2008年 ポルトガルの旅8日間

ポルトガルの国章
ポルトガルの国旗

ヨーロッパ大陸最西端ロカ岬を訪ねる 2008年5月12日(月)~19日(月)

5月12日(月曜日)・出立

 リスボンに着いたのは5月12日(月曜日)午後21時30分である。日本との時差が後戻り8時間である。日本を午前11時に出発し、ロンドンでの乗り次ぎで、21時間30分掛かった。順調にゆけば、22時30分にはホテルに着いている訳だった。
 日本からロンドンまでのヴァージン・アトランティック(VS)の座席は前座席との間隔が狭く、小柄な私でさえ超窮屈に感じた。救いは機内食が行き届いていたことだ。日本食はすぐに無くなってしまうほどの人気で、タケノコの皮に混ぜご飯が包んでありほっかほか、それに蓋付きの熱々の味噌汁が付き、おまけに盛りそばが添えてある。ドリンクサービスも当節の飛行機会社と比べると満足できるものであった。
 乗り継ぎ後のブリティッシュ・エアウェイズ(BA)は語るに落ちる。
 今回のJTB“ヨーロッパ大陸最西端ロカ岬を訪ねる 旅情満喫ポルトガルの旅8日間”は2名のキャンセルがあったものの、総勢22名に木下(きした)添乗員が付いた。
 出発2日前、木下氏から出発案内の電話があった。その時
 「ヨーロッパでは、スーツケースが届かないことがよくありますので、手荷物の中に、一日分の着替えと歯ブラシ・髭剃り等の洗面具をお入れになった方がよいと思います」と言う説明があった。
 「はい」と返事はしてもまさかという気持ちの方が勝ったから、私の手荷物にはカメラ機材と現金、ガイドブックぐらいしか入っていない。
 ユーロ圏は入出国カードも税金の申告書もいらないから、遠距離であっても簡単でいい。不満に思うのはスタンプも省略なので、パスポートに記録が残らないことである。
 到着便名を見、8番のターンテーブルに行くとツアーの何人かがスーツケースを拾い上げていた。添乗員の木下氏は一切手助けをしない。最近のツアーでは、ホテルでも各自でスーツケースを自分で運ばなくてはならなくなった。ポーターを雇わない分、旅行代金を安くしているのだという。ポーターに頼めば1ユーロのチップを払うことになる。
 乗り換え機は小さかったから出てくるスーツケースも少ない筈なのに、いくら待っても我々ツアーが預けた荷物が出てこない。そしてターンテーブルは停止してしまった。
 22人中16名のスーツケースが出てこなかったである。こうしたことに慣れている木下氏は、荷物が届かなかった人々にパッケージクレームタッグ(荷物引換証)を配り、ロストバゲージに並びましょうというのだ。銘々に受付順番表を引き抜き、呼び出されるとカウンターに行き、木下氏のサポートで荷物の特徴やら色などを説明し、鍵の事でもあれこれ聞かれる。私の鍵は番号あわせ式なので、上から6/0/9だとメモをさせた。
 16人がこの手続きをしたのだから、ホテルに着いたのは23時30分になってしまった。スーツケースがないから、まず一風呂浴びて、ロビーの奥にあるBARへ行き、ポルトガルの生ジョッキー大を注文した。周りにいた客が親指を突き上げて、凄いと驚きの仕草をする。彼等は中ジョッキーを何杯もお代わりするのが常識のようなのだ。
 3杯目を飲み始めると、ツアーへ一人参加している金子女子が降りて来た。BARが閉まる1時まで一緒に飲んだ。
 
 ポルトガルは日本の約4分の1。南北・約563Km、東西・約200km長方形のような形をしている。リスボンを中心にボルトまでの約300kmを5日間で往復するゆったりとした観光である。

5月13日(火曜日)・第2日目

“ジャカランダ”

 ホテル出発は午前8時30分である。大型バスが到着、保険の保証がない一番前の席を空けて座っても、一人参加の12名がワンボックスを使ってまだ余る。このバスで5日間の観光をすることになる。 日本人の男性現地ガイドが乗り込んできた。
 天気は上々、気温は22度位で丁度良し。リスボンは“七つの丘の都”と呼ばれるだけあって、坂の多い町である。幅90mもあるリベルダーデ通りには、いくつもの銅像やオベリスクが建っている。ボンバル広場に植えられている街路樹“ジャカランダ”が、あでやかな紫の花を満開に咲かせて我々を歓迎してくれた。
 [ジャカランダは春日部にもあった。原産地は南米、移民として南米に渡った日本人が、桐の花に似ている事から、“桐擬き”と呼んだとか。またハワイでは日系人が桜を偲んで、“ハワイ桜”とか“紫の桜”と呼んでいる。どちらかというと竜胆(りんどう)が固まって咲いているような感じで、散るときは花ごと落ちてしまう]その紫の花につい歓声が沸いてしまった。
 広い道路を曲がると、狭い坂道に市電の線路と架線が目に飛び込んできた。両脇の建物に圧迫されそう。数百年前に敷き詰められたという石畳の狭い道路の両脇には、車がびっしり駐車していて、大型バスがその間を突っ込んでいくのである。登坂での信号停車後発進は、後ろにずれ落ちそうな気がしてつい足が突っ張ってしまう。

“テージョ川に浮かぶ貴婦人・ベレンの塔”

 いくつかの丘を通り、海のような“テージョ川”に降りてきた。ポルトガル観光のスタートはこの川岸に建つ“テージョ川に浮かぶ貴婦人・ベレンの塔”からである。16世紀初め舟の出入りを監視する要塞として建てられ、ポルトガルの栄枯盛衰を見守ってきた塔は、マヌエル様式のテラスを持ち、2層の堡塁部分と4層のタワー部分からなる。6階は王族の居室、5階は食堂、4階は国王の間。3階は兵器庫、2階は砲台、1階は潮の干満を利用した水牢だった。私たちが訪れる前にイベントがあったようで、提灯のようなデコレーションで飾られていた。せっかく来たのに川岸から眺めるだけで、中に入れなかったのは心残りとなった。

“発見のモニュメント”

 ベレンの塔から歩いて10分ほどの距離に“発見のモニュメント”がテージョ川に向かって建っている。1960年エンリケ航海王子の500回忌を記念して造られた。高さ52mの帆船に、カラベル船の模型を手にしたエンリケ航海王子が先頭に立ち、次に大航海時代の黄金期を築いた マヌエル1世、インド航路発見の立役者 ヴァスコダ・ガマ、ブラジルを発見した ペドロ・アルヴァレス・カプラル、世界周航を果たした フェルナン・デ・マガリャンイス(マゼラン)と、大航海時代に貢献した人物が並ぶ。モニュメント前の広場には、大理石のモザイクで世界地図と各地の発見年号が記されていた。日本発見は1541年となっていたが、これはポルトガル船が豊後に漂着した年である。ベレンの塔は世界遺産になっている。
 発見のモニュメント前の線路向こうにジェロニモス修道院が見えるのだが、リスボンの鉄道には事故防止のため踏切がない。従って立体陸橋まで戻って線路を超えて修道院に向かった。

“ジェロニモス修道院”
ジェロニモス修道院の祭壇

 “ジェロニモス修道院”はリスボンのベレン地区にある修道院で、世界遺産のひとつである。
 ヴァスコダ・ガマによるインド航路開拓及び、エンリケ航海王子の偉業を称え1502年にマヌエル1世によって着工され、1511年に回廊など大部分が完成したものの、その後、マヌエル1世の死やスペインとポルトガルの同君連合(複数の国の君主が同一)による中断等もあり、最終的な完成迄に300年ほどかかっている。その建築資金は最初バスコ・ダ・ガマが持ち帰った香辛料の売却による莫大な利益によって賄われ、その後も香辛料貿易による利益によって賄われた。マヌエル様式を代表する荘厳な建造物は海外からもたらされた富と、大航海時代の栄華を反映させた修道院といえよう。繊細な彫刻で有名な南門、西門の美しさ、サンタ・マリア聖堂内のステンドグラスも大きくて立派、大理石のヴァスコダ・ガマの棺も安置され、聖堂の柱は椰子の木を模し、海洋をモチーフにして高い天井に向かってそびえている。
 この修道院の見どころは、中庭を囲む55m四方の回廊である。石灰岩を用い繊細な彫刻が施してある。
 修道院の前の通りには市電15番線が走っていて、駐車場には遊覧馬車も客待ちをしていた。

“サン・ロッケ(聖クロス)教会”

 次に向かったのは“サン・ロッケ(聖クロス)教会”である。1584年苦難の航海の末にリスボンにたどり着いた、日本の“遣欧少年使節”が1ヶ月滞在したイエズス会の教会で、16世紀末に建てられたイタリア・バロック様式である。教会奥にあるサン・ジョアン・パプティスタの礼拝堂は、瑠璃、瑪瑙やモザイクで飾られたリスボンで有数の美しさを持つチャペルである。

 日程表を見ると、今回の旅行は連日教会巡りである。
 たった2カ所の教会を見学した時点で、『もう教会はうんざりだ』と言う声が漏れだした。

サンタ・ジュスタのエレベーター

 バスは“ロシオ広場”に着いた。正式名はドン・ペドロ4世広場だが、リスボンっ子にはロシオ(公共の広場)の愛称で呼ばれている。ここから歩いて、サンタ・ジュスタのエレベーター近くに行き、50分ほどの自由時間となった。私は町の見学より、郵便局を探して切手を買わなくてはならないから、郵便局に直行した。
 日本までのハガキ、20gまでの封書は共に0.75ユーロである。シールに印刷してきた18名分の切手を買った。郵便局の並びに古銭店を見つけた。ポルトガルは現在ではユーロを使っているが、私は各国のコインも集めてきたので、ポルトガルの旧コイン200・100・50・20・10・5・1・ESCUDOSの1991年新硬貨セットを、45ユーロで購入した。日本円にすると6,300円だから高額である。今回の旅行で唯一の土産物になった。
 昼食は、アンコウの雑炊だった。そんなにオリーブ油も入っていないし、適当な塩加減で美味しかった。食後は210kmの移動になるので、ビールは中ビン1本のみにしておいた。

 リスボンから奇跡の地ファティマまで約130kmである。腹が張っているから皆さん気持ちよくお昼寝タイム。渋滞が始まった。今日はファティマの大祭日で、世界中から巡礼者が押し寄せてきているから、時間が掛かるでしょうというのだ。
 “ファティマのパジリカ”に到着。いろんなコスチュウムを着た牧師や尼僧、沢山の殉教者が集まっていた。

“ファティマのパジリカ”

 この地に起きた奇跡について説明しておこう。
 【 1916年春頃、“平和の天使”と名乗る少年がファティマに住む3人の子供(10才のルシア、8才のフランシスコ、7才のジャシンタ)の前に現れ、祈りのことばと額が地につくように身をかがめる祈り方を教えていき、その後も天使の訪問は続いた。
 第一次世界大戦中の1917年5月13日、ファティマの3人の子供たちの前に謎の婦人が現れ、毎月13日に同じ場所へ会いに来るように命じた。子供たちは様々な妨害にあいながらも聖母マリアと名乗る婦人に会い続け、婦人から様々なメッセージを託された。
 婦人からの予言は3つあった。
 1・死者の国への訪問。(フランシスコとジャシンタは神に召された)
 2・第一次世界大戦の終結。
 3・ヨハネ・パウロ2世の暗殺。だった 】           

 当時はオリーブの木が点在しているだけの荒れ地だったが、今は540m×160mと言う巨大な広場に65mの塔を持つネオ・クラッシック様式のパジリカがそびえ建つ。広場の収容人数は30万人以上という。毎月13日、特に5月と10月の大祭には10万人もの巡礼者で埋め尽くされる。
 1981年、前ローマ法王ヨハネ・パウロ2世がバチカンで狙撃された。その日は偶然にもファティマに聖母マリアが初めて現れたのと同じ5月13日だった。重傷を負った法王はその後奇跡的な回復を果たし、マリア様の御加護があった御陰として、翌年の5月13日御礼参りにファティマを訪れている。

高さ20mも有ろうかというキリスト像

 パジリカ前の広場中央に高さ20mも有ろうかというキリスト像が立っている。足下から泉がわき出し、飲むことも出来る。左側に出現の礼拝堂と呼ばれる聖母マリア像が祀られている白いチャペルがある。ここは聖母が初めて3人の子供達の前に現れた場所で、ロウソクが絶えたことがない。5月と10月の13日にマリア像が一般に公開される。熱心な信者がその周りを膝歩行で回っている。滅多にお目にかかれないマリア様を拝むことが出来たし、我々はラッキーな日にここを巡礼したことになる。
 なんとしてもカメラに納めておこうと、敬虔な信者の脇でシャッターを押したら、ギロリと睨まれてしまったがこの写真は貴重な写真となった。

聖母マリア像

 気になる迷子のスーツケースの情報が入った。コインブラのホテルにはまだ届いてないというのである。今日届かない場合もあるので、ホテルの近くにあるショッピングモールで、ちょっとした下着や着替え、髭剃り等を買う時間を設けたいというので、紛失組がぞろぞろショッピングモールへ入っていった。地下1階地上3階建てのモールの中はかなり大きく、売り場を見つけるのが大変だった。
 私もパンツを2枚(セット)と、髭剃り、そして眠り薬用の缶ビールを6本買っておいた。BEST WESTERN HOTELに到着したら、「スーツケースは届いています。各部屋に運んであります」との報告があった。思わず「ワー!!」と言う歓声が沸き起こった。部屋に入ってみるとスーツケースが置いてあった。まずバスタブの湯の栓をひねり、スーツケースを開けようとしたら、鍵が壊されているではないか。抜き取られたものはなかった。
 木下氏にそのことを告げた。私の他にも鍵が開かないとか、まだ届いていないとかのトラブルがあって、木下氏の近辺はワイワイしていた。
 部屋をノックする音がしたので開けてみると、スーツケースがまだ届かないという夫婦ずれの御主人が、「髭剃りを分けて欲しい」と言うのである。私のスーツケースは届いたのだし、使い捨てではなく替え刃式の12ユーロもした髭剃りだったけれど、二つも要らないし、困ったときはお互い様「どうぞお使いください。」とあげてしまった。
 夕食はカルド・ヴェルデ(グリーンキャベツのスープ)だった。日本で市販されている青汁の健康若葉みたいで、お世辞にも旨いとは言えなかった。
 食事が終わって部屋でビールを飲みながら、絵はがきを書いていたら、またノックがあった。先ほどの御主人が来て、
 「スーツケースは他の部屋にありました。このカミソリ開けちゃったけど、お返しします」と言う、
 「せっかく差し上げたのだから、どうぞお使いください」
 「だって、これお金が掛かっているんでしょう? 返します。有難うございました」と押しつけていった。開いた口が塞がらなかった。
 夕食の時にワインボトルを取って、先ほどの御主人と奥様にもお注ぎした。食事前にいち早く缶ビールを冷蔵庫で冷やしておいた。夕食時のワインも利いて、6本全部飲んだら眠くなり“絵はがき”のメッセージ書きは中断して、ベッドに横になってしまった。