニューヨーク港(北方向)を向いているので、お顔は逆光になってしまう。誰もが見上げる格好で撮影に夢中である。その殆どの人がスマホで撮っている。Kさんは小型デジタルカメラを使い望遠でお顔をアップしたり、全体像を撮っては出来映えを確認していた。ゆっくり一回りして正味45分の観光を終え乗船である。帰りの船には30分程待っただけで乗れた。
 帰りの船は、隣のエリス島に立ち寄ってから、マンハッタンに戻るため、乗船時間は約35分掛かった。 
 [エリス島(Ellis Island)]は、ニューヨーク湾内にある島である。アメリカ合衆国移民局が置かれていたことで有名だ。19世紀後半から60年あまりのあいだ、ヨーロッパからの移民は必ずこの島からアメリカへ入国した。移民たちによって『希望の島』または『嘆きの島』と呼ばれてきた。約1,200万人から1,700万人にのぼる移民がエリス島を通過し、アメリカ人の5人に2人が、エリス島を通ってきた移民を祖先にもつと言われている。私は15年前に来た時にこの島を見学している。
 私達はここの見学はパスして、マンハッタンに戻った。午後4時過ぎで、お腹が空いたからと、ビル街を2ブロック歩いて、ラーメンという旗を見付けてそこで不味いラーメンを食べ、ステタン島フェリーとステタンアイランド鉄道に乗って6時30分に楊家へ無事帰宅した。

 バーベキュー

 今夜はバーベキューを食べましょうと、テラスではアリシアちゃんが椅子の座布団をセットしたり、バーベキュー(BBQ)コンロに豆炭を詰め灯油のような油をかけ火を点けたり忙しく働いていた。アメリカでは人寄せをするとBBQとなるようだ。(家庭版のBBQコンロが、ほとんどの家持ちの、ベランダのある家にあるのが当たり前になっている)
 7時30分から始まったBBQは、アリシアちゃんが大活躍である。充分に豆炭が赤くなると先ずは牛肉から焼き始めた。焼き上がるとテーブルに運んでくれる。楊さんがビールを運んできて
 「今日はアメリカスタイルで飲みましょう」とビンごと手渡すのである。アメリカの映画みたいに直接ビンを口に持っていきゴクリとやる。肉の厚みは5cm程もある。皿に載せて適当な大きさに切って食べるのだ。味付けは自分でする。一応焼き肉用の垂れはビンに入っている。私などはその大きさと量の多さに度肝を抜かれてもう満腹気分になってしまった。Kさんは唐辛子をリクエストしていた。
 食べ終わらないうちに大きな焼き蛤が運ばれてきた。

[ ホ ン ビ ノ ス ガ イ ]

 見た目はハマグリにそっくりだが表面はツルツルじゃない。
 [ホンビノスガイ(Mercenaria mercenaria)]という。潮間帯の砂や泥の中に生息する。名前を漢字で書くと[本美之主貝]となる。本来は北海道に生息するビノスガイの名称であった。成貝の殻長は最大で10cm以上になる比較的大型の貝であり、厚く硬い殻の表面には同心円状のすじがある。殻の色は白っぽいグレーから黒ずんだ色である。ハマグリと比較して丸みが強く、左右非対称で、殻頂がやや曲がった形をしている。
 北米大陸東海岸のほぼ全域、カナダプリンスエドワード島から、アメリカ東海岸を経てユカタン半島にかけて生息する。1998年以降、日本の東京湾でも発見され、定着が確認されている。日本では主に東京湾、大阪湾に生息する。もともと日本には存在していなかったが、1998年に千葉県・幕張人工海浜で発見され、1999年に京浜運河、2000年に千葉港、2003年に船橋付近、さらには2000年代になって大阪湾で発見されており、以後、東京湾内や大阪湾内で繁殖している外来種である。原産地である北米大陸から船舶のバラスト水に混ざり運ばれ、東京湾や大阪湾に定着したと考えられている。
 アメリカでは重要な食用貝であり、広く漁獲対象とされている。特にロードアイランド州では、州の貝に選ばれている。
 日本での繁殖が確認されたのが比較的近年で、アサリ漁場に多く生息するため、かつては邪魔者として扱われることが多かった。しかし、食味の良さが注目され、2007年頃から首都圏(2010年代からは京阪神でも)の鮮魚店やスーパーなど販売チャネルが拡大し、水産物として採貝される機会が増えたため、2013年には漁業権が設定されるまでになった。砂抜きは比較的簡単で、アサリやハマグリと同様、暗所で海水程度の塩水に一晩ほど漬けておくことで、ほぼ完全に砂抜きが完了する。海鮮網焼きが売りのチェーン店[磯丸]で蛤を注文するとこの貝が出てくる。
 アメリカの東海岸で好まれ、クラムチャウダーやバターやワイン蒸しとして供されるほか、小ぶりのホンビノスガイは、ニューヨークやニュージャージーにて西洋わさびを加えた、カクテルソースやレモンと共に刺身で食べられている。
 「この蛤はツルツルしていませんね?」と、Kさんが興味津々
 「日本の蛤のようなのはアメリカでは取れません。BBQで焼く貝はこれのみです」
 「こんな大きい貝じゃ、結構するでしょう?」又お里が知れて、値段を聞く
 「1個7$(875円)位です。沢山食べて下さい。ビールも沢山飲んで下さい」と薦める
 ホンビノスガイの肉はしっかり締まっていて歯ごたえがある。一口でほおばると喰い千切るのに苦労する。太い貝柱が丈夫で、ナイフで切り取ろうとしても簡単に切れない。ようやく口に入れてみたら繊維が堅くて呑み込めなかった。
 「もう結構です」と断っても、後からあとから牛肉や蛤もどきを運んでくれる。
 奥さんとちびちゃん達はテラスには来なかった。8時を過ぎた頃リンリンちゃんとアーロン君が帰宅して、アリシアちゃんを手伝い始めた。
 「綺麗な月が出ていますよ」とアーロン君が空を指さす。方角は分からないがほぼ真ん丸い大きな、金色の月が浮かんでいた。
 次ぎに焼かれてきたのは、私の親指より太い椎茸の柄(キノコの傘の下についている円筒状の部分、軸とか茎とは呼ばないし、俗に石突きとも言うが正式名ではない)である。

太 く て デ ッ カ い  ア メ リ カ の [ 椎 茸 ]

 「これって椎茸の石突き(柄)ですよね?」違う茸の石突きかと思って聞いてみた
 「そうですよ。アリシア焼く前のShiitake持ってきてごらん」といい実物を見せてくれた。日本椎茸の倍ぐらいの大きさで、傘の肉も厚く柄は、傘の直径15cmの5分の1程の太さがあり長さは6cmと短い。一つ3.5$(440円)もするそうである。シャキシャキというかふわふわした感じ、デカすぎるのと垂れが今イチで、日本の椎茸の旨味は感じられなかった。
 「どんどん食べて下さい」楊さんは薦めるわりにあまり食べない。アーロン君が
 「もっとビールを飲みますか?」と気遣ってくれる
 「ビールはもういりません。昨日の赤ワインの残りがあったでしょう?あれ、とても美味かったから」話の途中で屋内へ取りにいってくれた。ワインはボトルに半分残っていたのを私とKさんとで頂いた。
 さらに、串刺しにしたソーセージをどうぞと運んできた。
 「ノーサンキュー」と言ってお断りした。Kさんは時々タバコを吸いに席を外していた。
 充分食べて飲んだ。月と反対方向の空を眺め、星を見たけど意外と少なかった。
 「ニューヨークでもオリオン座が見えますか?」アーロン君に聞いてみた
 「冬の間だけ見ることが出来ますが、9月だとまだ見えません」との答えだった。楊さんが
 「私は、明日は女性通訳を雇って永住権の延長手続きで入管へ行かなければなりません。行く時は車に一緒に乗って下さい。途中のショッピングモールで降ろしますから、自由に過ごして下さい。3時頃に迎えに行きます」と言う。
 「判りました。アリシアちゃんの通訳では駄目なんですか?」
 「未成年者は入管に入ることができないのです。上の子供達は学校があるので、通関手続き専門通訳をお願いしているんです」2年に一度延長手続きが必要なのだという。
 10時を回っていたので「御馳走様でした」と礼を述べ部屋に戻った。洗濯物は畳んでBEDの上に置いてあった。軽く風呂に入り11時には眠りについた。