5月26日(水曜日) 第5日目
6時には起きていた。窓から布達拉宮を眺めると柔らかいピンク色の朝日の光に照らされた、金頂の屋根飾りが目映いばかり燦然と輝いていた。無論写真を撮っておく。

今朝は7時に食堂へ降りた。昨日よりは料理の数が多くあった。味噌汁にも気付いたし、お米の粉の麺もあって、スイカや黄色味の果物もまあまあ美味しかった。
ホテル出発は昨日と同じ午前
9時である。午前中は拉薩郊外のカムパ・ラ峠を超えてヤムドク湖を目指す行程である。拉薩の街を離れてシガツェへ向かう拉薩川沿いの道を進んで行くと、カーブの内側に磨崖仏があった。岩を削ったこの仏像は文化大革命の時に破壊を免れた数少ない大仏だ。昔、ネパールの高僧が彫ったもので、文革の時、周恩来に歴史的価値がある事を外交で申し入れをしたことで現況を留めている。カーブの所にあるので、あっという間に通り過ぎてしまったが、最終日、空港に向かう時観光する予定になっているので今日は往復通過である。
シガツェへの道とヤムドク湖への道の分岐点で検問があった。拉薩川とヤルツァンポ川の合流するところに拉薩大橋がある。この橋は人民軍に管理され兵隊が立っていて、軍事的な機密がある訳でもないのに撮影は禁止だと言う。橋を渡って右に曲がった所に水葬場があり、何故か其処を見学させられた。

ここはラサの人が水葬に使う場所で、道路の脇から一段下がった所に10mほどの突き出た岩場があった。タルチョが寂しげに飾ってあり、その岩場で8歳未満に亡くなった子供の両腕両足を切り川に葬るのだそうである。そう言うことなのでチベット人は鳥と魚は聖なるものなので食べない。西寧や拉薩のレストランでの料理に、鶏肉と魚料理は出てこなかった。
豚肉も食べないようで、肉類はヤクか羊に限られている。川の傍の岩に白いペンキで梯子の絵が幾つも描かれていた。これは子供が天国に登る時の階段なのだそうである。
水葬場からカムパ・ラ峠までは約40分程の登りとなる。現地ガイドの楊がチベットの歌を披露してくれた。片側1車線のカーブの多い峠はスリル満点、途中たった1人で200頭ほどの羊の群れを引き連れた男性とすれ違った。この辺には草らしい草は生えていない。瓦礫の河原から何処へ行くのだろう? そして標高4,990mのカムパ・ラ峠へ着いた。
峠の頂上はかなりの広場になっている。360度見渡せるパノラマ風景が展開している。南西方向300km先にチョモランマ峰(8,848m)があると言われたが、雲が邪魔をしていて確認は出来なかった。真下にチベット4大聖湖の1つヤムドゥク湖が見下ろせた。絶景である。

小山のように結びつけられたタルチョが真っ青な空に良く生える。真っ白な雲とエメラルドグリーンのヤムドゥク湖と紺碧の空、この地点は私が足を付けて立った地球での一番高い所である。ヤクをきらびやかな布で飾付け、上に乗って写真を撮れと薄汚れた衣類を纏った男性が声を掛けてくる。真っ黒なチベット犬の首に赤い布を巻き付けて、写真を撮るように声を掛けてくる。撮影料は10元だそうだ。20分ほど写真タイムを取った後、峠の直ぐ下にあるヤムドゥク湖へと移動した。

湖の周りは瓦礫状になっていて、食事を出すらしい家が1軒有るのみ。2本の柱が立ててあり、万国旗みたいにタルチョが掲げられている。最近有料のトイレが設置されたそうである。高度標識碑がぽつんとあって、ここにも首に赤い布を巻き付けたチベット犬が数匹鎖に繋がれていた。この湖も石灰石が混じっているのか濃い緑色をしていた。バスにお弁当を積んできている。 今日はピクニック気分で湖畔での昼食である。廻りの山肌は真っ茶色だし、タルチョがはためいているだけだ。1時間も取ってあるというので仕方なく瓦礫に腰を下ろしたが、自分ならこんな場所では食事なんかしないだろう。ハンバーガーとゆで卵とソーセージ、紙パックのジュースにリンゴが入っていた。強烈な油の匂いがして、一口食べて嫌になった。捨てる場所もないので、犬を引いている男性に処分してくれるようにお願いした。私以外にも弁当をチベット人にあげた人が沢山いた。ソーセージは豚肉なのでチベット人は食べないから犬に食べさせていた。その外の食べ物は、彼等にとっての大御馳走になったようである。親子で美味しそうに食べていた。
この高所にいるチベット人は大人も子供も黒光りした顔で、手も真っ黒だし、着ている物も汚れきって埃っぽく真っ黒である。楊に聞いてみると、殆ど風呂に入らないそうである。因みに町の人はどうか訪ねると、1ヶ月に1度ぐらいだと言う。雲南省の奥地のチベット族よりはまだましである。彼等は1年に1度、祭りの時しか入浴しないのだから。
1時間ほど湖畔で過ごし、今朝来た峠道を引き返した。峠の途中で、楊が
「丸い虹が見えています」と言うので全員でバスを降りた。

成る程太陽の廻りに丸い円が出来ていて、七色ではなく白っぽい線なので、虹と言われなければ単なる光の屈折で出来た円だ。立ったままで上を見上げた相河さんが、ふらついて転びそうになった。
「空気が薄いせいだと思います。皆様気をつけて下さい」と注意を促すので、私は地べたに胡座をかいて、丸い虹をカメラに納めた。もうこんな高地には来ないので、貰った酸素缶をセットして酸素を吸ってみた。旨くも無し、何にも感じなかった。
峠を降りきった所の村に入ってきた。チベット族の民家を訪問見学させてくれるのだという。門を入ると左側に住居、庭の向かい側に屋根付きの家畜小屋があり、牛が3頭繋がれていた。

家の南東側はどの部屋もステンレス枠の総ガラス張りで光をいっぱい取り入れている。2階には広いバルコニーもあり、ざっと数えただけでも8部屋はあった。
1階の家の南側にはおおよそ30坪もあるタイルが敷き詰めてある。其処には長さ1.5m幅1.7m・2枚の少し凹ませたステンレスの板が集光するように組まれている。その板から1mほどの高さの中央に薬缶が吊されていた。つまり太陽光を利用した湯沸かし装置である。これと同じような物が、今まで観光してきた幾つかの寺院にもあった。
民家というが、一軒一軒がかなり広い敷地に住んでいる。庭も広いし、建物は煉瓦を組みあげた屋上付きの総2階で、その一部屋の広さは16坪もあろう。私たちが訪れた家には奥さんが一人で留守をしていた。チベット人の歓迎のバター茶を振る舞ってくれた。

[バター茶は、主にチベットを中心としたアジアの遊牧民族の間で飲まれる茶飲料である。塩バター茶とも言われる。チベット語ではジャ、中国語では酥油茶(スーヨウチャ)と呼ばれる。遊牧民族の住む草原では茶は育たないため、全て中国から購入している。遊牧に携行するために、固形の餅茶(月餅ぐらいの大きさ)にしてある。濃く炒れた黒茶の一種にヤクの乳で作ったバターと岩塩を加え、“ドンモ”と呼ばれる専用の撹拌器具を使って、脂肪分を分散させる。最近では女性がドンモでの疲れる作業を嫌って、拉薩などの都市部では、電動ミキサーを使っている。乾燥した気候で失われがちな脂肪分と塩分を効率的に補給することができ、暖もとれるため、チベット人は一日中何回も飲んでいる。年寄りは50回から100回も飲むという]
何とも言えぬ渋みの塩っぽい味で口に後味の悪いバター味が残った。
2階に上がる階段は幅60cmぐらいと狭い。盗賊に襲われた経験からの知恵だという。各部屋は赤や黄色の花模様の調度品が並べられ、特に豪華なのは沢山のタンカや仏像、仏具の飾られた仏間であった。各部屋にはサボテンなどの植木鉢が並べられ、花を咲かせていた。楊に
「この家は村長さんの家ですか?」と聞くと、
「ごく普通のチベット人の家です」との答えが返ってきた。
「他の家族がいないけど?」
「男の人はヤクや羊の放牧で山に行っています」
「こんな立派な家を建てたら随分掛かるでしょう?」
「彼等はヤクや羊を追いながら、漢方薬を集めてきます。特に最近“冬虫夏草”は高額で売れますから、結構お金持ちなのですよ」
屋上に上がって周りを見渡すと、同じような家が果てしなく並んでいた。 各家の一番高い所には、タルチョを結びつけた竹が3本掲げてある。電化は行き届いているようで、台所のコンロも電気式だった。
ここの民家には便所があった。楕円形の穴が二つ開けられコンクリートで固めてある。無論ヒューストン式である。雲南省・香格里拉(シャングリラ)のチベット族の民家にはトイレが無かったことを思えば、近代的だと思った。風呂場の事を聞き忘れてしまったが、風呂場らしきものは無かった。
見学を終えてバスに戻ってきたら、学校から帰ってきた小学校1年生ぐらいの子供達が5人集まっていた。

ツアーの人達が一斉にシャッターを切っていた。私も何枚か写したから、飴の代わりに(子供達に)1元ずつ手渡すと、モジモジして手を引っ込める子供もいた。
バスは再び拉薩市内に戻ってきた。トゥルナン寺《中国名は大昭(ジョカン)寺》観光である。
[拉薩市の中心にある大昭寺は一般的には本堂に相当する部分の名称であるジョカンと呼ばれることが多い。また、本堂という意味のツクラカンをつけて、トゥルナン・ツクラカンと呼ばれることもある。
チベットを統一した吐蕃王朝第33代のソンツェン・ガンポ王に中国より嫁いできた唐の玄宗皇帝の娘・文成公主により、7世紀に建立され1,000年以上の歴史を持つ。
2000年に世界遺産、拉薩の歴史的遺跡群に追加登録されている。
大昭寺は布達拉宮と共に、チベット族の重要な宗教活動の場で、仏教信徒が憧れる巡礼の聖地である。チベット人なら誰しもが一生に一度はこの寺を巡礼したいと切望されている。中国国家級の文物として保護されている。
金色に輝く屋根と4層の主殿からなる綺麗な建物で、境内は唐代の世にも珍しい文化財が沢山あり、回廊と宮殿の壁画には歴史上の人物を神格化した故事が長さ1,000mあまりにも及ぶ壁画で描写されている。
寺内には12歳の釈迦像やツォンカパの像がある歓喜堂、ダライ・ラマの玉座、阿弥陀仏がある無量光堂、弥勒法林堂など、数多くのお堂と仏像が並ぶ。 特に正殿には文成公主が長安から持ってきた御本尊・釈迦牟尼仏金像が置かれ、正殿両脇の配殿には松賛布、文成公主とネパールの尺尊公主の像が置かれている]

正面前に2本のポール(15m)が立っている。その下方2mの高さまで、直径5m位にふくれた達磨状にタルチョが括り付けられていた。門前を迷彩服を着た武装警官が5人一組で巡回している。今年は上海万国博覧会が開催されているだけに、物々しすぎる警戒態勢を敷いているのだ。
正門前では、切れる事無く列をなす巡礼者が続き、五体投地で祈る熱心なチベット仏教徒を多く見ることができる。内部には多くのマニ車を備えた回廊があり、コルラすることも出来る。
入場後は一切撮影が禁止である。上に書いたような説明では、その豪華さは伝えられない。それでも、屋上にある金頂の撮影は許された。
チベットの建築では、布達拉宮の歴代ダライラマの霊廟にもみられるように、重要な堂には金瓦の屋根を葺いている。

大昭寺でも観音堂、弥勒堂、釈迦堂、ソンツェン堂の四つの堂は金瓦の屋根が葺かれており、それらがちょうど本殿の東西南北の四辺に置かれている。屋上に登りその四つの金瓦の屋根に囲まれると絢爛にして荘厳な気分に浸れるが、一体どれだけの量の金を使ったのか? これらの資金は貧しきチベット人巡礼者の、けなげな献金によって作られた物なのか?途方もない疑問を抱かざるを得なかった。
また、大昭寺の金頂の間に見るポタラ宮の偉容は実に頼もしかった。
大昭寺を出ると、八角街(バルコル)を時計回りに歩き工芸品店でのショッピングタイムである。
[八角街とは、拉薩市の旧市街地中心部にある大昭寺を一周するショッピング街のことである。八角街の入り口は大昭寺正門の右手にあって出口はちょうど左手にある。ショッピング街といえども、仏教の巡礼方式に則って進行は時計回りと決められている。いまは土産物店や屋台が並ぶショッピング街だが、1300年の間、チベット仏教の聖地である大昭寺に巡礼してくる大勢の人々の衣食や仏具などを提供する場所として栄えてきた。今なお生きている最も古い商店街の一つといえるかもしれない。2010年第1回〈中国歴史文化名街〉の1つに選定されている]
大昭寺の門の横では、寺院に向かって五体投地を続ける信者が大勢いた。八角街を五体投地でコラルする巡礼者の姿も多い。
[五体投地とは、全身を地に投げ伏して祈る方法である。両手・両膝・額という身体の五部分を地に付けて平伏し、仏や高僧などに礼拝することで仏教における最も丁寧で正しい、最上の礼拝方法とされ、チベット仏教の修行の基礎中の基礎だと言われている。

1.まず直立して、胸の前で蓮華合掌する。
2.この蓮華合掌を頭頂へ持ってゆく。
3.蓮華合掌をそのまま眉間に降ろす。
4.蓮華合掌をさらに咽に降ろす。
5.蓮華合掌を胸の前へ戻す。
6.続いて、地面へ平伏する動作に入る。
7.両膝と両手を地面につける(投げ出す格好)
8.額も地面に付ける。
9.あまり間を置かずに立ち上がる。
10.再び胸の前で蓮華合掌。
以上の1~10を1回と数えて、3回・7回・21回・108回など、適当な回数を繰り返す。最後に、1~5をもう一度行ない、礼拝の修行を終える。
その間、動作が緩慢になったり、身体が揺れて斜め向きになったりしないよう、気をつけなければならない。なお、この回数は所作によって異なるが、最も一般的なのは、煩悩の数と同じ108回の礼拝とされている。
五体投地でコルラする巡礼者は手に数珠を持っていて7.8の動作の時数珠を其処に置き、立ち上がった後3歩進み、また同じ動作を繰り返し前へ進むのである。
コルラをする6人の五体投地巡礼者がいた。何処から来たのか楊に聞いて貰ったら、雪深い今年1月に、チベット北部の人里離れた山岳地帯からやって来たという。ヤク飼いである34歳のジンダと男女6人の従兄弟は、人生で最も壮大な巡礼の旅に出発してきた。5ヶ月以上、彼らはこのように毎日、文字通り這うように拉薩の大昭寺を目指してきた。彼らはゆっくりと、五体投地の作法通りに標高4,200mの世界で最も厳しい地域を、160km以上も進み、それから高地の道路に沿って、320km以上を進んできたという。彼等の出で立ちは、綿で固めた膝当てを付け、胸から腹にスポンジを巻き付け、厚手の上着を重ね着し、皮のグローブをはめている。額には痛々しいタコができていた。
工芸品店の3階が民族舞踊を鑑賞しながらのレストランで、夕食は此処にになっている。この店では丹治さんが黒の天珠を買い、ブレスレットに加工させていた。楊が赤い天珠のブレスを持っていたので、記念に買ったようだが、2割しか負けなかったと話していた。屋上に上がってみると、大昭寺の金頂越しに布達拉宮がクッキリ見えた。
夕食まで時間つぶしに、巡礼者の流れの沿って時計回りに八角街を歩いてみた。大きな民芸品店はレストランを兼ねているようだが、気軽にビールを飲めるような店はない。5人で隊列を組んだ武装警官がやたらと目に付いた。巡礼路には数珠やマニ車・石のネックレスや腕輪のような、お祈りに関係ある土産物を満載した車付きの屋台が、数百台ずらりと並んでいた。
八角街の建物は3階建てに統一してある。東南角に一軒だけ黄色いビルが有った。

一見ごく普通の観光客向けレストランだが、楊さんの説明によると、かつてダライ・ラマ6世(1683~?年・ダライ・ラマの身でありながら還俗することを望み、夜な夜な街に繰り出したという、異色の法王)が恋人に会いに通いつめた居酒屋だった建物でそのまま残してあるのだと言う。
15分も歩くと再び大昭寺の正門前に出てきた。これと言っためぼしい物もなく、店のレストランに戻ると、すでにツアーの人がビールを飲んでいた。今日のメニューは西蔵料理だというので、どんな料理か期待したが、何時もの中国料理と変わらなかった。チベットビールは大瓶で10元だった。
食事をする席の前にホールがあり絨毯が敷いてある。明かり取りの窓の下には舞台を囲むように、寺院にあるような刺繍の飾り布が吊してあり、中央に曼荼羅の額が設えてある。照明装置などはない。隅の方で奏でる3種類の楽器に合わせて、民族衣装を身につけた男女4人ずつのチベット人の踊り手が、6曲ほど踊ってさっさと帰っていった。
ホテル着は午後7時、コンビニがあると教えてくれたので、今夜はこの店でビールを買ってきた。ハイネケンの大瓶1本が10元と安い。3本買って部屋の冷蔵庫で急冷凍し、シャワーを浴びた後日記を書きながら、ポタラ宮の夜景をつまみに飲んで寝た。