11月26日(水曜日)・第6日目
26日はプーケット湾から高速船に乗って、シュノーケリングを楽しむラチャ島へのツアーに出かけた。これには奥さんも同行した。
午前9時30分出発、約1時間高速船に乗る。往きは向かい風のため波が荒く、舳先に陣取ったのはよいが、まともに波飛沫をかぶってしまった。高速船は波に打たれバタンバタン上下にバウンドし、快適な船旅という訳にはゆかなかった。
ツアー客は12人ほどである。若いヨーロッパ人が多かった。余りの激しい揺れに、数人が船酔いをし嘔吐した後、真っ青な顔で苦しそうだった。すかさずサンパン氏の奥さんが、こめかみに塗り薬を塗ってあげ、鼻の穴にその液体を嗅がせたりして介抱する。よほど強烈な薬なのだろうか? 船酔いは何とか治まったようだった。
ラチャ島は白い砂浜にコバルトブルーの浪静かな浜辺だった。浮き板を長く繋げた桟橋に快速船が繋留、一旦下船し、11時に再集合してシュノーケリングに出かけるのである。

ラチャ島の裏側に回り、珊瑚礁や熱帯魚の見える入り江で、貸し出されたシュノーケルを貰い、救命胴着を付け美しい海底散策を楽しむ予定が、シュノーケルが合わず、高い波にもみくちゃにされてさんざんな思いをした。
1時間ほどで乗船、浜辺に戻って昼食である。このツアーは昼食と、船内のフルーツと飲み物のサービスが付いている。
ビーチサイドの食堂脇の小山から、体長2mもある大トカゲが降りてきた。昼食に出された煮魚のおこぼれを食べに来るのである。ほんの数メートルの距離から観察できた。

皿に残った魚の骨を頭ごと放り投げてあげると、やはり一番大きいトカゲが小さいのを押しのけてがぶりつく。硬い骨でもばりばり平らげてしまうので、さぞかし強烈な顎を持っているのだろう?
午後3時、帰りの船は風邪を背にしての順行だから、余り浪をかぶることもなく40分で戻ってきた。
プーケットの幹線は、サラン橋から島の中心となるプーケット・タウンまでを縦断する国道402号線である。途中プーケット国際空港の脇を横切り、そして古い町タランを通る。
主なビーチのある西海岸は細い道でつながっており、空港からのアクセスも良い。島の東西を結ぶ道も数本あり、プーケット・タウンから各ビーチへも行きやすい。
プーケット国際空港は島の北はずれにある。島の最南端迄でも1時間以内で到着できる。プーケットタウンまでは約30分である。
このプーケットタウンに、サンパン氏の娘と息子達、長男の奥さんの薬局がある。主に外国人旅行者を相手に商うから、値段の高い薬が売れるのだという。薬局のスタッフも英会話がぺらぺらの人を雇っているので、おのずと外国人客が買いに来ると言う訳である。
長女夫婦、長男夫婦、アメリカ帰りの一番末子も、皆大学出で英会話はお手のものだ。
何処へ行くのにも車での移動である。プーケットタウンを行き来すると、必ずファミリーの薬局に出くわす。
サンパン氏はサンパン氏で、古い家を買い取り、リサイクルしてレンタルハウスを手がけている。娘夫婦も新築の5軒つなぎの家を新築し貸し出しているし、家族揃って事業に精出しているのにも感心した。

ラチャ島の帰りにワチラ君の店に寄った。するといきなり
「鈴木さん家へは帰れませんよ。ずっとプーケットで暮らして下さい」という。
息子と話していた奥さんの顔が緊張した顔になった。首相官邸前の座り込み闘争が、さらに緊迫した闘争に拡大したのである。
私も首相官邸の座り込みに参加し、民主化闘争を応援した一人として、事態の成り行きには注目していたが、空港閉鎖になるとは予想もしていなかった。
サンパン氏の話では状況が良く伝わってこないのだが、
「外遊に出ていたソムチャイ首相が帰国するのを阻止しました。バンコクにあるドン・ムアン、スワンナプーム2つの国際空港を占拠しました。スワンナプームはタクシンが造り莫大な税金を汚職しました。だからスワンナプームを閉鎖したのです」と話す。
「首相は何処へ降りたのですか?」
「チェンマイで降りました」
タイのタクシン元首相派政権打倒を掲げ、25日にバンコク国際空港に集まった反政府市民団体・民主市民連合PADは26日も、数千人の支持者が空港のターミナル内や敷地で座り込み、抗議行動を続けたのである。市民連合支持者は、ターミナルビル4階の出発ロビー付近に集結、抗議集会を続けているが、現場では空港の警備員が見回るだけで、警察や軍兵士の姿はほとんど見られない。最高裁の判決が間近なので中立的立場を取っているのである。
バンコク国際空港は1日約700便が離着陸するアジア有数のハブ(拠点)空港で、毎日11万~12万人が利用している。
空港は26日早朝から運航を全面停止し、約1万人の利用客が足止めになった。空港内やバンコク市内では、小規模な爆発や銃撃などで約10人が負傷、事態は混乱の度合いを深めていると言うニュースが流れてきても、プーケットでののどかさは普段と変わらない。
空港では、数千人がターミナルビル内で夜を明かした。その中に日本人利用客も多数おり、バンコクの日本大使館は空港に職員を派遣するなど対応に奔走したようだ。
市民連合が首相府占拠を開始した直後の9月と同様、首都に非常事態が宣言される可能性も出てきた。が、幸いこれには至らなかった。
私は11月27日(木曜日)の午後11時5分にプーケットを発ち、バンコクスワンナプーム空港で乗り換え、28日午前6時の便で帰国する予定になっていた。
運行が全面停止になった事態が何時解除になるのかが気になるところである。
国際空港を閉鎖したという事態は、国際的にも顰蹙を買うだろうし、タイのイメージを損なうことになる。一刻も早い解決を見いだしてくれるだろうと一抹の期待もあった。
ワチラ君と若奥さんが、いち早く私のチケットのブッキング手続きを開始してくれた。一人だから後回しにされるのは覚悟していた。こうした事態になると、ツアーで来ている団体は現地旅行代理店と連携し、いち早くチケットを取り付けてしまう。
後で判ったことだが、空港では、職員や航空会社スタッフがほとんど居なくなってしまい情報を仕入れる手段が無くなっていた。空港内に待機を余儀なくされた利用客は、いつチェックインが再開されてもいいように、チェックインカウンターからは離れられない状態となった。カウンターが開かないことには再予約が出来ないのである。
大荷物をチェックインカウンター前に陣取らせ、順番の確保をし続けなくてはならない。盗難のこともありこの場から長時間離れることもできないのだ。お行儀のよい日本人達は、ベンチの確保ができた人以外は、自分の荷物に座り、荷物から離れず、トイレは交代で往き、じっと秩序を正しく守っていたと言う。
空港のSHOP関連は3階の、到着ロビーの一部でレストランやコンビニが営業しているだけだった。出国審査後の出発ロビーであれば、色々な店も開いているだろうが? 25日に出国審査を終えて、待合室に入った人の消息は分からない。4階の出国ターミナルのチェックインカウンターでは、何も無い状態で3万人近い外国人が空港内で、身動きが取れなくなっていたのである。
待機客がどのように過ごしていたかというと、ベンチで寝て待つ者、持っていた毛布を床に敷いてテリトリを作る者、職員の居ないカウンター内の椅子に陣取る者、手荷物検査機のベルトコンベアのフカフカ感を利用して眠る者等々で大変な苦労をしたようである。
ちゃっかり組はカウンター内部から電源を拝借し、情報収集と音楽鑑賞で時間待ちをする人も居た。
この状態が12月4日迄、10日間も続いたのである。空港での食費は、待ちぼうけを食った利用客の支弁である。
一方、占拠されたバンコクの代替え空港としてバンコクの東120kmにあるウタパオ空軍空港の使用を決定したと言うニュースも入ってきた。しかし、ウタパオ空港をスワンナプームとドンムアンの代替としても、フライト数が大幅に増加するため、空軍空港の設備ではとても対応しきれないだろう。
私も、20年前にニュージーランド空港で、空港消防士5人によるストライキで、5日間このような状態にさらされた経験を持っている。闘争は支持するが、私と関わりのないところでお願いしたいと常々思う。
やはり12年前にブータン旅行のツアーで御一緒した方が、スリン象祭りツアーに参加していてこの空港閉鎖に巻き込まれ、3日遅れで、マレーシア経由で帰国したと知らせてきた。
マレーシア経由で帰国した人達の航空運賃、ホテル代、食事代などは別に払ったそうで、使えなくなった航空券の払い戻しもなかったそうである。お気の毒でした。
ワチラ君が何度もノースウエスト航空に電話を掛けてくれて、12月1日に、12月6日(土)午前6時発のチケットを予約してくれた。
「これが一番早いチケットです。それ以前のチケットはもうありません」
「そうですか? どうもお世話を掛けました。ところで5日のプーケットからバンコク迄のチケットはどうなりましたか?」
「たぶん大丈夫でしょう? このチケットも再確認を取らないと確定ではありませんよ。鈴木さんずっとプーケットで暮らして下さい」と笑うのである。
「妻に電話を掛けたいのでお願いします」
ワチラ君は自分の携帯から電話を掛けて、
「お母さんですか? 私は誰ですか?」等とおどけたものだから、妻は“振り込め詐欺”か何かと思い込み、
「電話を掛けたなら自分から先に名乗りなさい」と憤っていた。
「私だ。タイの政治闘争に巻き込まれ、当分帰れなくなった」
「あの失礼な電話は誰なの?」
「息子のワチラ君だよ。ふざけるのが好きだから冗談を言ったんだよ」
「12月5日が国王の誕生日でしょう? 帰国はそれ以降になると思っていたわよ」
「ずっとサンパンさんの家でお世話になるから心配ないよ。それじゃあね」
タイ政府側も強硬姿勢を崩していない。事態の長期化が予想されるところだが、プミポン国王の誕生日が12月5日なので、これまでには解決するのではないかとの予測も立った。妻もその辺りの見当は付けていたらしい。私が海外から電話をしたのは、先ほど書いたニュージーランドのスト騒動の時と、今回の2回だけである。
11月27日(木曜日)・7日目以降
27日からは午前9時に家を出て、まずはサンパン氏が改修中の貸家の見回りに行く。職人にあれこれ指図をし、必要な材料などは自分で買いに行くのである。お金持ちのわりには細かいところがあって、ちょっとでも値段が高いと又、車で別な店へ行く。ガソリン代を考えたらかえって高いものにつくと思うのに、毎日がそんな感じで、職人の仕事にいちいち口を出している。その間私は近辺を散歩したり、花の写真を撮ったりして過ごした。
午後からは毎日海へ出て裸になるのだが、この日は雲一つないよい天気だったので上半身裸でぶらぶらしていたら、みるみる間に肌が真っ赤になってしまった。