


2007年6月21日(水曜日)~28日(水曜日)(水曜日)

次から次へと良くもまあ、ひっきりなしに旅のパンフレットを送ってくるものである。
今年度限りで就労をリタイアし、私に向くか向かぬか知れぬ[悠々自適] とか言う隠居生活に入った。
何せ仕事に行かないでよい、毎日が日曜日なのである。
仕事をしているときは、老後に備えて、あれもこれも、飽きないような趣味を持とうと、あれこれ詮索したものであるが、結果的にはこれと言った決定的な楽しみを見つけ出せずに、すでに3ヶ月を過ぎてしまった。
その間に66歳になった。
昨年出版した著作「中国ゆったり五日間」を、中国で出版しようという話しもあって、翻訳者が中国へ発った。
中国でどんな動きがあったのか? 連絡がない。
いつもなら誕生日は海外で迎えてきたのに、そんなことがあって誕生日間際にシリアの旅を申し込んだが、人数が集まらず中止になった。
中国での出版は、保留にした。
やることならいっぱいあるのに、どうした訳か一日中書斎に釘付けの生活になってしまっている。
一つは、本格的なノンフィクションの執筆を始めた。
今ひとつは今まで海外で撮影してきた写真を、パソコンにてきちんと編集し、CD-ROMに記録する作業に入ったのである。
各旅行社からのパンフレットは、大人しくしている私に、やいのやいのの催促を迫ってくるようで、誕生日には行けなかったけど、6月中には出掛けざるを得ないかという気持ちにさせられた。
阪急交通社の2006年クリスタルハート・中国集客NO.1コースとうたい込み、[雲南アルプス二大名峰とシャングリラハイキングの旅8日間]のパンフレットに、梅里雪山の美しい写真が載っていた。
折り込まれたページを捲ると、玉龍雪山の勇姿と、4,506mの展望台へロープウェイで空中散歩なんて言うイメージ写真も載っていた。
書斎にばかり居る生活ではいけないのは分かっていたから、ハイキングやトレッキングが組み込まれているこのツアーに参加してみようという気になった。
雲南省も6月は雨期である。
玉龍雪山、梅里雪山が見られる確率は、共に25%だと言う。
シャングリラから徳欽へ向かう途中、白范雪山峠(4,210m)越えをするときに、天気に恵まれれば、白范雪山(5,237m)も拝めるというのだ。
また6月は高山植物が咲き競い、可憐なお花にもお目にかかれるとか、内容は申し分ないものである。
6 月21 日・ 木曜日・ 1日目
出発は14時20分・中国南方航空(CZ-386便)である。
搭乗チェックは多分に漏れず、すっかりアメリカの航空会社にならって厳しかった。
機が飛び立った後、嬉しかったのは冷えたビールのサービスがあり、機内食が最近利用したどの航空会社のより豪華で美味しかったことである。
広州まで4時間30分のフライトで、350㏄缶ビールを4本もリクエストできたのは、近来希なサービスだと大満足だった。
広州では、空港敷地内の中国南方航空ホテルで泊まる。
ホテルに向かうバスの中でも注意を受けたが、明日からの旅行は、富士山の7合目以上となる地域(高地)の旅なので、高山病に対する予防法が繰り返し話された。
(1)入浴の際は浴槽には浸からず、通常より20%抑え目のぬるま湯で、 シャワーだけとし軽く済ませる。
(2)飲酒、喫煙、食べ過ぎはいけない。
(3)激しい運動は避け、ゆっくりと行動する。
今夜から、高山病に掛からないよう自粛しなくてはいけないところなのだが、私は4,000m以上の高地なら何度も体験しているので、ホテルの売店で缶ビール4本を買ってきた。
バスタブにゆっくり浸かって、湯上がりのビールを楽しみたいところ、ガイドの言うとおりシャワーだけにし、ビールは4缶全部飲んでからベッドに入った。
6 月 22日・ 金曜日・ 2日目
午前5時のモーニングコールで、7時40分昆明へ向けてのフライトである。
麗江への直行便が取れなかったようで、昆明で博物館見学を組み込み、昼食も済ませ、5時間の時間調整をして、14時51分に乗り継ぎ、麗江には15時51分に到着した。
麗江は海抜2,500mである。翌日の目的地、玉龍雪山展望台4,506mに備え、今日は中間地点で身体を慣らし、高地に順次身体を馴染ませてゆこうという配慮なのである。
昆明から合流した中国人ガイド 楊さん(女性)と、ナシ族の民族衣装を着たGパン姿の現地ガイド 李さん(女性)がバスに乗り込んできた。
成田からの添乗員 清水輝貴さんもいて、ツアーメンバー13人に対して、賑やかなことである。
到着後空港から世界遺産“麗江古城”見学へと直行、強行軍である。
一番昼間の長い時季なのと、北京標準時間で時差は日本より1時間遅れとされているが、実際に経度を測ると3時間はあろうから、8時過ぎでもまだ明るい。
麗江は、雲南省西北部、正確には海抜2,416mの高原に位置し、ナーシー族の古都として、伝統的住居を継承し、民族文化を今に伝えている。

【 麗江古城(れいこうこじょう)はナシ族によって建設された、中華人民共和国雲南省、麗江市の旧市街地である。1997年にユネスコの世界遺産に登録された。
ナシ族は8世紀、現在の青海省付近から南下してきたと言われている。南下した当時は磨些詔と呼ばれる小国を建国していたが、唐により蒙舎詔に編入された。麗江古城は、宋代より現代に至る800年の間に、近隣のチベット、白族、漢族の影響を受けつつ、ナシ族の政治・経済・文化の中心地として機能してきた。
麗江の旧市街の建築物はほとんどが1-3階建ての木造瓦葺きであり、4,156戸の住居が密集している。麗江古城の伝統的な住居形式は、平面配置の特徴から[聯排(りぇんぱい)式]と[合院式(院落式)]の2つに分けられる。聯排式は街路に面して間口が並ぶ長屋であり、2階建てが一般的である。1階部分は店舗、2階以上の部分は居住や倉庫として利用され、主に交易の盛んな商業区に見られる。合院式は天井(中庭)を中心とした1-2階建ての家屋の集まりで、周囲は壁に囲まれており、通りに面した壁面に門がある。白族、漢族の影響を受けて成立した住居形式であり、[三坊一照壁(主屋の向かいに壁を配置した形式)]など多くの形態が存在する。
仏教や道教の仏像もあり、少数民族によって書かれた麗江壁画が残る。南宋時代の土司、木氏(むーし)による城も残っていたが1996年に起きた地震で崩壊した。
麗江の旧市街は、世界遺産登録の影響によって急激な変容を見せている。 生活市場だった商業区が土産物街へと変化し、そこに働く外部の人間が新たに流入したために人口密度が上昇した。そのために伝統形式から外れた店舗の改装や、住居の細分化が行われるようになり、ナシ族の人口比率は次第に低下しつつある。また、森林資源の減少による建材不足や、景観保全ガイドラインの厳格な運用によって建物保全の経費負担が増大したため、本来の住民であるナシ族は安価に住める新市街へ移転したり、建物の修復を放棄してしまう例が見られ、麗江古城の伝統的住居の存続が危ぶまれている 】
麗江古城は麗江堤の中心にあり、大研鎮とも呼ばれ、ナシ族の尽未来の歴史をもつ古い都市である。
その古風で素朴な風格と佇まいは、科学的な配置と名高く、1986年12月、麗江は第2の国家の歴史文化名城とされた。
麗江古城は南寧に作られ、玉龍雪山から流れ出た氷水は麗江にいたり、城壁の上から街の坑道を通って、各家々に流れるようになっている。
市街の路面は麗江で生産した五花石(大理石)が敷きつめられていて、雨季は泥が無く、乾季でも塵が無い。
城内には明・清時代の石橋や石の鳥居がたくさんあり、古城は中心から四方に延び、大通りと路地は秩序よく並んでいる。
狭い坂道にはおみやげ屋が並び連ね、三連の赤い提灯を飾り下げ、古都らしい雰囲気を盛り上げている。
民家はすべて瓦ぶきの家で、古香古色、中国の古い建築で統一されている。
展望台(2,500m)の万古楼からは古城全体の街並みが見下ろせ、ひしめき合う瓦屋根が圧巻であった。

また麗江古城は城壁を築いていないことでも有名である。麗江を代々統治していた 木氏が城壁を築けば[木]の字に枠を加えると[困]の字になるのを嫌ったためだと言われている。
都が造営されたのは、宋代末から元代初期(13世紀末)にかけてである。明代初期(14世紀中ごろ)には、麗江は相当な規模の都となり、雲南、四川、チベット一帯の交通の要所だった。
清代以降、17世紀中ごろには、麗江は雲南西北部の物資の集散地として、重要な役割を果たし、歴史の一時期、インドからチベット、雲南一帯に向かう隊商たちの通路となっていた。険しい山岳地帯を移動するこうした隊商は馬を連ねたもので、主に茶の取引きをしていた。
ナシ族の民家を覗くと、でっぷりとした老人がにこにこ迎えてくれた。男は仕事をしないでノンビリしていればよいとされ、大型犬や孔雀を屋敷に放っていた。

[麗江古城]
古城の入り口に大きな水車が二機あった。これは観光用に作られたもので、実際に使用されていない。細々とした演出で、古都を強調しているのだろう。
ホテルに着くと部屋割り後直ぐの食事となった。
オプショナルツアーの希望者は、食事もそこそこに19時30分から始まる鑑賞に出掛けた。
以前九寨溝でも同じようなショーを見たが、こちらのショーはサーチライトやスポットライトがうるさく、過剰な照明演出が、かえって興醒めだった。
