10月18日(月曜日) 第7日目
貴賓楼のチェックアウトを終え、6時50分に外へ出た。貴賓楼の朝食には飽きたので、朝食は食べなかった。陳さんはパートナードライバーに女性を乗せてきた。妹で 李さんというやはりタクシーの運転手だそうである。兄妹なら同姓の筈なのに変だと思ったが、結婚したから名字が変わったぐらいにしか思わなかった。が、中国では女性が結婚しても父親の姓を名乗る夫婦別姓である。
7時5分九寨溝を出発した。来た時と同じ道を逆に辿って成都へひた走った。李が
「リンゴを食べますか?」と聞くので、
「今は食べたくない」と断ったのにリンゴを剥いてくれた。仕方なく 「有難う」と受け取る。彼女は手の上に載せていたリンゴの皮を、走行中の車の窓を開け外に投げてしまった。楊さんと顔を見合わせてしまった。余分なビニール袋があったので、
「ゴミはこれに入れなさい」と渡したのにその後もゴミが出ると窓の外へ投げていた。
李が時々トイレに駆け込むので、私もついでにトイレに寄った。1元(15円)払って借りた商店のトイレはバケツに溜まった水を柄杓で掬い自分で流す水洗式だった。鼻がもぎれるほど臭くて汚かった。李はお腹の調子が悪く下痢をしていたので何度もトイレに寄ったのである。
長い峠道を下ってきたところに、有料トイレの土産物屋があった。陳のタクシーはフォルクスワーゲン社との合弁製でヂスクブレーキである。長い峠の下りでタイや廻りに、熱を帯びたからと、長いホースを引っ張ってきてタイヤにジャブジャブ水をかけ始めた。その水掛も有料なのである。大型トラックも同じようにタイヤを水で冷やしていたが、日本ではお目にかかれない変てこりんな光景であった。
陳がタイヤを冷やしている間土産物屋を覗いた。一人男性が立っていたが、全く商売っ気が無く「いらっしゃい」の一言もない。これと言って欲しい物はないけど、狼の毛皮で出来た帽子を見つけたので、幾らか値段を聞いたところ70元(1,050円)だという。外側は勿論内側まで純毛の毛皮で拵えてある。日本だったら7・8,000円はするだろうから只みたいな値段である。白い毛や茶色いのや黒いの等沢山あった。10個位買って、友達に配ろうかとも思ったが、これを被るには勇気が要る。話の種に50元(750円)に負けさせ1つだけ買っておいた。
私は20年前にコサックの男性が被るミンクの毛皮の帽子を買って今でも使っているけれど、これは日本円で50,000円位した。
片道1車線の山道のあちこちに、四川大地震で陥没した箇所が補修されずに放置されてある。日本のように道路に凹んだ箇所があれば、赤い三角の目印ポールを立てたりして危険を知らせるが、中国ではその廻りに漬け物石ぐらいの石を並べてあるだけである。その外にも、崖崩れ状態の所もある道を猛スピードで走るので、ハラハラドキドキの連続であった。
午前11時に平武の街に入った。陳は昼にしましょうと、勝手に食堂に止めたのである。楊さんが
「え!何で昼食なんだ?」と怪訝な顔をしていた。余り綺麗でない食堂だったので、ビール2本と4人分の食事代は150元(2,250円)だった。李が自分の分を払いますと申し出たのはけなげに思えた。
「要らない」と言うと
「シェイシェイ」とお礼をされた。
午後の2時頃江油に入った。“李白”の記念館がある大きな門前で記念撮影をした。
陳が話し始めた
「私の親戚が綿陽にいまして車を持っています。その車で成都まで送りますが如何ですか?」というのである。来た時と同じように我々を安い値段で売り渡す相談である。
「同じ料金でホテルまで送ってくれるのなら構わない」と返事をし、綿陽にある大きな寺院“聖水寺”境内の駐車場で乗り換えの車を待った。
聖水寺は歴史的にも由緒ある寺院で、城西涪江右岸の塔子山南麓に位置し、唐永徽年間(650年)に建造された。霊験あらたかな池(龍泉から湧き出た水)“竜窪地”には現在でも清泉が一杯である。1991年四川省重点寺に指定され、小高い山全体が伽藍になっている。
「李は妹じゃないね。陳の実家は徳用だと言っていましたけど、李の実家は綿陽だそうです。兄妹なら実家は同じ筈でしょう?」と楊が言う。
「じゃあ愛人かな? 名字も違うから変だとは思ってたんだ」
「きっとそんな関係でしょう」
「それにしても此方のドライバーは抜け目がないね。また売られちゃったね」
陳の車に乗り1,300元(19,500円)を払い、優しい楊さんはチップを200元(3,000円)も弾んだ。
乗り換えた車は中型の乗用車であった。後ろのトランクにスーツケースが1つしか入らず私のは助手席に乗せた。午後3時聖水寺を出発した。
運転手は[何]と名乗った。話を聞くと親戚ではなく、綿陽のレンタルカー会社に勤めていて、この車も会社の物だそうである。成都に行く仕事があったのかどうかは聞かなかった。我々を幾らで請け負ったのか聞いたところ、たったの200元だそうである。途中でガソリンスタンドに寄り、成都の紫微酒店到着は午後7時であった。
楊さんが
「無事成都へ帰ってきたのですから今夜は豪華に行きましょう」と、荷物を置くと直ぐにホテルからタクシーに乗って、高級レストランがある一角へ向かった。目的のレストランを探すのに2度ほどタクシーを乗り換えて、ようやく川の上にある[廊橋レストラン]を探し当てた。川を跨いだ橋の上に3階建ての豪華なレストランがある。綺麗な女性の案内で席に着くと、おしぼりを持ってくる者、注文を取りに来る者、料理を運んでくる者がそれぞれの制服を着て、実に礼儀正しい。笑顔こそ見せないが、高級感が漂ってくる。エビや肉、魚、野菜の全てが新鮮だし、脱いだジャンパーにも被いを掛けてくれた。ビールを飲んだ後、レッドワインのボトルを注文して飲んだ。成都の高級レストランだけに食事代は締めて820元(12,300円)だった。
この紀行文では現在の中国の物価が日本円で幾らになっているかを細かく書いてきた。私が訪れるのは有名な観光地が多い。訪れる度に吃驚する物価の高騰ぶりだが、一般の中国人にどれだけ影響しているのかも想像が付く。九寨溝の入場料がバスを含めて310元(4,650円)と言う高値は、中国人の1ヶ月の平均給料が、1,000元なのだからべらぼうに思える。それでも沢山の中国人観光客が、こうした観光地に押し寄せるまでに裕福になってきているのも確かである。
廊橋レストランを出て、楊さんが
「今晩は飲みましょう」と張り切って、近くのパブを2軒ほどはしごした。ビール(小瓶)を20本も飲んで、ホテルに戻ったのは午前2時だった。
10月19日(火曜日) 第8日目
成都市内を観光することになった。ホテルにあったガイドマップから、楊さんが選んだ観光スポットに出掛けることにした。紫微酒店を午前9時に出発。何処へ行くのにもタクシーである。最初に向かったのは成都錦江区にある“新農村観光農園”である。
成都東南部郊外の三聖郷にあり、中国農村改革の試験場となっている。都市化の影響で、この近辺の農民の生業が伝統農業から園芸や観光業に変わった。それでも此処では伝統的な昔からの彼らの生活ぶりを見る事が出来る。“荷塘月色”(蓮の花観賞地)、“東れい菊園”(菊の花観賞地)、“幸福梅林”(梅の花観賞地)、“江家菜地”(野菜農園)、“花郷農居”(ガーデン農家)などが見学できる。また近年になって数多くのレジャー施設やホテルなどが建てられている。
広い施設の中の“幸福梅林”を覗いてみた。幸福の梅林の総面積は300㎢あり、150㎢に植えられた梅の木が12.4㎢あまりの湖面をぐるりと取り囲んでいる。ここには200品種、20数万株の梅の木が植えられている成都最大の梅林であり“梅花博物館”も備えている。
梅林の入り口に屋台の佃煮屋が数件並んでいた。楊さんはザーサイや筍等の何種類かの佃煮を買って私にも持たせてくれた。観光スポットとして紹介されている割には観光客らしき人は居なかった。
その一角に〔伊東記念桜花園〕と言う石碑が建っていた。

若い桜の木が植え込まれた日本のイトーヨーカドーが造成した敷地で、《大地が緑で覆われることで、人は健康で生きられます。一人一人が暮らしの小さいところからはじめ、自然を大切にしていきましょう。〔成都伊東洋華堂有限会社2004年12月・ヨーカ堂のマーク〕》が付いた看板が掲げられていた。
レジャーセンターの庭で数人の女性が、日本のパイの3倍もある麻雀パイをチェックしていた。此処には沢山の老人が麻雀を楽しみにやってくるのだと話していた。
何せ広いので、どっちが出口なのか解らなくなってしまった。車道に出たところに、吹きっさらしの屋根下にテーブルが並べられたレストランがあった。成都といえども10月下旬の気温は20度以下だから奥の部屋になっているテーブルに座った。午前11時頃だったが朝食兼早い昼食を取ることにした。店は[聚緑居]と言う屋号で、数十種類のメニューがあった。連日3食中国料理ばかりでも、今回は違和感なく食事が出来たのは幸いだった。ビール3本と料理代は150元(2250円)と安かった。
午後1時、タクシーを拾える大通りまでの道順を聞き再びタクシーに乗った。目指すは人民中路にある“文殊院”である。
文殊院は唐代大業年間(605~17年)に創建されたと伝えられる成都でもっとも古い古刹である。





明末に焼失破壊され、清代前期の1697(康煕36)年に再建され、その後増改築されて、現在の規模になったのは清後期の19世紀始めである。敷地面積は5.7㎢と広く、都会の真ん中にもかかわらず粛然としている。1991年に建立された高さ21mの鉄製の千仏和平塔には名前の通り外壁に1,000体の仏像がはめ込められている。
四川省はもともと仏教が盛んだった。文化大革命の時に成都市内の仏教寺院は徹底的に破壊されてしまい、昔の姿が残っているのはここだけになってしまった。境内には200 体あまりの仏像があり、中でも説法堂に安置されている鉄製仏は宋代に鋳造されたものとして大変貴重なものと言われている。[入場料5元(75円)]奥庭には沢山の樹木が植えられ、かつては良き庭園だったと思われるが、現在は池の水は涸れゴミで散らかり、雑然と放置されたままである。
また、文殊院の周辺一帯は歴史文化保護区として再開発がなされ“文殊坊”と呼ばれている。ここは、成都の古い建築様式の街並みが(2010年10月に完成)再現されて、そこには土産物屋や食べ物屋が立ち並び、伝統工芸品の成作実演や縁日などの催し物も行われている。 さらに“麻雀と茶文化博物館”も作られ、観光名所にもなっている。
1時間30分ほど文殊院と文殊坊を観光し、午後4時に紫微酒店の近くまで戻ってきた。その足でホテルの近くにある“王府井百貨店”内の美容院で髪の毛をカットして貰う事にした。かなり大きな美容院で1階2階に散髪台が40ほど並び、6台の洗髪ベッドでは専門の係員が絶えず客の髪の毛を洗っている。髪を洗ってから暫く待たされ、まだ慣れていない美容師に髪をカットして貰った。先に終わった楊さんが、付きっ切りで美容師に注文を付け、私の頭をさっぱりにしてくれた。カット代は75元(1,125円)だった。成都の人の平均月収は幾らか聞かなかったが、1,500元位だろうから高いと思った。
首回りに刈った後の髪の毛がチクチクするからと、一旦ホテルに戻ってシャワーを浴びて夕方の街に繰り出した。紫微酒店は成都市の中心地にあった。ホテルの横を歩いて3分の所に成都随一の繁華街“春熙路”がある。北京の王府井、上海の南京路、重慶の解放碑のような歩行者天国になっている。
上海の南京路のように一本の通りと違い、春熙路は約1㎢くらいの一角が繁華街になっている。これほど近代的なショッピングモールを見たことがなかった。これが社会主義の国? 日本にもこんな賑やかなところがあるのだろうか? 貧富の隔たりを感じる微妙な気持ちにさせられてしまった。
ここには、伊東洋華堂1号店と伊勢丹も出店している。そのイトーヨーカ堂春熙路店で2009年4月にユニクロがオープンしている。イトーヨーカ堂は成都に3店舗あり、その全てにユニクロが入っているそうだが、値段の方は日本と同じだから、中国人にとっては高く思えるだろう?が、店内は客で一杯だった。
春熙路エリアはそれぞれ北段・南段・東段・西段と名前が付けられていて、さらにこの大通りを基軸に、小道がたくさん入り混じる迷路に商店やレストラン、世界中の有名ブランドショップも出店している。スポーツグッズを扱う店が目立ち“ナイキ”の店を見付けたので、リュックサックを買った。お値段の交渉をしたが一銭も負けてくれなかった。
春熙路はところどころに、かなりの数の金属製の彫塑像が立っている。1990年代の中国人の身なりなのか? 道路の真ん中に沢山並べてある。買い物客でごった返しているから、それをゆっくり鑑賞する雰囲気ではなかった。
何を警戒しているのか、機動隊のような服装をした警官がやたらと目立ち、10人1組の隊列を組んで春熙路を行進していた。
一通りメインの道路を歩き終え、成都最後の夜食に“龍抄手総店”に入った。満席で20分ほど待たされて他の客との相席、コースで料理が決められていた。この夜もレッドワインをボトルで注文し、ビールを3本飲んでの食事代は170元(2,550円)と成都にしては安かった。賑やかだった満席の客は9時を過ぎると誰も居なくなってしまった。
10月20日(水曜日) 帰国
いよいよ帰国である。紫微酒店を午前6時に出、成都空港に6時40分に着いた。8時55分発(MU-5476便)の成都行きに乗り、上海に11時30分に着く。
上海発の(MU-271便)成田行きは18時の出発なので、空港内で待ち時間調整をしなくてはならない。一旦スーツケースを受け出し、コンコースに出なければそのまま国際線に預けられ、チケットも受け取れる。
私だけが、妻に頼まれた真珠のクリーム“片仔癀(ピエン・ツェ・ファン)”を買う為スーツケースを転がしてコンコースに出た。航空機爆発テロ事件以降機内への液体物の持ち込みが禁止され、クリームも持ち込めないのでスーツケースに入れて預けることになる。
片仔癀はクリームなのに薬局でしか売っていない。広い上海空港の中に薬局は一店舗しかなかった。
「真珠のクリームを下さい」と言うと片仔癀を出してきた。1グロスに200g入りの片仔癀が6個入っている。折角の機会だから3グロス欲しいと申し出たが、2グロスと3個しかないという。全部買い占めた。一個65元・15個だから975元(14,625円)だった。妻はこの片仔癀がお肌に良いと、15年ぐらい前から愛用している。真珠のクリームは数種類あるのに片仔癀は上海でしか売っていない。
チェックインまで4時間近くある。空港内にあるレストランに入った。適当な料理を頼み小瓶のビールを飲み始めた。空港のビールは1本35元(525円)もする。5時までゆっくり飲んでいたら11本になり、食事代は450元(6,750円)だった。
荷物を預け、出発30分前にゲート前に着いたのに、なかなかゲートは開かない。何のアナウンスもなく、40分待たされて機内に入ったが、そこでも30分ほど待機させられ、19時5分にようやく動き出した。
成田に着いたのは21時33分。荷物の請け出しに時間が掛かったので電車の時間が気になってきた。税関の手荷物検査を受けた。3kgのジャーキーと片仔癀を詰め込み、厳冬用のキルティングでスーツケースはパンパンに膨らんでいた。
「パスポートを拝見させて下さい。どちらに行かれました?」
「中国の九寨溝です」
「5月にも中国へ行ってますね?」
「その時はチベットでした」
「中国がお好きなんですか? スーツケースが随分膨らんでいますが、何が入っているんですか?」
「九寨溝は高地で寒いですからキルティングが入っているんです」
「済みませんが荷物を拝見させて頂けますか?」
帰りの時間が気になっているところへ、嫌な係員に睨まれたものである。スーツケースのチャックを開いて、キルティングを指さした。
「中も見せて頂けますか?」そう言って上の衣類を引っ張り出した。 「これは何ですか?」片仔癀の箱を取り上げ、繁々見ている。
「それは真珠のクリームです」そう説明したものの、心配なのは“ヤク”のジャーキーである。これは国内持ち込み禁止になっているから、没収されても仕方がないと諦めた。
「箱の中を見ても良いですか? 底の蓋を開けさせて頂きます」片仔癀に付いては納得したようであった。係員は手探りでケースの下の方をゴソゴソ確認していたが、
「結構です。お手間を取らせました」と丁重である。真空パックのジャーキーには何の反応も示さなかったのはラッキーだった。
「何時もは調べられないのに、今日は特別月間か何かですか?」と嫌みを言ってみた。
「そうなんですよ。こうして腕章を捲いているように、今月は麻薬取り締まり特別月間なので、仕事上申し訳御座いませんでした」
楊さんは心配して出口の外で待っていてくれた。心から
「お世話様でした」とお礼を述べて別れた。楊さんはリムジンバスで新宿へ出るそうである。
京成線のホームに着くと、もう特急がない。最終の快速があるが果たして関屋で乗り換え、牛田から春日部まで行けるか? 乗れなかった場合は千住の娘のギャラリーにでも泊まるしかないと覚悟を決めた。
するとホームのアナウンスで、1番線からアクセス特急の最終が参りますと放送している。成田空港から青砥まで北総線を走る特急で、京成線の特急より料金は割高だが時間的には早い。取り敢えずホームの柵を跨いで後ろの1番線まで行きそれに乗った。途中まで来ると車内で“新鎌ヶ谷”から東武野田線に連絡していると放送していた。ひょっとしてそれに乗れば間に合うのではないかと思い、下車して野田線の“新鎌ヶ谷”の駅員に尋ねたところ、今度来る登り電車に乗れば“柏”駅で春日部行きの最終に乗れますと教えてくれた。
“春日部”には11時46分に着いた。