3月25日(火曜日)・第4日
連泊であるからスーツケースを整理する手間が省けた。このホテルも食堂が開くのは6時だ。食堂に向かう前に日記を付けようとリュックを探ったが、眼鏡ケースとペンケースが入っていなかった。機内の前席のポケットに忘れてきたことに気が付いた。隣の御婦人の荷物を降ろすという予定外の作業があったことで、眼鏡などの小物を仕舞う流れが抜けてしまったのである。ケースがビトンだけに、まして外国の機内で忘れ物をしたのでは諦めるしかない。部屋の机に置いてあったボールペンを借りて日記を書いた。眼鏡がないから線から文字がはみ出たかも知れない。
我々の部屋がある新築したばかりの新館は、本館からプール脇150mの長廊下を歩いた奥である。食堂は本館1階だからかなり歩かないと行き着かない。1階ロビーに売店があるの見つけた。絵はがきが並べてあるから「スタンプ?」と聞くと1$(108円)だと言う。カンボジアからのAIR MAILは100リアル(25円)で、シェムリアップからだと300リアル(75円)なのに店の娘は「1$」としか言わない。明後日ホーチミンの郵便局見学の際に買えば11,000ドン(42.3円)で買えるが、ハガキの日本到着が遅くなるので、ハガキ18枚分の切手を18$(1,944円)払って渋々買った。
連日のバイキングでうんざりだが、野菜のみをトッピングした米粉麺、焼きたての卵焼き、西瓜とトマト、舌触りがざらざらするドラゴンフルーツ、仕上げに紅茶で簡単に済ませる。いつものように先に部屋へ戻りトイレにてお腹の調整中に、Kさんが急の腹痛に便意を催し
「早く出て、お腹が苦しい」と催促、下痢になったが何とか治まったようだった。
シェムリアップは北緯13度だから朝でも気温は30度近くある。日中は35度にもなるので、今日の服装は甚兵衛(紫の絵柄で旭天鵬と書かれた浴衣地で拵えたもの)とビーチサンダルである。帽子とサングラス、タオルも必携品だ。出発まで時間があるからホテルの庭を散策しようということになった。瓢箪形のプールの横に一対になった御影石のリンガ(男性シンボル・高さ1.5m直径40cm)とヨニ(女性シンボル)が1m程の石の台に乗せられていた。笑っちゃうのは男根亀頭のくびれの所に観音様のお顔が彫ってあったことである。その横にはアンコールトム内の王宮前にある[象のテラス]のレプリカがあった。そしてプールの縁にはやはり御影石で彫られた人魚がストゥーバを模した冠と上半身はカンボジア宮廷服を着(おっぱいは乳首だけ出している)、手には蓮の花のつぼみを束ね持って微笑んでいる。

Kさんはこの人魚が素晴らしいと誉めていた。
ホテルの玄関から道路までも広々としており、2匹の黒い石の象が守る参道20mに20数本のリンガが両側に並び奥には仏陀が蓮の花の上で座禅を組んでいる。バスの出入り口脇にはナーガを抱えた4人の悪鬼が実物大で睨みを効かしている。

本物は鬼神のお顔はそげ落ちているが、此方はきちんと再現されたものである。カンボジアのシェムリアップらしい趣向を凝らしたホテルであった。
出発前に松永さんに私が造ってきた絵はがきをお見せした。12年前のハ・ロン湾の、奇岩の脇を当時の茶色の遊覧船が国旗をなびかせて颯爽と写っている写真である。
「綺麗なお写真ですね」
「切手はホテルの売店で買いました。此処でも1$でした。午後ホテルに戻ってきた時に出します。有難う御座いました」
「良かったですね」
「今朝気が付いたんですけどね、昨日飛行機のポケットの中にビトンのケースに入った眼鏡とボールペン2本入った皮のペンケースを忘れてきちゃったんですけど、字を書く時に不自由でね、諦めですよね?」
「ビトンのケースじゃ出てきませんね? でもルームさんに空港へ問い合わせて貰います。明日また同じ空港から乗りますのでね」
ホテル出発は8時、出発前の注意
「今日は日中暑いですからサングラスと帽子は必携です。女性の方は日傘なんかあると良いと思います。[耳たろう]はお持ちですね? 途中バスの中でペトボトルの水を差し上げますが、今欲しい方は仰って下さい。足りない方は1$(108円)で販売してくれます。これからベンメリアへ向けて50km・約1時間40分の移動です。途中顔写真入りのチケットを購入してゆきます。首に下げるケースをお配りします。チケットはこの中にお入れ下さい。遺跡観光の際にこのチケットがないと観光できませんから無くさないようにして下さい」
替わってガイドのルームさんがガイドを始める。早口で何を話しているのか分からない。チケット売り場で下車、全員がカメラの前に立ちスナップ写真を撮られた。
「此処を出発しますと、ベンメアリまでトイレ休憩はありません。1時間30分ぐらい掛かります。自信の無い方は此処で済ませておいて下さい。トイレは右奥にあります」
再びバスに乗り込むとANGKOR WORLD HERIT PASSと書かれた顔写真入りのチケットが渡された。2014年3月25日~31日迄の日付入りで、US$40(4,320円)となっていた。我々観光客がこんな高額を払っているのに、アンコールワットはカンボジアの持ち物ではないのだそうである。これは我々より2週間程前に御夫婦で同じコースを観光した小林さんからの情報だった。
「ガイドの説明だと、アンコールワットはベトナム人が持っているから、カンボジアにはほんの少ししか入らない。カンボジア人には何の恩典もないと言っていたわ」と小林さんは言うので、ルームに聞いてみたが「分かりません」の一言だった。ガイドは政治向きのことには言及しないようだ。私も存ぜぬことだったのでインターネットなどで調べてみた。
《 アンコールワットは日本人に人気のある海外観光地として3年連続で1位に選ばれている。カンボジア観光省の発表によると、2012年の海外からカンボジアへの訪問者数は358万人となり、前年比で24%の増加率となった。2013年1月~4月の外国人旅行者数は150万人に達し、2013年度は420万人が訪れている。2020年には年間750万人の外国人訪問者数を想定している。アンコール遺跡を訪れるのに、外国人は入場料1日20$(2,160円)が必要だ。(入場券には3種類あり、1日だけの券が20$。3日間有効のが40$。1週間有効が60$(6,480円)である)こんなに入場料の高い遺跡は世界のどこを探してもないだろう。(ちなみにカンボジア人の平均的な労働者の収入は、月に30~80$(3,240円~8,640円ぐらいである)一日に2万人の入場者があったとして、入場料収入は40万$(約4,320万円)。ところが入場料収入の大半はベトナムに流れていると指摘する。ベトナムのSOKIMEXという石油会社が、遺跡の管理権を持っていることは公然の事実で、驚くことにカンボジア政府は目先のカネにつられて管理権をこの会社に売り渡してしまったのである。カンボジア政府に還元されるのは、年間たったの100万$(1.8億円)程度だと推測されている。
1978年12月にベトナム軍がカンボジアに侵攻し、翌年プノンペンは陥落。クメール・ルージュはアンロン・ベーンをはじめとするタイ国境地帯へ逃げ込み、90年代まで抵抗を続けた。ベトナムは80年代に一応は撤退したということになっている。78年末にベトナム軍をカンボジア領内へ手引きしたのは、元クメール・ルージュの幹部だったフン・センである。そのフン・センはCPP(カンボジア人民党)の党首であり、現在、カンボジアの首相である。そしてフン・センがベトナムの傀儡政権であるということは、公然の事実である 》
この程度のことしか分からなかった。(因みに我々のチケットは1週間で40$(4,320円)だったから団体割引券なのかもしれない?)
2007年にカンボジアを訪れた時と道路状況は少しも変わっていなかった。日本の援助などで、インフラ政策が進んでいるものと思っていた。さにあらず道路整備は全くされておらずの凸凹路、行き交う車が乾ききった茶色の土煙をあげ視界を妨げている。バスを降りてから遺跡の所までの道路も粒子の細かい土が積もったままであった。素足でのビーチサンダルだから足は砂まみれになった。何処が入り口なのか分からずルームの後に付いて行くと、2人の男性が出てきて写真入り入場券の日付をチェックする。特別入り口らしきものは何もない。午前10時頃に着いたら、遺跡の正門らしき入り口は観光客で溢れんばかり、ルームは裏から入りましょうと人気のない裏側の門へ案内する。[耳たろう]のスイッチを入れ、観光用に構築された木造の足場を手摺り伝いに歩くのである。ルームのガイドを要約する
[ベンメリア(花束の池)]は、カンボジアのアンコール・ワットの約40km東の森の中にある寺院で、世界遺産であるアンコール遺跡群のひとつである。

砲弾を浴びたかのように崩壊が激しい。未だに修復されずに、密林に埋もれ荒廃した状態で、熱帯樹の茂る密林が遺跡全体を覆っている。建造物の中を熱帯樹の根が伸張し、あげくは熱帯樹の倒壊に伴って建造物が無惨に倒壊してしまった。全貌が明らかになればアンコールワットに次ぐ規模を持ちながら、2003年当時、野生の虎や象が出没するため、一般の人はベンメリア遺跡の一部にしか行くことができなかった。放置された平面展開型の巨大寺院である。タ・プロームのように人の管理下で自然の状態を保っている遺跡とは異なり、ベンメリアは正真正銘の荒廃した状態なので、寺院の屋根の上や瓦礫の間を歩きながら遺跡を観察することになる。原形をとどめないほど崩壊がひどく、苔がむし、ほとんどが瓦礫の山のと化した廃墟そのものだ。アンコール・ワット建造前の11世紀末~12世紀初頭スーリヤヴァルマン2世による造営と推測され、環濠幅約45m、周囲4.2kmと規模はやや小さいものの、アンコール・ワットとの類似点が多く[東のアンコール・ワット]と呼ばれている。水の処置で構造上の欠落を生じた失敗建造物だった。これらの教訓を学び取りアンコール・ワットはこの寺院をモデルとして建築されたといわれている。ヒンズー教寺院として建造されたが、仏教のモチーフをあしらった彫刻が多い。材質は主に砂岩である。ベンメリアの[ナーガ]は建物に比べ保存状態がよい。特に東門テラス欄干の5つ頭のナーガは細かな部分まで確認できる。ポル・ポト派の支配が終わり、地雷の撤去が進み比較的近年に観光ができるようになった。発見後に遺跡があることは知られていたが30年にも及ぶ内乱が続いたため放置されてきた。遺跡内は安全の確保のため、足場が築かれている。指定されたコースから外れると危険である。遺跡が発掘された時に、どのような形で見つかるのか、植物がどう繁茂するかなどが分かる貴重な遺跡である。
約1時間の観光後、これを見る為にだけ朝来た道をホテルまで戻るのである。35度という炎天下の観光だったから、汗で帽子とタオルが湿っぽくなった。バスの中で配られた冷たいペットボトルの水は有り難かった。トイレタイムはクッキー店での買い物がセットで30分。カンボジア産の果物アイスクリームがよく売れていた。昼食はこの猛暑なのに、どういう訳かタイスキだった。殆どの人が4$(432円)のビールを注文していた。ガスコンロの上に載せられた大鍋に火を点け野菜、つみれ、春雨、肉団子などを入れる。スープ自体に味が付いており、いろいろな具の味も混じる。煮上がるのを金網のしゃもじで自分の器に入れて食べる。[タイ風しゃぶしゃぶ]とも言う。レストランは冷房が効いている。フウフウ言いながらも結構美味しかった。野菜はいくらでもお代わりができるというので、ボールいっぱい分を貰った。仕上げは米粉麺を煮込んでフィニッシュである。
カンボジア観光の良い所は必ずホテルに戻って休憩を取ってくれることである。午後1時30分にホテルに着いた。午後の出発は3時30分である。私は朝買った切手をハガキに貼り付ける仕事がある。Kさんはシャワーを浴びて、ベッドに横になって寛いでいた。私もシャワーを浴びホテルのフロントにハガキを持って行った。
3時30分午後の出発である。アンコールワットを2時間かけて観光し、その後Sunset(日の入り)を見る。バスの駐車場からアンコールワットの参道入り口まで10分ぐらい歩く。土が砂になった道を進むとベトナム人男性が行列の前にはだかり、入場券のチェックをする。その脇をすいすい歩く一般のベトナム人はノーチェック(無料)である。
ルームの説明では聞き取りにくいので、参考資料に基づいて紹介する。
[アンコール・ワット]は、アンコール遺跡の一つで、遺跡群を代表する寺院建築である。サンスクリット語でアンコールは[王都]、クメール語でワットは[寺院]を意味する。大伽藍と美しい彫刻からクメール建築の傑作と称えられ、カンボジア国旗の中央にも同国の象徴として描かれている。12世紀前半、アンコール王朝のスーリヤヴァルマン2世によって、ヒンドゥー教寺院として建立された。25,000人(作業員は16~45歳位までの男性、1日7時間の労働で、石工が約3,000人、彫工約1,500人、建築仕上げ工約4,000人、石材運搬人約15,000人、その他の合計推算)の人夫が動員され34年を超える歳月を費やしたとされている。1431年頃にアンコールが放棄されプノンペンに王都が遷ると、一時は忘れられたが再発見され、アンチェン1世は1546年から1564年の間に未完成であった第一回廊北面とその付近に彫刻を施した。孫のソター王は仏教寺院へと改修し、本堂に安置されていたヴィシュヌ神を四体の仏像に置き換えた。

[中央祠堂]祠堂の尖りは蓮の実を模したもの。1632年(寛永9年)、日本人の森本右近太夫一房が参拝した際に壁面へ残した墨書には、「御堂を志し数千里の海上を渡り」「ここに仏四体を奉るものなり」とあり、日本にもこの仏教寺院は知られていたことが伺える。1860年、寺院を訪れたフランス人のアンリ・ムーオの紹介によって西欧と世界に広く知らされた。1972年、カンボジア内戦によって寺院はクメール・ルージュによって破壊された。この時に多くの奉納仏は首を撥ねられ砕かれ、敷石にされてしまった。アンコール・ワットは純粋に宗教施設でありながら、その造りは城郭と言ってよく、陣地を置くには最適だった。周囲を堀と城壁に囲まれ、中央には楼閣があって周りを見下ろすことが出来る。また、カンボジアにとって最大の文化遺産であるから、攻める側も重火器を使用するのはためらわれた。当時置かれた砲台の跡が修復されている。
[西参道東側陸橋]は左右(南北)中央で分かれるが、南側半分は1960年代フランスにより修理され、北側は(1952年に50m余崩壊した部分をフランスが緊急修理した後)1996~2007年に上智大学の協力を得てカンボジアにより修復されたもの。(未だ完全には修復されていない)

[聖池の水面に映る堂宇]正面参道から見ると寺院は3つの塔に見えるが、ルームが正面に向かって左の方に先導するその角度からは、池とも水溜まりとも思える所(聖池)からは塔が5つ見え、池に水鏡となって寺院が逆さに映る。この位置からの寺院が一番美しい。
境内は外周、東西1,500m、南北1,300m、幅190mの濠で囲まれている。神聖な場所を飾るため、回廊は精緻な薄浮き彫りで埋め尽くされている。西からの参道は540mにおよび、砂岩のブロックが敷かれた延長239m、幅12m、高さ4mの土手道で環濠を渡って進む。この砂岩が敷かれた陸橋はかつて乳海攪拌の様子を描いた蛇神ナーガの欄干で縁取られていたというが、今は堀に落ちて見るこはできない。前庭を越えると三重の回廊に囲まれ5つの祠堂がそびえる。中心師堂は高さ65mである。
[第一回廊]は東西200m、南北180m、多くの彫刻が施されている。

西面の彫刻は主に砂岩とラテライトで築かれ、西を正門とする。
西面南には、インドの叙事詩である『マハーバーラタ』の場面があり、左から攻めるパーンダヴァ族と右から攻めるカウラヴァ族の軍が細かく描かれている。
西面北には、『ラーマーヤナ』の説話が幾つかあり、特にラーマ王子と猿がランカー島で魔王ラーヴァナと戦う場面が大きい。ここの王子の顔は建立者のスーリヤヴァルマン2世を模しているという。
南面西は[歴史回廊]と呼ばれ、行幸するスーリヤヴァルマン2世とそれに従う王師、大臣、将軍、兵士などが彫られている。
南面東は[天国と地獄]と呼ばれ、上段に天国へ昇った人々、中段に裁判の神[閻魔大王](18本の剣を持ち牛に乗っている)とその裁きを待つ人々、下段に地獄へ落ちた人々が彫られている。

地獄では痛々しい刑が行われており、また下段から中段に逃れようとする罪人も見られる。
東面南は[乳海攪拌(アンコールワットの壁画で最も素晴らしい・ヒンズー教の天地創造の物語)]の様子が彫られ、神々と阿修羅、等が大蛇ヴァースキを引き合ってマンダラ山を回し、海を混ぜている。
東面北と北面は後の16世紀頃にアンチェン1世が彫らせたと考えられており、他とは彫刻の質が異なっている。ヴィシュヌ神の化身クリシュナが怪物バーナと戦う場面が描かれている。
各壁面が180m以上もの大きさであるから、ルームの説明は全体の一部分である。外の気温は35.3度でも、カンボジアは湿度が低いから回廊内の見学では汗はかかなかった。
「第二回廊]第一回廊と第二回廊の間はプリヤ・ポアン(千体仏の回廊)と呼ばれ、南北に経蔵が建ち、十字回廊で繋がっている。

プリヤ・ポアンには、信者から寄進された多くの仏像が供えられていたが、クメール・ルージュにより破壊され、今は芝が生い茂っている。十字回廊は4つの中庭を囲んでおり、かつて中庭は雨水を湛え、参拝者はそこで身を清めたという。第二回廊は東西115m、南北100m、17段の石段を登って入る。彫刻などは無く何体かの仏像が祀られている。そこを抜けると石畳の中庭に入り、第三回廊と祠堂を見上げることとなる。
7年前に訪れた時は寺内の通路の階段、第二回廊に登る階段は当時の石段であった。所が今回は、年間420万人もの観光客が来るようになり、遺跡の保存を優先するが為だと思うが、部屋の区切りの石段や全ての階段を木の階段で覆ってしまったのである。従って段差も高くなっている。ぼんやり後に付いて壁画を鑑賞し、撮影に没頭していた訳ではないのだが、隣の回廊に移る際、階段の手前で女性が何かにつまずき私の腰辺りに倒れかかってきた。その弾みで私は木の階段の角に右膝をぶつけてしまった。その時は分からなかったから、皆さんに遅れてはならないと、痛いのを我慢して階段の上り下りをし、歩くのにも耐えたし、最後まで観光を続けた。
(帰国後近所の外科医院へ行きレントゲンを撮って貰ったら膝の骨にひびが入っていた。Kさんに話すと
「何も言わないからちっとも知らなかったよ」と言う。
「痛いからと言って自分だけ帰る訳にも行かないから我慢してたんだ」と答えた)
第二回廊の中庭に出ると太陽が沈む態勢に入り、そこから見上げる第三回廊が赤く染まってきた。7年前に第三回廊は修復工事のため立ち入りが禁止されていたが、2010年1月15日より拝観を再開している。中央始動に登ることが許可されているのは、東側の一か所で、其処も木組みの階段になっていて、13mの石段は一段毎の段差も高く急勾配である。今回こそは登ろうと張り切ってきたのだが、ルームが
「この階段は急で危険です。このツアーではこの階段で怪我をしても保険の対象外です。皆様の安全の為にも第三回廊は見るだけにして下さい」と言う。5時までには寺院から出なくてはならないし、膝の痛みもあったから今回も断念した。
アンコールワットは西を正面としており、午前中に写真を撮ると逆光になるため、午後の観光が組まれる。日の出を拝んだ後の観光客もあって、入場時間は7:40から17:00までである。
17時30分に第一回廊の庭に出た。参道が見下ろせ、その辺りに日が沈む。
「日没は18時頃ですので、それ迄自由時間と致します。18時に此処へ集合して下さい」Kさんと二人で回廊を背にした左の方へ行ってみた。売店が有りベンチがあった。現地の女性が「ビール1$」と叫んでいるので、時間調整に丁度良いと思い、カンボジアのバイヨンビールを飲んでみた。テーブルに灰皿が置いてある。世界遺産内なのにタバコを吸ってもいいのか聞くと、OKだという。Kさんは早速タバコを取り出した。
18時に集合場所に戻ってみたが、生憎黒い雲が覆っていて日没は見ることが出来なかった。
18時30分バスはレストラン劇場に着いた。[アプサラダンス]ショーを見ながらのビュッフェ方式のディナーだった。我々は舞台に向かって左に寄った席に座らされた。

10×20m程の舞台下に長テーブルが並べられ、向かい合って15人づつが座る。そのテーブルが13列、料理が並べられた通路を挟んで後ろにも同じようなテーブルと椅子がある。観光バスで乗り付けたツアー客が次々に入ってくる。400人位の人が食事をしながらカンボジア舞踊を見る趣向である。テーブルに付くと先ず料理を皿に載せてくる。牛肉を焼くコーナー、卵焼き、米粉麺なんかもある。どんな物を選んだか記憶にないが、如何せん狭いので料理集めはいっぺんで済ませなければならない。大人数の客が食べ物を選びテーブルまで運んできたり、飲み物を注文するから大変な騒ぎとなる。
舞台の左側に座り込んだ楽隊が木琴などの伝統宮廷音楽の伴奏を奏でだした。カンボジアの伝統舞踊[アプサラ・ダンス]が始まった。金・銀糸で綾織られたきらびやかな衣裳を身に着け、まばゆく光る高い冠をかぶって数人の踊り子が舞う。アプサラは『天使・天女』を意味し、神への祈りとして捧げられた。9世紀頃にこの宮廷舞踊は生まれた。踊り子の反り返った手と指の動きが特徴的で、仕草にはそれぞれ意味があり、生命の一生儚さを、また花の芽生えから実が落ちるまでを表しているという。たゆまない訓練によって培われる高雅な舞踊技術である。各動作は、特定の意味を持っている。また、足を後ろに跳ね上げるポーズはカンボジア舞踊の特徴でもある。田植えや稲刈り、漁労にちなんだ踊り、男女間の求愛の踊りなど、庶民の舞踊も組み込まれていた。
踊り子は王室古典舞踏学院で養成されてきたが、ポル・ポト政権のクメールルージュによって、宮廷古典舞踊は王政を纏わるものとして、300人を超す先生や踊り子のうち90%もの人々が処刑された。振り付けを記録した書物もこの時にほとんどが消失した。難を逃れた数人の先生たちの働きで、1989年から伝統舞踊の復活を目的に舞踏教室が始められた。
日本のショーのようなけばけばしい照明はない。Kさんを初めとする観光客は写真を撮るのに夢中で、落ち着いて食事を楽しむ雰囲気では無かったろう。
ホテルには21時に着いた。お向かいのコンビニでビールを買って部屋に戻った。