半惚け翁 ニューヨーク2人旅

 第2日目 9月2日(土曜日) セントラルパーク

 私はベッドに入っても眠れなかった。機内でうとうとしてきたし、ニューヨークは日本の昼と夜が逆さまの時間だから、(こちらの夜中は日本の真っ昼間)目を瞑っても頭が冴えて寝付けなかった。窓は半開きの網戸にし、天井の扇風機も回しておいてくれた。5時を過ぎ気温の低下で寒気を感じたので、窓を閉め扇風機を止めたら、Kさんは布団を跳ね上げて、気持ち良さそうに軽い鼾をかき眠っている。Kさんには時差なんて関係ないのだろう? 羨ましい体質だと感心した。ようやく明るくなってきた午前8時に起き出して、腕立て伏せや股割、スクワットなどをこなし、寝る前にKさんから貰っておいた、印刷されたA4用紙の裏を使って日記を書いてしまった。出発前にニューヨークの気温を調べたら、最低が15度で日中一番暑い日は29度になるという。それを知って観光する服装は夏用の甚兵衛のみを用意したが、急遽合着の作務衣を多めに詰め替えてきた。気温のことはKさんにも知らせておいた。
 10時に1階の、キッチン脇の食堂に降りた。アリシアちゃんがレバーを曲げると常時100度の熱湯が出てくる蛇口から、ティーバッグの緑茶をマグカップに入れ、水で薄めて出してくれた。Kさんは食堂の扉を開けて、タバコを吸いにプールのある庭に出て行った。
 10時30分に楊さんが降りてきた。アリシアちゃんがパパにも緑茶を出す。今朝方の封筒はテーブルに置いたままだった。
 「お早う御座います。よく眠れましたか?」と聞かれたので
 「お早う御座います。昼と夜が逆さまなもので眠れませんでした」と答えた。楊さんは椅子に座ると、封筒を私に向けて
 「これは受け取れません。納めて下さい」と、断固言う。
 「判りました。それではお言葉に甘えさせて頂きます」押し問答は止めて引っ込めざるを得なかった。部屋から出る時に日本から買ってきた[カレーのルウ]と[チョコレート]をテーブルの上に並べて、
 「楊さんの家ではカレーなんか食べますか?Mailで問い合わせをしたのですが、通じなかったもので、お土産に持ってきました」と言うと
 「どうも有難う御座います」と礼を言われた。
 リムさんが末っ子の次男キキ(正式名はClement 5歳)君と降りてきた。
 「グッモーニン」と挨拶するとキキちゃんも英語で「グッドモーニング」と恥ずかしそうに答える。無論奥様には「お早う御座います」と挨拶を交わす。タバコを吸い終わったKさんが戻ってきたのを見て、
 「部屋で吸っても構いませんよ」と灰皿を2つ出してきてKさんに渡してくれた。

 簡単に楊家の間取りについて触れておく

 各部屋全体の天井は高く3.8mもあろう? 室内の壁は日本にはない漆喰のような白い石壁である。玄関を入り板の間の左奧が大食堂、真っ直ぐ進むと階段があり階段下がトイレ、その横にT字型の廊下があり地下室と裏口に通じている。トイレの奥がキッチン付き小食堂、その部分だけが板の廊下である。システムキッチンは超豪華で近代的、レンジやオーブン、冷蔵庫はかなりBIGだ。
 玄関を入った右側は絨毯が敷かれた大応接間(20畳)と70インチの大画面テレビがある子供の遊び場兼応接間(20畳)が並び、それぞれの部屋に、奥行きの深い本革製の大きなソファーセットが2つずつ置いてある。
 キッチン小食堂から扉を開けると板敷きの大テラスへと出られる。そのテラスは庭から1m位の高さで10×30mの広さだ。10人程が座れるテーブルと椅子が離ればなれに2つ置いてあり、バーベキュー(BBQ)・コンロ(炭グリル用の装置・蓋付きカマボコ型)が大・小2つある。テラスの木の階段を降りると、前方にケンタッキーブルーグラス(芝)が美しい大きな庭がある。庭全体に塀が張り巡らせてあり、ケンタッキーブルーグラスの奥に大人10人位が入れるジャグジーと、テラスの脇と平行にプールサイドをたっぷり取った5×13mのプール(手前は60cm・一番深いところは3m)がある。
 塀の外の玄関脇、道路に面した区画が普通車6台が駐車出来る駐車場になっている。楊さんは[トヨタ]の乗用車ばかり3台も持っている。
 家の造りはカナダ式、地下室の窓の高さが地面と同じだから光が取り込める。このワンルーム(奥が深い)もかなり広く、ランニングマシンや運動器具が置いてあり、この部屋が楊さんのアトリエになっている。アメリカの住宅規制とかで、一軒の家に寝室を3つ以上作ってはいけないそうで、長男のアロン(Aaron 19歳)君がこの奧にBEDを設置して寝ている。地下に降りる階段の反対側、裏口出口手前の右奥に洗濯機と乾燥機室がある。
 階段にも絨毯が敷かれ、2階にある寝室3室も絨毯敷きである。私達に提供してくれた部屋と向かいの部屋は同じくらい(10畳)の広さだ。楊夫妻の寝室には、どうやって入れたのだろうかと首をひねってしまう程(ダブルベッドが2つ半)の大ベッドが真ん中にあり、部屋の広さは30畳もあろうか? まさに大富豪の生活ぶりが伺える。
 玄関や大食堂、応接間には高価なインテリアな置物が並んでいる。
 築3年の家を買ったのだという。アメリカでは、何から何まで揃った状態で家を買う。ここに住み始めて2年が経ったと話していた。
 アメリカではパーティーが盛んで、楊家でも最高では300人のパーティーを開いたそうである。だけに、コップ類や食器の数も半端じゃない。絵皿ではない無地の陶磁器がそれぞれ300枚は用意してあるそうだ。

 楊家はニューヨークのスタテン島[アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市に属する島 ニューヨーク市の5自治区の一つで1975年まではリッチモンド(Richmond)区と呼ばれていた。面積286㎢、人口476,015人(2016年) ニューヨーク湾 ニューアーク湾などに囲まれ、狭い水路を隔ててニュージャージー州と接している。北東約8kmのマンハッタンとはフェリーで結ばれ、東のブルックリン区との間の巨大な吊橋ベラザノ・ナローズ橋を含む4本の橋で周囲と連絡している]に住居を構えている。
 新学期は9月7日から始まるので、中学3年生のアリシア、8歳小学2年生の(3女)ヨーヨー、5歳幼稚園(次男)のキキちゃん達は学校が夏休み中だ。この朝子供3人とリムさんと私達を、楊さんが運転して、[飲茶]を食べに連れて行ってくれた。
 まだ楊家の位置はスタテン島のどの位置にあるのか皆目分からない。車は市民の憩いの場になっているグレート キルズ(Great Kills)パーク、[その奧はローワー湾(Lower Bay)]にぶつかり左折してかなり走行した。20分も走るとチラチラ レストランが道路の両脇に見え始め[金皇廷]という中国料理店の駐車場に入った。午後5時からは中国料理店だが、ホリディーの午前中から3時までは[飲茶:茶を飲みながら、中華饅頭・ギョーザ・シューマイ・冷菜などの点心類〈中華料理の軽食の総称である。菜(中華料理の主菜)と湯(中華スープ)以外のものを指す〉を食べる中国風の軽い食事]だけのレストランとして営業している。店内に入ると、中国の広東州のレストランにでも来たような錯覚に陥った。 客のつんざく叫声に度肝を抜かれた。ニューヨーク在住の中国人がこの店に集まり朝食を楽しみながら? こうした声で話をしているのだ。
 「今朝はまだ静かな方ですよ」と楊さんが、異様に感じるのはKさんと私ぐらいなもので、奥さんと子供達は平然として意にも介さない。
 蒸し器を積んだカートの上には3段の蒸籠(せいろう)が積み上げられている。
「点心は禅語で『空心(すきばら)に小食を点ずる』とか、心に点をつけることから心に触れるものと言う説があります。食事の間に少量の食物を食べることなので、菓子や間食、軽食の類いは全て点心と呼ばれます。中国人の朝食は点心で澄まします」と、楊さんが説明しながら、何種類もの丸い蒸篭(直径12cm)を取ってテーブルの上に並べるのである。

点 心 料 理

 豆沙包子(小豆の餡の入った饅頭)、蓮蓉包(蓮の実餡の蒸し饅頭)、月餅(生地で餡を包んで型に入れ焼き上げた菓子)、八宝飯(もち米を使った甘い炊き込みご飯)、蒸餃子、焼売(しゅうまい)、小龍包(ふかひれが入ったもの)、包子(パオズ・小麦粉の生地で肉主体の餡を包んで蒸したもの、半球形に近い形状)、春巻き等々。
 「鈴木先生、ビールを取りましょう」と注文してくれる。
 楊さんには昨日ミネアポリス空港で貴重品の入ったリュックサックを置き忘れたことは話してある。空港レストランの領収書もあったのでそれを渡した。楊さんは[絵]を描いてばかりいるからあまり英語は話せない。そこで次女のアリシアちゃんの出番である。ミネアポリス空港のレストランに問い合わせをして貰う。そのレストランは何度掛けても電話に出てくれない。埒があかないので空港の[遺失物センター]にも問い合わせて貰った。答えは「届け出はありません」だった。
 子供達はあまり食べないがリムさんは余り厳しく小言を言わない。楊さんに聞いてみると、
 「子供達はあまり点心が好きじゃないんです」とあっさりしていた。

巨 大 な 吊 橋 ベ ラ ザ ノ ・ ナ ロ ー ズ 橋

 レストランを出ると楊さんの運転で、巨大な吊橋ベラザノ・ナローズ橋(ニューヨーク港のザ・ナローズ をまたぎ、ニューヨーク市のスタテンアイランドとブルックリンを結ぶ上下2層の自動車道専用の吊り橋。5年の工期と3億2,500万ドル(当時)の工費を費やして1964年11月21日にまず上層部の往復6車線が先行して開通した。主スパン長は1,298mあるため、それまで世界一だったサンフランシスコのゴールデンゲートブリッジを抜き、1981年にイギリスのハンバー橋 主スパン長1,410m)に抜かれるまでは世界最長の吊り橋だった。尚アメリカ国内の吊り橋としては現在も最長である)を渡ってサンセットパーク(SUNSET PARK)にあるスーパーマーケットの駐車場に入った。此処で小さな子供二人と奥さんと別れ、楊さんとアリシアちゃん、Kさんと私は黄色い路線マーク○Rの地下鉄ブロード ウェイ(BROAD WAY)36 St駅に入場した。
 前にも書いたように、車ではニューヨーク中を走り回れるが、楊さんは作画ばかりしているので余り英語を話せない、恥ずかしながら地下鉄の切符の買い方もよく判らないのだ。そこで我々の為に、今日の助っ人ガイド役を引き受けてくれた アリシアちゃんがタッチパネル式の自動券売機で(東京でいうパスモのようなチケット)メトロカード(1枚で2人乗れる)を買い、改札口を通り抜けた。この駅は地上駅でオレンジ色○Dウエスト エンド ライン(WEST END LINE)との乗り換え駅である。地下鉄の駅のホームの中には基本的に店や自動販売機やトイレも無ければ、キヨスクのような売店も無い。駅広告もない殺風景なだけのホームである。
 「日本の地下鉄はホーム下の線路周りが、綺麗に掃除がしてあって何時も清潔ですが、ニューヨークの地下鉄はゴミが沢山落ちていてとても汚いんです。誰も掃除しないので、ずっと汚れぱなしです」と楊さんは嘆く。
 「東京の地下鉄は、終電が行った後駅員が掃除をするんですよ」と私が地下鉄の職員だった当時の経験を話す。其処へ電車が入ってきた。何故か11両連結で、面白いことに車掌が6両目の真ん中に乗っていてドアの開け閉めをやっていた。
 地下鉄はロウアー・マンハッタンのキャナル・ストリートとダウンタウン・ブルックリンのフラットブッシュ・アベニュー・エクステンションを結ぶマンハッタン橋(1909年12月31日に開通した。革新的なデザインとして知られ、近代的な吊り橋の先駆けとして20世紀前半の多くの長大吊り橋のモデルとなった。上下層の構成で上層に、4車線の自動車道路、下層に3車線の自動車道路と4本の鉄道線路、歩行者通路、自転車通路がある。主径間長は448m、全長は2,089m、吊りケーブル長は983mである)を渡った。

マ ン ハ ッ タ ン 橋

 一度何処かの駅で急行に乗り換え57St Av駅で下車した。ニューヨークの地下鉄にはエレベーターとかエスカレーターはなく、日本の地下鉄のようにコンコースの照明は明るくない。薄暗い狭い石段を上がった出口の前の道路を渡るとそこが[セントラルパーク]の入り口だった。
 その路上には一頭立ての客待ちの馬車が列を作っていた。豪華な装飾が施され、ビロードの座席(4人乗り)つきの馬車は130$(14,950円)で、約50分掛けて広いセントラルパークを一周する観光ツアー用だ。パーク内にある数々の有名な像や、ウォールマンリンク、メリーゴーランド、セントラルパーク動物園、映画のロケ地などを、御者兼ガイドが優雅に案内してくれる。楊さんが馬車の前に立てという、セントラルパークへ来た記念に写真を撮ってくれた。我々はウオーキング気分で公園内を散策することになった。

ビ ロ ー ド の 座 席 (4人乗り)つ き の 馬 車

 [パーク・セントラル(中央公園)]

【 [パーク・セントラル(中央公園)]は、ニューヨーク市のマンハッタンの中心にある広大な都市公園である。南北4km(59丁目から110丁目)、東西800m(5番街から8番街)、3.4㎢広のさがある。周囲の摩天楼で働き暮らすマンハッタンの人々のオアシスとなっており、映画やテレビの舞台としても度々登場したため世界的にも知られるようになった。北をセントラル・パーク・ノース、南をセントラル・パーク・サウス、西をセントラル・パーク・ウェストと呼び、東は5番街と接している。東側中央にはメトロポリタン美術館、西には道をはさんでアメリカ自然史博物館がある。公園内はまるで自然の中にいるような風景だが、高度に計算された人工的なものである。湖がいくつかと、2つのアイススケートリンク、各種スポーツ用の芝生のエリア、自然保護区、そしてそれらを結ぶ遊歩道などがある。道路は景観を崩さないために人工的に窪地に造られている。公園はダイナマイトで岩盤を破壊して造ったものである。[面白い事実 ☆250本以上もの映画がセントラルパーク内で撮影された ☆ おおよそ1,600万ものニューヨークのアパートメントがセントラルパーク内にすっぽりと収まる ☆ 公園はモナコ公国より大きい ☆ 公園内を通る4本の通りを造るのに、多数の岩を粉砕する必要があり、南北戦争の決戦・ゲティスバーグの戦いで使われたよりもさらに多くの火薬が使われた 】
 園内を歩き始めて目に付くのは大小の岩の小山である。子供達が登り降りしていたラット・ロック (Rat Rock) は、マンハッタン島を構成する(マンハッタン片岩)の露頭の一つであり、セントラルパークの南東の角近くにある。この名前は、この辺りで夜間になると群れをなしていたラットから来ていて、マンハッタン片岩 (Umpire Rock) という別名もある。大きさは幅約17 m、高さ4.6 mで、それぞれの方角で違った形に見える。

ラット・ロック 別名 [マンハッタン片岩]

 これらの岩は氷河擦痕(さっこん)である。1億5000年前、ラブラドール高原に源を発する氷河は、氷床と接している岩盤を粉々に砕きながら、流れ下って行った。マンハッタン島を覆っていた厚さ3000mを越える氷河がマンハッタン島の上を移動して行く時、氷床の底に取れ込まれていた岩がセントラル・パークの岩盤の表面を削り氷河擦痕を残した。迷子石なのだという。硬い岩がパークのあちこちの地面から顔を出していて、岩の表面に『筋状の傷や剥離』が確認できる。
 「ニューヨークのど真ん中にこんなゴツゴツした岩があるなんて何でなんだ」とKさんが不思議がる。
 「此処は昔岩山だったんじゃないのかな?」このことについてはKさんのガイドブックには何の説明も無かった。ラットロックを左に舗装された道路を進む、客を乗せた馬車が私達を追い抜いていった。
 セントラルパークの東南端にアウグストゥス(Augustus)によって設計されたウィリアム・シャーマンの金色の乗馬像がデンと設置されていた。

ウィリアム・シャーマンの金色の乗馬像

 片手にpalm frond(植物の一種)を握りもう一方の手で前方を指し示すVictoryの背後で、シャーマンが馬にまたがっている像、好天に恵まれケバケバしく輝いていた。
 64ストリートあたりの公園真ん中に、長い歴史と伝統を持つメリーゴーランド(英語の正式名称はCarousel)がある。最初のメリーゴーランドがセントラルパークにできたのは、なんと1871年である(日本では明治維新後の廃藩置県の年)。しかも、21世紀の現在でも週末は子ども連れの家族に大人気で、子連れのお父さん、お母さんどころか、お爺さんお婆さんも幼かった頃を懐かしみ一緒に楽しんでいる。

セントラルパークのメリーゴーランド

 言い伝えによると、最初に登場した回転木馬は1870年で、目隠しされたロバと馬によって回転していた。1900年代に入って、蒸気パワーを利用するようになる。1924年に火事で回転木馬は破壊したが1950年に再開された。現在のメリーゴーランドは、1950年に当時遊園地とビーチで人気だったコニーアイランドから移転されたものである。
 現在利用もされている木馬は1908年に製造されたもので、馬や馬車など58体すべてが手作りで、手彫り、手塗り、サイズが実物の3/4というのが特徴である。この回転木馬は、全米でも最大規模のものの1つである。年間25万人もの子供と大人が楽しんでいる。回転する間に流れるオルガン演奏は150曲もある。重要歴史記念物に指定されてもちっとも不思議じゃない名作だが、1回たった2$(250円)で乗れる。我々は傍まで行ってじっくり観察、乗ったつもりで通り過ぎた。
 公園内には幾つかの橋が架かっておりその下も道路である。

セントラルパークの有名な[ボウ・ブリッジ]

 似顔絵描きや、出店が並ぶザ・モールと呼ばれるまっすぐな並木道には沢山の銅像が建っていて、通り抜けたところ(72丁目付近)に階段があった。脇にトイレがあったので用を済ませておく。
 広い階段を降りると ベセスダテラス(Bethesda Terrace・セントラルパークの心臓として、ゴールドを中心に華やかな色で装飾されたヨーロッパ調のテラス)になっている。階段の上からはザ・レイクと呼ばれる湖とグレートローンの眺めが素晴らしかった。テラス内は音の響きが良いことから、弦楽器のパフォーマーが伸びやかに演奏して穏やかな雰囲気を醸し出していた。別の所ではストリートミュージシャンが歌っていたり、バレリーナーらしき女性がポーズを取りカメラに収まっていたり、黄色っぽい太さが12cm、長さが3mもあろうかと思われる大蛇を観光客の肩に担がせお金を稼いでいる人もいた。
 ベセスダテラスを抜けると、広場の真ん中に世界でも有名なベセスダ噴水(ウォーターエンジェル・水の天使)と呼ばれる高さ約8m、幅約29mもある大きな噴水が現れた。

ベセスダ噴水(ウォーターエンジェル・水の天使)

 1873年に彫刻家のエマ・ステビンス(ニューヨーク市内の大規模な芸術作品の製作に携わった初めての女性)によって製作された。彼女はこの噴水から流れる水を[ヨハネの福音書]に記載されている[ベセスダと呼ばれる池]に関連させ、ベセスダの噴水と名付けた。その名前には人々を癒す噴水という意味が込められている。
 噴水の上部には[水の天使]と呼ばれている天使の彫刻がある。この彫刻は新古典主義的であり、調和のとれた美しく躍動感の溢れるデザインとなっている。天使の左手には[浄化]を意味する百合の花が握られており、右手は彼女の足下から流れる水に対する〈祝福〉を表している。また彼女の立つ丸い台下に4人の(ケルビム・子供の像)智天使がおり、それぞれ〈健康〉〈純粋〉〈節制〉〈平和〉を表している。
 その美しさから、映画『ホーム・アローン』や『セックス・アンド・ザ・シティ』などのドラマに使われた。またウエディングの撮影にもよく使われるロケーションなのだという。
 噴水前の広場では、格子の金具(1m×60cm)を石けん水に漬け、それを振り回し100個近いシャボン玉を空に飛ばし子供達を喜ばせていた。(石けん水桶の下にはチップ入れがあった)
 噴水の奥には湖が広がり、緑豊かな横の広場でパフォーマー3人が500人位の観客を集めて笑いを取っていた。滅多に外へ出ない楊さんもだが、アリシアちゃんも観客の輪の中に入り込み熱心に見入っていた。
 カメラを無くした私は自分の眼の中にこの雰囲気を焼き付けるのみ、写真を撮らないで観光するのは初めてである。
 [子どもたちの遊び場]数々のアート作品が存在するセントラルパークの中でも一番人気の銅像と言えばアリス・イン・ワンダーランド(Alice in Wonderland)[不思議の国のアリス]をモチーフにした力作だろう。

人気の銅像 アリス・イン・ワンダーランド[不思議の国のアリス]

 大きなマッシュルームの上に座るアリスの両サイドにはウサギなどのキャラクター。複雑な構造にはちゃんと意味があって、パブリックアートというよりもジャングル・ジムみたいに遊べるようになっている。これだけの力作なのに触っていいどころか、登って遊べる所が斬新的である。場所はアッパーイースト・サイド側の72丁目にある、公園入口から入ってすぐの所にある。もともとこのアリスは、George Delacorteさんが1959年にニューヨークの子供達のために寄付したもので、最初から遊べるように作ったようだ。大きなきのこの下を、子どもたちがトンネルをくぐるように無邪気に駆けまわっていた。
 ベゼスダ噴水から池をはさんだ反対側(公園の東側、74丁目と75丁目の間)にのどかなローブボートハウス(Loeb Boathouse)がある。この池では手漕ぎボートを貸し出しているほか、自転車、ロマンチックなゴンドラをレンタルすることができる。もちろん、湖の素晴らしい眺めを見ながら、スナックとドリンクを楽しめる。
 我々は噴水をさらに北上し、青空の下で食事ができる[ル・パン・コティディアン セントラルパーク店]のテーブルに座った。

[ル・パン・コティディアン セントラルパーク店]

 喉が渇いたから何かを飲みましょうと寄った店である。説明書きによると、ベルギーからやってきたオーガニックにこだわったベーカリーのチェーン店で、日本にも店舗があるそうだ。天然酵母とオーガニックの小麦を使って焼き上げたパンを使ったサンドイッチ、クロワッサンやブリオッシュなどが店頭に並んでいる。4月から11月中のみの営業である。
 アリシアちゃんがポテトチップと珈琲3人分を運んできてくれた。そのポテトチップの太くて長いこと、それに量の多さが半端じゃない。私は油から黄色く上がったその色を見ただけでうんざりしてしまった。楊さんが私にはビールを取ってくれた。
 レストランで寛いでいると、人に慣れきった野鳥がテーブルの下に集まってきた。先ずはよく見るイエスズメ、ホシムクドリ、鳩、青くて格好良い魅力的な鳥はアオカケスかな? アリシアちゃんがあまり量が多いので、持て余していたポテトチップを千切って投げてやると、鳩とホシムクドリが奪い合っている。人に慣れてはいても餌を咥えると飛んで行ってしまう。楊さんもKさんも野鳥に大サービスだった。
 セントラルパーク79丁目付近に、鬱蒼とした木々に囲まれた、小高い丘に佇んでいる素敵なベルヴェデール城(Belvedere Castle・最初にこの場所に展望台がつくられたのは1867年、1872年にお城の原型ができて建築され、1911年頃からは気象観測設備が設置された。その後、一時期廃墟になっていたが、1983年からセントラルパークの管理団体が管理することになった。内部にはセントラルパークにいる野性動物や植物の展示がしてあり小学生が学校の野外授業でこのお城を訪れる。入場は無料)が聳えている。屋上は大きなセントラルパークを見渡す事のできる展望台になっているそうだが、我々は遠目に眺めて素通りし北上した。
 それこそ公園のど真ん中、西寄り81丁目付近に高さ10m位の支柱から吊されたブランコがあった。

 鎖で吊された座板に大人が座って漕ぐとかなりの高さまでの振り子となる。あまり高く迄上がるから子供は乗らない。活発そうな女性が我々の背丈より高く揺すっていたのを見て、楊さんがアリシアちゃんにブランコを漕ぐように言う。怪訝そうな顔で渋々揺すり始めたが、楽しいというより怖かったんじゃないかと思った。ブランコを抜けるとグレート・ローンと呼ばれている大きな緑地が広がっていた。
 [グレート・ローン]は、地理的には公園の中心(79丁目から86丁目まで)にあたる。

大 き な 緑 地 [ グ レ ー ト ・ ロ ー ン ]

 世界で最も有名な芝生の一つである[ケンタッキーブルーグラス(牧草を改良した芝。寒地型なのにほふく茎があり、横に広がり繁殖する。1年中緑で、生存年限の長い常緑多年草。冬は休眠期となり、色が薄くなり黄色っぽくなる。寒地型の中では耐暑性に優れている。日本芝と同じくらい乾燥に強く病気に強い。葉色は淡い明緑色で、葉幅細く、緻密で非常に密度が高く、踏まれるのに強い。種が小さく、発芽まで2~3週間かかり、生育も遅く、芝生の完成が遅い。低刈りに強く、芝生の美しさでは1、2を争う)で覆われた約222,000㎡の都市緑地である。グレート・ローンは、元々は長方形のクロトン貯水池があった場所だった。フレデリック・ロー・オルムステッドとカルバート・ヴォーがセントラルパークを設計した時、曲線な自然景観と対比となる貯水池の長方形の形を嫌い、公園の訪問者からカモフラージュするため、高密度の植林で覆った。貯水池の水は1931年に排水され、ロックフェラーセンターと8番街地下鉄の採掘材を使って埋められた。
 埋め立て後の利用方法については、第一次世界大戦の兵士の追悼や空港の離着陸場、スポーツアリーナ、オペラハウス、地下駐車場、映画の保管庫まで、様々な案が出されたが、最終的には、オルムステッドとヴォーのヴィジョンである、都市空間のオアシスと決まった。楕円形の芝生広場は1937年にオープンし、1950年代に野球用のダイアモンドが追加され、8つのボールフィールドを持つに至った。
 何年にも渡り、グレート・ローンは、サイモン&ガーファンクルや、ダイアナ・ロス、ボン・ジョヴィ、メトロポリタンオペラ、ニューヨーク・フィルハーモニックなど記憶にのこる公演の会場にもなった。しかし残念ながら、1960年代から70年代に行われたこのような大規模な集会や無秩序な使用は、楕円形の芝生を大きく痛めてしまった。1997年、セントラルパーク・コンサーバンシーは、当初の素晴らしさを取り戻すための2年間に渡る修復を余儀なくされ完了させた。
 現在では、4月中旬から11月中旬まで解放され、ピクニックや日光浴、野球などを楽しめる最適な憩いの場所となっている。現在でも、ニューヨークフィルによるコンサートを含む多くの公演やイベントが、夏の間に開催されている。
 「私の家の草もケンタッキーブルーグラスですよ。これは手入れが大変で、2週間も放っておくと雑草が沢山生えてきます」と楊さんが話す。家の芝生の管理は楊さんの分旦だそうである。
 とにかく広くて大きな原っぱである。野球場、バスケットボールコートその他多数のスポーツスペースがある。芝生の上では寝転んで日光浴をする人、ブーメランを楽しむ人が気ままに過ごしていた。右横は[メトロポリタン美術館]である。

グレート・ローンの横にある[メトロポリタン美術館]

 グレート・ローンを縦断したところに、これもと思われる大きな貯水池があった。

[ ジ ャ ク リ ー ン ・ ケ ネ デ ィ [ オ ナ シ ス 貯 水 池 ]

 [ジャクリーン・ケネディ・オナシス貯水池(Jacqueline Kennedy Onassis Reservoir)](85丁目から96丁目、公園の東側から西側まで)はもともとはセントラルパーク貯水池(Central Park Reservoir)と呼ばれていた。この貯水池は1994年に、ジャクリーン・ケネディ・オナシスの貢献を称え、また彼女がこの貯水池の周りをジョギングすることが好きだったことにちなんで命名された。彼女は5番街のアパートに住んでいた。現在でもジョギングコースとして、木々に美しく花が咲く春に人気の場所となっている。貯水池の面積は43haで、38,000,000㎥の貯水量がある。現在では、水道水としては使われていないが、プールやハーレム・メーアの水として使われている。池の周囲には、2.54㎞のジョギング・トラックや公園のブライドル・トレイルがある。ヤマザクラやソメイヨシノが咲いている季節には観光客が多く訪れる。ロードデンドロン・マイルに沿ったツツジは、1909年にラッセル・セージ夫人が市に贈呈したものである。池は、20種以上を保護する公園の主な保護地域の1つである。マガモ、オオバン、カナダガン、アライグマ、アメリカオシ、白鷺などが生息する。
 貯水池は、セントラルパークをデザインしたフレデリック・ロー・オルムステッドとカルヴァート・ヴォークスが設計し、1858年から1862年にかけて造成された。彼らは、マンハッタンの2つのポンプハウスも設計している。池はただの池ではなく、クロトン水路から水を取り込み、マンハッタンに水を供給した。この水道は131年間利用され、79番街の下のサード・ウォーター・トンネルが完成したことから、池は汚染の心配や旧式であることを原因に、1993年に役目を終えた。
 グレート・ローンを縦断して柵越しに貯水池を見ると、高層ではないがマンハッタンのビル群が一望できる。ここまで辿り着くには随分遠い道のりだった。家にこもりっきりで絵を描いている楊さんの足が速いので、Kさんが感心していた。幾つかの有名スポットを見学散策しても、ほんの僅かである。貯水池を見て木々の茂みを横切り、メトロポリタン美術館の北側5番街に出た。
 楊さんとアリシアちゃんはセントラルパーク内でも、見学スポットをスマホのマップを開き、磁石の画面から方角を確認しながら散策していたが、いよいよビル街に入ると次の目的地への、地下鉄の入り口を探すのにスマホを親子して見ながら大変苦労していた。