台湾・那覇・宮古島・石垣島 クルーズ 6日間

 6月18日(日曜日) 第2日目

昨晩は12時にはベッドに入った。私は時差計算を間違えて、日本時間の4時に起き出して、小菅氏に気付かれないように電気も点けず、いつもの朝の運動をこなし日記も書いてしまった。小菅氏がトイレに起きて、
 「台湾時間でまだ3時40分だよ」と教えてくれた。いつもは私が小菅氏に時差時間を説明していたのに恥ずかしい。仕方なく又ベッドに横になりモジモジしていた。大山氏が5時過ぎにお見えになった。小林氏はお出でにならない。3人で軽く[お早う食前酒]のワインを口にする。
 6時30分にレストランが開いた。皆して連れ立って昨晩と同じレストランに行き、バイキングを軽めに頂いた。皆さんは結構食欲旺盛で御立派だと感心させられた。
 各自でスーツケースを引いて、7時45分にロビーに降りる。曇天であるが雨は降っていない。昨日と同じような大型バスである。客席は急階段を登った2階部分になっている。今回の参加者は総勢54名だそうで、同じ機のフライトが叶わずAグループ34名はチャイナエアラインを使い、我々Bグループ20名は、エバー航空で台北まで来た。大型バスに20人だから、ゆったり席を取ることが出来た。
 故宮博物院の開く時間に入場する為に、午前8時という早い出発となったようだ。張の挨拶は、最後に連れて行く民芸品店で販売している《北投石》の紹介だけで終わってしまった。

[故宮博物院]
 8時30分バスは故宮博物院のバス到着場に着く。そこはもう入り口で、中に入り階段を登ったところで、この博物院だけに通用する[イヤホン]が配られた。チャンネルを〈3〉に合わせる。張がイヤホンのマイクを使っての説明が始まる。
 「はぐれたら、今いる場所で待ってね。見学する物は沢山あって、全部見るには1週間は掛かるけど、一番人気のある宝物を案内します。階段を上がって3階まで登ります」つっけんどうな喋り方なので何か小言を言われているみたいな感じだ。
 9時前だというのに院内は観光客でごった返している。全てガラスケースに収められている。最初は紀元前2千年前の《青銅器》見学から始まった。張はどんどん歩いて行くから付いて行くのが精一杯で、ゆっくり写真を撮っている暇が無い。
 次の部屋は世界的に有名な
 《 翠玉(ひすい)白菜(緑と白のみずみずしい光沢や、しなやかに反り曲がった葉は本物そっくりである。白菜のどこをみても、石の塊を彫って作ったとは思えない。新鮮で生気に満ちている。翠玉のなかでも選りすぐりの玉材と、洗練された技巧が融合してできた究極の[神品]といわれている)》である。

翠 玉(ひすい)の 白 菜

 似かよった白菜にバッタが留まっている《バッタ翠玉白菜》もあった。
 今ひとつ有名な
 《 肉形石(清朝時代に作られたとされる長さ5.3cm、幅6.6cm、高さ5.7cm、東坡肉〈とんぽーろー・豚の角煮の一種〉を模したとされる彫刻)》は台中の[カギ博物館]に移され展示中だそうだ。
 《笏》《寿山石》《玉の工芸品》《唐三彩》《壺》等々、張の説明は早口なので、聞いていても詳しいことは判らない。見学しながらも大山氏は付いてきているだろうか? 心配になった。彼は脳卒中闘病後かなり良くなったとはいえ、階段の登り降りや急ぎ足は、まだ普通の人のようにはゆかない。どうしたのか聞いてみたら、明子さんに
「集合場所で待っています」と伝えて出口へ行ったそうだった。
 今回は国宝の象牙の14層球へは連れて行ってくれなかった。
 正味1時間である。故宮博物院の、触りを見学したに過ぎない。博物院の全景を写す時間も取ってくれない。物足りない気分を引きずって、再びバスに乗った。
 台北市内観光 は駆け足である。時間を合わせての移動らしく、[忠烈祠]へは9時に到着した。儀仗兵の交代セレモニーが始まっていた。

 【 [忠烈祠(ジョンレイツー)]は、衛兵交代のセレモニーが有名である。陸・海・空軍より選抜された兵士が、1時間交代で大門と大殿を各2人ずつで守っている。任務に就くと1時間微動だにせず、瞬きも許されない。(側には世話係がつき、ハンカチで衛兵の汗を拭いたりしている)警備する軍は半年ごとに変わる・制服の色は・陸軍は深緑、海軍は夏の場合は白、冬は黒、空軍は青である。
 衛兵交代は1時間毎に行われる。

衛 兵 交 替 式

 毎時ちょうどになると引率の兵士1人を含む5人(任務に就いていた兵士とこれから就く兵士)で隊列を組んだ儀杖兵が、大門から大殿に向かって銃を右手で肩に構えて左手を垂直まで上げ、歩幅を揃えてゆっくりと行進を開始する。大殿に到着すると、儀杖兵は任務に就いていた衛兵2名と合流して、殿内の位牌に向かい敬礼をする。その後、銃を交換、またそれを振り回す儀式(衛兵が持っている銃の状態を確認する動作が半ば形式化したもの)を行い、次に任務に就く2名を残して、5名で大門に戻って来る。そして、大門に着くと大門守護の任務に就く2人が門の前にある台の上で任務に就く。セレモニーの所要時間は約20分である。儀杖兵の資格は、高卒以上で犯歴がなく、身長175cm~195cm、体重65kg±1kgが条件で、その上に厳しい訓練が課せられ、それを成し得た者のみが儀仗兵になれる 】

 張の説明では
 「今日の兵隊服は濃紺だから、空軍よ」だそうだ。小林氏は儀仗兵に付いて大殿迄行ったようだ。台北観光では必ずこのセレモニーを見学させられる。8年前に来た時は午後6時の最後の交替時間だった。見学客は我々のツアー客だけ、取り囲む観客の居ない行進を、しっかり写真に写すことが出来た。
 大門前にバスが来た。台北は連日雨ばかりで、
 「今日降らないのは珍しい、皆さんの普段の行いが良いからだ」と張がゴマを擦る。

 [総統府]は車窓からの見学で、《中正記念堂》へ向かった。バスを降り広場を歩き記念堂まで来た。89段の階段を登り拝観するのが習いだというのだが、足の悪い方はエレベーターが有りますというので、全員がエレベーターで上った。ここでも儀仗兵の交替儀式の最中だった。緑色の制服だから陸軍の儀仗兵だろう。巨大な堂の中に入ると、蒋介石の政治思想である「倫理・民主・科学」の文字が彫られた壁をバックに、高さ6.3mの巨大な蒋介石の銅像が鎮座していた。
 【 [中正紀念堂] は、中華民国台北市中正区にある総統蒋介石の顕彰施設である。

[ 中 正 紀 念 堂 ]

 台湾の三大観光名所の1つであり、中国の伝統的な宮殿陵墓式が採用されている。(中国・北京にある「天壇」を意識して造られた)中華民国の初代総統である蒋介石を顕彰し1980年に竣工した。(中正紀念堂の「中正」とは蒋介石の本名)蒋介石が1975年に死去した際、行政院は全国民の哀悼の意を表すことを目的とする紀念堂の建設を決定し、1年後、43組の応募の中から楊卓成の設計案が採用された。
 蒋介石生誕90年に当たる1976年10月31日に起工式が催され、1980年3月31日に完成した。蒋介石逝去5周忌の4月4日に併せて落成式が行われ、翌4月5日から一般公開された。
 午前6時30分に儀仗隊が中正紀念堂に進駐し、午前10時より午後4時(水曜日だけ6時)まで毎時交代儀式が行われている。
 民進党政権下での台湾正名運動の影響で、2007年に[台湾民主紀念館]に改名され、入り口の門に書かれた《大中至正》の文字が《自由広場》に架け替えられ、儀仗隊交代式が中止していた時期があった。国民党が政権復帰した2009年に、再び元の《中正紀念堂》に戻された(ただし《自由広場》の文字はそのままである)      シンボルともいえる蒋介石の座像が置かれている正面中央の本堂では、おなじみの[衛兵交代式]の他、蒋介石の遺品と共にその功績を紹介する[蒋公文物展視室]や蒋介石に関する書物・視聴覚教材が利用でき[中正紀念図書館]も無料で開放されている。また本堂の右側にある国家戯劇院(オペラハウス)や、左側の国家音楽庁(コンサートホール)の他に公園広場、庭園、池(光華池・雲漢池)なども併設されているので、いろいろな用途で使用出来る。この広大な土地は、清朝、日本統治時代ともに軍が使用していた軍用地跡地で、敷地総面積は250,000m²、オリンピックのサッカー場が25個も入ってしまう広さである。
 蒋介石の座像は帰ることの許されなかった故郷・中国を向いて座っている。シンボリックな八角形の屋根は孫文が唱えた八徳《忠、孝、仁、愛、信、義、和、平》を表している。また三面の階段を合計すると84段あり、正面の階段5段をプラスすると89段になる。これは蒋介石の享年89を示している。本堂の面積は約15,000m²で、建物の高さは70m。銅像の上部には蒋介石の基本政治理念であった《倫理、民主、科学》が、そして像の土台には蒋介石の遺言がそれぞれ記されている。フロアの天井には国章である《青天白日》の徽章が描かれている 】

 正面階段からコンサートホール、オペラハウスを見渡し、階段に挟まれた中央大理石に彫られた龍の彫刻などを写真に修め、記念堂右脇の階段を降りた。にわか雨が激しく降りだしてきた。200m先にある大考門まで急いで避難した。
 これで台北市内観光は終了である。12時に民芸品店に連れて行かれた。入り口で2割引券を渡される。真っ先に張が[北投石]コーナーに連れて行き、店員による計器を持ち出しての説明が始まった。

 【 [北投石(パワーストーン)]北投石の歴史は、1898年(明治31年)に、理学士である櫻井廣三郎が、秋田の鹿の湯、渋黒温泉(現玉川温泉)にて不明な鉱石を発見したことから始まる。玉川温泉は元々、鹿が傷を癒やすために入っていた温泉で、それを見つけたマタギも湯治に利用した。
 北投温泉も、台湾有数の湯治場として知られている。2つの温泉から産出される北投石は、古くから[万病に効く薬石]と言われてきた。
 北投石はラジウムを含有し、放射線を発する。放射線は健康に害を及ぼす恐ろしいイメージを持たれてきた。確かに、放射線を大量に浴びることは有害だが、研究によって微量の放射線を浴びることは、体にとって良い影響をもたらすことが判ってきた。こうした低線量の放射線による効果のことを〈ホルミシス効果〉と呼び、現在も多くの研究や臨床実験がなされている。
 [北投石の伝説・言いつたえ] その当時は、鉛の硫酸塩ということしかわかっていなかった。が、その後1905年(明治38年)に、地質学者である岡本要八郎が、台湾の北投温泉の河床にて比重の大きな沈殿物を発見した。この鉱物が鉛を含有する硫酸鉛鉱であること、さらに火山性の温泉が放射能を持ち、ラジウム原子が崩壊することにより[鉛原子]が生成されることが分かった。その後の調査、研究を経て、1911年(明治44年)には、同じく地質学者である神保小虎によって、台湾で発見された鉱物と、秋田県で発見されていた鉱物とが同様のものであることが確認された。
 1913年(大正2年)には、この鉱物が発見地より北投石(西洋名Hokutolite)と名付けられた。なお、玉川温泉の北投石は1922年(大正11年)に、天然記念物に指定され、その後、1952年(昭和27年)には、特別天然記念物として指定されるに至った。主な効能は高血圧、動脈硬化、神経痛、皮膚病に効くとされる 】
 
 20人のグループの中で[北投石]の説明を聞いているのは、小林氏と大山夫妻と私だけ、他の人はお土産を買うのに忙しそうで店内に散ってしまった。大山御夫妻はそれぞれ男性用・女性用一つずつブレスレット(腕輪)を買っていた。2つで130,000円だというのを80,000円(38.5%引き)に負けさせたそうである。小林氏が男性用の一番大きな石の107,000円の北投石ブレスレットを買うのに値段の交渉中だった。(私は8年程前台北に来た時に、その時のガイドが勧める80,000円の[金髪晶]というのを値切って40,000円で買っている。
 【 [金髪晶]とは、金色の針状結晶が水晶に内包されているルチルクォーツで、主に台湾では金髪水晶と呼ばれている。効能は強力・元気や、向上心、金運がアップするパワーストーンである 】
 小林さんが北投石ブレスレットを買うなら私も一緒に買うから、3割引にするように交渉した。店員は不承不承74,900円で結構と手を打った。小林氏は「端数も切り捨てにしろよ」と頑張る。店員は70,000円には負けられませんと譲らない。そこへ明子さんがやって来て
 「以前私もこのような腕輪を買ったけど、全然効き目がなかったわ。こんな物買うのを止めなさい」と御主人を諭す。すると、小林さんは買うのを止めてその場から去ってしまった。すると数人の店員が私に集中してきた。「70,000円なら〈日台友好〉のため買ってあげる」と言うと
 「後3,000円上乗せして下さい」と店員が言う。
 「じゃあ要らない」すると店員はマネージャーを呼びに行く。マネージャーは
 「後2,000円出して下さい。お願いします」と一生懸命である。これが駆け引きの常套手段なんだが、私が売り場を離れようとすると
 「判りました。他の人には絶対に言わないで下さいね」と言うことで、欲しくもない変な《石》のブレスレットを70,000円(34.6%引き)で買う羽目になってしまった。
 「負けさせるのに成功したのだから、まあ良いか?」と自らを慰めた。
 傍で成り行きを見守っていた張さんが
 「先生は買物上手ですね。今迄沢山お客さんを連れてきましたが、これほど負けさせた人はいませんよ」と褒めちぎっていた。
 [北投石の腕輪]を黒い布製の袋に入れてくれて、オマケにと、[純チタン製 強力磁気健康ブレスレット(3,000円・肩こり解消 血行促進・紳士用)を同様の袋に入れてくれた。
 私は[金髪晶]と[北投石]腕輪の替え紐を2組ずつサービスさせた。大山さんも[純チタン製 強力磁気健康ブレスレット]を貰ったようで、それを小林氏にプレゼントなさっていた。帰国後私が貰った[純チタン製 強力磁気健康ブレスレット]は小菅氏にプレゼントした。
 〈後日談である。大山佳子さんがインターネットで[北投石]を調べたところ、同じような物が10,000円そこそこで発売されていたそうである。私も調べてみたら、直径12mm玉17個のブレスレットを12,000円で販売していた。馬鹿な日本人相手に、台湾では詐欺的な商売をしているのだろうか? 高い物だっただけに割り切れない切なさが残った〉

 大きな店であるから、[健康拍檔(水筒)]があるか聴くと、店員が案内してくれた。8年前に買った水筒と同一品[健康拍檔(Travel Buddy)で、底蓋を開けると茶こしネットが入っている。そこへお好みの茶葉・ティーパック・珈琲・烏龍茶等を入れて底蓋を閉じる。上蓋の口から熱湯又は冷水を入れれば水筒として持ち運べる。途中でお湯を足せば一日中それらを味わえる。この製品については2割引の券を見せても1割にしかしてくれなかった。(2,200円)
 これは私が水筒を使っているのを見た、ふれあい大学の同窓生(女性)が台湾へ行ったら買ってきてと頼まれたものである。

 バスはサファイア・プリンセス号が接岸している[基隆港]へ向けて出発した。張がマイクを握り、最終日6月22日(木曜日)台湾へ再入国し、この日観光する[九份]での昼食についての説明があった。
 「最終日は九份観光となりますが、このツアーでは昼食はセットされていません。銘々で食べて頂きます。レストラン等は沢山ありますが、メニューを見てもどんな料理か判らないとか、どの店が美味しいのか探すのが難しいので、日本円で2,000円(500元)払えば予約できる店があります。お金は当日で結構です。予約なさる方はいますか?」と話す。我々6人は全員が予約することにした。他のツアー客に希望者はいなかった。
 [基隆(キールン)]港は台湾の一番上の突端、台湾東北角および宜蘭海岸国家風景区の真中に位置している。現在では、基隆港の埠頭の数も日本統治時代の西岸18埠頭から57埠頭(西岸37埠頭、東岸20埠頭)まで増えている。豪華客船は2016年からは、臨時旅客ターミナルに西6旅客ビルを追加、西5と西6桟橋で客船にサービスを提供するようになった。
 バスを降り、スーツケースを請け出す。海上には桟橋に停泊しているデッカい、サファイア・プリンセス号が聳えていた。今川さんが[イヤホン]のスイッチを入れるように言う。スーツケースを引きながら旅客ターミナルに入り、エスカレーターで数階上がる。すると大広間にロープが迷路のように張られ、既に長い行列が出来ていた。最後尾に付き、イヤホンの案内を聞きながら、ジグザグのロープに沿い、少し動くと列に従って前へ進む。[健康質問書]が配られる、列を進みながら記入するのが一苦労だった。
約50分ぐらい行列に並びようやく出国審査に入る。スーツケースと手荷物のX線検査が終わるとスーツケースは船内預けとなった。今川さんがパスポートとクレジットカード、健康質問書を回収する。一人一人顔写真を撮られ、暫く待つと、ローマ字で名前と、17年6月18日から22日迄の日付、PRINCESS CRUISES come Back new と書き込まれた[クルーズカード]を渡された。このカード裏のバーコードを係員が計器で読み取ると、計器に持ち主の顔写真が映し出され、一致していればようやく乗船の運びとなる。イヤホンがなかったら、こうもスムーズに乗船は出来なかったと思う。クレジットカードは返してくれたがパスポートは船内預けとなった。
 [クルーズカード]は船室の鍵、身分証明、船内での支払いカードを兼ねているので、船内では常時携帯していなければならない。磁気を敏感に感知するので、スマートホンなど電波を発する物と一緒に持ち歩くと異常が生じ使えなくなり、再発行して貰うことになる。
 乗船は14時30分頃だった。私と小菅氏の部屋は12階のA332号、小林御夫妻は船首に向かって隣のA328号、大山御夫妻はその又隣のA324号室の部屋続き、それぞれが海側バルコニー付きである。16時過ぎに[避難訓練]が有り、これには全員に参加義務があるという。取り敢えず12階までエレベーターに乗り部屋を捜し当て、クルーズカードをドアにかざして開くのを確認した。すでにスーツケースがドア前に届いていた。

 【 [サファイア・プリンセス(Sapphire Princess)号]は、イギリスの船舶会社のプリンセス・クルーズが所有2004年5月から就航した世界最大級の外航クルーズ客船である。三菱重工長崎造船所の技術を結集した大型客船である。

 日本で建造する客船としては史上最大。同型同時期建造の姉妹船として「ダイヤモンド・プリンセス」がある。 
 乗客定員 2,678人 乗組員数 1,238人 総トン数 11,587トン(世界ランキング14位)
 巡航速度 22ノット(41km/h)全長 290m 全幅 37.5m 船室1,337室(アウトサイド率72%、専用バルコニー付設率56%)船籍は英国。ディーゼルとガス・タービンを組み合わせた発電機、海洋に一切投棄しない廃物処理装置の採用など、地球環境に配慮した先進の客船である 】
 
 今川さんから、避難訓練が行われる前に14階の[ブッフェレストラン]で昼食を済ませておいて下さいと言われた。スーツケースと手荷物をそれぞれのキャビン(船室)に入れ、クルーズカードを首に下げ、3時過ぎに6人が揃ってエレベーターに乗る。長い船内の一番前のエレベーターに乗ったものだから、プール・ジャグジーの脇を通り抜けようやく[ホライゾンコード・ブッフェレストラン]を探し当てた。
 既に乗船していた客が大勢食事をしていた。船内のテーブルはほぼ満席状態、初めてで様子が掴めないまま、プール脇の海が見えるテーブルを確保し、一人がテーブルの番をし、他の人は料理を取りに行く。
 料理が並べられているコーナーは2つあって、其処へ入る際は両手のアルコール消毒を促される。トレイが無く大皿に、並べられてある料理をピックアップする。だから一度では飲み物などを持てないから、何度も取りに行く事になる。料理を載せた皿を持って料理コーナーから出る時に、ウエイターからナプキン(膝に掛ける)に包んだ[スプーン・フォーク・ナイフ]を渡される。
 私は奧のコーナーに入った御陰で、料理の種類が豊富だった。手前の入り口から入った小林氏等は私が選んだ料理を見て
 「何処にあった?」と聞き、奧の料理コーナーへ向かった。ハム・ソーセージ・牛肉・ゆで卵、果物では、瓜や西瓜・オレンジ、野菜サラダの類いの傍には数種類のドレッシング、数種類の煮物、数種類のヨーグルト等々、盛り沢山である。午後3時過ぎの食事だったのでどれを選んでも、とても美味しかった。プールの前にカウンターBARがあった。一足お先に[クルーズカード]を提示して、コップに入れて貰ったビール(バドワイザー小瓶)を買ってきて飲み始めると、小菅・小林氏も買いに行った。
 50分程掛けゆっくり食べてキャビンに戻ると、サイレンが鳴った。《避難訓練》開始である。今川さんが
 「クローゼットの棚にある救命胴衣を持って、6階のカジノ前の[シガーラウンジ]に集まって下さい」と知らせに来てくれた。とても親切で、救命胴衣のあるクルーゼットを、指をさして教えてくれ、
 「タバコを吸いましたね?」と怖い顔、小菅氏が
 「匂いましたか?」と聞くと
 「船室内では絶対に吸わないで下さい。掃除に来たボーイに嗅ぎつけられると厄介ですから、それとバルコニーには防犯カメラが設置されています。喫煙が判ると1回につき罰金250$(28,000円)が取られますよ。お吸いになるならシガーバーや、15階のたばこを吸うことが出来るエリア・シガールームでお願いします」とキツく咎められていた。
 《避難訓練》は出港迄に一番先にする避けて通れない、義務付けられた訓練なのである。訓練だから12階から6階までエレベーターは使用出来ない、階段を降りるのである。大山さん大丈夫かな? 頑張って付いてきているのを確認する。
 6階に着くと、ラウンジでクルーズカードでのチェックがあった。避難訓練は、他の大勢の乗客と一緒に集まって行われる。既に椅子席は満席なので、ジュータンが敷いてある床に座るよう言われた。どのキャビンの誰が来ていないかすぐ判るようで、係員がキャビンまで呼びに行く徹底さである。全員が集まると英語と台湾語での長々とした説明があり、最後には実際に救命胴衣を着用させられた。約1時間の避難訓練であった。
 訓練の帰りはエレベーターが使えた。
 添乗員の今川さんが早速〈かわら板〉をドア横のポストに入れてくれていた。それぞれのキャビンに戻り、衣類やパジャマをクローゼットに吊したり、船内で過ごす甚兵衛に着替えたり、荷物の整理をすませた。 
 午後5時を過ぎていた。何気なくバルコニーに目をやると、埠頭のターミナルビルが前の方に動いている。バルコニーの扉を閉めていたからか、出港の合図(汽笛のボーボー)「長声一発」は聞こえなかった。バルコニーのガラス戸は、開くのにかなりの力が要る。出てみると船は後ろに下がっているような感じだった。我々の位置からではどちらが船首なのか良く判らない。クルーズ船の岸壁は港内の最奥部の東側になっている。基隆港は狭い。大型船が出港するのには後退して、港内中間の広くなったところで180度回転してから港を出て行くことになる。対岸の桟橋にも豪華客船や貨物船が停泊しているのに、タグボートが一艘も本船に取り付いていないのが不思議に思った。ぶつかることなく港から出てしまうのだから、操船の技術は流石だと思った。
 キャビン(船室)入り口のポストから〈かわら版・本日の御案内(台湾時間)〉を取りだして読んでみた。出航したのだから台湾から出国した訳だが? 夕食の時間は17時30分から21時30分迄、3カ所のダイニングが紹介されていて、添乗員が17時20分から50分迄アシストしてくれるのは、デッキ6後方の[インターナショナルダイニング]と書いてあった。ここへ行くのには後方のエレベーターでしか行けない。3時過ぎに昼食を食べたばかりなのでお腹は空いていないが、今川さんが待機していてくれるレストラン前に17時30分に行ってみた。エレベーターを降りると其処がレストランの入り口になっていた。ロープが張ってあり案内待ちの客の列があった。我々日本人は列外に出るように言われて、待っているとグループAの添乗員和泉さんがいて、自分のグループの世話を焼いていた。仕方なく再び列に並び6人だと告げると、スキンヘッドのマネージャーらしき男性が我々を奧のテーブルまで案内してくれた。

  [メインダイニングレストラン]は5か所あり、どのレストランでも夕食のメニューは同一であるそうだ。何処でもフルコースであるからメニューから[前菜・スープ・魚料理・肉料理(ロースト以外のもの)・ソルベ(口休めとして)・ローストの肉料理・生野菜・甘味・果物・コーヒー、紅茶・デザート等を一人一人注文する。なお、前菜やソルベを省いたり、肉料理を一種にする場合もある]
 (メインダイニング以外にも、気軽に食べにいけるビュッフェレストランや、バーガーショップ・ピッツェリア、カフェへ等へ寄って、気分に応じて食事を選ぶこともできる)
 その他には《スペシャルティレストラン》がある。〈サバティーニ(イタリアンレストラン)〉や〈クラウン・グリル(ステーキとシーフードのグリル)〉、スターリング・ステーキハウス等があるが、乗船後の予約が必要だし、カバーチャージ(お座席料)が別途掛かる。
 
 席に着くとウエーターが飲み物の注文に廻る。飲み物は一人一人首に下げた[クルーズカード]をケースから取りだしウエイターに渡してのオーダーとなる。私と小菅氏と佳子さんはバドワイザーの瓶ビール(小)、小林御夫妻は赤ワイン、大山氏はウイスキーオンザロックのダブルである。
 日本語のメニュー表が無かったので、明子さんに「これは何?」と聴きながらそれぞれ料理を注文した。前菜を食べ終えると、次ぎに〈黄色のエンドウ〉のスープが運ばれてきて飲み終えると、本菜が運ばれてくる。最後のデザートにアイスクリームを頼んだらバニラ・シャーベット・いちごのアイスが出されて吃驚した。本格的なフルコースなので、2時間かけてのゆっくりとしたディナーとなった。クルーズの醍醐味を味わった感じである。
 キャビンに戻ると、パスポートの顔写真の頁を1.5倍位の大きめにコピーしたA4の用紙(これは沖縄を旅行する際に携帯しなくてはいけない大切なパスポート代わりとなる)と日本入国の際に提出する[税関申告書]がドアの下に挟んであった。一休みして、5階デッキの中央《ピアッツァアトリウム(5階と6階が吹き抜けになっていて航行中、歌とかダンス・ゲーム等のイベントを開催している)》で行われているプリンセスクルーズの名物イベント[シャンパンウォーターフォール]に、これも皆して出掛けた。  アトリウムの中心にシャンパングラスがピラミッドのように積み上げられた[タワー(15段?)]へ、シャンパンが流れ落ちている。その豪華さに思わず「流石」と感心した。階段を上った台の上から、乗客と船長が両手を添えてシャンパンを注ぎ込む、カメラマンがそれを撮影し、翌日写真をフォトショップで買う仕組みである。このイベントには溢れんばかりの沢山の乗客が集まっていた。シャンパンは無料、ウエイターがお盆に載せたグラスを運んでくるのを頂いて飲む。何杯お代わりしても良いので、私は3杯、他の人は何杯飲んだやら?

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