ニューヨーク市内観光
ニューヨーク市地下鉄(New York City Subway)は、ニューヨークシティー・トランジット・オーソリティー (NYCTA) によりニューヨーク州ニューヨーク市内で運行されている地下鉄(ラピッド・トランジット)である。

1904年に米国ではボストンに次ぐ2番目の地下鉄として開業した。開業当初は民営であったが、1932年にはそれとは別に市営地下鉄も開業し、1940年の完全市営化を経て1953年からNYCTAによる運営が開始された。路線網はマンハッタンを中心にスタテンアイランドを除く市内のほぼ全域に広がっており、路線延長は375km地下鉄としては北京、上海、ロンドンに次いで世界で4番目の規模である。468駅が設けられており、全ての路線と駅で24時間営業が行われている。これはシカゴの高架鉄道シカゴ・Lとともに世界で二つしかない。年間利用者数は約17億5000万人(2014年)で、世界で7番目に利用者が多い地下鉄である。
マンハッタンの地下鉄は、「南北」に走っている路線が多く、北に向かう列車のホームは[アップタウン(Uptown)]、南に向かう電車ホームは[ダウンタウン(Downtown)]の表示がある。 地上から見えるところに駅名(ストリートがそのまま駅名)と路線名が書いてある。路線によってはUptown行きとDowntown行きの入口が別々のところがあるのでややこしい。

緑色の○6路線77St駅を見つけて、緑色の丸いランプの入り口から、深緑色の階段で構内に降りる。(赤色のランプは出口専用または限定された時間のみの入口になるので注意がいる)逆走してしまうと大変だからホームを間違えないよう、楊さんとアリシアちゃんは真剣そのものである。
さすがマンハッタンの駅だけに階段を下りていくと、聞いたことのない様々な国の音楽が聞こえてきた。バイオリンなどの楽器を使った音楽、民族楽器を演奏する人々、マイク一つで歌う人、踊る人そのパフォーマンスは本当に様々である。
ニューヨークは複数の区に分かれており、とても範囲が広い。ニューヨー
クの地下鉄は、その範囲内であれば、区をまたいでも、どんなに遠くに行っても乗車料金は2.75$(316円)である。さらに、乗り換えの特典(トランスファー)があり、一度改札に入ってから30分以内ならば、一度駅から出たとしても再度電車かバスに乗った場合に無料で利用することができるという。うまく乗り継ぎができれば、目的地まで3$以内で行くこともできてしまう。そう考えると、日本の鉄道料金は超高過ぎだと感じる。
ニューヨークの改札口は、回転式の金属の棒でできている。そして、切符やメトロカードは改札に入れるシステムではなく、細い隙間にスワイプ(スライド)させて読み取らせる方式だから、このメトロカードを読み込ませる作業に慣れるしかない。スライドが早すぎると『もう一回スワイプしなさい』と表示が出て、改札を通らせてくれない。

駅によっては『まもなく到着します』とアナウンスでするが、アナウンスすらない駅の方が多い。
セントパトリック大聖堂
77St駅から3駅乗車し、51St駅で下車した。2ブロック程歩き次の目的地[セントパトリック大聖堂]に着いた。


[セント・パトリック大聖堂(St. Patrick’s Cathedral)]は、ニューヨーク市マンハッタン区ミッドタウン50丁目と5番街の交点の北東の角に、ロックフェラー・センター(アトラス像の地点)と向かい合うように立っている聖堂教会である。アイルランドの守護聖人セントパトリックにちなんで名付けられた、カトリック教会のニューヨーク州大司教区大司教座および教区教会である。建築様式は、装飾ネオ・ゴシック様式であり、ニューヨーク市の主要な観光地の一つとなっている。
この土地はもともと教区の孤児院が1810年3月6日に拡張用の土地として11,000$で買い取ったものであった。しかし、ローマ教皇ピウス9世によって1850年7月19日にニューヨーク司教区が大司教区にあげられたことを記念し、旧来のセント・パトリック聖堂に変わるものとして、10月6日にこの土地に新聖堂を建設することが大司教ジョン・ジョセフ・ヒューズによって発表された。
礎石は1858年8月15日に孤児院の南に据えられた。設計はジェームズ・レンウィック・ジュニアがおこないゴシックスタイルをとり建設が始められたが、南北戦争中には一時建設が中断し1865年に再開された。その後1878年に完成し、翌年5月25日に式典がおこなわれ、1882年には司教の住む住居が設けられ、同時に付属学校が開講している。1888年には西棟が1901年には東棟とチャールズ・T・マシューズの設計になるレディ・チャペルが追加された。1927年から1931年にかけて大オルガンの設置にあわせて改修され内陣が拡張された。
尚、2012年より行われていた、総費用1億7,500万$(約208億円)をかけた大規模な内外の改修工事は、昨年9月、ローマ法王の訪問前に完了したそうである。彫刻、壁装飾、ステンドガラスも含めて優美で荘厳な姿に生まれ変わり、それを見ることが出来た我々は幸運だった。
国の歴史的建造物として指定されている。世界中から、毎年500万人が訪れるという人気観光スポットで、訪問客の数はエンパイアステート・ビルより150万人多い。
高層ビル街の谷間にそびえ立つ巨大なゴシック調の教会は全米最大のカトリック教会である。白い大理石を惜しみなく使ったこの建物は、高さ約101m敷地は、5番街からマジソン街にかけての1区画にまたがるほどの大きさ。外観も大迫力の存在感があるが、聖堂内に入ると、天井の高さもさることながら、その奥行きの深さと広さに驚かされる。教会内にある祭壇の数は全部で21、一番奥にある大祭壇は[ティファニー]のデザインによるものである。
優雅で美しいステンドグラスはカトリック系ニューヨーカーの自慢の一つだそうで、2,800枚のパネルを使用している。中央にある3年も掛けて作られたパイプオルガンのパイプの数は7,855本だそうで、そのスケールの大きさには脱帽である。因みにアメリカ合衆国のアトランティックシティ・コンベンション・ホールのパイプオルガンは鍵盤数852、パイプ数33,114で世界第一位である。
この日も一番奥の大祭壇では一組の結婚式の最中で、パイプオルガンの荘重な演奏が流れる中で、女性歌手が祝福の唄を歌っていた。楊さんはこの光景が珍しいのか、やたらと写真を撮りまくっていた。毎年150組の結婚式がここで行われているとのことである。
過去にジョン・F・ケネディ元米大統領の弟ロバート・ケネディ氏、ベーブ・ルース、アンディ・ウォーホル、ジョー・ディマジオら著名人の葬儀もここで行われた。
ハリウッド映画にもよく使われ、[ゴッドファーザー]では、殺戮シーンの撮影がここで行われたほか、[スパイダーマン][恋に落ちて][華麗なるギャツビー]などにも登場している。
5番街の喧騒から離れて中に入ると、観光客や訪問客が沢山いるにもかかわらず、厳かで落ち着いた雰囲気に溢れ、私語を話す人は一人も居ない。
教会内の装飾を鑑賞し、結婚式も終了したので我々も観光客の後に付いて玄関前に出た。暫くすると新郎新婦が正面の扉から姿を現した。祝福に来ていた正装の老若男女が二人を取り囲み一斉に写真撮影である。かなり裕福な人々らしく、紫色のロングドレスを着た女性達やタキシード姿の男性が二人を取り囲んでいた。教会前の道路は見物客で埋まり、車が通れなくなってしまった。それでもニューヨークッ子はクラクションも鳴らさずに、他の道に迂回していった。
「あれはイタリア系の富豪だな?」とKさんが、
「どうして判るんだ?」と聞くと
「道路を塞いじゃっても警察が何にも言わないんだから、きっとマフィアだろう?」まさか? なことを最もらしく話すのがおかしかった。
アリシアちゃんも素敵な花嫁の姿にうっとりしていた。
「アリシアちゃんも此処で結婚式を挙げたいですか?」と聞いてみると、顔を赤らめ
「うん」と答えてくれた。
9.11 メモリアルミュージアム

大聖堂を後にして、楊さんが是非連れて行きたいという9.11メモリアルミュージアム を目指した。楊さんもアリシアちゃんも方向音痴に落ちいってしまい、二人してスマホで地下鉄乗り場の入り口を探している。ポツポツ雨が降りだしてきた。折良く路上の売店で傘を売っていた。楊さんが3本の折り畳み傘(1本7$・800円)を買ってくれた。
51St駅の南行(Downtown)から7つめのFultonSt迄乗る。階段を登るとかつてのワールドトレードセンターの跡にできた、ワンワールドトレードセンター[フリーダムタワー(One World Trade Center, 1 WTC)]は、ニューヨーク市マンハッタン区のアメリカ同時多発テロ事件で崩壊したワールドトレードセンター跡地(グラウンド・ゼロ)に建てられた超高層ビルである。2014年11月3日に開業した世界で6番目に高い建物で、西半球で最も高い建物である。[この建物の名前は旧ワールドトレードセンターの北館と同じ名前で、跡地の北西の角に建っている]が聳え立っていた。ワールドトレードセンター跡地で進行中の再建計画は、1ワールドトレードセンターなど6つの超高層ビルとツインタワー跡地の慰霊場、地下の商業施設、パストレイン・ニューヨーク市地下鉄・バスターミナル等のターミナル施設などからなる。そのうち最も高い1ワールドトレードセンターの高さは、アメリカ独立の年にちなみ1,776フィート(本体は約415m、尖塔部分含め約541m、延べ床面積約240,000m²)である。前面ガラス張り、70階の事務所棟の上に尖塔が立つデザインでなかなか斬新である。総工費は80億$(9,000億円)。
9.11アメリカ同時多発テロ事件は御存知だと思う。2001年9月11日にアメリカ合衆国内で同時多発的に発生した、航空機等を用いた4つのテロ事件の総称である。
航空機が使用された史上最大規模のテロ事件であり、全世界に衝撃を与えた。世界貿易センタービル・ツインタワーの北棟は、8時46分にアメリカン航空11便の突入を受けて爆発炎上した。続いて、9時3分に南棟がユナイテッド航空175便の突入を受け、爆発炎上した。(このニュースはシュミレーション画像を見ているような気分で、テレビに釘付けになって見た事を覚えている)この事件以降、世界貿易センタービル跡地は[グラウンド・ゼロ]とも呼ばれている。かつてワールドトレードセンターは、[ワールドトレードセンター・コンプレックス]という5万人の勤務者と1日20万人の来館者のニューヨーク最大のオフィス・商業センターであった。
コンプレックスは1WTCから7WTCまでの7つのビルによって構成されたが、特にその中心であったツインタワー(1WTCおよび2WTC)は完成時に世界一の高さを誇り、2棟の巨大な直方体が並び立つ姿はニューヨーク市やマンハッタンのシンボルとなっていた。
駅を越えた先に見える斜めになった四角い建物がメモリアルミュージアムである、それを目印に向かって歩く。するとその先に、横から見ると巨大な魚の骨のようであり、鳥の翼を組み合わせたようでもあり、大怪獣みたいにも見え、正面からみると宇宙船っぽい感じ? の白色の巨大なフレーム建築物が現れた。


15年近くの歳月をかけ、2016年8月16日にオープンした未来型ショッピング・モール、ウェストフィールド・ワールド・トレード・センター・モール(Westfield World Trade Center mall)である。最大の見どころは、地下鉄の駅などとも直結するこのオキュラス(the Oculus)は、構造計算を駆使して作り上げた、骨梁(ほねやな)フレームがトレードマークのスペイン出身の建築家、サンティアゴ・カラトラバ(Santiago Calatrava)による設計である。
工事費が40億ドル(約4500億円)にまで膨れ上がってしまった。
[オキュラス(Oculus)]はスペイン語で[眼]という意味である。形は楕円形で、直線的な印象の外観とは対照的な印象である。1階のフロアを見下ろすと、大きな教会に来たような、恐竜の化石の中にいるような、オリンピックのスケートリンクにいるような、人によって様々な想像が膨らむ異次元世界の空間演出だと感じた。
9・11を追悼するモニュメントとして、そしてグランドセントラル駅と同様にマンハッタンの玄関口として、様々な使命や意味がこの建物には込められているという。
私は9.11同時多発テロ事件の翌年、2002年10月23日にここを訪れている。

その時はビル倒壊の後に開いた巨大な穴の周りにフェンスが張られ、厳重な警戒態勢が敷かれていた。行方不明になった犠牲者家族の写真が痛々しく貼られていて虚しく見学した。あれから15年後のこの変わり様を目にして、流石アメリカだと感心した。
ここの2階には150店超が出店し、毎日、通勤で駅を利用する30万人や、世界中から観光でこのエリアを訪れる年間1,500万人が利用する予定なのだとか。
いずれにしても、正気の沙汰とは思えないほど巨大で、やたらに白い、そして異空間にいるような現実離れした感覚のする建造物(広大なフロアに自由に座れる椅子や机が1つもないのが不思議だ)に仕上がっているので必見である。
このおキュラスの地下は[ワールド・トレード・センター (World Trade Center Station) ]内にあるパストレインのターミナル駅である。元々はハドソン・ターミナル として1909年7月19日に開業したが、旧ワールド・トレード・センターPATH駅が1971年に開業し、ハドソン・ターミナルは解体された。旧ワールド・トレード・センター駅は2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件によって機能不全となり、仮設PATH駅が2003年に再開業した。この駅はニューアーク・ワールド・トレード・センター線およびホーボーケン・ワールド・トレード・センター線のターミナル駅としてサービスを提供している。
2016年3月3日、大幅な再建工事を経て、新駅舎がワールド・トレード・センター・トランスポーテーション・ハブ (World Trade Center Transportation Hub) として開業した。
我々は2階のショッピング店を一巡し正面? テラスで楊さんの長女リンリンちゃんと合流した。彼女はアルバイト先の経理事務所からの帰りだという。
「ずっと昔東中野の家へ行ったのを覚えていますか?」と聞いてみる
「はい。しっかり覚えています。先生は沢山お酒を飲みました」とは恥ずかしい。

外はすっかり暗くなっていたので、周辺にある911メモリアルパーク(かつてワールドトレードセンターがあったそれぞれの跡地に、ノースプールとサウスプールという、滝を模した慰霊碑があり、911の被害者たちの名前が刻まれている)の見学は断念して、再びオキュラスの地下に戻り○J線FurutonStから地下鉄(Uptown)に乗り2つ目のCanalStで下車、雨の降る[チャイナタウン]を歩いた。ビル街の一画を雑貨品や中国商品を売る店、世界中の料理店がある。気温は10度位に下がってきた。リンリン、アリシア姉妹は傘を持っていないが、上着を頭から被りへいちゃら顔で付いてくる。楊さんもチャイナタウンは初めてのようで、私達に美味しい中国料理を食べさせようと、幾つものブロックを歩き[上海料理]店を探し出してくれた。

[上海酒家・老正興]と言う角にあるそれなりに大きな店であった。リンリンちゃんがメニューから幾つかの料理を選び出すと、アリシアちゃんも何かを選ぶ、楊さんがKさんと私にもメニューを見せて、
「なにか食べたい物はありますか?」と聞くが、殆どが油料理なので
「そうですね、さっぱりした物、エビをボイルしたのを食べたい」と告げた。中国、香港旅行では蛙料理を頼むが、上海には無さそうだった。Kさんは
「何でも頂きます」と言う。メニューを見てもチンプンカンプンな訳である。
今夜は車を運転しないので、楊さんも我々を歓迎する意味でビールで乾杯をしてくれた。アメリカの瓶ビールは何処で飲んでも小瓶である。
大皿に炒め物の野菜料理や肉料理、なんやかや7品ぐらいの料理が出てきた。6人で食べても、とても食べきれる量ではない。エビは皮を剥いてボイルしてあった。楊さんもあまり食べないし、娘さん達もあまり食べない。Kさんが頑張って食べていたが、大皿の料理は半分以上残ってしまった。普通残った料理はパックに入れて持ち帰るのが中国人の習慣になっているのに、楊さんは
「家では残った料理は持ち帰りません」と言う。飲食代は250$(31,250円)だが、ニューヨークではこれにプラス15%のチップを払うのが当たり前になっているから35,950円となる。
店を出ると、マンハッタンの南端にある、ホワイトホール・ターミナルから出発し、スタテンアイランドのセント・ジョージ・ターミナルへ到着するフェリー乗り場に行くバス停をスマホで検索し、降りしきる雨の中を歩いた。午後10時過ぎでも24時間営業だからバスは運行している。バスの終点がホワイトホール・ターミナルの広場であった。
ホワイトホール・ターミナル


[ホワイトホール・ターミナル (Whitehall Terminal)]は、ニューヨーク市ロウアー・マンハッタンの最南端、サウス・フェリー地区の角にあるフェリー・ターミナルである。
[スタテン・アイランド・フェリー]はマンハッタン島とスタテン島を結ぶフェリーである。全改修された後、2005年2月に再開業し、フェリー、バス、地下鉄、タクシー、そして自転車用車線の集まる主要交通ハブとなった。元々この場所は、ホワイトホール・ストリート・フェリー・ターミナル と呼ばれていた。これはブルックリン、ガバナーズ島、スタテン島、およびウィーホーケン への高架鉄道ターミナルだった。地下鉄および車の普及によって高架鉄道は廃止され、この場所には主にスタテン・アイランド・フェリーのためのターミナルが建てられることとなった。地方行政機関の管轄の下、このフェリーは1905年10月25日に開業した。それ以前は、早くとも1700年代にはフェリー・サービスが個人会社によって、私ボートを使って提供されていたが、1901年6月14日のフェリー事故が決定的な理由となり、フェリー運営は公共輸送システムとして市の管理下におかれることになったのである。
旧ホワイトホール・ターミナルは機能重視の設計で、その簡素な外観はアメリカ建築家協会によって世界で最も平凡な喜びの入口と評された。1991年に火事によってこのターミナルは損壊し、40年間計画されては延期された、建て替え工事を行うこととなった。工事は、建設地のフェリーおよび地下鉄のサービスを継続しながらも行うという困難なものだった。
1992年、ニューヨーク市経済開発会社は施設建て替えの国際コンペティションを行い、ターミナルの設計はヴェンチューリ=スコット・ブラウン・アンド・アソシエイツが選ばれた。高さ27 mのエントランスホール、ニューヨーク港を眺望できる50%大きいウェイティングルームを備えた1,800 m²の建物とした案が、結果的に設計に盛り込まれた。
ターミナルの待合室はかなり広い。丁度フェリーが出航したばかりで、次の乗船まで30分待つことになった。真新しいターミナルビルには、今から長距離航路にでも乗船するかのような広い待合室で、乗り遅れた人を含め、すでに300人近い客が乗船を待っていた。
[ステタン島フェリー]は、365日24時間営業している。96%は時間通りに航行している。フェリーは、1905年からニューヨーク市が運営しており8.4㎞の距離を、毎年2,100万人をも輸送している。所要時間は約25分、料金は無料である。乗客は、どちらかに上陸しなければならず、沿岸警備隊などの規則により、往復する場合でも、一度ゲートの外へ出てからもう一度乗船しなければならないとされている。昔は自転車も1台3$で積み込めたが、アメリカ同時多発テロ以来は許可されていない。フェリーの料金は、もともとニューヨーク市地下鉄と同じ5セントだった。1948年に地下鉄の料金が10セントに値上げされてからも、そのままであった。1970年には、当時の市長、ジョン・リンゼイが値上を提案し、1975年8月4日に、25セントとなった。1990年には50セントまで値上がりしたが、1997年からは無料化された。
午後10時30分発のフェリーに乗船したのはJohn,Marchi 4,500人乗りの新造船である。


入り口は2階、楊さんは3階まで階段を登り船の前の方に進む、船内は広々としていて、木の長椅子がずらりと並んでいる。船が大きすぎるので船内はガラガラである。
「右側にライトアップされた自由の女神が見えますよ」と教えてくれた。

船は自由の女神の建つリバティ島から少し離れたところを進む、船の窓から遠目に眺めると、照明に照らし出された女神像が眩かった。Kさんはオープンデッキに出て女神像を撮影していた。後方にはロウアー・マンハッタンのビル群やブルックリンの夜景も美しく映える。オープンデッキは3階にあり、船端から船尾まで(両側に)海に向けてベンチが設置され1.5mの展望デッキスペースをがっちりした金網のフェンスで囲っている。
スタテン島フェリー現役の船隊
スタテン島フェリーは、1日に5隻ほどの船で約104回航行し、75,000人を輸送している。年間では、33,000回以上も航行している。ラッシュアワーでは、通常15~20分間隔で運行しており、昼間や夜間は30分間隔まで減便される。深夜・早朝には60分間隔になる。週末は、30分、60分間隔で運行されていたが、2006年11月から午前中は30分間隔となった。
現役の船隊 現在、現役の船舶は4種類の8隻で全船がオレンジ色。



[ケネディ・クラス(ジョン・F・ケネディ、アメリカン・リージョン、ガバナー・ハーバート・H・リーマン)は1965年に建造。乗客定員3,500人、積載台数40台、全長91m、全幅21.3m、喫水4.1m、総トン数2,109トン、航海速力16ノット(30㎞/h)、エンジン6,500馬力]
[バーベリ・クラス(アンドリュー・J・バーベリ、サミュエル・I・ニューホース)は1981、1982年に建造。乗客定員6,000人、積載台数0台、全長94m、全幅21.3m、喫水4.1m、総トン数3,335トン、航海速力16ノット(30㎞/h)、エンジン7,000馬力]
[オースティン・クラス(アリス・オースティン、ジョン・A・ノーブル)は1986年に建造。乗客定員1,280人、積載台数0台、全長63m、全幅12.2m、喫水2.6m、総トン数499トン、航海速力16ノット(30㎞/h)、エンジン3,200馬力]
[モリナリ・クラス(ガイ・V・モリナリ、セナター・ジョン・J・マルチ、スピリット・オブ・アメリカ)は乗客定員4,500人、積載台数40台。マニトウォク・マリン・グループにより、古いニューヨークのフェリーを再現して建造された。最初に建造されたのは、ガイ・V・モリナリ号で、スタテンアイランド区長などをつとめたガイ・V・モリナリの名をとって命名された。同船は2005年に就航した。第2船は、ニューヨーク州議会議員のジョン・マルチ(スタテン島選挙区の選出)の名をとっている。第3船であるスピリット・オブ・アメリカは、フェリーがB&O鉄道からニューヨーク市に引き継がれたことの100周年を記念し、2005年10月25日に就航した]
フェリーはあっという間にステタン島のターミナルに着いた。
セント・ジョージ・ターミナル


[セント・ジョージ・ターミナル(Saint George Terminal)]は、ニューヨーク市バス、スタテンアイランド鉄道の乗り場がある、ニューヨーク市スタテン島のセント・ジョージ地区にある島側のターミナルである。
下船後ターミナルを直進し、ドアを開けるとセント・ジョージ駅に通じている。スタテンアイランド鉄道北端の全ての線路の終着駅である。
スタテンアイランド鉄道 (Staten Island Railway) は、スタテンアイランドを走る鉄道路線、略称はSIRである。ニューヨーク近郊の通勤鉄道、路線バスなどを運営するメトロポリタン・トランスポーテーション・オーソリティの傘下にある。
SIRはニューヨーク市地下鉄で使われているR44型車両の亜種を所持し、使用している。乗客は地下鉄路線を自由に乗れ、地下鉄の路線図にはSIRも含まれている。路線は島の外へは通じておらず、他の鉄道も乗り入れていないので、SIRに乗車した通勤客は大抵は島の北側からフェリーに乗り換えてマンハッタンへ向かう。
SIRは平日全線で、各駅停車で24時間運行を行う。急行列車は朝夕の南北行き双方向、夕方の南行(トッテンビル方面)で運航されている。
現在のSIRの最初の路線は1860年に開業した。当初はフェリーの乗り換え駅のトムキンスビルから島の南部のターミナル駅であるトッテンビルまでであった。そのころボルチモア・アンド・オハイオ鉄道(B&O)はニューヨーク市街地での旅客と貨物の路線を開発しようとして、ニュージャージへつながっていないこの小さい鉄道、SIRを購入した。強力な後ろ盾が出来たことで、トムキンスビルから先北方への延伸が進んだ。B&Oは複線化や硬い岩盤におけるトンネルの建設を支援した。こうして路線は一駅延伸し、島の北東部の角に達した。周辺一帯の地域は島の弁護士の名声に由来したセント・ジョージ (St.George) へと改名され、新設された駅にも同じ名がつけられた。新駅にはマンハッタンとを結ぶ、巨大フェリーターミナル、車両基地、車両移動用の浮き桟橋が設けられた。1924年8月には島内の3つの旅客路線で電化工事が始まった。
SIRの運賃制度は独特であり、料金を払う必要があるのはセント・ジョージ駅かその隣、トムキンスビル駅で乗降する場合のみであり、2.25$を支払う。逆に乗車駅・降車駅がともにこれらの駅以外である場合は運賃は無料である。運賃の支払いには現金のほかにMTAの発行するメトロカードが使用できる。
ホームは4本あり電車が停車していた。ニューヨークッ子にはすぐ判るらしく、これから発車する電車(11両編成)の前から2両目の車両に乗り込んだ。鉄道の時刻もフェリーと接続していて、この鉄道はフェリー通勤客のフィーダー輸送の役割を果たしている。ステタンアイランド鉄道は、路線距離22km、軌間1,435mm、直流600v第三軌条方式で22の駅を有している。車両はかなりの年期物でみすぼらしく、椅子はベークライト、つかまる手摺りはあるがつり革が無い。車内広告が一つも無いのは良いが、寒々しく殺風景である。日本の電車が如何に優れた乗り物であることが自慢に思えた。
それこそ15年前に、中国人の張君とスタテン・アイランド・フェリーとこの鉄道に乗り、楊家を訪れている。その時はこれほどお粗末な電車だったかなあ? と、記憶はすっかり忘れている。
楊さんの家は13駅目のグレートキルズ(Great Kills)と言う名の物騒な駅名で下車したところにある。


約30分位乗っていた。アリシアちゃんは時差惚けの後遺症かリンリンちゃんの肩にもたれてぐっすり眠っていた。私も流石に目を開けていられずこっくりしてしまった。グレートキルズに着いたよと知らされ目を開けた。この駅は無人駅であり、照明は薄暗い。ホームから階段を降りると駅の外である。降りしきる雨の中を、約5分程歩くと楊家である。
駐車場脇の引き戸を開けて、庭から裏の入り口へと入った。スマホで連絡をしていたので奥さんが鍵を開けてくれた。(何故か? 3人が外から開ける扉の鍵を持っていなかった)既に午後12時近かったので、この日は帰宅して直ぐ、お礼を言って部屋へ行かせて頂き、昨日風呂に入らなかったので、バスタブに湯を張りサッと汗を流してBEDに入った。私はカメラもスマホも無くしているからバッテリー充電の必要は無い。Kさんはカメラのバッテリー充電をセットしていた。