感動のアンコールワットと魅惑のベトナム2都物語 7日間

 2014年3月22日(木曜日)~28日(金曜日)

ベトナムの地図
ベトナムの国旗
カンボジアの地図
カンボジアの国旗

 3月22日(土曜日)・観光初日

 ベトナム北部、ホン(ソンコイ)川中流右岸にあるベトナムの首都ハノイはトンキン湾からは約140km内陸にある。人口および経済ではホーチミン(旧サイゴン)につぐが、バック・ボ(北部ベトナム)第一の都市で、ベトナムの政治の中心である。この日14時30分にハノイの[ノイバイ国際空港]に着いた。ハノイは東京より15度も下の北緯21度だから当然暖かな所というイメージでいた。ところが出発前の松永(同行添乗員)さんの案内では
 「22日のハノイの気温は17度、天候は雨ですから暖かな服装で傘の御用意をなさった方が宜しいと存じます」だった。
 東京と変わらない気候ならと、ズボン下の上にGパン、セーターの上に皮のジャケットという出で立ちである。今回の旅でも御一緒のKさんはカジュアルシャツにジャケット、ハンチング帽で決めている。シベリアから吹いてきた冷たい北風がヒマラヤに当たり、山脈に沿って東側に流れてきた寒気のルートにハノイがあるので東京並みの気候なのである。風邪を引いたが幾分熱が下がったので参加したというKさんは大きなマスクが痛々しい。
 2010年9月15日から空路でのベトナム入国に限り『出入国カード』が不要になった。
 税関申告書類に関してもUS$5,000相当以上の外貨を持ち込む場合などは出入国カードと一体になっている用紙に記入しなくてはならないが、我々は僅かなお金での旅行であるから税関申告書の提出も不要である。通関もスムーズに流れ、入国時の荷物チェックも省かれた。
 ところが2014年3月8日午前0時41分(現地時間)、12人の乗員を含む239人を乗せてクアラルンプール国際空港を出発したマレーシア航空370便は同日午前6時30分に北京首都国際空港に着陸予定であった。離陸の約50分後、ベトナム南部の海岸近くの海上を航行中の午前1時30分を最後に、クアラルンプールのスルタン・アブドゥル・アジズ・シャー空港(スバン空港)の管制当局との交信を絶った。マレーシア空軍は軍事レーダーなどから、消息を絶つ直前に、出発地のクアラルンプールに引き返そうとした可能性があるとしている。その後、タイランド湾のトーチュー島付近に墜落したとされていたが、その後、3月11日に、同機はベトナム沖上空で自動交信装置が停止した後、目的地の北京とは逆方向へ引き返したとみられ、同空軍は出発地クアラルンプールの北西、マラッカ海峡の上空で機体を見失ったと語っている。
 今日の出発日にもまだ不明のままであるから、東南アジア系の航空会社の搭乗チェックはかなり厳しくなっていた。Kさんは私の忠告に従って、小指ほどの多機能(十徳)ナイフを一旦はスーツケースに納めたのだが、鍵を掛けるためにまたそのナイフを取り出してしまった。鍵とミニナイフが括り付けてあったのである。それがX線検査で見つけられてしまった。帰国後返して欲しいと粘っていたが、規則違反ですから没収後廃棄処分になりますと素気なく没収されてしまった。Kさんの大変お気に入りで重宝した代物だったようで、旅行中も帰国後もそのナイフのことを残念がっていた。
 50人乗りの大型バスが迎えに来ていた。空港の外に出ると、すかさずKさんはタバコに火を点けた。成田空港の免税店で2カートンのマルボロを44$(約4,600円)で買い込んでいた。
 春分の日と秋分の日にアンコールワットの一番高い真ん中の塔からお日様が上がるというので、この時期カンボジア・アンコールワットツアー客が殺到する。これに申し込んだときは既におそしで、今回のツアーは定員22名の締め切り、3月22日出発コースの残り2名に滑り込むことが出来た。Kさんが声を掛けていた女性が一緒に行きたいという。
 「もう満杯だということですが、キャンセルがあるかも知れないから明後日の月曜日に電話を掛け申し込みます」と説明すると、
 「自分で直接[はじめてのベトナム縦断7日間]3月28日出発を申し込みました」と実に積極的な女性だった。
 「ベトナムの通貨はドンですが、やたらゼロが多くてややこしい。換金するなら米ドルになさったほうがいいですよ。5$とか1$という小額ドル紙幣が役に立ちます。ドンより米ドルの方が喜ばれます」と情報を提供しておいた。ということで今回もKさんと2人でツアーに参加した次第である。
 成田空港第一ターミナルGカウンターでe-チケットを受け取るときに女性添乗員が2人で受け付けていた。ハノイ到着後は気付かなかったのだが、行く先々で同じ顔の人達と一緒なので、2グループだということが分かった。
 我々のグループは3人のキャンセルがあって総勢19人である。だからバスの中は一人で2席を使っても充分余裕がある。Bグループは22人だった。
 現地ガイドはチョウ、40歳位の男性で日本へも数回研修に来たことが有り、日本語検定の1級を取るために5月に来日し、ゆくゆくは日本の企業に就職するから、ガイドはこれが最後かも知れませんと自己紹介していた。その割には日本語は余り上手とは思えなかった。
 ハノイは雨上がりで、19度と肌寒く皮のジャケットで丁度良い。手袋までは用いなかった。

 ハノイ市内観光開始である。最初に向かったのは世界遺産・タンロン城だった。バスを降り広い公園風の所に入った。空港で渡された《耳たろう(旅行用補聴器・チャンネルを合わせボリューム調整する・イヤホン式・ガイドの喋る声が届く範囲約半径20m》のスイッチを入れてくださいという。

タンロン城公園の大盆栽

 高さ1mぐらいの台の上に大きな盆栽が載せてあり、幾つも並んでいるのが目に飛び込んできた。反対側にはベトナム戦争当時アメリカ軍が放棄していった軍用機が陳列されている。ベトナム戦争に勝利して41年たった今でもアメリカを許さないと言うことなのだろう。公園内は通路にもなっているようで、観光客より一般のベトナム人の方が多かった。艶やかな色彩のアオザイを着た若い娘さんが眼を引く、女子大生なのだろう。

 公園の隣にある[ハノイ城・タンロン城遺跡]観光となった。

[ハノイ城・タンロン城遺跡]

 ガイドの説明を聞きながら、歩きながらの世界遺産に登録された建造物の見学である。入り口が5つある[端門]を背景にツアーの皆さんが添乗員にシャッターを押して貰っている。私とKさん以外の人は風景よりも自分がモデルとなって写真に納まるのが好きらしい。チャンス到来、Kさんの一服タイムでもあった。
 ハノイ市ドンダー区、ホアンジエウ通りの東側のハノイ城と、西側のタンロン城遺跡を合わせた区域が2010年ユネスコの世界文化遺産に登録された。ハノイ城には当時のままの門が残されており、タンロン城では現在尚、建物の遺構や建築遺物などが発掘されているとの説明があっても、歩きながら外見だけを見る観光なので、それがどうなっているのか皆目分からない。チョウさんのガイドを要約しておく。

[タンロン城]
 1010年ベトナム最初の長期リー(李)王朝初代皇帝タイトー(李太祖)が、都をタンロン(昇龍・現在のハノイ)に定めた。唐(中国)の高駢が9世紀末に築いた城壁(大羅城)の土台を基礎としてタンロン城は築かれ、その後歴代王朝により何度も再建されてきた。しかしグエン(阮)朝時代(1802~1945)を迎えると、初代ザーロン帝は都をタンロンからフエに移した。遷都するにあたって重要な建築物は分解されて運ばれ、フエで再度組み立てられている。

 [ハノイ城]
 グエン朝期タンロンはハノイ(河内)と改名された。ハノイは一地方都市として扱われ、1804年から1805年にかけて規模が縮小されたハノイ城が建てられた。四代皇帝トゥ・ドゥック帝は、更にその一部を壊しさらに縮小した。その後1884~86年には、フランス植民地政府によって、部分的に破壊されてしまった。フランス軍が1954年に撤退した後、1975年まではベトナム人民軍の最高司令部がハノイ城に置かれ、2004年にハノイ市に受け渡されるまで国防省の管理下にあった。1999年より建物の修復が行われ、2000年の遷都990年を記念して一部(端門、後楼、北門)の公開が始まり、その10年後の2010年には遷都1000年にあわせて残りの部分(敬天殿跡、D67の家)も一般に公開された。 

 [端 門]
 端門には五つの入り口が設けられている。ハノイ城は三重の構造になっていて、一番内側が皇帝が住む宮城、二層目は政治を司る皇城、一番外側は商区や庶民の生活圏で京城と呼んでいた。皇帝一族の住居があった宮城の南側に、ただ一つ開かれたのがこの端門である。後、レー(黎)朝前期の15世紀に建てられ、グエン朝時代に補修された。端門には五つの出入り口があり、その両脇には更に、楼閣へ上るための階段がある。中央の一番大きな入り口は皇帝用、五つの出入り口のどこから入っても、必ず中央の検問を通らなければならない仕組みになっている。皇帝のいる敬天殿へ通じるため、厳しい検査を受けたのである。後のレー朝の法典『黎朝刑律』には[針1本でも持ち出したものは、斬首に処す]と記されている。

 [敬天殿跡]
 敬天殿跡の手前が龍の階段。

[ 敬 天 殿 跡・龍 の 階 段 ]

 現在残されているのは龍の階段のみで、階段の上の高くなっているところに、かつて敬天殿と呼ばれる宮殿があった。現在ある建物は、フランス植民地時代にフランスが建てた建物である。敬天殿は1428年にレー・タイトーによって、李朝や陳朝期の宮殿の基礎の上に建てられた。皇帝とその家族の生活の場所で、謁見や儀式なども執り行われた。龍の階段は、後レー朝期最も栄えたレー・タイントン皇帝の時代、1467年に造られた。四匹の龍が残っている。中央の二匹は5.3mの長さで、体に7つの屈曲があり 5本の爪が見られる。両端の二匹には雲の模様にデザイン化されている。階段を上がって、向かって左側の奥に、もう一つ龍の階段があり、正面のものより小さく長さは3.4mで、龍の形は異なる。その下側には蓮の花や鯉が龍に変化するモチーフが描かれている。こちらは17世紀終わりから18世紀初めに造られた。

 [後 楼]
 敬天殿の後ろ(北側)に位置するため、後楼と呼ばれる。19世紀グエン(阮)朝時代、皇帝が都のフエからハノイを訪れ敬天殿に宿泊した時、随行してきた側室や女官達が皇帝のお世話をするための控え所とされた。建物は三階建てで、屋根には龍の頭の装飾がある。19世紀末フランスがハノイ城を占領した時に破壊されたが、再びフランスによって再建された。1998年から99年にかけて発掘調査が行われ、リー朝、チャン朝、後レー朝の時代の建築資材や食器など多くの遺物が発見された。この楼閣は後レー朝時代からあったとされ、数百年さかのぼって、リー朝期も城の位置はこの辺りであったことが、これらの発掘品からも証明された。

 [北門]
この門は旧ハノイ城を囲む城壁に造られた五つの門のうちの一つで、現在残っている唯一のものである。城壁は高さ4.4m、厚みが16mある。1805年グエン朝初代ザーロン帝によって、フランス人技術者の援助を得て造られた。幅15~16m、深さ5mの堀を渡り、[正北門]と書かれたこの門をくぐると、政治・経済を司る役所、軍の駐屯所、フラッグタワー、象舎(象は乗り物として使われた)、そして監獄も設けられていた。中央には、これらに囲まれる形でもう一つ城壁があり、その中に宮城が造られた。 

 [砲弾の跡]
 北門には、1882年4月25日フランス軍が、紅河から砲艦によって城を攻撃したときの砲弾の跡が残っている。発掘調査によって、地下60㎝ のところからグエン朝時代の土台と共に、この時の犠牲者と見られる一体の人骨が見つかった。北門に向かって左側の入り口から入り、門の内側を見学してから見学者用の階段を上がると、フランスのハノイ城侵攻に抵抗したホアン・ジエウとグエン・チ・フオンの像が安置されている。

 チョウの分かりにくい日本語で、ハノイ城の長々とした説明があったが、実際に見たのは[端門][フランス風の建物][敬天殿跡の龍の階段(下の部分)][北門]だけ、約20分で次への移動である。
 バスはハノイの中心部へとやって来た。バスを降りると大きな交差点にどの方向からもバイクの列が連なっている。土曜日の夕方だからか車もラッシュだが、バイクは片側8車線ぐらいで切れ目なく続く。横断歩道の信号機がない所をチョウは一斉に固まって横断するというのである。
 「ベトナムではバイクは停まってくれません。私の合図で向こう側にわたります。いいですか離れないでください。それ!」と言う案配でディンティエンホアン通りを横断し、ホアンキエム湖岸に辿り着いた。

 [ホアンキエム湖]はハノイのほぼ中心部にあり約40分ぐらいで湖岸を歩いて一周できる。ハノイにある湖の1つで主要な景観スポットになっている。

ホ ア ン キ エ ム 湖 の フク(棲旭橋)橋

 以前、紅河が何度も氾濫を繰り返した際にできた湖の一つで、かつては紅河とも繋がり緑水湖として知られていた。その後湖は2つに分かれ、一つがホアンキエム湖となり、もう一つは[水軍湖]となった。水軍湖にはベトナム水軍の訓練場が置かれていたが、現在は埋め立てられている。

長さ210cm、幅120cm・伝説の大亀壁画

 伝説では、黎利が湖の宝剣を手にし、その剣によって明との戦いに勝利した。その後、黎利は湖上で金の大亀から
 「平和になったので持ち主である竜王に剣を返せ」と啓示され、湖の中心近くにある小島で剣を返上したので、湖は現在の名前で呼ばれるようになり、小島には亀の塔が建てられた。湖の北岸の近くにあるもう一つの島には、18世紀に建てられた[玉山祠]が建っている。そこには13世紀の元に対する戦いで活躍した陳興道、文昌帝、1864年に寺の修理を担当した儒者で作家の阮文超らが祀られている。島と岸の間には、赤く塗装された木製のフク橋(棲旭橋)が架けられている。(1968年にホアンキエム湖で体重250kgの大亀が発見され、伝説の亀として玉山祠に剥製が陳列されている。剥製の大きさは長さ210cm、幅120cm)

 何でこんな所に連れてきたのか不可解だったが、空港から直接ホテルに行く前に、[ハノイ市内観光]をさせたということなのだろう。赤いフク橋からホアンキエム湖を眺めながらの一服はKさんにとってどんなうま味を感じたろう? 玉山祠も20分のちょっと見観光で、再び全員が纏まり道路を横断、ハノイ旧市街へと移動した。

 ホアンキエム湖北側に広がる[ハノイ旧市街]はその昔、王族への献上品を作る職人達の街であった。同業者ごとに固まってひとつの通りに居住したため、通りには生産される商品の名前がつけられた。そういった通りが36あって、旧市街は古くから[ハノイ36通り]と呼ばれてきた。13世紀から存在する旧市街はその姿を変えながら、今もなお多くの人が訪れるハノイ随一の繁華街である。現在は保存地域として、許可なく取り壊しや建て替えができなくなってる。
 「これから旧市街へ入ります。カメラやハンドバッグは必ず首から肩に掛けて、手で押さえてください。沢山の人でごった返しておりますから、私を見失わないでください。迷子になったら探すことは不可能ですので、一人で勝手に動かないようにして下さい」悲痛な叫び声のように注意を促すチョウ、添乗員の松永さんも
 「私が最後に付き添いますが、スリが沢山いますから、持ち物には充分御注意なさって下さい」と戦場に赴くような緊張感を見せている。
 道路の入り口にMa May(マー・マイ)・PHOと言う標識がたっていた。この通りは、もと2つの通りに分かれていた。籐製品の店が集まるHang May(ハン・マイ)通りと、お葬式や各祭礼に使用される紙製の冥器の販売店が集まるHang Ma(ハン・マー)通りこの2つが1945年に1つの道に統合され、現在のマー・マイ通りになった。今はそういった店は見られず、旅行者向けのカフェやBAR、ミニホテルやホステル、ツアーデスクがひしめき合うツーリスト・ストリートとなっている。
 6m道路の両側に間口が3m~4m、奥行きが60m~70mの殆どが4階建てという間口の狭い家がびっしり(隣家との隙間が無い)引っ付いて建っている。旧市街で生活する人々は同じ村から出て来ているので、同じ生活様式にしたという。当時、店舗と倉庫は家の前に置かれ、生活空間は店と倉庫の後ろにされていた。このため、旧市街の家は幅が狭くて、奧が長い設計を元に建設されて[チューブハウス(日本で言うウナギの寝床)]と呼ばれる伝統的建築様式が形成された。煉瓦造りで道路に面した部分はカラフルに装飾してあるが、横面はコンクリート壁のままである。
 チョウの説明によると、《隣に家が建つからその必要がない》のだそうだ。何故にこうも幅の狭い家が流行ったのかというと、日本の江戸時代の京都と同じ税金対策だそうで、通りに面している家屋の幅で税金の額が決められたからである。この幅の狭い家の中にどうやって外からの光を取り入れるのか聞くと、その問題解決として、チューブハウス内のあっちこっちに中庭のようなものを配置させ、光を取り入れているのだそうである。19世紀終わり頃の典型的な家が現存しているのである。1軒の家に5~7家族が生活し、窓のほとんどないひとつの部屋にひとつの家族が暮らしているというケースが普通である。チョウも子供の頃はそういう生活をしてきたそうである。
 その商店の前の道路には果物を並べたり、野菜や花、雑貨類を並べる青空市が幅をきかせ、より狭くなった道路をひっきりなしにバイク(二人乗りが多い)が行き来する。街並みを見学するどころか、チョウにはぐれないようにくっ付くようにして旧市街を通り抜けた。

路 上 を 占 有 す る 出 店 の 食 卓

 道路の半分ぐらいを占有し、低いテーブルを並べて大勢の人がPHO(フォー・米粉麺)を食べている。その直ぐ傍を我々のような観光客やバイクが走り抜けていく。こんな雑踏と騒音の中でもベトナム人は意に介せずPHOを楽しんでいた。この散策の40分はあっという間だった。
 ハノイ市内もバスは止めておけない。全員が揃ったことを確認し携帯電話でバスを呼び、慌ただしく乗り込む。ちょっとの待ち時間でも、Kさんの喫煙タイムとなる。旧市街から15分程走行した所のレストランに向かうバスの中でチョウが飲み物の注文を取り始めた。
 「マンゴー、ドラゴンフルーツ、パイナップル、バナナや西瓜等々の絞りたて果汁100%ジュースが美味しいですよ。今から電話で注文をしておけば、テーブルについてすぐに飲めます。それぞれ5$(530円)です。ビールはハノイビールです。ベトナム2大ビールブランドの1つで、サイゴンビールに次ぐベトナム2位の生産量を誇っています。ハノイを中心に飲まれています。創業は1890年、その後国営企業としての歴史が長かった影響で味や品質が低下しましたが、1990年代以降にカールスバーグ(デンマーク)と提携し、品質は向上しました。アルコール度数は4%、330cc入り缶ビールは4$(424円)[商店価格で1万ドン(50円)前後]です。グラスワインは8$(848円)、その他にアルコール50度のベトナムウォッカ・ルアモイ600ml入りボトルが20$(2,120円)です。(一流レストランだけに飲み物料金は馬鹿高い)」
 最初の夕食は[北部名物料理]である。9人と10人に別れてテーブルが用意されていた。料理が運ばれてくる前にバス内で注文しておいた飲み物が運ばれてきた。私とKさんは2人組グループ5組で10人テーブルに着いた。缶ビール1本4$というのが気に食わなかったが、食事をするときに何もないのも寂しいので、ハノイビールを1本ずつ注文した。乾杯で気勢を上げた後、最初にベトナムで最もポピュラーな麺(中華料理の平打ちライスヌードル・米麺に牛骨から取ったスープをかけ、牛肉をのせ、香草やもやしが加えてある)[フォー・ボー]が出てきた。機内食が11時頃だったので、空腹にこのフォーは評判が良かった。生春巻が一人1本ずつ、これも美味い。その他中華料理風の物が数種類、そして最後に炒飯が出た。
 私は機内で缶ビール5本とグラスワイン2杯を飲んだが、ハノイ市内観光ですっかり酔いが覚めてしまっていた。缶ビール1本では寝た子を起こした感じでもの足りない。そこで[ルモアイ]を注文した。同じテーブルのお酒の好きそうな5人にも強いベトナムウォッカを振る舞った。無論水を割って飲む。Kさんが時々席を外しタバコを吸ってくる。残ったボトルはホテルに持ち込み、二日間の寝酒とした。
 CROWNE PLAZA WEST HANOI(クラウンプラザウェストホテル)到着は午後7時だった。部屋割りがあり、その方が手っ取り早いというので銘々でスーツケースを部屋に持ち込んだ。バスタブにお湯を注ぐ間、Kさんは風呂場に駆け込み先ず一服。入浴後、水割りルモアイを飲みながら衛星放送で日本語のNHKを見た。白鵬は元気なく受けに回り、鶴竜の攻めに屈して2敗、鶴竜は13勝とし、優勝に大手を掛けた。
 「この勢いだと鶴竜が優勝し横綱になるだろうな 」と声を掛けたがKさんは軽い鼾をかいていた。