11月23日(日曜日)・第3日目
23日は午前9時に家を出た。スリンで書き上げた絵はがきの切手を買ってくれるように頼んだのだが、日本同様のセブンイレブンやコンビニは方々にあるのに、そうした店では切手は扱っていないので、明日月曜日に郵便局で買いましょうと言うことになった。
市内を走るバスに乗った。車掌が居ないので変に思いながら15分乗り下車したが、切符を買った様子もない。つまりバンコク市内のバスは只(無料)だったのである。バスは古くて薄汚れているけれど、今時只というのは世界広しといえど他の国では例がない、凄いことだと感心した。
牛の内臓をごちゃ混ぜにした煮込みを食べた後、タクシーに乗り換えて、王宮前広場の“プラ・メール”へ向かった。

今年の1月2日癌で崩御されたプミポン国王陛下の姉君、ガラヤニ王女殿下(84歳)の葬儀が、1月2日から11月16日までおよそ11か月にわたり行われてきた。
その葬式最後の本葬が11月14-16日サナームルアング(王宮前広場)にて行われ、その会場に建てられた立派な建物で、15日パーリー語でいうチャペタ(荼毘)に付された。骨拾いが16日に行われ、広場周辺には、教育発展に尽くした王女に別れを告げようと10万人以上もの国民が集まり、つぼの形をした黄金のひつぎが広場に運ばれる儀式などを静かに見守った。
葬儀にはプミポン国王夫妻ほか王族、ソムチャーイ首相ら政、司法、立法のトップらが出席した。
タイ王室最高位クラスの本格的な葬儀は12年ぶりだと言う。
葬儀が終わった後も、このプラ・メールへは、ガラヤニ王女を偲んでタイの人々が沢山訪れてきていた。それでなくともこの近辺はいつも世界中から集まってくる観光客で賑わう観光名所なのである。今日だって、10万人近い人々が来ているのではないかと思った。
豪華な黄金の柩が今でも展示してあるというので王宮前広場に来てみたのだが、長い行列が出来ていて、柩を見るには1時間以上も並ばなくてはならない。諦めて、新築された建物を写真に納め、いよいよ首相官邸前の座り込み会場に向かった。車が渋滞する中で、タクシーに乗るのに大変な思いをした。
車の進入禁止の立て看板前でタクシーを降り暫く歩くと、鉄格子の内側に古タイヤが積み上げられている光景が目に入ってきた。
反政府市民団体[民主主義のための市民同盟(PAD)]が築いたバリケートである。物々しい警備である。PADの若手スタッフが入場者を厳しくチェックし、持ち物などを調べている。
私もこの日は甚兵衛姿でなく、タイ式のポケットの沢山付いた半ズボンに、PADのシンボルカラー・黄色のTシャツ、黄色い野球帽を被っての入場である。
黄色は王様だけが用いることの出来る色だと言う。PADは日本の明治維新の官軍みたいに錦の御旗を身に付けて、王様の新任を受けているとアピールしている訳である。
PADの支持層は少数政党ながらお金持ちが多く、カンパも豊富で運動資金もたっぷり確保しているようだ。テレビ局を買い切り24時間首相官邸前の座り込みを実況中継している。
このテレビにも映っていたが、座り込み会場に集まっている人々は皆、手に手に“ムートン(手のひらが3枚付き両脇が動く・長く拍手をすると手が痛いから、これを鳴らして拍手代わりにしている。)”を持っていて、頭上でカチャカチャ鳴らすのである。因みにタクシン支持派のシンボルカラーは赤で、ムートンに対抗したカチャカチャは足の裏を3枚合わせた“タートン”である。(変なところでも意地を張ったりして笑ってしまう)
バリケートの中に入ると、狭い通路の両脇にテントを張った人々が座って居る。冷やしたペットボトルを無料で配っている人がいたり、出入り口だけに警戒に怠りなく、一種独特の雰囲気が漂っていた。
さらに進むと人が一人通れる位の入り口があり、其処でも数人で荷物の中身をチェックしていた。爆薬物が投げ込まれ、怪我人が何人も出ているので、こうした厳重なチェックを徹底し暴挙を未然に防ごうというのだ。
中に入って吃驚した。登山用のテントの中にうずくまっている人、ビニールシートで囲いを作り、その中に座って居る人、通路という通路がそうした人々でいっぱいだった。
私は写真取材が目的なので、中央会場にも行ってみた。天井の高い大きな仮設テントを幾つもつなげ、かなり高い位置に演壇が設けてある。

巨大テントの中には1万人以上の人達が座り込み、手に手にムートンを振りながら、弁士の演説に共鳴の拍手を送っている。
かなりの椅子が持ち込まれているが、この会場では横になる人は居ないみたいだ。
演壇前に2m程の通路が設けられていて、全国から駆けつけてきた仲間が地名を書いたプラカードや国王の写真、タイの国旗を振りかざして入場してくると演壇の弁士が紹介する。その都度大きな連帯の拍手がわき起こり、胸にじーんと伝わって来る光景が繰り広げられるのだ。
ムートンどうしでハイタッチをしたり、両手を振り振り、
「遠くから良く来たね。御苦労さん」等とねぎらいの声を交わしたり、皆さんがとても陽気で熱情的なのだ。

参加者はそれこそ老若男女が集っている。だが圧倒的に多いのは年配の女性だ。子供連れの家族も居れば、若い娘達だけのグループが参加してきている。
サンパン氏に言わせれば、
「タイには昔ジャンヌダルクみたいな女性が居て国を救ったんだ。1785年にプーケット(現在のタラーン郡)国主の妻クンイン・チャンは妹のムックと共同で兵を集め、地元の名士らとミャンマーを撃退した話が有名で、今でも語り継がれている。だからタイの女性はそのパワーを受け継いで今でも強い」のだそうだ。
それにつけても、こんな和やかな政治闘争ってあるのか? 見ようによってはお祭りみたいな光景なのである。
この巨大テントもカンパによって建てたと言うし、何よりも吃驚したのは、ここに集まってきている十数万人の腹を満たすべく、食料や水がすべて只で供給されていることである。
ボランティアの人達が大鍋で卵を茹で、弁当に入れるおかずを造ったり、果物をむいたり、御飯を盛りつけたりしている。

ちょっと並べば、数種類の食べ物が手に入り、何の不自由も感じさせない。
金融恐慌で職や住まいを失った日本人の不幸な人達の姿をテレビで見たりすると、この中にもそうした人が混じっているのではないか等と、げすな考えを抱いたりしたりして
「ここは天国だね。仕事のない人や家のないタクシン派の人も沢山来ているんじゃないの?」と聴くと
「中にはそうした失業者も居るかも知れないが、ここに集まっている人はタイの民主化を闘う人達で同志なんですよ」
「いつまで続けるつもりなのですか?」
「タクシン一派を追放し、タイに民主政治が戻るまで続けます」
私も45年前に沖縄返還や日韓会談反対、ベトナム戦争反対などの闘争で動員され、国会周辺をデモ行進した経験があるけれど、いつも手弁当だった。機動隊や官憲に取り囲まれての国会周辺デモでは、プラカードも旗も掲げてはならないという規制の中でのデモだったことを覚えている。
タイの政治闘争には悲壮感がない。何とも陽気なのがお国柄といえるのだろうか?
会場内を一回りすると、仮設トイレや、仮説のシャワー室が設けられていた。病人や怪我人を救護する救急センターには常時医師や看護婦が張り付いている。

サンパン氏の奥さんの友達がグループで道路脇のテントに座り込んでいた。私もそのテントの中に座ると、ムートンをくれた。私は子供達にあげようとボールペンを100本程持ってきていたので、激励の意味を込めて周りの人に配り、500THB(1,500円)をカンパした。すると住所と名前を書かされた。
「貴重なカンパだから必ず本部へ届けます」と言うのである。せめて2,000THBもカンパすれば良かったかなと恥ずかしい思いがした。
ちょっとした空間があれば、次々押し寄せてくる部隊がテントを張ってしまう。我々も木陰のベンチに陣取った。すると奥さんが弁当とおかずと果物を運んできてくれた。山と積んであるペットボトルは自由に飲んで良いという。
首相官邸前と言うより、官庁街をすっぽり包囲した感じの陣容を敷いている。とにかくもの凄い人達が集結しているのだ。中央会場の様子は、各テント内に取り付けられたテレビで見ることが出来、テレビを見ながらムートンをカチャカチャ鳴らしている。
日本での国会周辺の座り込みは練炭を持ち込んだり、襟巻きをぐるぐる巻きにして暖を取る様子が侘びしく目に付いたが、タイは暑い国だから、夜に備えてジャンパーが一枚でもあれば何とか凌げるから楽である。
6時間ほど会場内に座り込み、午後6時に出ることになった。別のゲートから広い道路に出た。其処にも大勢の黄色いシャツを着た人達がシートを敷いて座り込んでいる。

国会議事堂に通じる大道路で、12月5日の国王の誕生日を祝う飾り付けがされている。
街路樹には色とりどりの電球が取り付けられ、まるでクリスマス気分だ。その大道路にも古タイヤが積み上げられ、検問所が設けられていた。
「ここは第二会場です。ここにも10万人ぐらいが座り込みます」
「凄いですね」
「彼処が国会議事堂です」
この道路にも中央会場のような巨大テントを設営中だった。大きな広場にも黄色のTシャツを着、ムートンを手にした人達が押し寄せてきている。


ゲートを出たところに車付きの大砲が5台並べられ、儀仗兵が20人整列していた。その数十メートル先の交差点の向こうには陸・海・空・警察の儀仗兵(各隊200名)が、バッキンガム宮殿の近衛兵みたいな色とりどりの帽子を被り整列していた。
「さっき大砲を撃っていたのは此処だったのか?」
「鈴木さんはラッキーですね。これは王様の誕生日の閲兵式リハーサルです。こんな光景は滅多に見ることが出来ませんよ」
太陽が落ちかなり暗くなっていたけれど、私は誰よりも前に出てシャッターを押した。
大きな交差点には有刺鉄線を張り巡らした武装警官達がバリケートを築いていた。

こんなのものものしい雰囲気も珍しい、私は前に出て写真を撮った。するとサンパンの奥さんが飛び出してきて、私の腕を引っ張り、
「鈴木さん駄目ですよ。警官を写したら捕まってしまう、さ、早くここから逃げましょう」と人混みの中に紛れ込んだのである。
「やっぱりまずかったですか?」
「タクシン一派の政府になってからの警察は危険です。逮捕されなくて良かった。心配しました」
「すみませんでした」
再び第二会場に入り、別の出口から会場を後にした。此処には沢山の車が並べられ、バリケート代わりにしていたし、テントの屋台ではムートンやTシャツ、国王の写真、国旗などを売っていた。このものものしさは此処だけのものなのか? 皇居前広場に集まっていた大勢の観光客はこうした座り込みを知っているのだろうか? 政治に関心のない人々は座り込みのテレビも見ないだろうし、一旦この会場を後にした街の喧噪を見た限りでは、此処との繋がりを全く感じないのが不思議に思った。