6 月24 日・ 日曜日・ 4日目
4日目の出発は午前8時とゆったりだった。
集合場所のロビーへ行ってみると、添乗員の清水さん、通訳ガイドの楊さん、林さんが慌ただしくツアーメンバーの応対をしていた。
ホテル到着後に、高山病等で、体調不良を訴えた人が続出したようで、昨晩は休む間もなかったとか? 私と一緒に人力車に乗った御婦人は、もう一つの名峰見学旅行には出掛けられず、シャングリラのホテルで休養(別料金)し、一行の帰りを待つことになった。
高山病治療の特効薬は低地に降りることなのだが、シャングリラは海抜3,276mの高地なので、何ともお労しやである。
ホテルから約50㎞・40分、シャングリラ自然保護区・入り口に着く。園内専用循環バス(ジーゼルエンジン車)乗り場まで15分ほど歩き、バスにて属都湖(シュウドフ)で下車した。
属都湖は海抜3,750m、最も深い所の水深が800mもあると言われていて、湖畔には1.5mほどの板を敷き詰めた遊歩道が延々と続いている。

自然保護の観点から、湿地帯には人が入れないようにこうした歩道を造ってあるのだが、ヤクや羊、山羊などの家畜が放牧されていて、湿原の草を食べている。
遊歩道は自然保護区全体に敷き詰められている。総延長は気の遠くなる長さだろう。限られた時間で、小中甸(でん)草原に咲く高山植物を観察し、散策しようというのである。
日本の多くの観光客は草花の名前を聞きたがる。林さんが詳しく、それでも分からない植物名を、楊さんが携帯の図鑑を開いて調べてくれた。
楊さんと林さんは現地の人だけに、我々が平地を足早に歩くように、すたすた先頭を歩いていく。
黄色いサクラソウ、シャクナゲ、青ケシ、黄ケシ等々、旅行ガイドパンフレットに出ている高山の花を全部見ることができた。
深緑の森林浴よろしく、再び循環バスに乗り、碧塔海へと移動して、遊覧船に乗るグループと、ハイキングに挑戦するグループとに別れた。
碧塔(湖)海はシャングリラ自然保護区の中心にある。
湖は標高3,520mにあり、東西3㎞、南北700mでさほど大きくなく、景観は余り美しくない。が、周りの湿原の緑は目を醒まさせ、小さな黄色い花が一面に割りこんで、花のジュータンを敷き詰めていた。
遊覧船は30元(210円)。30分待ちで乗船できた。船内からの景観に期待したものの、写真に納める風景ではなかった。
下船したときには、足の丈夫なハイキング組が集合地に到着していた。
シャングリラハイキングは曇天。午前中でも気温は20度、セーターは不要だった。
昼食は山菜料理。響きは良くても中国料理そのもので、何処が山菜なのかしら? なんて言う不満もあったりした。
食後は約200㎞・5時間を掛けての移動で、ひたすら徳欽を目指す。
雲南アルペンルートのハイライト白范雪山峠(4,210m)近辺で、名山・白范雪山(5,137m)の勇姿を拝めるところなれど、この移動では強い雨が横殴りに降っており、視界も数メートルで何も見えない。気温は5~6度だろう。
氷雨の中、白范雪山峠で5角(8.5円)払ってトイレに入った。ブロックに囲まれたトイレは、板に長四角の切れ目が入れてあり、谷底が覗ける。
仕切りや扉なんか無いから、女性にしてみれば、21世紀にして数百年前の貴重な体験を買ったと言うことだろう。今回の旅行ではこうしたトイレが数カ所あった。
バスの後ろエンジンの脇にパイプが下向きで付いている。運転手の李さんが、そこへ勢いよく水が出ているホースを、かぶせる形でパイプに差し込むのだ。長い峠道を走行するのにブレーキを沢山踏む、ブレーキドラムが焼き付かないように水で冷やすのだという。
どんな仕組みで冷却しているのだろう? それよりも不思議に思ったのは、こんな高い峠なのに、何処から水を引っ張ってくるのかだった。
視界が悪くスピードが出せないので、ホテルには予定の2時間遅れで着いた。
バスの中でこっくりしてきても、長時間移動でくたくたになっていた。部屋割りの後、直ぐの夕食となった。
到着が遅れたので? 食べ物がぬるい。いや待てよ? ここ徳欽は海抜が3,400mだから気圧が低くなり沸騰点は90度ぐらいの計算になる。それでぬるめなのだろうと相席の人と話したが、やっぱりスープなんかは熱いのを飲みたい。
高山病対策でいろいろ注文が多い割りに、中国旅行の食事では、必ずテーブルにビール2本とコーラの大瓶が付く。先ずは無事到着を祝して乾杯。
食後は寝るだけなので、日記を書いた後、添乗員の清水さんを誘ってビールを飲んだ。
ベッドに就いたのは午前1時を回っていた。
6 月26 日・ 月曜日・ 第5日目
モーニングコールは7時30分となっていたが、日の出の時間が6時20分頃だと聞いていたので、6時には4階の屋上に出ていた。
部屋からも梅里雪山の全景は見える。もっとよく見たいから、屋上からの展望をむさぼるのである。
高地での日の出は真っ赤な太陽というわけには行かない。薄赤く柔らかな光が、連山の上の方をピンク色に染めたあと、昼の太陽となって東の方から顔を出す。今日は天気は良いようだ。
お目当ての梅里雪山は美しい雪景色で現れた。前日の大雨はアルプス山上では大雪となる。我々を歓迎するための雪、嬉しくも新雪のアルプスと御対面できたのである。
申し分ない好天で山の形はくっきり見えているのに、雲が止めどもなく流れてきて、高く聳える頂上を包んでしまうから、頂を眼にとらえることが出来ない。
気温は10度ぐらいだろうか? 雲の動きが速く、今見えていた山が見えなくなり、諦めて帰ろうとするとまた見え始める。
それでも6月の雨期に、勇姿を拝められたのはラッキーな方だとか?2時間釘付けで写真を撮り続けた。
8時の食事は全員揃ってと言うことなので、用意されたテーブルに着いた。
「ん?」今朝の料理は出来立てでしかも熱かった。この御時世なのだから、高地でも加圧調理容器があるはず、とすると昨晩の料理はやはり冷めたものだったか?
徳欽のホテル[明珠酒店]は一番奥まった飛来寺展望台のそばにある。
明永氷河のある太子廟展望台までの乗馬トレッキング出発まで1時間もの余裕があったので、近辺を歩いてみた。
梅里雪山は横断山脈に属し、徳欽県の総面積の34.5%も占める数百キロも繋がる連峰で、雲南省最大の壮観な山脈である。
海抜6000mも越えた太子13峰を連ね、雪山と氷河が幻想的な神山風景を年間を通して見せている。しかし、本当に13個の峰があるではなく主な山は、[太子峰(カワカブ・6,740m)]、[将軍峰(スクドン・6,379m)]、[五冠峰(ジャワリンガ・5,470m)]、[神女峰(メモツ・6,054m)]、[チョタマ(6,509m)]、[戈大尼(コワテニー、6,108m)]と[武丁峰(マーベンセンヂュショ・6,000m)]など7座だけである。
【 梅里雪山(ミンリンカンリ)とは、中華人民共和国雲南省デチェン・チベット族自治州に位置する連山の総称である。地形・気候共に登山に関する条件が非常に厳しいため、連山の全ては未踏峰である。横断山脈のうち、一番西に位置する怒山山脈の最も高い部分をなす。雲南省の三江併流と呼ばれる地域で、一帯が世界遺産に登録されている。宗教的意味合いとしては、カイラス山と並ぶチベット仏教の聖地であり、五体投地により山麓に巡礼者を集める信仰の山である。
チベット仏教信徒による巡礼登山は数百年前から行われてきたが、いずれも山腹にある寺院までである。登頂の試みは1902年ごろに始まり、アメリカ、イギリス、日本、中国などがそれぞれ5・6回ほど登山隊を派遣してきた。しかし、三江併流の険しい地形やモンスーン地帯特有の厳しすぎる気候の為に登頂は全て失敗に終わり、[神々の山]は未踏峰のままである。 地元では[神聖な山を汚す存在]として登山隊を嫌う風潮が根強く、[登山隊の遭難は当然の天罰]とする考えを持つ者も少なくなかった。
2000年、雲南省デチェン・チベット族自治州徳欽県人民大会において、カワクボなどの主要な峰々はチベット仏教の巡礼地であり、この信仰と文化の尊重の為、将来に渡り登山活動は禁止されることが正式に立法された。
[日中合同登山隊遭難]1991年1月4日、日中合同学術登山隊17名(日本側11名、中国6名)が登頂を目前に控えたキャンプ地で、雪崩の直撃を受けて全滅する遭難事故が発生した。中国の登山史でも最悪の犠牲者数となった。登山隊は前年の12月始めにカワカブの麓にベースキャンプを設置し、順調に上部へキャンプ地を延ばしていった。12月末にはカワカブの山頂まで270mのポイントに到達する。これを受けて17名の隊員が標高5,100m付近に設置された第3キャンプに集合し、頂上アタックへの態勢を整えた。 キャンプ地は斜面から充分に離れており、雪崩の危険性は少ないと思われた。年が明けた1月1日から降雪が始まり、1月3日には積雪量は1mを超えた。そして、現地時間1月3日22時の無線交信を最後に、第3キャンプとの連絡が途絶えた。
これを受けて直ちに日中合同の救助隊が現地へ派遣されたが、折からの悪天候の為に第3キャンプへ接近する事は不可能だった。その後、航空写真の分析でキャンプ地が雪崩による大量の雪に埋め尽くされている事が確認され、17人の生存は絶望的となった。
生存者がいないため詳細な状況は不明だが、京都大学に設置された事故調査委員会では、1月3日までに降った大雪で大規模な泡雪崩が発生し、キャンプ地を直撃したのだろうと推察された。
1996年に派遣された日中合同登山隊は事故後、初めて第3キャンプに到達したが、遺体やテント、遺品の発見には至らなかった。
現場には遭難地点付近を基点として山麓を流下する氷河の流れがあり、1998年8月以降に山麓を流れる氷河の末端から、雪面下に埋もれた後に氷河に流入した遺体や遺物が続々と現れた。現地の村人や捜索隊により、17名中16名の遺体やその一部、または遺品が発見・収容されている。氷河の深部で圧力を受けたため遺体や遺物の多くは損傷が激しかったが、遺体の多くが寝袋に入っていたことから登山隊は宿営地で睡眠中に雪崩に巻き込まれたことがほぼ確かめられた。
事故後まもない1991年5月、展望台より梅里雪山を望める飛来寺に日中の遭難者の氏名を刻んだ慰霊碑が建てられた。しかしながら2004年には、慰霊碑の日中両国の遭難者の氏名を刻んだ碑文のうち、日本語部分及び日本人遭難者の氏名を記載した部分が傷つけられ判読が不可能な状態となった。2006年2月にはチベット族隊員の一人の名も判読できなくなっている。 遺体の捜索が一段落した2006年10月、京都大学学士山岳会により、山麓の明永村に遺体捜索活動を記念した記念碑が設置された。この碑には中国語のみで[日中の17人の勇士、ここに永眠する]と記されている 】
梅里雪山はチベット仏教カキュ派の修行聖地・理想郷で、チベット族の考えでは、[梅里雪山を巡礼しないと死後天国に行けない]そうで、徳欽の飛来寺には一年中、多数のチベット仏教徒がチベット、青海省、四川省などから巡礼にやってきて、経文が印刷された旗・タルチョを結びつけ、皆松や柏の枝などを燃やしながら、年中の無事と家族の健康を祈るのである。
チベットガイドの 林さんも敬虔な信者のようで、寺院の中や、そう言った聖地では、五体倒地ならぬ聖地に額を付け、お賽銭をあげ、柏の枝を燃やし祈っていた。
ホテルからバスに乗り、3,400mの徳欽から峠を下り、道々梅里雪山を撮影し、1,600mまで降り、欄滄江(メコン川)を渡る。
川越をした後、再び登りとなり、2,300mの明永村まで、片道約1時間掛かった。
乗馬トレッキングの前に、チベット族の民家、村長さんの家を見学させてくれた。

1990年11月~1991年1月、日本と中国連合登山隊が梅里雪山の主峰太子峰(カワカブ)登山に挑んだが失敗、雪崩に遭難し17人が殉難した。
その遺体収容のため、小林尚礼さんが1999年までこの家に長期滞在したのだという。
現地チベットの人々の間では、聖地は人が登ってはいけない、神聖なる山は神がそれを許さないのだと崇めている。
チベット族の家には今でもトイレがない。それも不可解だが、もっと信じられなかったのは、風呂がないことである。
チベット人は一生の内3度しか風呂に入らない。生まれた時と、結婚式の時、そして死んだ時だけである。(それでも最近では、一年に2度ほど温泉に行くようになったとか?)
チベット族の家庭では、各家々で騾馬(らば・馬とロバを掛け合わせた一代雑種で、馬より小柄だが従順で力が強い)を飼っている。
観光組合がこの騾馬を各家庭に割り振って、氷河見学の客を乗せ、副収入としている。
明永村から片道4kmの緑豊かな森林の急勾配を、太子廟まで乗馬トレッキングするのである。鞍に鐙が付き、手綱でなく鉄の取っ手が括りつけてある。
一頭ずつに馬子が付く。乗る前にチップ10元(170円)を渡しておけば、親切にしてくれるからと、楊さんは言うのだが、私の馬子は中学2年生だった。
チベットでは6月から夏休みに入っているそうで、親に代わってのお手伝い? 騾馬は御主人以外の言うことは聞かないそうで、この臨時の馬子の言うとおりに動かない。
まるっきり馬鹿にして、私を乗せたまま道に生えている草をはむ、隊列を乱し、他の騾馬から威嚇をされ、大人の馬子にしかられるはで、チップの効果はゼロだった。
人を乗せては登れない急坂では、いったん降りて、脇に作られた板の歩道を歩くなどして、下馬だまりに着いた。周りの山と言う山をタルチョが包み込んでいる。
ここから20分ほど山道を登ると急に視界が開け、太子廟展望台(2,700m)に出る。展望台の頂上(3000m)までは階段が続き、迫力のある氷河の尖鋭が間近に見られる。

太子峰の麓のほうまで流れる明永氷河は長さ8キロ、海抜5,500mから海抜2,700mまで繋がり、総面積は73.5㎢も超えている。世界有数の低緯度・高海抜・季風性・海洋性現代氷河である。
高降雨量と高温のため、明永氷河の運動が他の海洋性氷河より激しく、太子峰への侵食運動もかなり激烈で、太子峰ではもっとも複雑な氷河地形を成している。 展望台の中段まで登ると、沢全体に轟音が響き渡った。氷河の左端にある氷の柱が砕け倒れ、雪崩になって下段の氷河に突っ込んでいく。
わあー、凄まじい。こんなのを見られてラッキーと感動もしたが、地球温暖化がここまで来たかと危惧の念がよぎった。
騾馬に乗る前の準備だとして、両手がふさがるから傘は持てない、雨合羽を用意し、ズボンははいておいた方が良いだの、酸素ボンベを持ってゆけだのと、あれこれ注意があったけど、天気は上々、頂上付近に被さる雲のみの好天になった。
お天気男の私はGパンにTシャツ姿、合羽のズボンもはかない。丁度よい爽やかさであった。
再び乗馬による下山である。中学生の馬子に、帰りはもっときちんと騾馬を操るようにと期待を込めて、再度10元を弾む。子供にしてみればラッキーなボーナスににんまりだった。
下りは馬の背で反り返るように乗る。登りの時は前屈みに乗ったが、鐙の位置と、その紐の結び目がふくらはぎをこするので、楽しい乗馬とはならなかった。
帰りも他の大人の馬子にしかられて、私は一番最後尾にされた。歩くにはきつい坂道だが、私に合わない鞍と鐙の乗馬は同じぐらいきついものだった。

同じ道を引き返し、夕方6時頃明珠酒店に戻ってきた。梅里雪山の懐の中での連泊である。日没も日の出と同じで、昼の太陽のままで沈み、雲と山の稜線をピンク色に染め上げる。
雲が残っていても稜線がくっきり拝めた。真っ二つに切ったような月も上がった。明日の朝こそ、美しい梅里雪山を堪能できるだろうと思えた。