桂林・陽朔・龍勝5日間の旅

桂林・陽朔・龍勝の位置
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2012年11月9日(金曜日)~13日(火曜日)

 猛暑続きの8月、阪急交通社から海外旅行のパンフレットが送られてきた。
 それとはなしに頁を捲っていると、龍勝棚田(龍脊梯田〈りゅうせきていでん〉)のイメージ写真が目に付いた。
 いかにも旅行気分を誘うフレーズで、〔弊社デラックス(フォーチュンコンドミニアム)ホテルに泊まる《桂林・陽朔(ようさく)・龍(りゆう)勝(しよう)5日間》各出発25名様限定〕とうたいあげていた。
 年に2回ぐらい海外旅行に出掛けることで、自らの肉体年齢を測れることにもなるから、経済的に無理のない範囲で旅を楽しむことにしている。
 今年の3月にも中国の湖南省張家界市にある、《武陵源(1992年より世界自然遺産)6日間》の旅をしてきているので、今迄行ったことのない国の料金の安い旅を物色していたのだが、龍勝は桂林とセット商品となっていた。
 桂林には個人参加と、妻や友人とのツアー参加で今迄に5回も旅行をしている。それなのに中国の棚田というのを一度観て見たくなった。
 〔おひとり様参加大歓迎出発日〕は、通常なら一人部屋追加料金が18,000円掛かる所15,000円で済むし、旅行代金も一番棚田が美しい見頃の9月出発54,980円と比べて、たぶん刈り入れの済んでしまっただろう11月9日出発は39,980円と安かった。石油の高騰以後、海外旅行には燃油サーチャージ(8月1日現在)13,090円が別途掛かる。
 私はこのツアーに参加することに決めた。私の友人で、春日部市のふれあい大学で同窓生となったKさんが、
 「今度中国へ行く時に誘って欲しい」と仰っていたのを覚えていたから声をかけてみた。Kさんも年に数回の海外旅行をなさっている方だから、二つ返事でこの旅行に乗ってくれた。
 Kさんに「相部屋でも宜しいですか? 少しぐらいの鼾や歯ぎしりを我慢すれば一人部屋追加料金が掛かりませんが」と、一応お伺いを立ててみる。 「構いません」との即答を得た。
 8月8日の水曜日、早速いつも利用している〈JTB tabiセゾン〉に申し込む。
 「現在の所18名様の申し込みが御座います。鈴木様のお申し込みを頂きましたから、20名となりました」
 「出発日に○9印が着いているから、このツアーは催行決定ですよね?」
 「はい。催行は保障されております」
 旅行の申し込みから旅行代金の支払いまで、電話一本で済んでしまうから簡単で便利である。
 応対する女性がどんな顔をしているのか判らないのが残念だが、SAISON GOLD CARDを持っているから、名前を言えば私のデーターは登録済み、同行するKさんの個人情報のみを伝えるだけで良かった。
 パスポート ナンバーと有効期限、一番重要なのはパスポートに記載されたローマ字のスペルである。
 「9月4日にお二人様分の申込金をそれぞれ30,000円ずつをカードからお支払い頂きます。10月8日以降はキャンセル料が掛かりますが御承知おき下さい。御出発1週間前には〈最終旅行日程表〉がお届けできる予定です。何か分からない点が御座いましたら、お客様のお問い合わせ番号を仰って下されば、分かるようになっております。どうも有難う御座いました」 
 後は出発日を待つだけである。

 ところがである。2012年(平成24)8月15日に、中国本土・香港・マカオの活動家と、人民解放軍幹部が設立したフェニックステレビ クルーが乗船する船舶が日本の領海を侵犯し、活動家数名が尖閣諸島に上陸するという事件が勃発した。活動家の上陸場面と海上保安庁による検挙の様子がフェニックステレビによって生中継され、この活動家等の逮捕・強制送還後、中国では反日デモが繰り広げられた。
 9月10日に日本政府が尖閣諸島を民間から買い上げ国有化することを閣議決定すると、中国の各メディアは大々的に尖閣特番を編制し中国国民の反日感情を煽り立てたものだから、連日に渡って反日デモが繰り返されるようになった。そして土曜日となった9月15日には、日中国交正常化以降最大規模で、2005年(平成17)の中国における反日活動を超える規模となる反日デモが中国各地で発生し、日本企業への大規模な襲撃が引き起こされる事態になってしまった。
 日系企業の工場や日系自動車会社の販売店などは徹底的に破壊された後に放火され、事後の操業が困難となった。また、日系スーパーやコンビニエンスストアは大規模な破壊と略奪行為に晒され、中国人が経営する日本料理店や路上を走行中、もしくは駐車中の中国人所有の日本車も破壊された。このため、日本料理店や日本車所有者は被害を避けるため、閉店した上で店頭に五星紅旗を掲げたり、尖閣諸島の中国領有を主張するステッカーを張るなど自衛策に追われた。
 これらの騒乱では私服警察官や中国共産党員によってデモが扇動されたことが一部で確認されており、100元(約1,400円)をもらってデモに参加した人がいることや、デモを支援する出資者がいて、当局による組織的動員の可能性があることも報じられた。
 また当初は尖閣諸島国有化に対して穏便に対処する予定だった胡錦濤(フージンタオ)中国指導部だが、8月10日に李明博(イミョンバク)韓国大統領が竹島を訪問して日韓間で重大な問題になり、中国共産党内の保守派の[なぜ、中国だけが日本に弱腰なのか]という意見が強まり、次期国家主席に内定している保守派の習近平(シーシンビン)国家副主席の親友の栗戦書が先立って党中央弁公庁主任に就任すると、習近平が主導して対日強硬路線に転じ、反日デモを容認・推奨したことが報じられた。
 デモが拡大するにつれ参加者が毛沢東(マオツオートン)の肖像画を掲げる画像が見受けられたが、毛沢東を象徴として祭り上げるのは、経済格差が少なかった毛時代への国民の憧憬を利用して民衆の人気を集め、最終的に失脚した薄熙来(ホーシーライ)と同じであり、経済格差による国民の不満の拡がりと保守派が台頭する中国の現状を表したものであると分析された。
 中国以外にはアメリカ・オランダ・韓国でも現地在住の中国人によって反日デモが行われた。
 最近の中国では、全国的な規模で中国共産党に対する住民闘争が頻発して、特にチベット族を初めとする少数民族の抗議行動は、自治体の一方的な行政を改めさせる勢いになっている。発覚する共産党幹部の汚職問題などを抱えた中共がその矛先を替えるには、この事件を利用して反日を煽るしかなかったと言えよう。
 ところが中国当局にも誤算があった。各地でデモ隊が日本の企業に襲撃や放火する映像が、世界中のテレビで放映されてしまったのである。これでは国際的信用が丸つぶれになると慌て、急いで鎮圧態勢に入ったのである。
 私は中国旅行の度に、こうした事件が勃発しているから、またかという感じで捉えていて、一般の中国人のあずかり知らぬ事というのも分かっていた。
 ところが妻は
 「危険だから旅行をキャンセルしたら」と口うるさく言う。
 Kさんとは連絡を取っていないが、月に一度の〔蕎麦打ち教室〕でお目にかかった時に
 「俺は一向に気にしていない」と平気の平左だった。
 この反日デモの煽りを受けて、日中間の航空便や、中国からの観光ツアーにキャンセルが相次ぎ、中国人渡航者が減少してしまった。9月30日から10月7日までは中国の祝日に当たる中秋節と国慶節の大型連休で、旅行業界や流通業界は観光の《かき入れ時》として期待していただけに、高まる反日感情に懸念が広がった。
 国内航空大手では、9~11月の中国発着路線で日本航空が9,800席、全日本空輸で18,800席にキャンセルが出、中国の航空各社にも、日本路線の就航を取りやめる動きが続き、格安航空会社(LCC)の春秋航空が、9月23日から10月25日の間飛ばす予定だった上海-米子(鳥取)のチャーター便の運航を取りやめたし、吉祥航空も20日から就航予定の上海-那覇便を10月いっぱいまで見合わせ、中国東方航空も10月18日から就航を予定した上海-仙台線の運航計画を当面中止にしてしまった。
 中国人の日本旅行者は政府の自粛勧告も有って激減していたが、日本人の中国旅行もキャンセルが相次いだとニュースが報じていた。
 その点阪急旅行社は商魂逞しく、11月1日に[旅行最終日程表]が送られてきた。Kさんに日程表を渡し、出発日の待ち合わせ場所と時間をMAILで確認した。Kさんの住まいは南桜井駅に近く、東武野田線で新鎌ヶ谷から京成成田スカイアクセス線で成田空港に出るのだから、南桜井駅で待ち合わせればいいのに御親切に春日部駅の7番線ホームで待っていてくれるという。

11 月9 日(金曜日)出発日

 午前9時30分春日部駅7番線ホームの売店近くでKさんと合流した。
 いつもはスーツケースを宅配便で空港まで送ってしまうのだが、Kさんは自分で転がして行くという。それならばスーツケースの請け出しに時間が掛かり迷惑を掛けることになるのでKさんに合わせ、私も転がして行く事にし、両手が使えるよう機内持ち込みの荷物はリュックサックにした。Kさんの手荷物は愛用のポシェット一つのみである。使い勝手が良いらしい。
 Kさんがインターネットで調べてくれた予定の電車より1列車前の電車に乗り、新鎌ヶ谷の京成線ホームで30分程待たされたが、受付カウンター集合時間の11時50分より20分早く受付を済ますことが出来た。この時間の成田空港は閑散としている。
 この旅行は料金が料金だけに、日本からの添乗員は付かない。乗り継ぎの上海浦東国際空港で現地案内人から旅行行程の説明を聞いた後、国内線に乗り継ぎ、桂林両江国際空港で初めて現地添乗員と合流するのである。
 e-チケットの印刷物を受け取り、中国東方空港(MU)チェックインカウンターに向かう。反日デモのあおりか? 搭乗手続きをする客が少ない。私はトイレが近いから通路側席を希望した。
 Kさんは景色を見るのが好きだと言い窓側の席を取った。機材は通路を挟んで、両側が3人掛けである。上海空港で一旦構内に出なくてはならないので、スーツケースを請け出しての乗り継ぎかと思ったが、往路は桂林で受け取れるように手配してくれた。搭乗開始まで時間がたっぷりある。となれば空港4階のレストランで旅行の結団式となる。生ビールで乾杯した。
 早めに出国手続きを済ませた。Kさんはヘビースモーカーなので、ライターを分散して3個持ってきていたが、出国の荷物チェックで全部没収されてしまった。中国の航空会社はライターの持ち込みには特に厳しい。Kさんは免税店で日本製のたばこを2カートン買っていた。私は売店で350mlの缶ビールを2本買い、91番ゲート前の待合席で喉を湿しておいた。
 機内は空席が目立った。私とKさんの間に他の客は来なかった。ほぼ定刻通りにゲートを離れ、滑走路脇で長い時間待機して14時25分にようやく飛び立った。
 私は現地旅行が始まるまで、カメラは手荷物入れの中に仕舞っておく。Kさんは飛び立つと窓の景色に釘付けとなり、小型カメラで写真を撮リ続けていた。30分ぐらい経っただろうか
 「富士山が真下に見える」と興奮気味で何枚かシャッターを押し
 「こんなに富士山をはっきり見たのは初めてだ。綺麗だから覗いて見なよ」と仰るので、窓に顔を押しつけて眼下を覗くと、雪化粧をした富士山の噴火口のすり鉢が見え、九十九折りの山道までがクッキリ、美しくなだらかな稜線の廻りには白い雲が優しく包み込んでいた。
 「午後3時になるのにこんなにはっきり富士山が見えるなんてラッキーだよ。普通見られるのは午前中だけなんだけどね」と私が言うと
 「羽が邪魔にならないいい席に座れて良かったよ」とKさんは満足顔だった。Kさんの写した写真を液晶モニターで見せて貰った。3枚ともよく撮れていた。
 「鈴木さんのような高級カメラじゃないけれど、このカメラも満更じゃないでしょう。これで来年の年賀状の写真は決まった。俺の年賀状は富士山の写真と決めているんだ」
 機内のドリンクサービスで青島ビール(350ml)を2本飲み、その後の機内食でも缶ビールを2本頂いた。Kさんは食前に缶ビール1本飲んでその後はジュース類だった。
 「それにしても鈴木さんはよく飲むねえ。よく酔わないもんだ。呆れたというか感心しちゃうよ」
 「ビールは水代わりですよ」
 上海浦東国際空港には16時10分に到着した。入国審査を済ませスーツケースを取り出さなくていいので出口に向う。阪急交通社のトラフィックの小旗を広げた珍さんが待っていた。ツアーに参加した人数は19名である。全員が勢揃いしたことで、国内線乗り場まで歩いて空港内を移動した。
 珍さんからの注意事項は
 「帰国日の13日は中国東方航空の航空機の手配が出来ず、航空会社が異なりますので一旦〔上海蛇橋国際空港〕で降りて頂きます。機内預けの荷物は銘々様が受け出し出口までおいで下さい。私がお待ちしています。そこからバスに乗り高速道路を約1時間走行し〔上海浦東国際空港〕までの移動となります。国際線のチェックイン迄の時間がないので国内線を降りる前に機内でトイレを済ませておいて下さい」と言う慌ただしいものだった。
 日本の阪急交通社以外のツアーは軒並みキャンセルが相次いだそうで、上海ー桂林間の乗継便が廃便になったのである。
 国内線搭乗時間待ちの間に珍さんが10,000円単位で換金をしてくれるという。空港の両替所で換金するよりもレイトが高いそうで10,000円は730元(1元・13.8円)だった。円高のお陰で元が沢山貰えた。
 私は早速空港内の郵便局を探し、日本へ出す絵はがき18枚分の切手(4.5元・62円)をゲットした。気の良いKさんも付き合って下さった。
 5時20分に国内線のゲート待合室前に着き、空港内の売店で缶ビール2本を買い1本を水代わりに飲む。国内線はアルコールのサービスがないので、1本は機内に持ち込んだ。Kさんは只呆れているだけだった。
 MU-9653便は予定通り18時35分に飛び立った。そこそこの機内食がでた。飛行時間は2時間30分、桂林両江国際空港にも予定通り21時05分に到着。
 荷物を転がして出口を出ると女性の添乗員・段(タン)さんがやはりトラフィックスの小旗を棒に括り付けて待っていた。全員の集合を確認してバスに乗り込んだ。新車のデラックスバスで、座席はゆったりいしている。30人乗りにツアーメンバーが19人だから、適当にボックスに一人掛けも出来た。このバスが最終日の空港まで5日間専用となる。
 段さんは40歳を過ぎていると思われる。日本語はあまり上手とは言えないが、ベテラン添乗員らしさは伺えた。
 「4連泊する〔桂林幸運酒店Fortune Condominium Hotel〕は空港より約40分(30km)の所で七星公園、穿山(せんさん)公園に近く、海外でよく利用されているアパルトメントホテル形式で、デラックスホテル並みのサービスが受けられます。日本の高級マンション風となっておりまして、幾つもの棟からなっています。キーはカード式で最初の2桁は棟番号、次の数字は階番号、最後の数字2桁が部屋番号です。キーを電源ボックスに差し込むと電気が使用できます。お部屋の中は広いですから迷子にならないよう気を付けて下さい。それから電話は部屋同士は0を廻して棟番号と部屋番号。私はこのホテルには泊まらないよ。街の自宅へ帰るから、私の携帯番号をメモしてね」てな感じでホテルの紹介が有り、桂林の概況の説明もあった。
 「桂林は、中国西南部・広西壮族自治区の東北部にあります。この地方は紀元前214年、秦の始皇帝の時代に霊渠という運河が建造されて以来、二千年余りの歴史と文化を有し、宋代から清代まで約800年にわたり広西の政治・経済・文化の中心として栄えました。桂林市が設置されたのは1940年、そして1998年に桂林市と桂林地区が合併し、新しい桂林市が誕生しました。桂林市の総人口は約476万人で、そのうち少数民族は約68万人です。桂林は多くの民族が住む町で、漢民族以外にもチワン(壮)、ミャオ(苗)、ヤオ(瑶)、トン(イ同)などの少数民族が暮らしています。私はチワン族です。明後日観光します龍勝にはヤオ族が26,000人暮らしています。髪の毛が長いことで有名なのは赤ヤオ族です」段さんの説明は、「だから」が多く、言葉につかえると「だから、だから」を繰り返すので、どちらかと云うと聞きづらい。
 幸運酒店は高級住宅団地[龍隠園]街の中にあった。入り口はホテルという感じではないし、中も公民館の受付カウンター風のロビーになっている。
 「スーツケースは各自で運ぶ。翌朝の食堂はロビーの突き当たり。食堂は朝6時から開くよ。キーの袋に4日分の食券が入っていますね。食堂の係員に渡してね。桂林はここの所10日間雨ばかりだったよ。明日の天気予報は雨のち曇りのち晴だから雨具を用意したほうがいいよ。出発時間は午前9時、15分前にはロビーに集まってね」段さんの喋り方が命令調になっていた。
 私たちの棟は受付ロビーと同じ棟で、いったん裏口を出て屋根付き通路10m程の所にエレベーターの入り口があった。エレベーターの入り口はセキュリティー装置が施されていて、ルームキーを読み取り機にタッチしないと開かない。エレベーターの最上階、我々の部屋は一番上の6階だった。
 部屋に入って吃驚した。ホテルと云うより2LDKマンションそのものであった。使いもしないダイニングと、キッチンのルームが有り、2部屋のベッドルームにはツインのベッドが2つずつ納まっている。スタンド付きの大きな机と大きなソファーが置かれたリビングルームが20畳位もあろうか広々としている。テレビは35インチ程の大きさ、衛星放送NHKで日本語放送が見られる。バスタブ付きの風呂もまあまあだし、一番奥まった所にトイレがあるのが難点と云えば難点で、室内をかなり歩かなくてはならない。相部屋ながら、別々の部屋で寝られるのが気に入った。このホテルのランクは5つ星である。
 部屋にスーツケースを置くと、早速ホテル前の24時間営業のコンビニ店へ買い出しに出た。Kさんも一緒に来てくれた。Kさんはたばこがないといても立ってもいられないから、先ずライターを買った。缶ビールとお摘まみを買ってきて、空の冷蔵庫のスイッチを入れ缶ビールを冷やす。バスタブにお湯を張り私が先にお風呂に浸かる。Kさんの入浴は烏の行水の如く素早い。湯上がりを待ってビールで無事到着を祝し、午前1時頃それぞれの部屋にて就寝。(時差は-1時間)  

11 月10 日(土曜日)第2日目

 午前6時にはKさんは起きて行動を開始していた。私も起きた。出発時間迄たっぷり時間があるので先ずは日課の腕立て伏せ71回(自分の年の数)から始め、その後は股割と首の運動を入念に行い、仕上げにスクワット30回で準備運動を終える。Kさんは私の股割を見て
 「俺はそこ迄は出来ないな」と言いながら自分でも適当な柔軟体操を始めた。
 「今日は市内観光となっていますけど、鍾乳洞とか塔山の登山など組まれているから結構歩くと思いますよ。転ばぬ先の杖ならぬ柔軟体操をしておけばと思ってね」
 「鈴木さんは毎日歩いているから足には自信があるんでしょう?」
 「私の歩いている所は平らな所だから」そんな会話を交わしながら、(毎日部屋にペットボトル500ml・2本がサービスに付く)その水を使って歯を磨き、6時30分に食堂へ降りてみた。
 食堂は150席、10人用丸テーブルが15程並べてある。日本人客は私達のツアーだけのようで、韓国人とタイ人が多く、アメリカやヨーロッパ人の姿はなかった。バイキング方式で米粉のうどん(ビーフン)をセルフサービスで拵えるのがあり、3種類のお粥、ベーコンやソーセージ、プチトマトや西瓜などの果物、豆乳、ジュース、ケーキに甘いお菓子やら、かなり品数が並べてあった。煮物料理も数点有り、なかでもキャベツを油で軽く炒めた塩味料理が美味しかった。私は朝食を食べないで40年以上暮らしてきたが、こうして旅行に来た時は食べるのだから可笑しく思う。
 ここの朝食は豪勢だと思った。Kさんの食欲は旺盛豪快で、見ていて頼もしかった。
 部屋に戻っても時間はたっぷりある。KさんはNHKの日本語放送を見ているから、私はもう一つの日課の、日記を書くことにした。ふれあい大学で学んだ、〈昨日の出来事を翌日日記に書くと惚け防止になる〉というので、5年程前から日記は朝の内に書いている。
 同じホテルに4連泊だから、いちいちスーツケースを運ばないで済むから楽である。
 外の天候はかなり強い雨である。食堂からの帰りにホテルに備え付けの長傘がスロープの手摺りに下げてあったので、Kさんの分と2本借りておいた。但し傘には〔桂林幸運酒店〕という文字が印刷されていた。格好はともかく濡れるよりはましである。朝の気温は11度と少し肌寒い。
 観光初日は終日桂林市内観光である。かなり雨が降っているので雨合羽も着込んだ。手袋も用意してきていたが、そこ迄は寒くは無い。Kさんも雨に備えたキルティングを着込んでいた。
 ツアーの皆さんは旅慣れた方々ばかりのようで、集合時間にはバスに乗り込んでいた。御夫婦で参加した方が、雨具を部屋に忘れてしまったので取りに戻った所ルームキーも忘れたからと、段さんに頼んでそれらを取りに戻ったりしてバスの出発は午前9時05分過ぎとなった。 
 「お早う御座います。よく眠れましたか? 部屋が広くて迷子にならなかったか? 今日は今雨が降っているけど昼頃から止むよ。でも傘があったほうがいいと思うよ。ほら両側に山が沢山見えるでしょう。昨日通った路、でも昨日は夜だから見えなかった。今日も一日元気で頑張りましょう」段さんの喋り方が段々荒っぽくなってきた。
 隣の席に座った一人参加の御婦人は出発間際、同行者に不幸が起きてキャンセルとなり一人になってしまったそうで、一人部屋追加料金を払うことになったにしても、ホテルの部屋は2LDKだから広くて広くて、誰か居そうな気がしてうす気味悪かったと話していた。 
 桂林市内は7年前とはすっかり様変わりをして、道路もロータリーも道路脇のビルディングもすっかり近代的に造り替えられていた。
 走行20分程で〔七星公園動物園〕に到着。雨合羽を着てカメラを持って、大きな傘も差して動物園をしょぼくれて歩き、一番奥まった所のパンダ舎に最初に連れて行かれた。朝早く雨だから他に観光客の姿は見当たらない。我々だけでパンダ見学となった。

1993年11月生まれ(2012年現在19歳)の[陽陽]

 パンダは2頭いて、一頭ずつそれぞれの円形のコンクリートの壁に囲われた広場に放されていた。壁には桂林の風景やパンダが笹を食べながら数頭が遊んでいる絵が描いてあった。
 一応はガラス戸付きの檻があるが、1頭は外に出て係員が餌をくれるのを待っていて動きがない。もう一頭は小山の上の丸太を組んだ台の上に、背を向けて座り笹を食べていた。パンダが日中いる所は日本のパンダ舎のように冷暖房付きガラス張りなんかではなく、パンダが自由に遊べるような起伏のある広い土と芝生(雑草)の生えた外の広場に放たれている。この日は雨が降っているのに、パンダは雨をものともしないようである。後ろ向きに笹を食べているので前から写真を撮ろうと大回りしてくると、その隣の放ち飼広場にレッサーパンダが2匹いた。段さんがレッサーパンダを立たせようとハンカチを振ったりして骨を折ってくれたが、レッサーパンダは塀のそばにうずくまり、素知らぬ顔だった。
 段さんの話では
 「2005年2月世界最高齢の雌のパンダ享年36歳(動物園内に剥製がある)美美ちゃんが死んだ後、4年ぐらいパンダはいませんでした。その後月月〔雌〕ちゃんを迎えるに当たり遊戯施設を組んだり、木登り用の柱を立てたり、暖房装置付きのパンダ舎に改装しました。それ迄はここにレッサーパンダが放たれていたのですが、隣の野外に移されました。それから暫くして陽陽〔雄〕君が来ました。〔月月〕は1993年11月生まれですから現在19歳、人間の年齢に換算すると80歳くらいです。〔陽陽〕は2001年秋の生まれ、8歳年下で今年11歳、人間に換算すると53歳ぐらいです」
 因みに雄パンダの最高齢はドイツ・ベルリン動物園のジャイアントパンダ[バオバオ]が2012年8月23日に死んでいるのが見つかった。34歳だった。野生のジャイアントパンダの寿命は20年程度とされる。
 パンダを見た後は自由行動となった。どの檻も薄汚れたガラス越しに見る仕組みになっていて動物の数は少なくこれと云った動物もいない。おまけに雨が降っているので、動物の檻を素通りして全員が出口前に集まってしまった。約1時間程〔七星公園動物園〕を見学し、再びデラックスバスに乗り、次なる目的地への移動である。市内随一の掛け軸店にてショッピングと銘打ってある。
 大きな店内に入ると30人程が座れるコーナーがあって、日本語の上手な店員による掛け軸や民芸品その他の商品の説明があった。時間が早いせいか、観光客が激減した為かお客は我々だけである。工芸品や掛け軸の値段はかなりふっかけてある。買う買わないに関わらず、ツアー観光のスケジュールに組み込まれている。こうした店に40分は缶詰にされるのである。
 私は今年3月武陵源を観光した時に、砂とか岩を顔料にした画法で独自の方法で砂絵を作り上げた 李軍声(リグンセイ・1963年生)の弟子が描いた2,000元(約3万円)の掛け軸を買っている。(李軍声の画法は最初に下書きをし、李が作ったのりをつけ、そこに砂をかけ岩の破片を貼る。接着力が強力でどんなにこすっても剥がれない〔のり〕は企業秘密だそうで、これを繰り返しカラフルな張家界武陵源の砂絵にしていく。2005年3月に開催された名古屋万博にも出品している。李は中国で砂絵の発明者として一躍有名になった)だからこうしたありふれた店の掛け軸には興味がわかない。40分何もしないと長く感じるので、骨董品やら工芸品、掛け軸等を見ていると日本語の堪能な店員がベッタリ張り付いて、あれを買えこれを買えと五月蠅くて仕方がなかった。初日の最初のショッピングとあって、他のメンバーは競って高価なものを買っていた。藍染めの大きな壁掛けを買った女性は、半値にまけさせたと喜んでいたから 
 「明後日の船下りで行く陽朔ならもっと安く買えたのに」と話すと
 「え! そうなんですか? それじゃあこれを返そうかな」と店員に迫っていたが、一旦お金を払ったものは返してくれないのが中国なのだ。
 我々男性にくっ付いてくる店員は、どういう訳か〔Viagra(バイアグラ・男性のインポテンツ治療薬)〕を買えとしつこかった。

 ようやく掛け軸店から解放されて、飲(やむ)茶(ちや)料理の昼食となった。
 10人と9人が丸テーブルに別れて座る。中国旅行ツアーでは昼と夜の食事はこうしてツアー同行者と相席になるので、そこで顔見知りになり旅行談義に花が咲く。街の大きなホテルの食堂だった。今迄のツアーだと食事の際に必ずビールかコーラが出たのに、最近の傾向では飲み物は自弁となってしまった。ホテルの食堂だけにビンビール(630ml)は1本30元(414円)と高い。私とKさんは1本ずつ注文した。今回のメンバーはあまりビールを飲む人は居なかった。
 飲茶料理でもシュウマイ、水餃子、小籠包(しょうろんぽう)の他は中国料理で、野菜中心の料理が次々に運ばれてくる。日本人に合わせ、辛さは抑えめにしてある。辛いのが好みの人用にどこのレストランでも豆板辣醤が小皿に盛りつけて出てきた。御飯はぼそぼそである。料理の残り、薄い塩味のスープを掛けて何とか食べた。
 1時間15分のゆっくりした食事を終え、午後の観光に出発した。雨は上がり傘は不要となった。気温も上がって20度近くになった。雨合羽を脱ぎ不要の荷物はバスの中に置き、パスポートや現金・カード類は腰に巻き付け、カメラだけ持っての身軽な観光である。
 バスは七星公園から漓江を渡り榕湖に近い中心広場で停車した。段さんに付いて行くと榕湖の湖岸に建っている〔迎賓橋塔〕という門に案内された。

榕湖にあるパリ[凱旋門]のミニチュア

  入り口は橋で橋脚上にパリの凱旋門のミニチュアが拵えてありそこで行き止まりになっていた。途中の欄干からサンフランシスコの金門橋などの世界の有名建築物を小型に再現した物が幾つも見えた。そこから公園内の大理石で造った太鼓橋を渡って樹齢何百年にもなるガジュマルが何本も植えてある道を歩き古南門に着いた。
 〔古南門〕は桂林榕湖の北岸にあって、またの名を[樹門]と呼ばれてる。唐代(618-907)の桂林の南大門(南宋時代には威徳門)で、宋時代(960-1279)に再建され、門楼は中日戦争の後に再建されたものである。榕湖の北岸に聳え立ち、レンガで造られた古南門は高さ5.3m、長さ39.4m、厚さ19.4m、1300年以上の歴史を持っている。1963年に中国の大文豪・郭沫若は古南門に登り、門の上に[古南門]と三文字の扁額を書き残している。
 ガジュマルの老木の樹間を歩き、来た時の太鼓橋を戻ってバスに乗り漓江の対岸に渡った。

榕 湖 公 園 の[ 太 鼓 橋 ]

 観光スポットを移動し段さんが点呼を取る時に
 「もしもし亀よ」と言うのが可笑しかった。
 穿山(せんざん)公園と塔山は桂林市区の南、漓江の東側になる。

高さ194mの[ 塔 山( 軍 艦 山 )]

[塔山]はまた[軍艦山]とも呼ばれている。高さが194mで100万年前は穿山と繋がっていた。が、地殻変動により今のように分離してしまった。山頂には高さが13.3mの8角7階の赤煉瓦を積み上げた、明代に建造された〔寿仏塔〕がある。穿山と塔山の間に挟まれた漓江の支流・小東江は穏やかな流れで、両山が水鏡に映り[穿山塔影]と呼ばれ、これも桂林の景勝スポットとなっている。穿山公園には大きな釣り堀があって、その釣り堀を横切ってのどかな風景を楽しみながら塔山の麓に辿り着く。
 塔山の路は幅35cm程の石段が1本有るだけである。急な登り階段の数は数えなかった。頂上は寿仏塔が占拠していて休む場所もない。足場に気を付けながら頂上から桂林市内を一望し、成る程象に良く似ている象鼻山をとっぷり見ることが出来た。
 穿山は山の中腹に満月に似た円形の大きい通りぬき洞窟があることからこの名が付いた。高さが224mで5つの峰が繋がっており鶏の姿に見える。西東には首としっぼ、南北は両翼、中峰は背、西の峰上には月岩があり鶏の目に見える。戦っている鶏のようだから、川の西岸にある亀山と一緒に[斗鶏山]と称されている。山中には大小30個余りの岩洞穴がある。
 穿山には登頂しなかったので、段さんの説明だけを記しておいた。

 塔山から釣り堀を逆に歩き、バスを降りた地点まで戻ってきた。入り口に洞窟から切り出し移動した直径5m・高さ4mの鍾乳石が立ててある。

鍾乳洞[穿山巌(せんざんがん)]の入り口

鍾乳洞[穿山巌(せんざんがん)]の入り口であった。先程バスを降りた時は、観光客が大勢並んでいたので、段さんが塔山登山を先に済ませたのだった。
 幾つかの団体が入場するのを待って、穿山巌の中に入った。私が一番最初に桂林に来た30年前もこの鍾乳洞を観光している。その時は余りの大きさに吃驚したものだった。
 穿山巌は穿山の麓にある特異な溶岩洞窟で、全長が1,531m、平均幅が広さが3~5m、幅が最も広い場所だと30m、最も高い所で高さ30m、総面積は0.96haである。3400年前に形成されたものと推定され、1959年の蘆笛岩に次いで1977年に発見されて知られることになった。
 洞窟の中には奇妙な鐘乳石、[笋(せきじゅん・石竹の子)]石柱、鍾乳石のカーテン、石花、などがあり、めったに見ることができない石木枝もある。観覧的価値があるだけでなく科学研究の価値も大きい。洞窟内の常温は摂氏22度ぐらいを維持して、冬は暖かく夏は涼しい。今でも水滴がしたたり落ちているので湿度は85%と高い。自然が織りなす不思議な鍾乳石群を、赤や緑、青、紫の蛍光灯で照明するから、何か毒々しい雰囲気である。鍾乳洞での写真は今迄沢山撮っているから、今回は段さんの説明を聞くことにし、見学に専念した。日本のちっぽけな鍾乳洞しか観たことのないKさんにはその規模の大きさと様々の鍾乳石群に吃驚していた。
 今回の旅では穿山巌鍾乳洞が組まれていたから12日の漓江下りでは蘆笛岩観光はない。蘆笛岩鍾乳洞は大きさが穿山巌の約3倍も有るので、Kさんにはこちらを見せてあげたかった。
そして今日のラストスケジュールは桂林の工芸博物館の見学とショッピングである。

現代の宝石を加工した工芸品

いつものように学芸員らしき女性から、現代の宝石を加工した民芸品の説明がクドクドと有った。中国の観光地ではどこでも同じような所へ連れて行かれ、陳列棚毎に収まった10作品を250万円で買えと商売に切り替わる。かつて私も1ケースを220万円を50万円に負けさせて買った経験がある。説明が終わると単品で売るコーナーに連れて行かれ、一人に店員が一人つき、あれ買えこれ買えと五月蠅い。どういう訳かここでもバイアグラの売り込みが凄まじかった。
 50分近く博物館内に缶詰にされ夕食のレストランへと向かった。この日の料理は四川料理である。ここでもビールは30元(414円)だった。Kさんは頑張って皿に残った料理を豆板辣醤を付けて平らげてくれた。レストランの出口の売店に、先程寄った工芸博物館で売り子をしていた女性が移動してきたらしく、ここでも日本人相手にバイアグラを買えと勧めていた。レストランとバイアグラとはちぐはぐな感じだった。
 日中バスの中で、段さんが仕切りに今夜のオプショナル〔桂林ナイトクルーズ〕を売り込んでいた。桂林の夜は、河や湖の両岸、橋(パリの凱旋門、サンフランシスコの金門橋のミニチュア等)、建物(瑠璃色の月塔・銀色に輝く日塔)、山などあらゆるものがライトアップされ、幻想的な世界を演出している。7年前にこのツアーに参加した時は雨降りで、鵜飼の見学もあったが、一度見れば沢山である。ツアー料金は3,900円と7年前の倍に跳ね上がっていた。Kさんに伺うとパスするというのでクルーズ見学は断った。我々不参加組はクルーズに参加する人達を見学先で降ろした後19時30分ホテルに到着した。ビールを買って風呂に浸かり軽く懇談し早めの就寝となった。