天空列車で行く!遙かなるチベット7日間

中国チベット自治区
青海チベット鉄道(清蔵鉄道)高山用のNJ2型ジーゼル機関車

2010年5月22日(土)~28日(金)

春日部市の“ふれあい大学”で知り合ったA氏から、「今度中国へ行くことがあったら是非誘って下さい」と声をかけられた。
 今年の旅行を何処にしようか決めかねていた矢先で、上海からの友人が5月から開催される“上海万国博覧会”に来て下さいと何度もMAILをくれていたし、2年ぶり47回目の中国旅行も良いかもねと心も動いていた。
 そうした時には自然と旅行会社からのパンフレットが来るもので、久々に天空列車(清蔵鉄道)の商品が載っていた。
 私は鉄道マンだったから、最高標高5,068mの永久凍土を走る鉄道に興味を持った。

天空列車専用機 NJ2型ジーゼル機関車


 天空列車は中国西部大開発の代表的なプロジェクトとして2007年の完成を目指していたが、一年ほど前倒しをして2006年7月1日に全通したことは知っていた。
 出来たばかりは不安だったが、2年も経過すれば大丈夫だろうと2008年5月催行のツアーへ申し込んだ。
 この年2008年8月8日から中国の北京でオリンピックが開催される事になっていて、中国政府もその成功のために躍起になっていた。
 旅行を申し込んだ直ぐ後の3月10日チベットの僧侶数百名が〈自由なチベット〉を求めてデモ行進をした。
 このデモに対して中国政府は弾圧を行いデモ参加者を逮捕する。その逮捕に抗議するデモが拉薩市内の多くの寺院や他所で拡大し、建物や車の放火など暴動に発展してしまった。暴動はチベット自治区にとどまらず隣接する四川省や青海省にまで広がり、死者が130名を超えるに至った。
 今回のタイミングで暴動に発展した理由としては、この年は北京五輪の年なので、世界が中国に注目しているから、チベット人はこのタイミングで世界にチベットの現状をアピールしたいと考え、デモ活動を起こしたと思われる。もう1つは、3月10日に最初のデモが起こった日が、1959年のチベット蜂起を祝う記念日だからで、チベットの指導者であるダライ・ラマ14世を中国軍が誘拐しようとしているという疑惑の高まりを受けて、30万人のチベット人が集まって中国軍に反抗し、チベットの独立を宣言している。
 この蜂起は結局武力で鎮圧され、チベットはその後も中国政府の統治下に置かれてしまった。しかし3月10日は、チベット人にとって中国政府に対する蜂起の日として残っていたのだ。世界中から中国政府に対する抗議の声が上がり、オリンピックボイコットを表明する国が続出したりした。
 日本政府はチベットへの旅行を取り止めるよう声明を出すし、中国政府も外国人のチベット入りを拒絶して外国人のメディアを封じ込めに掛かった。
 私も仕方なくこのチベット旅行を諦めて、この年はポルトガルへ旅行した。
 翌年の2009年8月の天空列車の旅を申し込んだ直ぐ後に、7月16日(木曜日) 中国・新疆ウイグル自治区の区都ウルムチで暴動が発生し、多数の死者が出た。この年の暴動も、前年のチベット自治区で起きた暴動に酷似しており、暴動の背景にある理由の多くも同様だったと思う。この年も天空列車の旅を断念、タイ旅行に切り替えた。

 3度目の挑戦で、ようやくこの旅に参加することが出来たわけだが、催行が決定するまでは、今年は上海万博が開催される年なだけに、またどこかで暴動が発生するのではないかと9割は諦めムードで、ドキドキして成り行きを見守っていた。
 中国にある55の少数民族を牛耳っているのはごく少数の漢民族である。低賃金の上臨時雇いのような雇用形態で経済的にも搾取され、行政に対する憤懣も募り何時爆発が起きてもおかしくない状況下にある。
 ところが4月14日早朝、東チベット、カム地方のジェクンド(青海省玉樹チベット族自治州)で、マグニチュード6.9の地震とそれに続く余震が起き殆どの家屋が倒壊、1万人以上が負傷し、現地のチベット人の情報では死者は4,000人に及ぶ可能性があると伝えていた。
 胡錦濤国家主席は18日、海外訪問中の南米から被災地に飛び、緊急に救援活動にあたった。
 チベット人の集結による暴動発生を恐れる当局は、現地でのテントの分配を遅らせたため、多くの被災者は長期間氷点下で夜を明かさざるを得なかった。青海大地震で奪われたのは多くの命と北京当局に対する信頼だった。暴動を押さえ込むための復旧支援には、今まで例を見ない格別の配慮をして、暴動を食い止めたと言えよう。

 こんな経緯があって、チベット旅行は催行されたのである。

5月23日(日曜日) 第2日目

4時30分には起き出して、素早く荷物を纏めた。スーツケースを引いて、5時10分にはロビーに降りた。部屋に備え付けのペットボトルを一本持った。パンとリンゴと紙箱ジュースの弁当が用意してあった。荷物になるからロビーで食べてしまった。
 ホテル出発は5時40分、旅行慣れをしているツアーのメンバーは皆さん定刻通りに集合、素早い行動である。
 北京首都国際空港の国内線チェックカウンターの団体受付は、沢山の中国人でごった返していた。こんな朝早く何処から沸いて出てきたものか? もの凄いパワーと熱気を感じる。空いている列に並んだが一向に動きがない。これでは間に合わないと、個人受付カウンターに移動、それぞれが荷物を預け、パスポートを提示してチケットを受け取った。
 国内線でもセキュリティーチェックは厳しく、ペットボトルはゴミ箱に捨てた。北京から西寧まで2時間30分のフライトだが国内線ではビールが出ない。ゲートに向かう途中に売店があったので、350mlの缶ビールを3缶買っておく。7時20分に離陸し、9時50分には西寧空港に着いた。
 西寧は、青海省の東北部、黄河の支流である湟水流域にあり、標高は2,275m。古来から中国内地とチベットを結ぶ要衝の地であり、現在も青海省とチベットを結ぶ青蔵公路の起点である。西寧を通る国道は109号線。北京まで2,000km拉薩(ラサ)までも2,000kmの位置にある
 中型の観光バスで市内観光に出発。西寧のガイドさんも女性だった。西寧の中心にある公園で50分ほど自由行動になり、有料のトイレに入った。5角(7円50銭)払う。臭くて汚いし水が流れない上に電気も点かない。大きな公園の大通りに面したところにわざわざ設置したのだから、もっと高額でも清潔なトイレにして欲しいものだ。省都といえどもまだまだトイレ事情は最悪であった。公園には北京オリンピックのモニュメントが飾られていた。

2008年北京オリンピック記念モニュメント

 早めの昼食の後、タール(塔爾)寺観光である。
 塔爾寺は青海省の省都である西寧から車で40分の郊外に忽然と現れる。湟中県に位置する魯沙爾鎮蓮花山にあるチベット仏教の寺院である。 チベット語ではクンブム・チャムパーリンと呼ばれ、チベット仏教ゲルク派(黄帽派)の寺院である。ゲルク派の開祖ツォンカパの生誕地としても知られるアムド地方における主要拠点のひとつである。
 寺院の入り口近くには如来八塔(八基の石の宝塔)が並んでいる。遠くから訪れた民族衣装をまとった巡礼者が、一つ一つの塔に頭を付け祈りを呟いてゆく。1360年にツォンカパの生母が立てた仏塔(ストーパ)がもとになっている。

如来八塔(八基の石の宝塔)

 1560年にリンチェン・ツォンドゥギェンツェンが再興し、50あまりの末寺をかかえた。また、日本人の寺元婉雅(1872~1940北京よりチベット大蔵経を将来した)が日露戦争のころにここに滞在していたこともあって、ガイドの説明にも親しみが込められていた。
 ガイドの日本語は早口で敬語を使うから意味が良く聞き取れない。やたら高層の名前ばかりが出てくるし、メモを取っていないから、由来等はインターネットで調べた。
 1958年には3,600人以上の僧侶が在籍していた。僧侶はアムド、内外モンゴル、ユグール族の出身者が多く、文化大革命後は僧侶がラプラン寺へ移動してしまい、現在は300人ほどの僧侶しか在籍していない。
 明の嘉慶39年に築かれた。敷地面積は60,000㎡である。山門、花寺、小金瓦殿、大金瓦殿、九間殿、バンチャンの行宮、僧舎など漢族チベット族風格の建築からなっている。グル(黄教)6大寺院のひとつとして、中国の重要文化財に指定されている。
 チベット仏教には、ダライ・ラマ系とバンチャイ系がある。ダライ・ラマ系は、奴隷を所有する階級であり、奴隷制を認めない共産党がチベットを制圧した時にインドに亡命した。バンチャイ系は庶民派なので、中国国内に生き残った。現在の中国チベット仏教は、バンチャイ派ということになる。
 同寺はチベット仏教グル派の創立者ツオンカパの生地で、数百年の歴史がある。ツォンカパについては、母親が彼を身ごもった時に不思議な夢を見たという話がある。何処の国でも“聖なる人”の誕生には色々な尾ひれが付くようだ。
 “中観哲学”という凡人にはなかなか分かり難い“ものの見方”を説いて、当時倦怠気味のチベット仏教界に新風を吹き込んだので、智慧のシンボル文殊菩薩の化身とされている。
 創始者ツォンカパ(1357~1419)を記念するタール寺が内外に公開されたのは1983年のことで、中国の近代史上最大の汚点となった文化大革命では、多くの世界的文化遺産を灰と瓦礫の山にしてしまったが、ここもその被害を免れることなく徹底的に破壊し尽くされてしまった。大々的な修復工事は1991年から4,300万元の総工費を投じて開始された。
 タール寺で一番目立つのは、屋上に金の唐屋根を載せた小金瓦殿と大金瓦殿だ。大金瓦殿は塔爾寺の本堂で、中にはツォンカパの宝塔が収められている。大金瓦堂は、屋根全体が金箔で葺かれている。

瑠璃色の瓦で出来ている本堂を囲む塀

本殿を囲む塀は瑠璃色の瓦で出来ていて、繊細な彫刻で有名である。マニ車が設置されている寺院の入り口前では、五体投地をする僧侶や巡礼者でいっぱいだった。

 まばゆいばかりの黄金で屋根飾りが燦然と輝いているのは、チベットの寺院共通である。清の乾隆帝(1711~1799)もすすんでこのお寺の拡張工事を行った。宝塔が収められた厨子の上に掛かる扁額は乾隆帝の親筆である。   塔爾寺には“三絶”と言われる物がある。最も際立っている“ベスト3”という意味で、まず上酥油花院(昔、チベットを懐柔するために玄宗皇帝は娘の文成公主をチベットに嫁がせた。そのときに造られたお堂)の“酥油花(スーヨウホァ)”を見学した。
 ここにはヤクと羊のバターで作られた彫刻が展示されている。仏教の伝説に出てくる仏像や花はもとより人物、建物、動物などが赤、青、緑、黄色ほかいろいろの顔料をまぜたバターを使って、心憎いほどまで精巧に彫られた立体的な彫刻である。バター彫刻は年1回塔爾寺の僧侶達の手で作られる。 ヤクと羊のバターを硬い状態にさせてから削る。以前は夏になると溶けてしまった。現在は冷房されているので1年中見ることができるのだが、バター細工だけに、沢山の人息れで溶けてしまったところもあった。
 高さは2m・幅10mの彫刻が高さ1mの台座の上に載せられ、とてもバター細工とは思えないほどの作品に仕上がっている。これをガラス張りのお堂の中に収めてあるから、ぷーんと甘いバターの香りが鼻をついてくる。これは年に一度のお祭りの時(旧暦の1月15日)に毎年作りかえるお供え物で、いまでは観光客の見世物になってしまっている。
 あとの二つは、“壁画”と“堆繍”である。堆繍とは、立体的アップリケ(布地の上に装飾として,模様に切り抜いた布・皮などを縫い付けたり貼り付けたりする手芸)で描いた絵である。“壁画”は破壊されてしまって今は見ることが出来ない。
 ガイドの後に付いて、幾つもの伽藍を見学するのだけれども、門を潜ったところから写真撮影は禁止であるから、お寺の外観しか撮れなかった。

 2時間ほどかけてゆっくり塔爾寺を見学し、バスは博物院と表記されている総合ショッピングセンターに着いた。最初に日本語を話す店員からの説明を聞かされる。どういう訳からか、いの1番に“天珠”の原石の説明があった。
 私は2007年6月に雲南省二大名峰とシャングリラの旅で、現地添乗員 林さん(チベット族の男性)が首に吊っている先祖代々引き継がれてきたという天珠を見せられ、「旅の安全のお守りです」と言うのを聞いて、土産屋で16,800元(316,200円)という天珠を4,000元(75,280円)に負けさせて買い、今回の旅では首に下げてきている。この時は300,000円の仏画を100,000円で買っているから、セットで強引に値切ったものだった。 
 【 天珠はチベット西蔵から各地に伝わったことから、日本では[チベット天珠]または[西蔵天珠]と呼ばれている。メノウ、玉髄、カーネリアンなどを円筒形に加工し、表面に吉祥文様を焼き付けて、紐に通してネックレスやブレスにして身につける。特殊な染料を浸透させて高温で焼き付けされている紋様は、円の形を眼と表現している。[一眼天珠]から[二十一眼天珠]を基本として眼珠と呼んでいる。四十八眼天珠や百八眼天珠も出土されている。また、円と四角の形を組み合わせ、円が天で四角が地を表現して[天地天珠]と呼ぶものや、樹木や蓮華とか観音菩薩を模写した紋様など多彩な紋様がある。本来はチベット仏教の僧侶が身につける物だったが、1994年に発生した中華航空機墜落事故の生存者が身につけていたことから知れ渡り、一般にも広まった 】
 チョコレート色の天珠は年代が古いもので、黒い天珠の数倍もする。私の天珠は〔玉髄天珠(Chalcedony/カルセドニー)という種類で、重量13.4g・鼓型・直径1.5cm・長さ4cm・色は褐紅(チョコレート色)と白・密度2.60g/㎤だ〕石英が集合して比較的均質な模様を描き、《長生きが出来て友達が沢山居て幸せになれる》と言う意味を持っている。
 店員に見せると直ぐに値段を聞かれた。
 「これは良いものです。当店でも20,000元はします」と言っていた。
 私は陸の珊瑚だと聞かされていたが、実際に大きな文様の原石を見たことで、何から加工されたものかを勉強できた。
 その外にも、翡翠や瑪瑙などの原石の説明があり、2階に案内されると、其処にはチベット絨毯が展示販売されていた。
 骨董品やら[タンカ(仏画)]など出来の良い作品は値段が高い。私はブータンや中国の他のチベット族が住む観光地で、価値あるものを集めてあるから、今回の旅行では何も買わないつもりで来ている。
 聞くところによると、資金力にものを言わせた少数の漢人が、チベット族の家庭を回り、その家の仏像やタンカ等の先祖代々守り抜いてきた家宝を安値で買い叩き、それを百万円以上の値でこうした土産屋で観光客に売っているのである。年寄り達は売らないでくれと泣いて頼むのを、見せ付けられた現金欲しさに子供達が売ってしまうのである。そうした悪辣な手段で民族の心を買い叩くので、漢民族に対する怒りが募り、いつでも暴動が起きても不思議ではない状態になっているのである。
 まだ観光が始まったばかりだし、ツアーの皆さんも店員の説明を渋々聞くのみであった。

 土産物屋を後にして、バスは西寧駅へ向かった。北京のバスの中でも何回となく話された、今回の旅の高山病対策について、添乗員からの真剣な説明があった。
 高地になるに従って酸素が少なくなる。標高3,000mで平地の3分の2の薄さだが、身体の中に取り込まれる酸素は半分に減ってしまう。酸素不足になると機能が低下し、様々な障害をもたらすからと、高山病にかからない為の方法をクドクド叩き込まれた。
 西寧を出発した天空列車は、2,206mから出発し、格尓木(コルドム2,830m)で高山用のNJ2型機関車(重連)に付け替え、玉珠峰(ユイチューホン4,195m)から天空の地へ突入、最高地点の唐古拉(タングラ5,068m)を通過して、達瓊果(ダーチュングォ4,327m)から下りに入り拉薩(ラサ3,640m)迄を26時間で走る。(最近は24時間までスピードアップしたとか?)
 空気の希薄な地域を走行するため、車輌はカナダの航空機メーカーでもあるボンバルディアの技術を導入、車内を3,000mの高度と同じ気圧を保つ与圧設備を持つ25T型客車が投入されている。寝台車(軟臥、硬臥)には酸素吸引設備が用意され、希望者には吸入チューブが無料で配布される。なのだが、高山病にならないようにするためには、(北京のホテルでは熱い風呂に入らず温めのシャワーにして下さい。との注意もあったが列車にはシャワーがないからこの注意はなかった。)酸素をなるべく余計に消費させないために、
 ○車内を歩く際は小走り早歩きをせずゆっくりと
 ○物を拾う時は急に屈まず腰を落として 
 ○呼吸をする時は鼻から吸って口からゆっくり吐く[腹式呼吸]を意識的  に繰り返して下さい
 ○水分は十分に補給して下さい
 ○なるべくなら椅子に座って休むように
 ○飲酒・喫煙は絶対いけない
 ○息切れを招くから、大声を出したりお喋りも控えるように
 ○読書や勉強、書き物・携帯ゲーム機等、集中を要する行動を慎む
 ○寝る時は仰向けで寝ると肺に負担が掛かりますから、枕を高くして、横  向きで寝ると良いでしょう。
消灯は10時ですから、電気が消えたら速やかに休むようにして下さい。

 午後5時40分に西寧站(駅)に到着した。

駅前広場には沢山の車が駐車しており、列車待ちの人で溢れていた。駅構内に入るまで時間的余裕があるので、駅前の大型店などで車内で必要な食べ物や飲み物を買う時間を取ってくれた。列車には24時間お湯が出る設備があるので、(私は食堂車の料理がどんなものかおおよそ判っていたから)中国のカップラーメンを2ヶ買っておいた。
 列車は北京を昨日24時間前に出発した拉薩行きで、18時30分に到着する。 当初の予定では20時50分発の列車だと聞かされていたから、夕食も街のレストランだと思っていた。ところが2時間以上も速い列車に乗車出来、その列車は40分遅れとのことだった。
 30分前に改札入りし構内に、荷物のチェックは航空機並みX線検査がある。特別待合室で20分ほど待った。待合室で
 「座席の割り振りを抽選とさせて戴きたいと思いますが、どうしても下の席でないと困るという方は申し出て下さい。只し、日中は下の席は共同使用となります。上段の人はいつでも寝られるという利点があります」という説明と配慮があった。
 私は前立腺癌を手術している関係でトイレが近い、下段が取れなければ諦めるが、一応申し入れた。ラッキーなことに10名の希望者全員が下段を取れた。空港から一緒にアルコールを嗜んできた丹治さんが、私の上の席を希望してくれた。列車の旅がより楽しくなるのは請け合いである。
 続いて乗客健康登録用紙が配られ、住所、氏名、年齢、電話番号を書き込む。列車、号車、寝台番号等は相河さんが書いておいてくれた。高度の高いところを旅行することを理解していることと、3,000m以上の高度に耐えられる健康状態であることの2ヶ所にチェックを入れて署名をした。
 列車が到着し、待合室からホームに出ると、我々の乗る6号車(軟臥車)は目の前だった。今回はツアー客の全員が軟臥車に乗れた。が、天空(青蔵鉄道)列車の軟臥席(一等寝台車・2段ベッド4名室)を確保するのは至難の業なのである。私の知人で上海の中国人もこの列車の寝台席券は買えないと話していた。
 ①世界の最高地点を走る列車と言う宣伝と物珍しさで中国人はもとより世  界各国からの観光客が多い。
 ②軟臥席は1列車に2車両、64名分しかない。
 ③乗車券の販売が乗車日の5日前で、発売と同時にダフ屋に雇われたアル  バイトが列をなし乗車券を買占め、ヤミ値で売りさばいている。
 ④政府の高官が利用する時は、予約をしていてもそちらが優先されるので、  乗ってみるまでは判らない。
 阪急旅行社の案内にも〈軟臥席が確保できない場合はキャンセルしてもキャンセル料金は頂きません。硬臥席(二等寝台車・3段ベッド6名室)でも構わないというお客様には 4名で利用して戴き差額は返金します〉と記載してあった。乗車後に実際に硬臥車を覗いてみて判ったのは、3段ベッドだけにベッドの間隔が狭く、下段を椅子として腰掛けると中段のベッドに頭が支えてしまうから、日中は通路の椅子で過ごすしかないのである。日中14時間以上も座って移動する旅なのだ。出発前からその状態が判っていたら、硬臥車なんかは当然キャンセルする。軟臥車でよかったとつくづく思った。

天空列車軟臥車(コンパートメント)室内

 軟臥席下段の料金は810元(12,150円・実質的には航空運賃の方が安い)であるが、ヤミ値では50,000円、時には100,000円で取引されているという。
 拉薩から西寧方面に向う逆方向の軟臥席は容易に買えるようである。理由は飛行機で標高3,600mの拉薩まで一気に行くと高山病になる確率が高くなるからで、標高の低い西寧から徐々に高度を上げていき、体を高地に慣れさせる必要がある。それで西寧~拉薩に人気が集まるのである。最近は帰りに天空列車を利用する商品が売り出されている。
 西寧は大きな駅だけに降りる客が多い。若い相沢さんがスーツケースを車内に上げてくれたので、スムーズに乗り込めた。コンパートメントに入るとスーツケースを収納するのに一波乱あった。下段ベッドの下に25cmの収納スペースがあるので、横にした時の高さを25cm以下に押さえるように案内されていたが、25cmでも収納することが出来なかった。上段ベッドの上に空間があり、其処へ2つのケースを押し込んだ。私のはテーブルの下に立てかけ、丹治さんのバックパーカー(リュック)だけは荷物を馴らしてベッドの下に納められ、一件落着となった。
 列車が動き出した。ベッドのシーツは前の乗客が使ったまんまの物だった。 スリッパが2足あった。一つは使われていて、一つはビニール袋に入った新品だった。ゴミバケツの中身を集めに来た服務員にシーツの交換とスリッパを2足持ってくるように言ったが、スリッパだけしか持ってこなかった。
 中国の長距離列車は始発から終点まで4日間かけて走る列車だが、シーツの交換はない。私は何度も長距離列車を利用してきたから、中国の鉄道はそういうものと承知していても、相部屋の3人には納得できなかったようである。列車が発車すると、車掌が各部屋をまわり切符と換票証(寝台番号が書かれたカード)を交換しにきた。寝台の、上段、下段で換票証の色を変えてあり、このカードと切符の交換が終点間際にまた行われる。どんな意味があるのか不可解であった。
 室内のテーブルには備え付けのポットがある。各車両のトイレの脇に24時間自由に使える給湯所がある。早速新しい湯に入れ替えた。軟臥車には格ベッドにテレビが付いている。チャンネルは5つあり、中国語のコマーシャルが流れていた。
 出発してまもなく食堂車へお越し下さいと知らせがあった。

天空列車の食堂車

早速ビールを注文する。小瓶のハイネケンが30元(450円)である。北京から付いてきている張さんが、
 「えー!ビールを飲むのですか?大丈夫ですか?」と大声で睨み付ける。相河さんも、紙コップを配りながら、
 「少しだけにして下さいね」と心配そう。ビールを頼んだのは3人だけだった。他の人は高山病にならないように、じっと我慢をなさっているようだった。食堂車にはコップがない。じかに口を付けて飲むか、プラスチックの茶碗を借りて飲むしかない。相河さんが、西寧站近くの店でお茶と烏龍茶を飲めるように紙コップを2つづつ配り、お茶っ葉を分けてくれたので、その紙コップでビールを飲んだ。ビールが冷たかったのは嬉しかった。貴重な紙コップは下車するまで大切に使った。皆さんが我慢をしているのを気遣って、ビールは2本で止めておいた。食堂車で出された中国料理は美味しくなかった。車内販売の弁当よりは少し増しという感じだった。
 全員が部屋を出る時は盗難防止のため部屋に鍵が掛かるようになっている。 再入室する際は服務員に鍵を開けて貰う。8時50分を過ぎると、窓の外の景色は見えない。横になりたいという人が2人いたので、私と丹治さんは再び食堂車へ向かった。ビールを1本ずつ頼んだが、そんなものではさっぱり酔わない。食堂車の売店にはいろんなボトルがおいてある。[紹興酒]と紙に書いたら、横文字のボトルを出してきた。値段を聞くと345元(5,175円)だと言うので、300元に負けさせた。丹治さんが100元払ってくれた。温めるように言いつけ飲み始めると、度数は35度でも甘口ですいすい入ってしまう。ボトルの能書きを読んだら、メキシコのお酒だった。3分の2ほど飲んだら食堂車を閉めると言われ、部屋に戻って横になった。このお酒のおかげで幾らか眠れた。
 丹治さんは高地旅行は初めてだと言っていたが、
 「自分に俺は高山病になんか罹らない。と暗示をかければ大丈夫ですよ」と無責任なことを私が言うのを真に受けてか、丹治さんもずっとアルコールを飲んでいた。
 格尓木(コルドム)で高山用の機関車に付け替える。丹治さんも同室の2人もその付け替え作業を写真に撮りたいという。停車時間は18分、起きられるかどうか心配していたから、
 「私が起こしてあげますよ」と請け負うと、皆さん眠りについた。列車が停車する度に目を覚ましてしまう。その都度私はトイレへ行った。