2008年 ポルトガルの旅8日間

5月14日(水曜日)・第3日目

朝4時に起き出して絵葉書の残りを書きあげ、ホテルのポストに投函した。
 ホテル出発は午前9時であった。昨日までは何とか天気は持ってくれたが、予報では[晴れのち曇のち雨]だから雨合羽を持って出るべきだった。私は晴れ男だから、どこの旅行でも滅多に雨に降られたことがない。だから傘を持ったことがない。ポルトガルの5月の陽気は、雲の流れが速く、今晴れていたかと思うと分厚い雲が覆い被さり、急激にスコールがやってくる。だから予報があんな具合なのだ。

 “コインブラ”は、政治のリスボン大都市圏、商業のポルト大都市圏に次ぐポルトガル第三の重要な地域であり、セントロ地方の都市を束ねる役割を果たしている。1139年から1255年までポルトガルの首都であった。古代ローマ時代にはアエミニウムと呼ばれ、当時の遺跡が今でも残っている。1290年にコインブラ大学が設立されたことによって、ポルトガルの文化的中心地に発展した。コインブラ大学はヨーロッパで最も古い大学のひとつで、観光客も多い。

卒業生のシンボルカラー

 5月は大学の卒業の季節で、昨日の第二火曜日は卒業生達が学部ごとのシンボルカラーを身につけ町中を行進したようである。赤は法学、青は科学、黄色は医学、紫は薬学、紺は文学部、学部の色のリボンをマントに付けて、町を闊歩し、卒業の時に焼くのが“ケイマ・ダス・フィタス(リボン焼き)”祭りだ。夕方から深夜まで学生の熱狂が続いたとか。
大学を出て、サンタクルス教会に向かう途中で、猛烈なスコールに襲われた。よその家の軒下にツアーの全員が雨宿りをさせて貰った。傘を持たない私は、自分は濡れても大島紬の作務衣にカメラをしまい込み、晴れ男神話が崩れたのを恨めしく思った。
 小降りになってきたので細い路地を下って教会へと向かった。石畳が引き詰められた坂道はつるつると滑る。何百年もの長い間人々がこの石畳の上を歩いたのだろう? 表面がタイルのように滑るのには閉口した。くねくね曲がった所でガイドが傘を上に向けて、小さなビルの4階を指した。昔の学生が下宿していたままの住居を、レプリカにして残してあった。

当時の学生の住居レプリカ

 要塞を兼ねたカテドラル見学を終え、旧城壁の門をくぐり、コインブラの繁華街でフリータイムがあった。ホルタジェン広場からサンタクララ橋を写真に納めた。
 “サンタ・クルス修道院”は1131年アフォンソ・エンリケスによって建てられたが、16世紀にマヌエル1世が大規模な改築をしている。本堂の左側の説教壇はポルトガル・ルネッサンスの傑作、両脇の壁は美しいアズレージョで飾られている。
 コインブラから南に15kmほど所に、イベリア半島最大の“コニンブリカのローマ遺跡”がある。農作業をしていて偶然に発見されたもので、ギリシアやスペイン遺跡のような規模はなく完全でない。これから発掘が進められると思う。遺跡には方々に色の付いた細かい石を並べて描かれたモザイクの床があり、当時の庭園と噴水を再現した“噴水の館”でも状態の良いモザイクの床を見ることが出来た。時折雨がぱらつくので、見学は充分だと、そうそうに屋根のある博物館に避難した。この博物館には、陶器や彫刻農耕具などの出土品が陳列されていた。
 珍しい“ブラシの花”がみんなの目を引きつけた。

“ブラシの花”

 午後は約51km北上し、“アヴェイロ”での観光である。
 10世紀ころは、ラテン語で、〈鳥を狩り、貯えておく場所〉という意味のAviariumと呼ばれていた。11世紀までは、ムーア人の支配下にあったが、その後は、ポルトガル王国の領土となった。1575年の暴風雨により、海との水路が砂でふさがってしまい、漁港と交易の中心として反映していた街は一時的に衰退してしまった。が、19世紀に街を襲った暴風雨がふさいでいた海への入口を開いたため、再び漁業を中心に再興を果たしたという。
 大西洋岸に位置し、ポルトガルにおける重要な漁港がある。
 アヴェイロの歴史は、イタリアの海港都市ヴェネツィアと同様に、海を克服してきた[潟]の街で[ポルトガルのヴェニス]とも呼ばれている。
 ツアーバスはアズレージョで有名な“アヴェイロ駅”へ直行した。この駅を見るためだけに観光が組まれたようだ。駅舎全体にアズレージョが貼り付けられている。

“アヴェイロ駅”

 【 “アズレージョ”(ポルトガル語:azulejo、スペイン語ではアスレホ)は、ポルトガル・スペインで生産される、典型的な上薬をかけて焼かれたタイルである。中断なしに15世紀から5世紀の間、芸術の流行として引き続いてきた。ポルトガル文化における典型的な外観となった。
 ポルトガルへ来れば、アズレージョは教会、宮殿、一般の家の内や外、鉄道駅や地下鉄駅でも見ることができる。アズレージョは、壁や床、天井にも使われるように、ポルトガル建築の主要外観を構成している。装飾用に使用されるのみでなく、一般の家の室温管理のような特別な機能と能力を持つ。多くのアズレージョの年代記は、ポルトガル史の歴史的・文化的外観を成している 】

ポルトガルの電車

 ポルトガルの駅には改札口がなく閑散としている。自動券売機で切符を買い、ホームに止まっている電車に乗ればいい。駅にはトイレや売店もあり、近代的に整備されていた。
 町の中心に中央運河があって橋が掛かっている。ちょっとしたお土産屋が並んでいて、ここだけにしか無いという(小さな魚や貝殻の形をした白い皮の中に、黄金色の卵黄クリームが詰まった)有名な“オヴォシュ・モーレシュ”を売っている。ツアーの女性達はポルトガルの土産にと、沢山買い込んでいたが、スーツケースに入れたら粉々になったと嘆いていた。
 運河の近辺で50分の自由ショッピングタイムとなったが、雨が降り出してきたので、私はBARへ駆け込み、ジョッキーのビールを楽しんだ。
 ポルトのホテルへは17時30分に着いた。夕食は19時だというので、町のスーパーに行き、缶ビール6本(350ml)とつまみに生ハムを買い冷蔵庫に入れた。
 デジカメのバッテリーの充電は毎日の仕事だ。バスタブに浸かったあと、さっぱり気分で夕食でも生ビールを飲み、部屋に戻って日記を書きながら、ちと量は多いと思ったが生ハムで缶ビールを、翌日の荷物にならないように全部飲んで寝た。