武陵源と鳳凰古城
6日間

3月7日(水曜日) 第4日目

 天下鳳凰大酒店にも連泊である。モーニングコールは午前7時、1時間前には起きていた。昨日安藤さんから頂いた湿布薬を貼ったお陰で、両腿の痛みは幾分和らいだように感じた。家では朝食は食べない生活をしているが、旅行に来たときは朝食がセットになっているので、配られた食券を持ってレストランに入った。油炒めの中国料理ばかりなので、ゆで卵とお粥をさらりと食べて、血圧と鼻炎の常備薬を飲んでおいた。
 4日目になると、ツアーの皆さんの苗字が分からなくても、すっかり顔馴染みになり挨拶にも親しみがこもる。
 日本の観光は朝が早いのが当たり前で、ツアーの皆さんもそれを苦にしている人はいない。ヨーロッパ人のツアーなら、ホテル出発が午前10時以降とゆっくりだから、見学に訪れたテーマパークが閉まっているなどということは無い。
 今朝もホテル出発は8時30分だった。専用バスの座席はお互いが譲り合って巧く位置換えをしている。今日もスケジュールを変更し、明日の午前観光する予定の“南方長城”を先にするそうだ。どこをどう廻ろうが、一向にお構いなしである。バスを降りて、また階段である。
 門を潜ると石畳に縦横の赤い筋が入り、筋の外側には縦に一~十九の漢数字、横に1~19のアラビア数字が書かれた大碁盤が眼に入ってきた。

石畳で型取られた超大型の囲碁盤

 南方長城東門城楼前の広場にある石畳で型取られた超大型の囲碁盤は、一方が31.8m、総面積は1011.2㎡である。2003年、2005年にはここで中韓囲碁団体戦が行われた。黒服と白服とを着て頭に白と黒の笠をかぶった少林寺の若い修行僧が人間碁石になった。
 [鳳凰古城世界囲碁頂上対決]は、中国で開催される囲碁の棋戦で、中国と韓国から招待された、国際棋戦優勝者である棋士によって闘われる。2003年に[南方長城囲碁招待戦]として開催され、以後2年に1回開催されてきた。2005年は[南方長城杯・世界囲碁頂上対決]となった。2007年は[中韓アマチュア囲棋嶺峰対決]なども開催され、これらのイベントにより、鳳凰の観光の発展にも貢献している。
 囲碁の世界ではもちろん世界で初めての試みで、これをヘリコプターで空中撮影しながら、二時間のテレビ放映をした。賞金は勝者20,000$、敗者10,000$で、持ち時間一人50分打ち切りという早碁である。 第一回目の対局は中国の常昊九段と韓国の曹薫弦九段、当代随一の人気棋士同士の対局となり、曹薫弦九段の優勢勝ちとなった。2005年の第2回大会は、常昊(中国)対 李昌鎬(韓国)の対決で、 四コウによる無勝負という結果となっている。
 日本でも将棋駒の生産で有名な山形県天童市で、毎年4月桜の季節に行われる将棋祭りがあり、プロ棋士の対局が行われる。その対局の進行状況を舞鶴山山頂に大きなシートを敷き将棋盤とし、将棋を戦国時代の戦に見立てて戦国時代の兵士や腰元に扮した人間が巨大な将棋の駒となり、将棋盤を模した[戦場]で再現する。ルールは通常の将棋と違わないが、すべての駒を1度は動かすことが暗黙の了解となっている。1972年以降、整備された会場で対局が行われている。(天候不良の場合は会場を同市の市民文化会館に移して開催される)人間を駒に見立てて将棋を指すというアイデアは、豊臣秀吉が伏見城で小姓や腰元を将棋の駒に見立て、[将棋野試合]を行ったという故事がきっかけとなっている。会場には沢山のギャラリーが押しかけ毎年大盛況を博している。中国の人間囲碁は、日本の人間将棋を真似たものかも知れない。
 その碁盤を囲む長城とそれに通じる急な階段である。ここだけ特別の観光スポットになっているようだった。
 謝の説明を聞いた後、私以外の人は添乗員の安藤さんを含めて頂上に登っていった。私の腿と脚は重く痛みがあった。毎朝8kmも歩いているのに、登っていく元気もなくなっていた。一人碁盤のある平らな所と近間の石垣に登ったりして写真撮影をして待った。

南 方 長 城
南 方 長 城 の 門

 “南方長城”は湖南省鳳凰県のにある。鳳凰古城郊外に明代の万暦年間、嘉靖33(1554)年建設を始め、68年の年月をかけ明の天啓3(1622)年完工された長城である。中国歴史上壮大な土木工事[古建築]の一つで、明と清の統治者が南の少数民族、特に苗族の農民一揆と叛乱を防ぐために建設を始めた。全長190km、城壁の高さは約3m、幅2m。大部分は山の尾根づたいに沿って築かれ、“シンキョウの万里の壁”とも言われる。ここを境に、未開のミヤオ族と、漢族に同化したミヤオ族とに分けられた。明・清時代の、遠く離れた少数民族に対しての統治を研究する歴史資料となっている。南は貴州省の銅仁から北は吉首まで総距離380kmにも及ぶ中国歴史上の一大土木工事に数えられる。
 “苗疆万里壁(苗疆長城)”とも言い、苗疆長城が中国南方唯一の長城だから、南方長城と呼ばれる。建築材料は土や石で、この地で集められたものだけで作られた。この長城には城壁に沿って3km或いは5kmおきに関所、兵営、前哨詰め所が設けられた。この長城で湘西と苗疆を隔てた。北方を[外の庶民]と考え、“苗族の人は境外に出かけず、漢民族の人は境内には入れない”ということを定めたので、苗族と漢民族間との貿易と文化の交流は途絶えてしまった。旅行者が訪れなかったら、人気のない寂しいただの石垣である。

 約30分程して全員が頂から降りてきた。雨交じりの天気なので、長城から遠くの景色は見えなかったそうである。
 再びバス移動である。中国最美の小城と唄われる鳳凰古城へやって来た。この街には高層ビルがなく、高さは6階建てに統一しているようだった。街の中心から10分程歩いて鳳凰公園に到着、謝の説明を聞いた。

銅 製 の フ ェ ニ ッ ク ス ( 鳳 凰 )

 公園の真ん中に銅製のフェニックス(鳳凰)ブロンズ像が据えられていた。脚から頭の高さ・羽を広げた全長は約15m、頭から尾羽の先端まで約20mはあろう? 鳳凰のブロンズ像で有名なのは北京の紫禁城(故宮)にある、世界遺産の鳳凰のブロンズ像であるが、鳳凰公園のブロンズは大きく羽ばたく姿がリアリスティックに作られていて、比べても見劣りはしない。余りの迫力に何枚もシャッターを切った。

 【 “鳳凰古城”は湖南省の西部湘西自治州にあり、張家界市内からは230Kmほど離れた所にある。おもに苗族、土家族など少数民族が住んでいる。最初に鳳凰古城が造られたのは宋の嘉泰3(1203)年で土城であった。明の嘉靖35(1556)年に煉瓦の城に改築され、清の康熙54(1715)年に石城に改築された。城の周囲は2㎞である。
現在は古城の1.8㎢が保護範囲になっており300以上の古民居が保存され、明・清の歴史景観が残されている。
 この街の近くの山に鳳凰が住んでいるという伝説があり、人々がその山を鳳凰山と呼んだことから、街にも鳳凰の名が付いたとされる。春秋戦国時代から清代まで、軍事政治の中心として繁栄した街で、明代に建設された“南方長城”に守られてきた。鳳凰古城には、長城の城壁に沿って“沱江”という河が流れている。城壁と河とに見守られながら、独自の文化を育んできた鳳凰古城を訪れたニュージーランドの作家ルイス・アイリは、この街を“中国で最も美しい小城”と讃えたそうである 】 
 旅行のパンフレットを見た時は、鳳凰古城は静かな山あいの小さな村かと思っていたのだが、到着してみると、街は結構大きくて、すっかり観光地化されていた。明・清の古い街並みが保存されているのだが、宿、飲食店、土産物屋が乱立し観光客を呼び寄せている。静かな古鎮を楽しみにしてきただけにがっかりさせられた。

鳳 凰 古 城 の 街 並 み
豚の頭の燻製が並ぶ土産店

 古城内の街並みは綺麗に紫紅石の石畳が引き詰められ、なだらかで、どこを歩いても城門入り口に戻ってこられるようになっている。公園から街並みに入る右側に、名物の[生姜飴]を売る店があった。この店の飴が一番美味しいからと、ツアーの全員がこの店に連れて行かれた。謝の出番で、試食有り、まとめ買いをすればホテルまで運んでくれ、代金は店でなく謝に払う仕組みだ。
 商店街を進んで行くと、道に面した店先で“生姜飴”を引き伸ばす実演をしていたり、少数民族衣装を着た老婆が、辻辻に陣取って民芸品やら花飾りを売っている。謝が大声でがなる。
 「お婆さんの写真を撮らないで下さい。魂が捕られるというので、偉く怒られますよ」ケニヤのマサイ族でもそんなことを言われたのを思い出した。
 豚肉の燻製を商う店先にはグロテスクな豚の顔の燻製が並べられている。藍染めの店、酒を入れた瓢箪を商う店、民芸品を並べた店など千軒の店があるという。
 村の婦人達は籠を背負い、赤ちゃんを入れたり、買い物籠代わりに使っている。天秤を担いだ野菜売りや、行商人が行き来する。この時期はシーズンオフで、観光客は殆ど来ておらず、韓国人の観光客がちらほらいただけだった。
 突き当たりの“東門”に登った。古城内の家並みが一望できた。卯建のあがる鳳凰をかたどった飾り瓦の街並みは2,500年の歴史の偉容を誇り、その佇まいが印象的だった。数十軒繋がる家と家との仕切りが白い漆喰の壁で、その仕切りにも瓦を載せ、軒より突き出し反り返らせている。

東門から見た古城の街並み

 古城の紫紅石で敷き詰めた城壁に沿って、流れの静かな“沱江河”がある。その城壁のすぐ近くでは川に跳石が敷いてあり、対岸に渡る橋として日常使われている。水面から1m程の高さで50cm四方の表面が平たい石が2列に並べられている。すれ違う人の為らしい。バランスが取れない人の為に跳石橋から10m離れた場所に、やはり水面1mの高さで真っ直ぐに、幅50cm程の板橋が敷かれていた。ミャオ族の民族衣装を借り着して、飛び石の上に5人並んだ韓国の女性が記念写真を撮っていた。

“ 沱 江 河 ” の 跳 び 石 橋

跳石橋の水深はそんなに深くなさそうだった。
 跳石橋付近で遊んだ後、2艘の烏篷船に乗った。4本の丸木に支えられた、屋根付きの舟である。遊覧観光をしているのは我々のツアーが借り切った2艘だけだった。 両岸にある百年もの歴史を持つ土家吊脚楼を観賞しながら竿に操られ河の流れに沿って虹橋をくぐると、目の前には万寿宮、万名塔、奪翠楼という“江南水郷”の風景が飛び込んできた。

“ 江 南 水 郷 ” の 万 寿 塔

 その風景は今迄お目に掛かったことのない、独特な雰囲気である。が、私には綺麗とは思えなかった。首に紐を括り付けていない鵜を数羽乗せた舟で、船頭が竿を操っていた。実際に鵜が潜って魚を捕ってくるシーンは見られなかった。
 “土家吊脚楼”とは、高床方式の家をいうのだが、ここのは、川縁に突き出して部屋を建て増し、その部分を丸木で支えているだけの物で、東南アジアにある家全体が高床式というのではない。家は河に面した部分を木造3階建てにし、河に面して1間程突き出させ、木の格子の欄干で楼閣風に見せている。 ガイドブックにあった夜景の写真は、川縁の土家吊脚楼に赤い提灯をともし、虹橋をライトアップされた、それはそれは美しい絵のような景色だった。が、観光客の来ないシーズンオフは、河に面した楼閣に提灯も下げていない殺風景なただの家だった。謝に聞いた所によると、オフ中はライトアップもしないそうである。
 鳳凰古城に住む少数民族は“土家族(湖南省と湖北省の西部、主に山岳丘陵地帯に居住する。張家界でも地名も文字もなくひっそりと暮らしていた民族)”と“ミャオ族(貴州省、雲南省、四川省などに広く分布する民族で、張家界一帯では主に鳳凰近辺に居住する)”である。
 ミャオ族の特徴は美しい伝統衣装と立派な銀細工であろう。家族に女の子が生まれるとすぐにその子の銀飾りを整えるための貯蓄をはじめるそうである。その頭飾りは3.4kgにもなり、55ある少数民族のなかで最も衣装にお金をかける民族である。この衣装や頭飾りは居住地によって大きくデザインが変わる。独特の刺繍は芸術的で、工芸価値も高く、中国の少数民族紹介にミャオ族の娘さんの写真がよく使われている。
 30分程の烏篷船遊覧を終えて、対岸のごちゃごちゃした路地を抜け3階建てのレストラン街へ出た。

ミャオ族の民族衣装を着た娘さん

 店先でミャオ族の民族衣装を着た娘さんが2人で、大太鼓を打ち鳴らし我々を歓迎してくれた。2階の個室に丸テーブルが2つあって、いつものように二組に分かれて座った。この店には暖房装置があった。たいして暖かくは無かったが、皆さんはほっとしたようだった。 ここで今回初めての魚料理が出た。
 食事を終えて虹橋を訪れた。

風雨楼と呼ばれている[虹橋]

橋の上に伝統的な建造物が乗っかっているようで、これは風雨楼と呼ばれている。虹橋の入り口は黒煉瓦でしっかりと固められ白い漆喰で縁取られ、城門のようである。東と西の入り口が同じ造りになっている。屋根は両側に反りかえる瓦屋根で、沱江の両岸を繋いでいる。二階建ての住居のようにも見える、古城のシンボル的建築物である。虹橋1階部分の両端には店が連なっており、入り口は階段になっているがリヤカーが荷物を運んでいた。虹橋の上回廊は有料で、2階に上がると全体が広間になっており両側がガラス張りの見開き窓の展望台を兼ねている。

土家吊脚楼の街並み

この目線から見る川の風景と土家吊脚楼の街並みは、確かに風変わりと頷ける。 ツアーの御婦人方が、無料の民族衣装と頭飾りを付けて写真に納まっていた。
 入った所と反対の出口から出、土産屋の道を通り、再び沱江河に出た。城壁から沈従文旧居が見えた。ずっと上流になる所にも跳石橋があった。全員が跳石橋を渉って、古居に入った。

“ 沈 従 文 旧 居 ”

 “沈従文旧居”は古城の内中営街にある石畳板の路地の奥の道路下に隠れていた。 伝統的な建築として有名な四合院造りで、中央に中庭があり、それを囲むようにして両側が寝室や住居スペースとなっている。レンガ・木構造で、青いレンガに白い壁、繊細な細工でできた格子状の窓が見事である。官員だった祖父が購入したもので、百年以上の歴史を持っている旧居である。旧居は大きくない。
 囲んでいる8つの古い家の中には沈従文の一生の写真や草稿の筆跡と、彼の各種の著作などが陳列してある。1902年有名な文学作品[辺城]の作者沈従文はここで生まれ、ここで子供時代を過ごし暮らした。旧居は1991年に湖南省の重要文化保護財とされた。
 再び鳳凰のブロンズ像のある公園まで戻り、銀細工店に連れて行かれた。ミャオ族の娘が付ける装飾品等を売っていた。記念に銀の耳掻きを買おうと思って品物を見たが、日本の造りと違うので買うのは止めた。
 バスはホテルに戻るという。午後2時以降は自由行動で、鳳凰古城を散策するも良し、ホテルで寛ぐのも自由、5人程がバスでホテルに戻って行った。
 石井さんが街をぶらつきたいというので、ホテルの近辺を歩いてみた。大型スーパーがあったので入ってみる。石井さんはここでも[鷹の爪]を買っていた。前日買った値段の半分で、倍の量の鷹の爪が買えた。同じ唐辛子でも黒っぽい色をした鷹の爪が飛び切り辛いそうで、石井さんはそれも買っていた。1斤(500g)で15元(195円)だった。本場中国で買うお土産で一番安いお土産だと思った。日本で買うと1袋150円位するパックに入った[ザーサイ]が1元(13円)なので、10ヶ程買っておいた。安くてもこれは美味しいから、ちょっとしたお土産になる。
 ついでに、54度の中国酒(360cc)とビール、つまみを買っておいた。金具でこじ開ける式のビンの瀬戸物は女店員に開けて貰っておいた。夕食の後、石井さんを部屋に呼んで一緒に歓談した。