タイ・スリン46回象祭り とピピ島の旅

11月20日(月曜日)・第6日目

PHI PHI(ピピ島)へ行くことになった。
 ワチラ宅を午前7時に出発する。チケットを購入し、定期観光船が出航するフロンテープ岬まで移動した。
 出航は午前9時。ピピ島までは約2時間30分。屋上のデッキの椅子に座った。
 乗船が出航ぎりぎりだったので、クーラーの効いた部屋があったのさえ分からず、若者の日光浴に付き合わされた格好になってしまった。
  
 タイの南部、プーケット島の東南に6つの小さな島からなるピピ諸島がある。
 そのうちのピピ ドン島(ピピ島)とピピレ島の2つの島が、美しい砂浜と山々の素晴らしい景観で、欧米人観光客の脚光を集めている。
 しかし、諸島最大の島・ピピ ドン島では、大規模な観光開発が無計画に進み景観を損ね、押し寄せる観光客によって海岸や多雨林の生態系の破壊が著しく、環境維持が心配されている。
 ピピ ドン島は、タイ南部ではプーケット島を凌ぐ、観光客に一番人気のリゾート地である。

《 ピピ島はプーケットから東に45kmのアンダマン海上に浮かぶクラビ県に属する島である。ピピはメインの島であるピピ ドン島と、映画『ザ ビーチ』の舞台となったマヤベイがあるピピ レイ島、そしてバンブー、モスキート島など6つの島からなっていいる。
 一般的にピピ島というとピピ・レイ島(無人島)とピピ・ドン島(人が住んでいる島)の二つの島をいう。
ドン島はピピ諸島の中で最大の島で、生活の拠点でもある島の中心にトンサイ村がある。宿泊施設やレストラン、土産品店などが立ち並び、ピピ観光の拠点となっており、そこからボートなどで周辺の島々に渡り観光する。
周りを珊瑚礁に囲まれ、美しいラグーンを持ったヤシの木に覆われた島は、神秘的な魅力が漂う楽園である。まさに秘島と呼ぶにふさわしいのがピピ諸島である 》

 〈 津波に付いて触れておく 〉
 大津波に襲われたのが2004年12月26日だっただけに、クリスマス休暇で島を訪れていた欧米人観光客が数多く(死者の半数)が犠牲になった。
 日本人の死者・行方不明者の数もタイ南部全体で数十人にのぼった。
 此処の島民は津波の経験が皆無だった。午前8時過ぎいきなり潮が異常な速度で引き初め海底が露出し、大きな魚が飛び跳ねていたのを、観光客と島民は喜んで捕まえていたそうである。
 そこへ大津波が襲った。高台へ避難するという動きもなかった。海の異常に気づいた人たちの殆どが、それが津波によるものだとは思わなかったようである。
 この地震による災害のほとんどは、地震により発生した巨大な津波によるものである。
 地震の揺れによる被害は限定的であったのに対し、津波による被害の方が非常に大きかった。
 タイやインド、スリランカなど津波の被害をまったく想定していなかった地域だけでなく、過去に何度か津波の被害をうけているインドネシアのスマトラ島北部でさえも、予想をこえる規模の津波によって壊滅的な被害をうけたのである。
 被災者の数は500万人を超えたともいわれ、死者や行方不明者は、インドネシア、タイ、スリランカ、インドなどを中心に二十数万人と報告されている。日本人の確認された死者も34人となっている。
 地震の規模が巨大だったのが、これだけの被害をもたらした第一の原因なのだが、公式な津波警報がまったく伝えられなかったことも被害を拡大させた要因である。(そう言った警報装置すらなかったのである) 
 波の高さは10m以上に達した。ある者は椰子の木に捕まり、波に引き込まれた人々は少しの時間泳いでいたようだ。が、波と一緒に押し寄せてきた流木やゴミに頭や身体を打ち付けられて(溺死ではなく)死んだ者の方が多かったそうである。

 ピピ島に近ずくと、海の桂林“ハ・ロン湾”に似た岩の島が見えてきた。

波に削り取られた岩の小島

 岩山に木が生えていて、岩島の下部・波にぶつかるところが5~6mも削り抉られている。
 波の波食・自然が造り上げる造形美、物凄い迫力だった。やはり波に削り彫られたのだろうと思う洞窟もある。洞窟の中には鍾乳洞よりも鋭い鋸刃のような切り立った岩模様が垣間見えた。
 ピピ島の桟橋は狭く、下船するのにも幾つかの船を横に渡って桟橋に上がらなくてはならない。
 欧米人の観光客は何故か若者のバックパッカー族が多い。大きなリュックを船から降ろすのも一苦労、小柄な女性なんかは自分より大きな荷物をどうやって運ぶのやら?
 ピピ島に降り立つと人・人・人でごった返す喧噪にぶったまげた。 
 下船した観光客を捌く現地ガイドの雄叫びが行き交い、周りは土産物屋がごちゃごちゃとせっついている。
 船内で胸にシールを貼られたが、現地ガイドはそれによって客を選別しているようだ。
 サンパンが船内で
 「ピピ島で一番豪華なホテルを予約した、運良く1室だけ部屋が空いた」と話していた。
 数十分経ってから、船でサンパンと何やら話しをしていたガイドがやって来て、ホテルまで案内すると歩き出した。
 てっきり迎えの車が来るものと思っていたのに、この島では環境保護のために車は一切使わないのだという。
 どういう訳かパソコンのインターネットを送信できる店がやたらと多い。夜ともなればサウンドの音けたたましくバーやダンスホールも賑わうとか。
 炎天下を、近道を選んでくねって往く。
 途中だだっ広い工事現場を横切った。椰子の木が数本残っている。

大津波の直撃を受けた浜辺

 ガイドの説明では、「この広場が大津波の直撃を受けたところで、海水浴客や住宅やホテル等が全て波に浚われてしまった」後である。
 10分と歩かなかったと思うのだが、送迎バスを期待していた分ホテルまでなんて遠いのかと思った。

“ P H I  P H I  V IL L A ”

 “PHI PHI VILLA”は後ろが山になっている。各部屋が独立したコテージ風になっていて、急な階段を上らないと部屋には行けない。
 流石このホテルまでは大津波は押し寄せてこなかったそうである。
 
 3時出発の“スキューバダイビング付きサンセット”のオプショナル・ツアーに参加した。
 プーケットから来るときに見た岩山の奇形を再度間近に観光しながら、海水が真っ青な入り江に停泊した。
 酸素ボンベを借りる人あり、シュノーケルのみで珊瑚礁に潜る人も居て、此処で暫し遊泳タイムである。
 弘田さんは此処でも水着に着替えなかった。
 サンパンとカヌーに乗って珊瑚礁に生きずく色鮮やかな数種類の珊瑚やイソギンチャクなんかを観察した。
 海底にはびっしりウニがいて、一つ目で我々を睨んでいた。
 海面から遊覧船のデッキの上まで5m程あろうか、私もせっかくだから年甲斐もなく船のデッキから海面目掛けてダイビングを御披露したものである。
 止せば良かったか? しこたま腹を打ったようで、帰国してから腹の周りが黄色くなっていた。
 タイで食べた生牡蠣にあたって、肝臓からくる黄疸ではないかと心配になり、血液検査を受け医師に聞いたところ、
 「これは黄疸の黄色とは違う、何処かにぶつけなかったですか?」と言われ、飛び込みの失敗だったと納得した次第である。

 ピピ島からプーケットまで戻り、荷物を纏めてバンコクまで引き返さなくてはならない。
 定期観光船は午前9時出港だからゆっくりの出発だった。
 乗船してピピ島を振り返ると椰子の木の間に津波を知らせる警報塔が建っていた。
 ピピ島やプーケットは世界的なリゾート地だからこその復興の早さがあった。
 だが今なお大津波の災害を受けたまま家を建てることも出来ず、船を流されたりして仕事にも就けず、満足に食べるものもない避難民が、東南アジアには数十万人もいるという。
 そうした人達が一日も早く元の生活を取り戻して欲しいものと願いつつピピ島を後にした。

[ ピ ピ 島 ]の 夕 景

船内で炒飯が振る舞われた。時刻も午後6時。雲が出ていて真ん丸の太陽は拝めなかったけど、夕焼け空に近くのヨットがシルエットになって、それなりの綺麗な海の夕景を堪能できた。

11月21日(火曜日)・第8日目

ピピ島からプーケットまで戻り、荷物を纏めてバンコクまで引き返さなくてはならない。
 定期観光船は午前9時出港だからゆっくりの出発だった。
 乗船してピピ島を振り返ると椰子の木の間に津波を知らせる警報塔が建っていた。

警報塔が取り付けられたピピ島ほ浜辺

 ピピ島やプーケットは世界的なリゾート地だからこその復興の早さがあった。
 だが今なお大津波の災害を受けたまま家を建てることも出来ず、船を流されたりして仕事にも就けず、満足に食べるものもない避難民が、東南アジアには数十万人もいるという。
 そうした人達が一日も早く元の生活を取り戻して欲しいものと願いつつピピ島を後にした。