コタキナバル大自然紀行5日間

 2015年6月4日(木)~6月8日(月)

コタキナバルの地図

マレーシアの国旗
マレーシアの国章

 6月4日(木曜日)[出発]

 成田国際空港発マレーシア航空(MH-0081)直行便は定刻より 20 分遅れで、15 時 40 分 コナキタバル国際空港へ向けて飛び立った。コタキナバルはそれほど日本人観光客に知れ渡っていないのと、日本の企業の進出もさほどではないから機内はがらがらで、乗客は半分ほどしか乗っていなかった。私はトイレが近いので、直ぐ後ろがトイレの 28C(通路側座席)を指定し、3 人掛けの窓側 28A に K さんが陣取った。この席は一番後ろから一つ前の席(一番後ろの席は客席乗務員が交替で仮眠を取る席)だった。後ろの方は空席だから、客室乗務員が、
 「お好きなお席にどうぞ」と言ってくれたのだが
 「ここで結構です。有難う」と礼を言う。
機体が安定すると、最初にお摘まみ用の(韓国航空でも話題になった)袋詰めのピーナッツが配られ、トレイに冷たいオレンジジュースと烏龍茶を入れたコップを載せてのドリンクサービスがあった。その直ぐ後、乱気流の中に突っ込んだようで、ベルト着用サイン点灯の放送があり、かなり激しく機体が揺れ始めた。ドリンクサービスは中止され、暫くして、ワゴン車を引き出し、前の方から機内食を配り始めた。
 「フィッシュとビーフのどちらになさいますか?」と聞かれ、私も K さんもビーフをリクエストした。
 「お飲み物は何になさいますか?」
 「ビール」と答えると、
 「済みません。アルコール類はワインしか御座いません」と言われ、仕方なくレッドワインを頂いた。(イスラムの国の飛行機ではアルコール類を積んでないのが普通で、
パキスタン航空だと、出国後免税店などで購入したアルコールについては飲むことを許されるが、残った場合は入国の際に没収である)
 食事中もワインがコップからこぼれるのではないかというほど機体は揺れた。私は1度だけワインのお代わりをした。乗客数が少ないせいか機内は冷房が効きすぎて寒かった。K さんはオンワードのジャケット(バーゲンで 500 円で買ったのが御自慢)の上から座席に備え付けのブランケット(毛布)にくるまっていた。私はG パンに半袖の T シャツ姿だったから、ブランケットから首だけ出して肩からすっぽりという姿である。K さんはスキンヘッドに紫の毛布が可笑しいと、マレーシア人の美人の客室乗務員を呼び付けて、私とのツーショットを撮っていた。

 今回の旅行にいたる経緯は、私の 6 月 9 日・74 歳の誕生日を海外で過ごすという慣例で、決行したものである。阪急交通社の旅行案内から行き先を物色していたら、世界で 3 番目に大きなボルネオ島[日本の約 1.9 倍・グリーンランド島、ニューギニア島に次ぐ。南シナ海(西と北西)スールー海(北東)、セレベス海とマカッサル海峡(東)、ジャワ海とカリマタ海峡(南)に囲まれていて、インドネシア・マレーシア・ブルネイの 3 カ国の領土であり、世界で最も多くの国の領地がある島である]にあるマレーシアサバ州の州都・コタキナバルが目にとまった。往復直行便で石油サーチャ ージがなく、富士山より高いアジアで一番の、キナバル山(海抜4,095.2 m)の麓の街である。
 一昨年のマレーシア半島縦断旅行では観ることが出来なかった[オラウ ータン]を確実に観られるというキャッチフレーズ。お値段は99,980 円と4泊 5 日にしてはちと高く、催行決定の 6 月 4 日出発、帰国の 8 日は誕生日より1日早いのが残念だが行く事に決めた。
 そしてもう一つ気になるニュースがあった。去年、日本で盛り上がりを みせたNHK 連続テレビ小説[あまちゃん]が東南アジアを中心に放送され、各国で大きなブームを巻き起こしているというニュースだった。[おしん]が世界中で見られ、おしんブームを巻き起こし感動を与えたことは知っている。私には余り印象に残っていないあまちゃんが、台湾ではこれまでの朝ドラに比べ 3 倍の視聴率を記録しているという。その人気に乗じて、ウニをメニューに載せる飲食店が出たり、ドラマの舞台である東北への旅行ツアーも組まれた。カンボジアでは、クメール語に吹き替えられて放送され、決め台詞の「じぇじぇじぇ」が大流行したり、ファッションを真似た若者もいたのだとか。
 去年 12 月からはミャンマーでも放送が開始され、ヤンゴンには宣伝の大看板が掲げられたり、[あまちゃん]を PR するイベントには 2 万人以上が集結して大いに盛り上がりを見せるなど、あまちゃんを通じて、日本への関心が高まっているという。その人気に応えたのか、今年の4 月5 日から、NHK の BS で[あまちゃん]の再放送が始まった。無論コタキナバルでも 見られているのかな? が関心の的であった。
 海外旅行 96 回目から御一緒して下さっている K さんにお声かけしてみると、二つ返事で賛同を得、早速tabi デスクに予約をいれた。
 今朝は 10 時 58 分発、東武アーバンパーク・ライン南桜井駅で K さんと先 頭車両の車内で合流し、柏行きに乗った。柏・新鎌ケ谷と乗り継いで、成田空港第二ビル駅に到着した。
 チェックインを済ませ、空港ロビー 4 階の[そじ坊]にてビールで結団式。生ビールしかないという、ブランドは[サントリーモルツ]の中ジョ ッキーで、私は余り好きではない。なんとそのジョッキーは350ml 入りで、1 杯 850 円もした。つまみに[枝豆]、K さんは[ざる蕎麦]を注文した。時間はたっぷりある。珍しく K さんがビールのおかわりをと言うのを、出国審査後、ゲート付近の売店で缶ビールを飲めば、[アサヒスーパードライ]が安く飲めるよとさとし、出国手続きへ向かった。
 C23 番ゲートに向かう途中免税店を覗いた。コタキナバルのイスラム社会の内情が良く判らないから(一昨年のマレーシア縦断旅行では、郊外の観光先でのレストランや売店でビール等のアルコールを売ってなかった)直行便なら持ち込めるということを確認し、私は、清水の舞台から飛び降りたつもりで、ブランデー[レミーマルタン]1,000ml(9,100 円)をゲットしておいた。K さんは 36 度もある芋焼酎[薩摩気]720ml(2,000 円)を買 っていた。
 搭乗機は予定通り 20 時 20 分にコタキナバル国際空港に着陸した。一番後ろの席だから、入国審査も最後の方だった。通関職員にパスポートを渡し、カウンターの右にある指紋照合装置に両手の人差し指を載せチェックを受ける。入出国カードは省略されている。
 国際空港でも閑散としている。ターンテーブルからスーツケースを受け出しロビーに出たが、ツアーメンバーらしき人は誰も居ない? 現地添乗員の姿もなく、出口の方まで探しに出た。K さんは 6 時間も煙が切れているから、空港の外に駆けて行き、素早く一服である。
 現地添乗員は目印になる阪急交通社の旗も持っていない。背の高い男性が、私が日本人だと判って声を掛けてきた。
 開口一番
 「両替は空港でなさった方がレイトがいいです。お待ちしておりますか らどうぞ」と言う。何処の国でも、ホテルに着くまでのバスの中で、添乗員が両替金を用意してきて換金してくれるのだが・・・・?
 「オプショナルツアーの料金は日本円で払えるのですか?」
 「いいえ、すべてマレーシア リンギットでお願いします。」
 「オプショナルツアーの料金は幾らでしたっけ。昼と夜のツアーに参加しますから、幾らぐらい換金すればいいですか?」
 「オプショナルの料金は両方で 450 リンギット(15,750 円)です。買い物はカードが使えますし、そこで円も使えますから、少なめで良いと思います」(以後リンギットはRM で表す)
 タバコを吸い終えた K さんが戻ってきたので、2 人して両替所へ行き、私は25,000 円(714RM)、K さんは20,000 円(571RM)を換金した。
 バスは中型で、定員30 人乗り。今回のツアー参加者は12 名と少ない。
 6 月 4 日出発は催行決定で売り出していた。私が申し込んだ時点では 18名で、あと 2 人で締め切りますと言っていたが、キャンセルがあったようだ。添乗員の自己紹介があったがよく聞き取れなかった。
 「私の名前はファミデと言います。ドレミファのファとミにデと覚えて下さい」それっきりだった。
 バスに乗り込むと普通ならシートベルトを着用して下さい等と幾つかの注意があるのに、ファミデは何にも言わない。そのはずで、シートベルトは座席の半分以上が壊れていて使い物にならなかった。
 説明をしないから静かなのはいいのだが、此方から質問をしないと何も話してくれないのも困る。これで済んじゃうのだから、このコタキナバルにはそれだけ観光客が少ないということなのか? すれていないのとは、ちと違う。
 「ホテルの近くにはコンビニがありますか?」と私が聞いた。
 「プライベートリゾートなので、コンビニはありません。ホテルに売店 はありますが、お客様が少ないときは 8 時で閉めてしまいます。開店時間は朝の 9 時です。ホテルには BAR がありますが、マレーシアはイスラムの国ですから、ビールは 350ml 1本に税金が 10 %とサービス料が加算されますから、27RM(945 円)と高いです。銘柄はタイガービールだけです。ここもお客様次第で、早く閉めてしまいます。ホテルに到着するのは 10 時 30分頃ですので、たぶん売店は閉まっています。ですが、お部屋にはお一人1本のペットボトルが備えてあります。これは無料です」とまあこんな案配である。
 私は旅行先から日本の友人 18 名(ハガキの写真はインターネットからキナバル山を拝借し、宛名はシールに印刷してきている)に絵はがきを送るので、何処かで切手を買わなくてはならない。空港に郵便局はなかった。そこでファミデに
 「切手を何処かで買いたいのですが」と話すと
 「はい、考えておきます」と、なんとも頼りのない返事であった。コタ キナバル国際空港からホテルの[ネクサス・リゾート&スパ・カランブナイ]迄は約40 分掛かった。
 どうでも良いことなのだが、その間に
 「この国には地震がありますか?」と聞いてみた。すると、
 「過去数百年地震があったことはありません。私は生まれてこの方地震というものを知りません」と言う。
 この国には富士山より高いマレーシアの最高峰、アジアで一番高いキタバル山(4,095.2m)がある。1千万年前に溶岩が固まって現在のキナバル山が造られた。溶岩は花崗閃緑岩で、地下深部から超塩基性岩や堆積岩を貫いて上昇した。上昇に伴い山体が大きく変形し、中腹に蛇紋岩が存在する。1万年前までの氷河期には山頂付近に氷河が存在し、花崗閃緑岩を削り滑らかな岩肌にしたと考えられている。山は現在でも1年に 5mm 隆起しているという。死火山との説明はないから聞いてみたのである。
 ついでにキナバル山の概要を紹介致しておきます。
 《 キナバルとは、マレー語で、キナは[中国]バルは[未亡人]という意味である。キナバル山付近には、中国の王子とその未亡人の伝説が残 っている。 『広東の漁師兄弟が台風で遭難、当地に漂着し、現地妻を娶った後、兄がホームシックで北上航海に出たがその後音信が途絶え、現地に残された妻がこの山にのぼってマレーへ帰る船影をさがしたという』実際にはアキ・ナバル(祖先の霊る山)がなまってキナバルになったという説が有力である。
 1851 年、プラントハンターのヒュー・ローによって初登頂が果たされた。ヒュー・ローは 76 種の新種の植物を採取した。この山は世界でも有数の生物多様性に富み、6,000 種以上の植物と 100 種以上の哺乳類が確認されている。山頂には、花崗岩による独特の岩場が広がり、山の麓は、熱帯雨林特有のジャングルとなっている。山域は、キナバル自然公園として、ユネスコの世界自然遺産に登録されている 》
 私は両替をしたときに、小銭を混ぜて貰っている。K さんにしても、他 の人はそこ迄気が回ったかどうか? 添乗員は枕銭(チップ)を幾ら置いたら良いかの説明もしてくれなかった。
 ホテルに着くと、ファミデから
 「朝食はこの階段を降りた 1 階です。6 時 30 分から開きます。食券はないですが、部屋番号を仰って下さい。明日の朝の出発は午前 8 時です。ここに集合して下さい。ロビーは2 階です」
 「ファミデさん、明日の昼食のレストランではビールが置いてあるの?」
 一昨年のマレー半島縦断旅行の時に、村全体がアルコールを売らない所やレストランがあったので、あらかじめ聞いておいた。
 「明日の昼食のレストランにはアルコール類は置いてありません。夜はディナーショー付きですからビールはありますが、27RM(945 円)と高いです。他に何かご質問がありますか?」
 「明日の天気予報はどうなっていますか?」
 「晴です。ですが何時スコールが来るか判りませんから、雨具は持って行って下さい。一日中降ることはありません。降っても直ぐ止みます」そして部屋についての説明が少しあった。
 「不都合があったら私が順に部屋に伺いますから、水回りとか冷房のこととか何でも聞いて下さい。スーツケースはポーターが運びますが、御自分でお持ちになった方が早いですし、直ぐに開けますからそのほうがいいと思います」その後、カードキーを渡された。
 部屋に入ると直ぐにバスタブに湯を張った。温度は 30 度位とぬるい。湯が一杯になる前に冷蔵庫の冷凍室にペットボトルを入れておく。ぬるま湯では湯に入った気がしないが、コタキナバルではこんなものなのだろうと割り切った。K さんはシャワーを浴びて、備え付けの綿のバスローブに着替えていた。
 [レミーマルタン]の栓を開け、口開けはK さんへ『トクトクトク』と、瓶の口から息を吸い込み波打つ音が嬉しい。
 「美味いなあ。こんな美味いブランデーは初めて飲んだよ」と K さんが しみじみと洩らす。私も久しぶりにブランデーに舌鼓をうった。飛行機を降りるとき、私と写真に納まってくれた美人の客室乗務員が機内で配ったピーナッツを、10 袋も K さんに持たせてくれた。今迄沢山飛行機に乗ったが、こんなスペシャルサービスは始めてである。K さんも加工したピーナ ッツをお摘まみに買ってきていたが、これは実に助かった。K さんも
 「俺の焼酎も飲んでくれよ」と、開けたので、コップに1杯だけ水割り にして頂いた。今回の旅はこのリゾートホテルに 4 連泊である。いちいちスーツケースを運び出さなくて良いから楽である。翌日観光に着ていく甚兵衛を準備し、サンダルも揃えて、現地時間の 12 時(時差は-1 時間・日本時間午前1時)にベッドに入った。

 6月5日(金曜日)[2日目]

ネクサス・リゾート&スパ・カランプナイ・ロビー館

 K さんの目覚めは早い。モーニングコール1時間前の5 時 30 分には起きだして、テラスに出て朝の一服のあと、K さんの行動パターンは電気ポットのスイッチを入れ、湯を沸かし始める。昨晩のブランデーはさすが高級品だ、すっきりと消化されてさっぱり気分で私も起床した。
 「昨日髭剃りと歯磨きを忘れた」と、K さんが洗面所に行っている間に私は朝のミニ体操である。4 日後に 74 歳になるので、この旅行から腕立て伏せは一回増やし 74 回とした。首の運動を入念に、観光中に足がもつれないように股割、スクワット 30 回をこなす。洗面所が空いたので、髭剃り歯磨きの後、日課の日記を書き始める。モーニングコールの電話が鳴った。
 「サンキュー」と礼を言ったのにまた直ぐ後に、再び電話が鳴った。 (返事を無視)完全に起こそうということなのだろう。外が白々明るくなり、野鳥の囀りが心地よく響いてくる。テラスに出ると、南国へ来たという実感が湧き、そして潮騒が絶え間なく聞こえてくる。
 観光に出発できる服装(旭天鵬の浴衣生地で造って貰った甚兵衛を着て、キャノビーウオーク散策では足場の悪い場所があるので、必ず歩きやすい靴をとの注意書きがあったが、ファミデはサンダルでも大丈夫と言うからサンダルを履いた)でレストランに向かった。6時 30 分レストランはオープン早々だったので、卵焼きやフォー(ビーフンの麺)を加工してくれるコックはいなかった。先ず南国ならではのマンゴージュースをコップに入れ、昨年旅行したベトナムはフランスの植民地だったから、固いパンが美味かったのを思い出し、私は滅多にパンは食べないのだが、コタキナバルの固いパンはどんな味がするのだろうと、包丁で一切れ切って、バターとジャムを塗ってみた。まあまあというところ。西瓜とパパイアを皿に盛り、ハム一切れ、ソーセージ1本それにお粥があったので食べてみた。
 K さんはいつもながら食欲は旺盛で、方々から料理を集めてきて食べていた。
 「あっちにパイナップルがあったよ。ヨーグルトはあっちだ」とめざとい。初日の朝食だけに、つい挑戦してみたくなるもので、コックが出てきたので[フォー]に挑んでみた。ネギとか三つ葉、キャベツとつみれをお椀に摘まみ入れ、3 種類の麺の中から、ひもかわみたいな幅広の平べったい麺も入れ、コックに渡すと、金網のザルにそれらを入れて熱湯に浸すだけ、後はスープをたっぷり入れてくれる。醤油と香辛料は適当に選んで入れる。これが美味しかった。一丁前に紅茶などを嗜み、トイレ調整があるからと、私は一足先に部屋に戻る。
 K さんは広いネクサス・リゾート の庭園を歩いてくるという、つまりはタバコを吸いに行ったのである。庭園には 15m 程の高い南国の木が鬱蒼と、5 階のテラスまで茂り、蘭系統の美しい花が方々に植えられている。

 建物の周りには幾つもの池があり、ホテル所有のゴルフ場も備わっている。池には赤や真っ白な蓮の花が咲き、その池には体調 1.5m もある大トカゲが 2 匹いて、宿泊客の関心の的になっていた。レストランを出た左側に 3 つのプールがあり、その先は、粒子の細かい真っ白な砂浜が広々と延びるプライベートビーチになっている。Kさんが戻ってきても、入れるようにドアは少々開けておく。トイレは入り口の直ぐ傍だから、他の人が入ってきてもすぐ判るようにトイレのドアも半開きにしておいた。
 トイレの便器に座って調整中に、突然ぐ らぐらっと揺れだした。午前7 時5 分だった。私の感じでは震度 3.5 ぐらいの横揺れが 15 秒程続いたと思う。
 昨夜、空港からホテルに向かうバスの中で、奇しくも
 「この国には地震があるのか?」と聴き、「全くありません」と言う答えを聞いたばかりだけに、これは咄嗟に、地球全体が温暖化で異変をきたし、最近日本で頻繁に発生している神奈川県大涌谷周辺(箱根山)の火山活動や、鹿児島県の口永良部島(くちえらぶじま)噴火の連鎖反応なのじゃないかと思ったりした。
 地震の少し後にKさんが戻ってきた。
 「今震度3 ぐらいの地震があったけど気が付いたかい?」と聞くと、
 「歩いていたから全然気が付かなかった。この国では地震が無いといってたじゃないか」とまあこんな遣り取りがあって、午前 7 時 40 分にロビーへ向かった。
 昼食時にアルコールが飲めないと聞いていたから、Kさんは空になったペットボトルに成田空港で買ってきた焼酎[薩摩気]を詰めて持った。
 バスは昨日と同じバスで、ゆったりと座席が使えた。ファミデが再度自己紹介を始めた。
 「私はファミデと言います。ファミだけでも結構です。白鵬と呼んでもいいです」と言う。そう言われてみれば、成る程横綱白鵬に良く似ている。日本人観光客から何度も言われてきたのだろう。いつもなら朝の挨拶に付きものの、パスポートの確認や、置き引き対策や手荷物等の持ち方の注意なんかもない。
 「ファミデさん、今朝の地震気が付きましたか?」ツアーの御婦人が尋ねると、
 「私は車で移動中でしたので全然気が付きませんでした。携帯で知りました。震源地の情報や、マグネチュードが幾つかなどの情報はまだ分かっておりません。追々分かり次第お知らせします」とあっけらかんと答えた後
 「私の友達は初めての地震を経験し、皆吃驚して、余震があるのではないかと心配しています」ファミデも余震が不安のようだった。
 バスは 1 時間 30 分程がたがた道を走行し、果物市場と称する処で 30 分のトイレ休憩を取った。
 「ここのトイレは有料です。3 セン(1 センは35 銭・1.05 円、1RM は 100セン)です。小銭を持っていなくてもお釣りが貰えます。ペットボトルはここで買って下さい。安いです」
 一昨年マレーシアに来たときは消費税はなかった。2015 年 4 月から、い きなり消費税が 6 %課税されるようになった(税率は 6 %ですが一律ではなく、食料品等の日用品には消費税はかからない)のである。それ迄は[セン]は観光客には余り通用されていなかった。日本の1円が生き返ったように、通貨として必要になった。

 有料にしては汚いトイレである。入り口に集金人がいる。照明が無いトイレの便器はしゃがむ方式で、女性は用を足した後は瓶にある水を柄杓で掬って流す方式、お尻を洗うホースが水道に繋がっている。
観光客用のお土産屋数十件が、木造の 30m程の長さの平長屋の中に出店している。中は薄暗く、店ごとに老婆が店番をしていて、なにやら買えと促してくる。2L入りのペットボトルは 2RM(70円)と安かったが、ビールはどの店にも置いてなかった。同じような建物が幾つもあって、そこには果物・野菜や肉・魚専門、あるいは雑貨店等が有り、この辺の住民の市場となっている。辺鄙な市場での時間調整的30 分は長かった。
 ここからバスは再び1時間走った。道路は一応は舗装されているのだが、後ろの方に座ったものだから、上下に揺れる振動が凄まじかった。
 「地震の情報が少し入ってきました。マグネチュードは 6.0 で、キナバル 山頂では 2 名が死亡したもようです。ボーリン温泉付近の渓流は茶色く濁り、温泉も濁ったそうです。この辺一帯は停電しています」と状況説明があった。目的地に近づくと、登山口の建物付近に大勢の人がたむろしていた。
 「あの人達は今朝の出発でキナバル山へ登頂する人達です。今朝の地震で、山頂がひどく揺れ、落石などで多数の怪我人が出たようです。天候状態が悪いので、ヘリコプターも近づけず、状況が全く判らないので、登山の許可がおりず待機しているところです」との説明があり、11 時頃[キナバル国立公園(世界自然遺産)]に着いた。バスを降り、ファミデの後に付いて約 100m坂道を登ったところに[資料館]があって、その前にも人がたむろっていた。
 「この人達は資料館のスタッフです。今朝の地震で展示物が倒れたりして、現在は停電中で危険だから待機しているのです。ですから、この資料館の見学は残念ですができません」何とまあアンラッキーなことか? 地震の経験がないこの地の人々は予期せぬ出来事に戸惑っているようだった。
 資料館の前に大きな木製の掲示板が立っていた。

キナブラル山・位マラソンの掲示板

 これには、東南アジア最高峰4095.2m のキナバル山を舞台に毎年開催される登山マラソンレース[キナバル山インターナショナル・クライマソン(クライム〈登山〉+マラソン)があり、昨年は 28 回目であった。富士山でも行われているスカイランナーという各国の山を走りぬけるシリーズ戦としてローカルだけでなく、海外からも多くの選手が参加する国際的なレースで、20km と 33km の男・女部門がある。その男子一般の部・サミット(頂上往復)レースで日本の 松本大さんが33 ㎞の部で4 時間 11 分 25 秒という好成績で見事初優勝し、優勝賞金 4,500 ドルを獲得した記録が表にされて載っていた。
 予定を繰り上げてキャノピーウオーク迄のミニジャングル・トレッキン グに移った。(キャノピーウォークのはじまりは、森林研究のために設置れたもの。キャノピーとは[木のてっぺん、梢の意味]それも飛んでいる鳥が眺める樹冠のこと)
 「キナバル山の標高 1,500m 付近に位置するキナバル公園は、キナバル山への登山口にあたる。珍しい動植物に遭える癒しの山として、ローカルの人々にはもちろん、観光客にも大人気なんです」とファミデは話す。
 高地だけに涼しい。ペットボトルはバスに置き、カメラと帽子とサングラス、汗を拭くタオルは持った。ミニジャングルの入り口に、直径 5m の大ラフレシアのコンクリートレプリカがあった。

大ラフレシアのコンクリートレプリカ
食虫植物[大型のウツボカツラ]

 蕊(しべ)の部分が 1m 程の丸い穴になっていて、観光客がそこに潜り込んで首を出すこともでき、花の上に乗ることもできる。本物そっくりの色と形で、イメージはつかめても大きすぎて笑ってしまう。
 公園内の[蘭園」では食虫植物である数種 類の大型の珍しいウツボカズラや、手に触れて見せてもらわなければ気も付かない、マッチ棒の頭程の小さな白い欄の花や、珍しい品種の欄類、シダ類、生姜の花等の説明をしてくれた。ファミデの説明がないと判らない植物ばかりだった。たまに、植物に小さなタックが付いているのは、今研究されている薬用植物だそうで、注意して観察するもチンプンカンプンで面白い。
 蘭園を出ると、いよいよミニジャングルである。小川が流れる足場のおぼつかない砂利の脇道を登り降りし、シダや苔が密生する熱帯雨林の中を通り抜ける。ファミデによると、観光客が歩くコースにはレンジャーが植えた花もあるのだとか。こうした自然公園の中に入るとファミデは能弁になった。葉っぱを見ただけで、植物の名前や説明に詳しかった。12 人のツアーだから、全員の耳に説明が伝わった。40 分程の結構キツい山道散策でサンダルでなんとか歩き通せた。汗は掻かなかったけど、帽子を被っていたから頭は汗びっしょり、タオル持参は正解だった。散策到着地点にバスは待っていた。20 分の乗車中にボーリン温泉についての説明があった。
 《 ポーリンとは、少数民族の言葉で竹の意味である。コタ・キナバルの 北東のジャングルの中にあり、キナバル山の東側、標高約 500m、キナバル自然公園の中にある。近くにスグッド川と言う清流が流れている。昔地元では[熱湯が噴出する恐ろしい所]とされてきたが、太平洋戦争中にボルネオ島を占領していた大日本帝国軍の手により掘削、開発された。温泉好きの日本人と違い、現地住民には温泉入浴の習慣がなかったために、 大日本帝国軍撤退後は放置されたままだった。が、1970 年代から整備が進められ、現在は国立公園の一部として多くの観光客が訪れるようになった。庭園風に整備された施設内には、入浴料が有料の屋内個室風呂と入浴料が無料の露天風呂・プールがある。

 ー リ ン 温 泉

 露天風呂も複数の小さな浴槽に分かれていて、1 ループに 1 つの浴槽が使用できる。泉質は硫黄泉で、源泉温度 49 ~ 60 度と高い。使用前に自分で温泉と水を蛇口から出し温度を調整して浸かる。温泉として浸かるには、蛇口からの放水が二時間掛かる 》
 11 時 20 分頃にボーリン温泉地区に到着した。よく晴れていても、お目当てのキナバル山はすっぽり雲の中、裾野さえ判らない。
 今回のコタキナバル大自然紀行の観光メインは、ポーリン地区にある地上 41m、長さ 158m、ジャングルに生い茂る巨木と巨木の間にワイヤーを張り、薄暗い地表からは見えない、樹冠付近の様子が観察できるようにした吊り橋を渡る、キャノピーウォークウエイを楽むことだった。

吊り橋・キャノピーウォークウエイ

 [吊り橋渡りはスリルがいっぱいで、運がよければいろいろな種類の鳥類に出会えます]とのキャッチフレーズだった。ファミデが
 「吊り橋までは標高差で約 300m 登らなければなりません。それなりの体 力が必要です。コース一周で約 40 分掛かります。途中で戻ることはできませんから、足に自信の無い方は此方のボーリン温泉でお待ち頂くようになります。この橋を渡る入場券は私が買ってきますが、吊り橋を写真撮影するのにはカメラ・スマートホン・携帯電話でも 5RM(175 円)払わなければなりません。動画を撮った場合は 30RM(1,050 円)です。撮影をしない方はカメラ類をバッグにしまって下さい。係官がチェックしていて、出していると料金を請求されます。吊り橋を渡るのは 3 人ずつです」との説明を聞きながら吊り橋の方向に歩き出すと、一人のマレーシア人男性と立ち話を始めた。そしてファミデは
 「今日は吊り橋を渡ることが出来なくなりました。地震がありましたので、安全のため点検中だそうです。今話をしてた人はキャノピー吊り橋のスタッフですから、確かな情報です」と言うのである。なんのこった、何しにここまで 3 時間も掛けてやって来たのだろう? 一昨年のマレー半島縦断旅行の際には、メインの[オラウータン保護島]観光が、雨不足で湖の水位が下がりすぎ、船が操船できずにキャンセルになってしまった。旅のアクシデントだから、嘆いても仕方がないがマレーシアは鬼門のようだ。
 そこで[ボーリン温泉]で1時間の自由時間ということになった。8 つに区切られた屋根付きの足湯場が点在している。私はここまできて足湯に浸かる気にはなれないから、共同トイレの近くにある売店まで行った。喫煙コーナーもあって、K さんはホットしていた。売店でビールは売ってなかった。椰子の実が積んであったので、幾らか聞くと 8RM(280 円)だった。

椰子の実で喉をうるおした

 冷えたのが欲しいので「アイスココナッツ」と言うと、ココナッツを鉈で切り、飲み口にストローを 2 本刺したのと、コップにぶっかき氷を入れたのを出してきた。この氷がくせ者で、氷を造るときの水が信頼できない。お腹を壊しやしないか心配だったが、大きめなのを1個飲み、ココナッツの口に押し込んで、冷たくなってから飲んだ。K さんは椰子の実には興味がないようだった。が、ストローで一口飲んで
 「不味い」と一言。だが、飲み終えた椰子の実が灰皿に使えて助かった。
 ファミデが来たので聞いてみた
 「ココナッツを飲んだとき氷を入れたけど大丈夫ですかね?」
 「丸くて真ん中に穴が空いていましたか? それは安心ですがその他の氷だとお腹を壊します」ぬるくても我慢すべきだった。やれやれである。
 売店の前が集合場所で、そこからバスに乗り、レストランに向かった。
 「ボーリン温泉に向かう途中で、ラフレシアが咲いたという看板を見ました。今日開花したばかりだと書いてありましたから、これはぜひ観ておくに値します。マレーシア人でもラフレシアは滅多に観ることが出来ません。ラフレシアを見るのには 30RM(1,050 円)払わなければなりませんが、6人以上の希望者があれば、帰り道にそこへ寄ります」と言い、ファミデが希望者を募ると 6 人が手を上げた。無論私は真っ先に手を上げた。一生の内でまさかラフレシアが見られるなんて夢にも思わなかったからである。ラフレシアがコタキナバルに棲息するということも知らなかった。地震の影響で吊り橋を渡れなかったけれど、世界一大きな花に遭遇できるなんてことは幸運で、この旅に来て良かったと思った。K さんは関心がないらしく、見学希望はせず、タバコを吸って待っていると言う。 20 分程の処に平屋の木造レストランがあった。午後1 時過ぎの遅い昼食、ボルネオ島に住む少数民族の家庭料理[カタザン料理]だという。中くらいの皿1枚と小さな茶碗、フォークとナイフがテーブルに置いてある。ツアーメンバーが 6 人ずつ 2 つのテーブルに座った。こんな山奥だから料理内容は期待はしていない。民族料理というが、中国料理そのものだった。
 スープを小さな茶碗に入れる。炒飯風のぼそぼそ御飯を皿に取る。次々に出てくる料理は野菜が多く 6 品ほど、6 人が自分の皿に一通り取ると、料理は直ぐ無くなった。南国にきたのだから、現地のフルーツ 100 %ジュースを注文したが、これもなし。生ぬるい烏龍茶ごときをコップに入れて出てきた。ここで K さんが持ってきた焼酎[薩摩気]が食事に花を添えてくれた。この御茶コップに三分の一程焼酎を入れる。K さんはバスの中で、食前酒だとかいいながらちびちびやっていたから、食事の時は飲まなかった。
 今日の旅行スケジュールはこれで終了である。後はコタキナバル市内目指して、途中今朝来た果物市場でトイレ休憩をし、市内のチョコレート店で買い物(30 分)、そのまま夕食のレストランへ向かう。

 マイクを持ったフ ァミデが、地震情報を話し出した。
 「先程の地震情報ですが、友人からの電話ですと、キナバル山山頂の揺 れはかなり激しかったようで、ドンキーズ・イヤー(ロバの耳)と言われる二つある岩の一つが崩れ、多数の怪我人が出たもようです。

崩落前の[ドンキーズ・イヤー(ロバの耳)]

 落石が続いているので、下山は見合わせているようです。山頂はかなり寒いのですが、衣類とか食料の搬送は天候が悪いので行われていません。私の友人がガイドで登頂していましたが、亡くなったという情報が入ってきました。亡くなった人は現情報では 2 人で、怪我人の人数・震度とか細かいことはまだ発表がありません」片側1車線の道路脇にバスが止まった。
 ラフレシアを観賞する人がバスから降りる。ファミデの後に付いて、坂道を下り、鬱蒼とした森の方に歩いて行くと、立派な家が有り、立派な車が広い庭に駐車していて、そこの主婦らしい人が受付をしていた。 何故か見学者は名前を書かされ、そこで30RM を払う。観察者は一人増えて7人だった。

 《 ラフレシアは東南アジア島嶼(とうしょ・小さな島)部とマレー半島 に分布する。ラフレシア科ラフレシア属の世界最大の花を咲かせることで知られる全寄生植物で、十数種を含む。多肉質の大形の花をつけるものが多く、中でもラフレシア・アルノルディイ(日本語で「ラフレシア」ぶ場合、たいていこの種を指す。日本における知名度は非常に高く、小学校の授業で学習するから、多くの人がこの花を思い浮かべることができる)の花は直径 90 ㎝~ 1.5m、重さが 7kg ~ 11kg 程にもなる。この花の花粉を運んでいるのは死肉や獣糞で繁殖するクロバエ科のオビキンバエ属などのハエで、死肉に似た色彩や質感のみならず、汲み取り便所の臭いに喩えられる腐臭を発し、送粉者を誘引する。その巨大さと奇怪な出で立ちから、[人食い花]や[食虫植物]と勘違いされるが、そういった特徴はもっていない。ヨーロッパ人ではシンガポールの建設者であるトーマス・ラッフルズの調査隊がこの植物を最初に発見した。確認された 1826 年当時は科学がある程度しか進んでいなかったため、同行したメンバーは[人食い花ではないか?]と恐れたが、ラッフルズはそんな迷信を恐れず、花に触って無害である事を証明した。調査探検に同行した博物学者のジョセフ・アーノルドが、スケッチ・観察・標本などを作り近代植物学の世界に紹介、学名はこの 2 名にちなんでラフレシア・アルノルディイと名付けられた。光合成能力を欠くので、ブドウ科のある特定の植物のつるに寄生して、全ての栄養を宿主に依存する。宿主のつるの傷ついた部分に偶然種子が入り込んだ時にのみ発芽が起こる。本体は寄主組織内に食い込んだごく微細な糸状の細胞列からなり、ここから直接花を出す。茎、根、葉はない。花は 雄花と雌花に分かれており、雄花の葯(雄しべの一部で、花粉をつくる器官)からは粘液に包まれてクリーム状になった花粉が出て、花の奥に入り込んだハエの背面に付着する。このハエが雌花に誘引されて花の奥に入り込み、雌しべの柱頭に背中が触れると受粉が成立する。発芽すると菌糸のような形をとって、時間をかけて宿主の組織に侵入する、花を咲かせるまでに成長するには 2~3 年の歳月が必要である。地上に現れた蕾は徐々に膨らむが、開花するまでに約 1 ヶ月かかる。寿命は 3 日、しかも、中には咲かないまま枯れてしまう蕾もあるので、開花の瞬間に立ち会うことは非常に幸運なことである。花が開くときにはギシギシと音を立てる。なお、ラフレシアは寄生生活に適応して花と寄生根以外の部分は失っており、葉はうろこ状に退化している。花は 5 枚の花びらを持ち、花が開いた後は数日で腐ってしまう。 花弁は発泡スチロールのような質感で、踏むと乾いたようなパキパキという音を立てる 》
 受付所からぐしゃぐしゃの坂道を100m 下ったところに、高さ3m程の櫓が組んであった。全体が緑色のネットで包まれており、上には枯葉が無造作に乗っている。階段を上がり板の上を進むと、畳 2 畳程の板間があって、そこからラフレシアを見下ろすのである。そこには 10 人程しか乗れない。写真を撮るには交替で板敷きの先端に行く。3m の上から撮るので、そんなに大きくは写らない。櫓の脇から撮っても距離的には同じだった。

開 花 初 日 の[ ラ フ レ シ ア ]

 この花の直径は 70㎝だそうだ。竹の枯葉と緑の雑草の上にどっしり開いている。花びらは茶色(カーディナルレッド)に白い水玉模様が一面についている。咲いたばかりなので蕊(しべ)もクッキリとしていて艶やかさがあった。大きいだけで、御世辞にも美しい花とは思えない。見下ろす場所が高いところなので匂いはさほどキツくなかった。
 ファミデの説明をよく聞いた。
 「花が散った後、実がなります。その実はリスやネズミが食べ、糞に混じって種が運ばれるのです」だが、私の調べたところでは実がなるとは書いてなかった。が、種を運ぶ何かがいるはずだ。説明によると、ファミデが言うように、直径 10 ㎝ぐらいもある太い蔓が 10m 程の高い木から垂れ下がり、ラフレシアの花が咲く近辺の土に潜り込んでいた。

ブ ド ウ 科 の 

 「このブドウ科の蔓がないところにはラフレシアは咲きません。これは次ぎに咲くラフレシアのつぼみです」
 花から 10m ぐらい離れた櫓の脇に、黒っぽいお椀大の饅頭のような物が顔を出していた。

何年か後に咲くラフレシア

 「そしてこれはその次ぎに咲く芽です」
 

次の次に咲くラフレシア

 今度のは、つぼみから 3m 離れたところに、小指の先ぐらいの白く丸い物がポツンとあった。私達では教えて貰わなければ気が付かない。何年後に開花するのかは判らないという。
 一定の条件下でラフレシアは今咲いている近辺に次々に咲くのだということは分かった。20 分ぐらいラフレシアの実物を鑑賞した。まさに奇っ怪な魔性の植物としか思えなかったから感動は込み上げてこなかった。が、この花を拝めたことで、私は 10 年長生きできるだろうと思った。
 バスに戻る際にファミデは言う。
 「此の家は,ラフレシアの御陰でこんな大きな家を建てることが出来まし たし、立派な車を 3 台も買えました。この近辺の人は、ラフレシア大尽と呼んでいます」ラフレシア様々、納得である。バスに戻ると、小道の入り口に大きな布の幕にラフレシアの絵を描き、

ラルレシアの開花を知らせる布製のポスター

 ファスト・デイ(開花初日)と書いてあった。ボーリン温泉に向かうときに、ファミデはこの幕を見たのだろう。
 トイレ休憩の果物市場に向かう途中激しいスコールに見舞われた。後ろの座席から見て、視界が20m ぐらいしかない中を、バスはスピードを緩めないから、後部座席は上下に激しく揺れる、それなのに K さんはぐっすり眠っていた。ファミデがマイクを持って話し出す。
 「突然の地震発生で、今日の観光はアンラッキーで申し訳御座いませんでした。キャノピーの吊り橋も安全が確認できないというので渡ることが出来ませんでした。当社の規定で、吊り橋観光ができなかった場合、5RM(175 円)返金することになっております。これから銘々様にお金をお渡し致しますので、この用紙にサインをお願いします」そして返金し始めた。5RM じゃビールも飲めないが、サインして現金を受け取った。
 「あんなに激しく揺れているのによく眠れましたね」母嬢二人で参加している女性が、K さんの旅上手に感心して話していた。
 果物市場を出発して、市内に向かう途中で、バスの冷房装置が故障し、2 度車を止めて、運転手が客席の天井を開けリセットボタンを押していた。クーラーが効いていると寒いくらいだが、停まってしまうとムウーと蒸し蒸しするから、直ぐに苦情が出る。
 半分の人が居眠りをしているのに、ファミデのガイドがあった。
 「ボルネオ(東マレーシア)は昔から地域ごとに先住民族が暮らしてきたため、コタキナバルのあるサバ州だけでも、大まかに分けて 30 以上、言語で分けると 90 以上の民族に分かれいます。各民族ごとに異なる民族衣装、舞踊、音楽、料理など独自の文化を持っています。50 万人前後といわれるコタキナバル市の人口のうち、6 割近くはイスラム教徒で約 2 割が仏教徒やキリスト教徒の中華系です。残りの約2 割はキリスト教徒の先住民族などで、西マレーシアと比べてキリスト教徒の割合が高いのが特徴です。創価学会の信者も 2,000 人近くいますよ。国語はマレー語ですが、英語を話せる人も多く、加えて各民族の言葉も話すので、皆さん多種多様で街中ではいろいろな言語が飛び交います。

 三つの主要民族と地域の歴史が複雑に入り混じっているマレーシアは、民族構成が極めて複雑な多民族国家であります。人口比では、マレー系(約65%)、華人系(約 24 %)、インド系(約 8 %)の順で、マレー系の中には、サラワク州のイバン族、ビダユ族、サバ州のカダザン族、西マレーシアのオラン・アスリなどの先住民も含まれ、各民族がそれぞれの文化、風習、宗教を生かしたまま現在も暮らしています。マレー半島北部(タイ南部の国境周辺)では、かつてパタニ王国が存在したことから、同地域にはタイ系住民のコミュニティがあります。隣国同士だけに一般的な人的交流も盛んです。他にも、先住民ではない少数民族として民族間における混血グループが複数存在し、華人系の混血(主に華人系とマレー系ババ・ニョニャ)  やインド系とマレー系の混血 (チッティ)、旧宗主国などのヨーロッパ系移民とアジア系の混血(ユーラシアン)が少数民族集団をつくっています。最後にマレーシアの各種族における結婚と宗教の関係についてお話しします。イスラーム教徒であるマレー人は他種族の異教徒と結婚する場合には、他種族にイスラーム教への改宗を強制します。たとえば、日本人がマレー人と結婚する場合は、イスラ ームへの改宗が要求され、改宗を拒めば、その結婚は法的に認知されません。一旦改宗した後、イスラームを生涯止めることはできません。こうしたイスラームへの改宗が結婚に際して要求されるのは、州憲法において[マレー人とは慣習的にマレー語を話し、イスラームを信仰する者]という条項が存在するからです。イスラームはマレーシアの国教であり(他種族はその他の宗教を信仰することは許される)、マレー人はイスラーム以外の宗教を信ずることはできないのです。マレー人は異教徒と結婚することを許されません。
 左を見て下さい。(林の中に水牛が数十頭のんびり草を食んでいる)あれは野生の水牛です。少数民族の結婚は親同士で決めます。婚約するときに結納について協議し、嫁側の親が承諾すれば半年後に結婚が許されます。少数民族間での結納はだいたいが、水牛1頭が相場です」

 「水牛1頭は幾らぐらいするのですか?」目を覚ましていた御婦人が聞くと
 「だいたい 4,000RM(140,000 円)です。最近は物価高騰で、生活がしに くくなりました。マレーシアの世帯当たり平均月収は 5,000RM ぐらいですので日本円で 175,000 円(年収にして 210 万円)強です。民族別では華人がもっとも高収入で、平均年収は約 240 万円です。ですが、少数民族の人達は農業従事者が多いですから、この半分以下の収入しかありません。水牛1頭は彼等の半年分の稼ぎに値します」  その他にOP ツアーの説明があった。
 「明後日は終日[自由行動]となっていますが、OP(オプショナルツアー)を用意してあります。午前 7 時 30 分出発の、[サンデーマーケットとキパンディ・パーク蘭園、昆虫館、蝶園を見学]は、中華料理の昼食付きで240RM(8,400 円)です。一旦ホテルまで戻ってきます。それに、午後は17 時 30分出発で、首刈り族などの少数民族の古民家を見学する[マリマリ文化村観光]は伝統料理の夕食付き 210RM(7,350円)です。御希望なさる方は手を挙げて下さい」
 車内を見回すと、手を挙げたのは私と Kさんだけだ った。日本を発つ前から、ホテルから市内までは距離があるし、一日中浜辺で過ごす年齢でもなから、食事付きのオプショナルツアーに参加しようと決めていたのである。
 「自由行動をなさる方はホテル から市内までのリムジンが往復しています。 片道料金は30RM です。今晩の内に予約なさった方が良いと思います。タクシーも御座いますが、なかなか来てくれません」
 市内に戻ってきたのは夕方で、 まだお日様が沈まないのに真ん丸の月が東の空から太陽のようなオレンジ色で顔を出してきた。
 「あれって、月だよな?」K さんも気が付いた。
 「お日様が沈むとしたら西だよな」不気味な感じ、満月はおとといだったはず。
 チョコレート店に着いた。店の入り口に大きなココアの木があって、赤くなったのや、まだ緑色の実がたわわにブル下がっていた。店内は近代的なショップで、中に入ると小さく切った、試食用のチョコレートを持った女店員の笑顔に促され、チョコを吟味しながら、店の奥へ誘導された。
 あるある、いろんな種類のチョコレート、今回のツアーのショッピングは此処だけなので、ツアーの皆さんは競ってチョコレートを買いあさっていた。私は 25,000 円も換金してきている。オプショナルツアーに50RM を払う他は、ビールは余り高いので飲む気にならないし、切手代とペットボトルの水と、枕銭ぐらいしか掛からない。使い切れなくっても、出国の時に再換金する程の金額ではないので、滅多にこうした土産を買ったことがないのに、チョコレートでも買おうかという気になった。人形や、丸・ 四角の手造りコーナーで拵えた[一口チョコ]量り売りがあった。スーツケースに入れて持ち帰っても溶けないかと聞くと、駄目だというので止めにした。平たい箱入りの、ココア 77 %入りというチョコレートを、5 つ買うと1つサービスという売り方で、1箱(21.09RM・738.15 円)を 5 つ買って 6 箱ゲットした。
 K さんはチョコレートには関心が無く、休憩した果物市場でも探していた[ココナッツ・オイル]([世界ふしぎ発見]や NHK のトーク番組[あさイチ]で紹介された、料理やパンに塗るオイルやバターをココナッツオイルに変えるだけで、ダイエット効果と様々な美容・健康効果があるという。いち早く始めて続けている人の中には運動せずに 10kg 以上痩せた体験談も話題になっている。ココナッツオイルは現在入荷待ちの商品も多く、日本では大ブームになっている)を探していた。
 ファミデに通訳して貰い店員に案内して貰ったら、[オリーブオイル]のコーナーに連れて行かれた。この国ではまだ製造販売していないようだった。K さんはこのココナッツ・オイルをこよなく愛用しているだけに、目的が達成できずお気の毒だった。
 午後 6 時 40 分バスは市内の中心にある、池の上に建つ水上レスト
ランで素敵な雰囲気の[カンポンネラヤン]に着いた。[海鮮料理と舞踊ショー観賞付き]となっていた。一昨年のマレーシアでもこうした店に入った。この店は、舞台に向かって縦長のテーブルではなく、中華風の丸テーブルだった。

 此処でもツアーメンバーは二つに分かれ、6 人ずつ座った。350ml 缶ビールをグラスに入れて持ってきてくれる。27RM(945 円)だった。
 プラスチックの大きな器に茶色い水が入っている。
 「これは何をする物だい?」K さんと女性が聞く。
 「これは手を洗う烏龍茶ですよ」と教えると、納得したようであった。唐揚げのエビは 1 人に 2 匹充て、皮を剥いて食べ手を洗っていたら、
 「このエビは丸ごと食べるもんだと 」K さんが言う。生牡蠣も 2 つ充て、海鮮料理らしき物はこれだけ、その他、肉の炒めたのや野菜料理も数種類、ぼそぼそのライスも山盛りで出てきたが、食べきれなかった。最後は何処もと同じく西瓜のデザートだった。
 6時 45 分から民族舞踊ショーが始まった。K さんはハチャリキになって今回の旅行から持参したカメラで動画撮影に没頭している。ダンスの殆どが一昨年のマレーシアのショーと同じ演目で、農作業の舞、男女の恋愛の踊り等だった。打楽器だけの演奏の後、客を舞台に引き揚げて、ダンサーと一緒に輪になって踊ると言うのも一緒だった。甚兵衛を着ている私は目立つから、舞台に上がれと誘われたが、缶ビール1杯ではとてもとても恥ずかしくて出てゆけなかった。
 最後に頭に羽根飾りを付け、上半身は裸、民族衣装に腰を包んだ、勇壮な男の火踊りがあった。常磐ハワイの火踊り、ハワイの火踊りとも皆似通 って、口から火炎を吹き出し、拍手を浴びていた。それが終わると男の身の丈程もある槍を持ってダンサーが舞台から降りてきた。舞台の一番奥ま った天井に風船を沢山結わい付けて吊してある。ダンサーの持つ槍が吹き矢の筒になっていて、15m も先にある風船めがけて、フッと吹く。男は一度失敗したが、2 度目に見事風船を割って、ウオーという歓声が起きた。
 すると一人のダンサーが私のところへきて吹き矢に挑戦しろという。こ れには参戦した。木を刳りぬいたと思われる槍は、中が空洞になっている。槍先は平たい金属で、平らな部分を水平に向けて中に入っている矢をフッと吹く。どのくらいの力で吹いた良らいか加減が判らない。ともかく強く思いっきり吹いてみた。1 度目は失敗、すると 3 歩前に出ろと促され、2 度目は見事風船に届いてパンという音が会場に響いた。皆さんから拍手を頂いた。私の後に何人かの男女がトライしていたが、当たらなかった。
 バスはホテルに直行である。
 「私のガイドは今日で終わりです。有難う御座いました。明日は義理の 弟の結婚式があり、前から決まっていたので休ませて頂きます。(全員が御目出度うの拍手)明日はバスもガイドも替わりますので、忘れ物の無いようにして下さい」余り親切なガイドではなかった。すれていないと言うより、サービス精神に欠けていた。
 部屋に戻るのに母嬢で参加している 2 人が近づいてきたので、エレベーターを止めて扉を開けて待っていたのに、階段の方に行ってしまった。
 「エレベーターに乗らないのですか?」と声を掛けると、
 「また何時地震が来るか判らないので、怖いから階段を登ります」と、実に慎重なのには頭が下がった。