画伯と行く紅葉の九寨溝

九寨溝と大草原の位置
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中 国 国 旗

2010年10月12日(火曜日)~20日(水曜日)

今年も9月11日から20日迄の10間 北千住のオジャラ画廊にて第4回 鈴木進次写真展“エジプト・トルコ世界遺産”を開催した。
 この間120名を超えるギャラリーがお出で下さった。下町の小さなギャラリーでの写真展にしては大盛況だったと言えよう。
 15日の水曜日には、友人の楊画伯が駆けつけてくれた。
 楊画伯は今売れっ子の画家で、今一番脂の乗り切った48歳、再来年の三越本店で開催する第4回目の個展やら、各地で開催する展覧会(個展)の準備で忙しい中を来て下さったのである。大変嬉しい限りである。
 楊さんは夕方の5時過ぎにお見えになり、閉館の6時過ぎから一緒に食事をしましょうと誘ってくれた。昨年同様ギャラリーのオーナーである娘の理花にも声を掛けてくれた。
 エジプトとトルコの写真を見て、
 「いずれは行ってみたい」と感想を述べながら、
 「10月12日から20日迄の9日間九寨溝へ行きますが、先生も一緒に行きませんか?」と言うのである。
 私も年内にもう一度海外旅行へ行くつもりで、何処へ行こうか物色中であったので
 「ええ行きましょう」話は簡単、一決である。ギャラリーに来ていた高橋さんが、そんな会話の遣り取りを聞いていて、
 「え! そんなに簡単に決めちゃって良いんですか?」と吃驚なさっていた。
 「それなら妻に電話をして、航空券を予約しましょうか?」
 「そうして下さい。今パスポートナンバーと、生年月日、ローマ字のスペルを書きますからちょっと待って下さい」
 「一緒に行ってくれると妻も安心します。一人で行っても二人で行っても旅行費用は同じですから、先生は御自分の航空券の分だけ出してくだされれば結構です」
 私としても急な申し出なので、一応は行動日程を調べたら、10月16日には春日部の“ふれあい大学26期会”の〔歩こう会・鷲宮コスモス祭り〕を企画し、私が60名ほどの皆さんを先導することになっていた。
 「10月16日に大事な行事があるけれど、無責任だと言うことは重々承知の上で、何とかほかの役員に頼んでみましょう」
 「成都から九寨溝までタクシーで行きます。一人で乗っても二人で乗っても料金は同じですし、中国ではホテル代も一部屋幾らですから鈴木先生の分は掛かりません。食事にしたって、一人で食べても二人で食べても食事代は大して変わりませんから、先生は一銭も出さなくて結構ですよ」と話す。
 「其れは有り難いけど、掛かった分ぐらいは出しますよ」と答えた。
 楊さんとは昨年このギャラリーで、九寨溝へ一緒に行く約束をしていたのだった。其れを思い出したからで、優先権は楊さんの方にある。
 「妻からの電話で、航空券が取れたと言ってきました。早かったから取れたんですね」との報告を受けて、早速〔歩こう会〕のもう一人の責任者長谷川さんと、26期会の主立った役員さんに訳を話して、其方の企画については丁重にお願いした。
 高橋さんは、そんな成り行きを見ていて、
 「鈴木さんは何時もそんな風に旅行を決めちゃうんですか?」と聴いてきた。
 「私の場合は何処でも良いのですよ。お誘いを受けたら余程の行事がなければ即OKです」
 「鈴木さんみたいな人は始めて見ました。旅行から帰ってきたら連絡して下さい」
 高橋さんは楊さんが描いた、私の肖像画を初めとする数点の油絵を我が家で見ているから、楊さんにお逢いできて良かったと喜んでいた。
 ギャラリーを閉めて、近くのイタリア料理店でワインを飲みながら食事を共にした。
 航空券の振り込みは楊さんがやってくれるというので、代金は出発当日空港で渡すことにした。
 翌日航空会社と往復の航空機の時間を知らせてくれた。

 最近の中国旅行には何時も政情不安が絡んでくる。今回も、9月7日午前、中国漁船が日本の領海である沖縄県尖閣諸島付近で操業し、その漁船を追跡した巡視船が、体当たり攻撃を受け損傷した。まるで、北朝鮮の不審船“爆沈”事件の再現だったが、海上保安庁は公務執行妨害と違法操業の疑いがある中国漁船の船長と船員を逮捕した。9月13日 船長以外の船員を帰国させ、漁船を解放した。乗員は屈強な中国人男性15名だったというから、多分海上民兵だろうと予測される。
 船長逮捕に対して中国政府は即刻抗議してきた。理不尽にも日本時間午前1時に在中日本大使を呼びつけての抗議だった。また政府広報も
 「日本は司法にのっとって即時に船長を安全に解放すべきだ」と発表し、これに加え、中国政府は尖閣諸島周辺を自国の領海・領土と強調した上で
 「その海域で操業していた自国の漁船に日本の国内法が適用されるなど荒唐無稽だ。非合法で効力はない」と主張・報道し、
 「関係海域周辺の漁業生産秩序を維持し、漁民の生命・財産を保護する」目的として、同海域に向けて[漁業監視船]を派遣したことを発表した。その後、船長は日中外交に配慮した日本の判断にて拘留期限を迎えることなく処分保留で釈放された。
 北京日本大使館や日本人学校への抗議や嫌がらせが、2010年9月15日までに約30件に達した事が大使館の調べで分かった。
 中国の日本大使館によると、広東省広州市の日本総領事館の外壁にビール瓶を投げつけられたり、北京の日本大使館近くで車のクラクションが5分間鳴り続ける騒ぎが起こったし、大使館や各地の総領事館に抗議文が約10通届き、天津日本人学校への鉄球撃ち込みなどが報告されている。
 追い打ちを掛けるように中国国営新華社通信は23日夜、河北省石家荘市国家安全機関が、同省内の軍事管理区に無断で侵入し、軍事目標を違法にビデオ撮影したとして、日本人4人を取り調べていると伝えてきた。
外務省によると、4人はゼネコン[フジタ(本社・東京)]の社員で、旧日本軍の遺棄化学兵器関連事業受注に向けた準備のため石家荘を訪れていたという。この事は中国が、尖閣諸島沖での漁船衝突事件への日本政府の対応に批判を強めての報復措置として4人を“スパイ扱い”で拘束した可能性が強い。4人の内3人はすぐ釈放された。が、残る1人は未だに拘束されたままであった。

 「中国で反日抗議行動が活発だそうだが、大丈夫かね?」楊さんに電話をしてみた。
 「あれは政府がやらせていることですから、一般の中国人は何も知らされておりません。旅行には全然差し支えありませんよ」と言う。
 「心配ないって事ですか? これは余計なことかも知れないけど、12年前に始めて九寨溝へ行った時、偉い寒い思いをしたので、寒さ対策は充分にしていって下さいね」私の経験から伝えておいた。
 「判りました。今日航空会社からのe-チケットを印刷したものをファックスで送ります」
 「有難う。後は特別お聞きすることはありませんから、12日午後3時に中国東方航空のカウンター付近でお逢いしましょう」
 「私は2時30分ぐらいに行ってます。宜しくお願いします」

10月12日(火曜日) 出発

成田第2空港3階に着いたのは午後2時40分だった。クロネコヤマトのカウンターへ行き、スーツケースを受け出した。中国東方航空のカウンターはその直ぐ近くであった。
 楊さんもすでに到着していた。挨拶を交わし、早速機内預けのスーツケース計量チェックを受け、最終目的地“成都”迄を確認し、2枚のチケットを受け取った。出発まで時間はたっぷりある。
 4階の食堂街のレストランで、楊さんは軽い食事、私は生ビールにお摘みで、早くも旅行気分である。楊さんの携帯電話には奥さんからの電話が良く掛かってくる。中国へ行っても通話が出来る携帯で、会話は中国語である。
 成田空港のシャトルに乗るのは久しぶりだ。16時30分ゲートが開く。成田17時出発〔MU-522〕便は定刻に動き出した。
 機内はほぼ満席、ドリンクサービスの後そこそこの食事が配られ、350mlの缶ビールを2本頂いた。中国出入国カードが配られる。今年の5月にチベットへ行った時もだが、今は税金の申告カードが廃止されたので面倒が一つ減った。上海にも予定通り19時(時差1時間)に到着。広い上海空港の一番端で降ろされたから、入国審査のカウンター迄20分以上歩かされ、入国審査を受けた。係員が、乗り継ぎ先“成都”のプラカードを掲げていたので、暫く待った。どうやら我々2人だけのようだった。
 トランジット時間は2時間40分、国内線の出発ゲート付近のBARで、ビールを飲みながら時間調整、ここにも楊さんの奥さんから電話が掛かってきた。上海発〔MU-5411〕便はバスで10分程走った空港の一番端に停まっており、定刻より30分ほど遅れた21時40分に滑走路へ向かった。
 機内では軽い菓子パンが配られ、アルコール以外の飲み物のサービスがあった。飛行時間は2時間20分、13日0時丁度に成都空港に着いた。
 ターンテーブルからスーツケースをピックアップし、出口を出るとタクシーの長い行列である。乗り場の一番前まで800m程歩かされた。カートに乗せて運んだのは正解だった。
 真夜中の成都は人気もなく車の数も少ない。順調に走行し[紫微酒店]に着いたのは1時20分だった。ここは1泊240元(3,600円)と安いホテルだが、成都の中心地“春熙路”の直ぐ傍にある。チェックインを済ませた後、
 「何か食べに行きましょう」と楊さんが言う。ホテルのボーイに聞くと、大きな歩道橋を渡った向こうに朝方までやっている中国料理店があると教えてくれた。店の中は壁も階段も真っ赤に塗られていた。ガラスのケースに並べられた具材を選び(私のために)、油を少なめにして、辛くなくと注文してくれた。全く同じような料理が2皿出てきた。フルーツ皿のような大皿に盛られた料理は、10人で食べられる量である。
 「なんで同じ味の料理を2皿も頼んだの?」
 「牛肉と豚肉と言ったんですが、使っている野菜や香辛料は全く同じですよね? 先生も可笑しいと思うでしょう?」
 「たった二人で、こんなに食べられる筈がないよね。調理師は何を考えているのかね?」
 「中国では、量が少ないより多い方が良い店と思われるんです。1皿幾らですから、食べ残しても料金はしっかり受け取る訳ですから、店は頓着無いんですよ」
 夜中の2時過ぎに開いている店は少ない。だけに結構若い女性なんかも来ていた。成都での初めての食事は、ビール1本が20元(300円)とふっかけられ、料理も一皿130元、合計300元(4,500円)も取られた。ホテル1泊の料金より高いのである。これから先が思いやられる。
 ホテルではペットボトルの水が買えないので、この店の隣の売店で買った所、1本10元だというのだ。楊さんがこれは
 「5元の筈だ」と抗議すると、
 「お客さんは外国人だから10元になる」
 「私は中国人だ」と言っても
 「成都の人間じゃないから10元だ」と譲らない。中国には適正価格というものがないのである。
 

10月13日(水曜日) 第2日目

ベッドに入ったのは2時30分過ぎだった。だが、今日はここ成都から九寨溝(ジュウザイゴウ)まで約10時間を、タクシーで向かわなければならない。今朝空港からホテルまで来る間にも、楊さんは運転手と成都から九寨溝まで幾らで行ってくれるか聞いていた。
 楊さんが3年前に乗ったときは、片道1,200元だったそうだが、今年に入ってタクシー初乗り料金が5元から8元に跳ね上がり、ガソリンの値段も倍近くの値上げとなった。それに2008年5月12日中国四川省アバ・チベット族チャン族自治州汶川県に発生した四川大地震(マグニチュード8.0級地震)の影響で、道路が寸断されているから遠回りになる。800kmも走らなくてはならないから2,200元(33,000円)出してくれと言われた。私がインターネットで調べた所では、西回り、東回り(いずれも450km)の双方の道路はほぼ修復されたと書いてあった。

 〔九寨溝地域は2008年5月12日の四川汶川大地震の断層帯からは離れており、被害は軽微であった。しかし周囲の道路が一時不通となり、地震の時に滞在していた観光客は、最初に開通した甘粛省・蘭州市などへの陸路移動により順次この九寨溝を離れた。九寨黄龍空港への道も開通し全ての観光客がこの地を離れたのは5月17日になってからであった。
 成都からの主要ルートである国道213号(都江堰・茂県・松潘経由)は震源地汶川を経由していたため、土砂崩れや橋梁の崩壊などにより道路が寸断されてしまった。大型車が通れるまでに復旧したのは2009年7月であり、それまでは迂回路の使用を余儀なくされた。九寨黄龍空港に被害は無かったものの九寨溝の観光受け入れが約1ヶ月間も中断したため、その期間は定期便も1日1便と言う状態まで減少した。
 安全が確認され、物資の安定供給が可能になり次第、空路経由による観光客受け入れが再開されることになった。航空便も7月からは増便され、2008年8月6日には四川省観光局から〈ツアー再開宣言〉が出された。主に中国国内の団体客が利用するバスツアーについては、蘭州市から甘南チベット族自治州を経由する新ルートが開拓されている。また、成都からの東回り(綿陽・平武経由)の定期バスも運行され始めた。なお、この東回りの道路も地震の被害を大きく受けたうえ、現地の災害復興を優先する必要があったことから運行は不安定なものだった。このため震災後しばらくの間は空路が観光客の足の中心となり、空路の輸送量の制限や運賃の高さから観光客が激減してしまった。
 例年であれば1日1万人以上が入場する2008年10月(紅葉期)の休日でも、2,000人前後の観光客しか入場しなかったと言う低迷ぶりであった。
 観光再開当初は観光客の安全を優先したため、徒歩での観光を認めず、九寨溝グリーンバスも自由乗降をさせず、バスでのガイドツアー方式のみとなっていた。
 2010年4月、地震により制限を受けていたバスツァーが、綿陽・平武経由の東回りルートで、全面再開された。これで、陸路・空路によるツァーの選択が出来るようになった。しかし、本来のメインルートである西回り(国道213号)は、復興工事が難航しており、依然として大型車の交通管制を行っており、地震前の状況には戻っていない。また、東回りルートも地震被災を受け地盤が弱くなっており、大雨による崖崩れなどの被害を受け、現在でも時々交通不能になる〕

 部屋に荷物を置いて、午前6時40分から走行してくるタクシーを止めて交渉開始である。ホテルに横付けのタクシー運転手は、口裏を合わせたように2,300元との答えだった。流しの3台目のタクシーの運転手が、1,800元(27,000円)で行ってくれることになった。ホテルの前での折衝だったので、即刻部屋から荷物を降ろしてきて、7時30分の出発となった。
 「楊さん、2003年10月に[九寨黃龍空港]が完成したのに何で飛行機を使わないの?」
 「九寨黄龍空港は3,500mの高地です。気流が不安定でしばしば離着陸不能になるし、天候が悪いと飛ばさない、何時間も待たされるので当てにならないんです。最悪の時は着陸できず成都に引き返す事になります。それに、空港から九寨溝まで、車で2時間半も掛かりますから時間的にもそう変わらないんですよ。料金は飛行機の方が安いのは知っていますが、其処からの車代をプラスすると同じぐらいになります。それなら成都から直接タクシーに乗った方が景色も見られるし、ゆったり出来ますでしょう」と、楊さんなりによく調べていた。
 私の調べた所では、成都から九寨溝までの中国東方航空運賃は片道1,076元(16,140円)だ。格安の航空券を取れば往復でもこんなには掛からない。因みに乗り合いバスだと成都から九寨溝までの片道運賃は130元(1,950円)という安さだ。中国のバス運賃は世界一安いのではないだろうか? 片道だけで450km・約10時間も掛かるので、タクシーの運転手は帰りのことも考えて、スペアの運転手を連れて行きたいと言い、街外れで友人だという運転手を乗せた。携帯電話はタクシーの運転手にとっては手放せないものになっている。運転中もひっきりなしに何処かと携帯電話で連絡を取っている。
 壁、天井、テーブルから箸に至るまで何とも薄汚れた開けっぴろげの食堂に連れて行かれ、4人で1杯15元のスープ蕎麦を食べた。器も薄汚い、店全体が不潔な汚い感じなのだが客数は多かった。運転手の説明では、美味しくて安いからこの近辺で一番人気のある店なのだそうである。
 車はガソリンを満タンにし、ペットボトル4本を買い込み、高速道路をひた走る。徳用(トーヤン)・綿陽(ミエンヤン)という大きな街を通過し、江油(チャンユウ)からは岷江(びんこう)沿いの山道に入る。

 途中に廻りの建築物とは似つかわない(チベット族の住居とは違った)斬新的な建物群があちこちに出現する。ホテルなのか? 果たして誰が住むのか想像も付かない。運転手に聞くと、四川大地震で、その一角が全壊してしまった後に創られた住宅だそうである。
 この辺りから海抜が上がって行く。楊さんは道路脇の物売り屋台を見つけると車を止めさせて、ユズと呼ぶそうだが、[ザボン]より大きなミカンを1個買い込んだ。売り子に直ぐ食べられるように皮をむかせ、車内に持ち込んだが、4人で食べても持て余すほどの大きさだった。その外ジャーキー(牛の干し肉)など日本から持ち込んだ食べ物を次々に出してくる。
 3時間置きぐらいに掛かってくる奥さんからの電話には、生まれて1年になる琪琪(きき)ちゃんが登場する。やっと片言の言葉を話し始めたばかりだそうだが、携帯電話をママの所に持ってきて、パパに掛けろと促すそうで、楊さんもそれが楽しみのようだった。
 時刻は12時30分を過ぎていた。車が2台のランドクルーザーに挟まれた。後ろの車が追い越しを掛けながらなにやら合図を送っている。駐車スペ-スのある所で停車し、運転手同士で話し合い、楊さんに合意を求めてきた。
 「先生。これらの車は明日到着するお客さんを迎えに黃龍の空港へ行くのだそうです。ホテルまで送るから乗り換えてくれと言っています。どうしますか?」
 「料金はどうなるの?」
 「料金はタクシーの運転手に払った代金で良いそうです。乗り換えますか?」
 「そうだねえ。あっちの車の方がゆったりしているから、乗り心地はずっと良いと思うけど」
 「じゃあ乗り換えましょう」
 スーツケースやカメラバッグは運転手が載せ替えてくれた。空車で九寨溝へ向かう運転手は空で行くよりは、タクシーの客を譲り受ければ、たとえ安い料金でも臨時収入になる。またタクシーの運転手は行程の半分より手前で引き返せる上に大儲けが出来る。彼等にしてみれば一挙両得と言う訳である。
 ランドクルーザーの後部座席はゆったりしている。小型タクシーから比べたら格段の差である。運転手の名前は[伯]という。旅行客を専門に輸送するレンタル会社のお抱え運転手で、もう1台の運転手は[駱徳远]、名刺にはトヨタのマークと会社名[丰田越野租賃]が印刷されていた。
 「我々は売られたのと同じだね?」
 「彼等は同業者ですから、しょっちゅうこういう事をやっているんですよ」
 「携帯電話で連絡しあっていたの?」
 「いえ、たぶんこの車が九寨溝に向かうのを何処かで見ていて、声を掛けてきたのだと思います。私一人なら乗り換えません。彼等が何者か全く判らないのですから」
 「そうだよね? タクシーの運転手から幾ら貰ったと言っていましたか?」
 「400元だと言っていました」
 「え! あのタクシーの運転手は狡いねえ。半分も来ていないのにボロ儲けじゃないか?」
 「あのタクシーに1,800元払ったって言ったの? いいえ、それは黙っていました。お金持ちに思われると困りますから」
 「よく考えずに乗り換えちゃったけど、彼等信用できるのかなあ?」
 「私も考えましたが、この車はこちらの地理に詳しいですから、山賊が出ない道を知っています。ですからかえって安心です」
 「今でも山賊が出るの? 私が12年前にガイドを雇って、車をチャーターして始めて九寨溝へ1人旅で来た時、九寨溝から黃龍へ向かう4,000mの峠越えを、運転手は山賊が出るから行きたくないと駄々を捏ねた事があったけど、今でも居るのかねえ?」
 「最初に来た5年前、私は2人組の賊に襲われました。お金を持って無いというと、ホテルの部屋まで付き添って来て、お金を奪っていきました」
 「ホテルの従業員に助けを求めなかったの?」
 「両脇にぴったりくっ付かれていましたから、そんな余裕はありませんでした。料金の安いホテルでしたから、警備態勢なんかありません。怪我でもさせられないかと、そっちの方が心配でした」
 「大変な目にあったんだ。それでも九寨溝へはやって来る?」
 「いい絵を描くためには何回も来なくてはなりません。自然は変化していますから、その変化を的確に描かなければ本物の絵とはいえませんから」
 武都(ウートウ)から龍門山を越え平武(ピンウー)迄一気に走った。平武では伯が知っているというレストランを探すのに苦労し、やっと探し当て昼食となった。私達は伯の車に乗り換えただけなのに、何故か食事には駱もちゃっかり付いてきた。楊さんも気前が良く、2人に食べたいものを注文させていた。
 私はこの日初めて1本10元(150円)のビールを3本飲んだ。冷蔵庫からビールを取り出していたが冷えてはいない。余りお酒の好きでない楊さんも少しだけ飲んでいた。レストランのテーブルに着くと、まず最初にすることは、出された茶碗やお皿や湯飲みに箸をテッシュペーパーで拭くことである。所がこの店では箸以外の[皿・茶碗・湯飲みに小さなコップ]がビニールのパックに包まれている。清潔な食器だと言うことらしい。これが5元取られる。
 10品ほどの料理をあらまし平らげた。流石若い二人が加わると、多すぎると思った料理も食べ尽くしてしまうものかと感心した。かなり高級感のあるレストランだったがビール3本と器パック4つと昼食代は、田舎町だからなのか、なんと150元(2,550円)吃驚するほど安かった。
 ここで駱とは別行動になる。15時頃に平武を出発し、魔天嶺を登り南坪を経て九寨溝に着いたのは18時30分だった。楊さんがあちこち駆けずり回って“九寨貴賓楼”に宿泊する予約を取るまで、伯は待っていてくれた。
 九寨貴賓楼は名ばかりのホテルで、民宿に毛が生えたような旅館という感じである。楊さんが交渉したところ、1泊140元(2,100円)だという。前回泊まった近所のホテルは満杯だったようで、其処は3年前で180元(2,700円)も取られたと話していた。
 私は子供の時から冒険旅行を続けてきているから、宿泊施設には頓着しない。お粗末であろうが汚かろうが、泊まれればいい。然し、峠の途中から降り出した雨交じりの九寨溝はかなり冷え込んでいた。オーナーらしき老人に部屋を案内させて、先ず暖房が点くかどうかを確認した。そしてシャワーの具合をオーナーに説明させ(タンクにお湯を溜める形式ではない)“瞬間湯沸かし式”だから、湯が途切れることはないと言うので、このホテルに連泊することにした。
 部屋は3階であった。階段と廊下は電球が点いていないから手探りである。ツインの部屋だからシングルベッドが二つ、毛布と布団が掛けてあった。シーツは真っ白ではないが一応洗濯はされている。12年前に来た時に寒さで眠れなかったことを思い出し、スペアの布団を持ってくるように頼んでおいた。一応クローゼットは備え付けてあった。然し扉は中に倒れ込み、衣紋掛けも吊すポールも付いていないので使えない。サンダルが2足あったが、1足は色違い、ベッドの電球は球切れだし、部屋のカーペットは掃除した様子がない。シャワーとトイレが一緒になった部屋は、前に使った人の髪の毛やら汚物がベッタリ付いていた。
 安宿だから部屋には電話がない。何かを頼むにはいちいち1階まで行かなくてはならない。食事に行く前にシャワーを浴びようとした所が、タオルが備え付けられていない。そうなると当然ながら歯磨きセットもない。楊さんはそれらの事情は察知していて、日本から用意してきていた。
 楊さんが荷物の整理をしている間に私は日記を付けてしまった。7時30分過ぎに食事と買い物を兼ねて街に出た。ホテルのオーナーに部屋の掃除をするように頼んでおく。
 この辺りは“九寨溝”の入り口に最も近く、3流のホテルが密集している繁華街で、中国人観光客の団体もバスで乗り込んでくる。従って土産物屋やスーパー並の商店やレストランで賑わい、客引きが宿泊客を呼び込んで、レストランは何処も満席であった。
 ホテルを出る時に、私は羽毛のキルティングを着て出ている。少しだけ雨が降り、冷え込みは手袋があっても良いくらいの摂氏5度位か? 楊さんは雑貨店で傘を1本(25元・375円、折り畳み式の傘で日本で買ったら1,500円位か?)買った。
 レストランの入り口は何処の店も全て開けっぴろげである。外は寒いのだから少しは気遣ってくれても良さそうだが、客を呼び込むためと、客の廻転を良くする為に開け放してあるらしい。
 料理を注文すると、バーナーの火力で調理している為か「ガー、ガー」という喧噪がレストラン中に響き渡る。だが料理が出てくるのは実に早い。野菜だの肉だのスープなど、10品目ぐらいを注文する。ここでの器パックは10元である。
 海抜3,000mになると沸騰点が93度位になる関係からか、料理に熱々さが感じられない。
 この辺のレストランには冷えたビールは何処にもないそうだ。気温が低いから何とか飲める。ビールメーカーは一つで、瓶の首に何も付いていないのが10元、銀色の紙が巻き付いていると15元、金色だと20元である。これは成都並みの値段だ。味はどれも大して変わらないが、15元のが飲み口が良かった。不思議なことに、他のお客で飲酒をしている人は誰一人として居なかった。
 楊さんが御飯を頼むと、しゃもじ付きで10人分ぐらいの御飯が山盛りの御櫃で出てきた。ビール3本と器パック2つと夕食代は210元(3,150円)だった。料理の量から計算すると、6人分位の量だから6人で食べれば1人500円程度だが、2人でも同じ量の料理が出てくるところが中国なのだろうか? 観光地になった九寨溝は、物価や飲食費が馬鹿高くなっていた。
 食事を終えて日本で言うところのコンビニ店に寄った。まず最初に
 「航空便で出す葉書の切手がありませんか?」と聞いてみたら、
 「メイヨ(無い)」と素っ気ない。
 「郵便局へ行かなければ無い」と言う。日本なら何処でも切手を買えるけど、手紙を書く習慣のない中国では、一般の人でも切手を買うのにわざわざ郵便局まで行かなければならないのである。
 これが5つ星ホテルなら売店で買えるのだが、安宿旅行じゃ仕方がない。外国旅行で何時も苦労するのは切手の購入である。今回は12年前に撮った写真を葉書サイズの印画紙に印刷してきている。下手な絵はがきより私の写真の方がずっと綺麗だし、この写真を楊先生に油絵にして戴いたら、それが台湾で切手シートに使われた自慢の作品である。
 タオルと、シャンプー、ハイネケン缶ビール(15元)を3缶買って ホテルに戻る。
 部屋に入ると、掃除をした気配が全くない。風呂場の髪の毛や汚物はそのままだし、カーペットも同様だった。楊さんはたまりかねてフロントまで降りていった。オーナーがやってきて、
 「若い者に掃除をさせたのですが、気が回らなくて済みません」と謝る。汚れたところを指して見せると、
 「はい、直ぐに掃除をさせます」と言い、戻ろうとするので、
 「球切れの電球を交換して、暖房のスイッチを入れて下さい」と言うと
 「はい直ぐ取り替えます。今リモコンスイッチを取ってきます」と戻っていった。リモコンの数が少ないらしく、毎日頼まなければならないようだ。
 いかにも仕事をするのが億劫だという若い男性が来て、風呂場をビシャビシャにしただけで、部屋の掃除をせずに出て行ってしまった。こう言うものかと割り切るしかない。
 楊さんは明日の取材の準備があるというので、私は先にシャワーを浴びることにした。裸になっていざコックをひねると、直径10cmのシャワーの網から10本ほどのチョロチョロしたお湯しか出てこないのである。こりゃたまげたである。身体が温まるところではない。いかに操作をしても状態は変わらなかった。シャワーを諦めて、風邪を引かないよう下着の上にパジャマを着て身体を温めた。オーナーが暖房を点けくれたので、ビールを飲み始め腹からも温めることにした。
 「楊さんシャワーのお湯の出が悪くて、下手をすると風邪を引いちゃうから気を付けてね」と説明をしておいた。
 「そうですか私が様子を見てみますよ」
 「こんな状態じゃ部屋を取り替えて貰うかホテルを替えるしかないですね?」
 楊さんがシャワー室からなにやら言っている
 「湯沸かし器の横のランプを点灯さたら、お湯の出が良くなりましたよ」
 シャワー室から出てきてさらに言うには
 「扉の外の換気扇のスイッチを切ったら、さっきよりもっと沢山出てきましたよ」
 「そうですか。明日は言われたとおりにやってみましょう」と、渋々答えた。
 「何処のホテルもこんな感じですから、荷物を運ぶのも大変ですし、ここへ連泊しましょう。いいですか?」
 「そうですね。荷物を運ぶの面倒くさいからね。明日は7時には起こしますよ。お先に」と、先にベッドに横になった。
 昨日寝ていないのと、今日の長旅で疲れたのだろうか? 私は11時には眠ってしまった。何度もトイレに起きるのは何時ものことである。楊さんの鼾は豪快だ。初日の夜はずっと鼾が続いていた。