5月15日(日曜日)・第4日目
天気は曇り。今日は気温も30度を超し、晴れの予報だという。
バンでの旅行だから、借りた傘は積んで行くことにした。
「お早う御座います。昨日は御馳走様でした。観光は今日が最終日です」
「李さん。昨日は無理をお願いしちゃって済みませんでした。助かりました」曲さんが通訳をしてくれる。
「いいえどういたしまして」片言の日本語は喋れるようだ。
「今日は予定が変更されまして、半日水郷観光に出掛けます。[朱家角]は上海の中心から西郊外約40㎞の所です。16世紀に造られた石の橋[放生橋]で有名ですし、明代の街並みが今も残っています」
今日も曲さんのガイドは流暢である。昨夜ホテルに戻ってから飲んだオールドパーも残っているし、今朝の食事で飲んだビールも効いてきた。話を聞いているようでいて目が微睡んできた。こっくりも始まった。
若林は品行方正で、今朝もアルコールは飲まなかった。
高速道路に合流すべく坂を登り詰めたところにパトカーが止まっていた。
「あのパトカーは何であそこに止まっているのですか? スピード違反を取り締まっているのですか?」
「いいえ、あれは地方ナンバーの車をチェックしているのです。法律で地方の車は市内の高速道路を走ってはいけないのです。見つかると罰金されます」
「え! そんな法律があるのですか?」どうも不可解な話だと思った。
「高速道路の脇に公園が随分増えましたね?]
[ここ数年で、20数カ所に公園が造られました。上海は緑が少ないので、国際都市として恥じない環境整備の一環で公園造りを急ぎました。[北京オリンピック]開催も決まって、上海も近代都市としての遅れを挽回しようと懸命なのです。この公園は無料で開放されています」
「え! 公園に入るのにお金を取っていたんですか?」と若林が聞く。
「只みたいに安いんだけど、お年寄りなんかは定期券みたいなものを持っていたよ」
「管理費として有料になっています。弐角(3円弱)だけです」
「所でちょっと聞いてもいいですか?」と若林が
「ハイ。どんなことでしょうか?」
「毎朝ホテルの窓から外を見ていたんですが、上海には[カラス]が一羽もいないんですよね? 私は千葉に住んでいるのですが家の周りにはカラスが沢山居て、朝早くから五月蠅くてしょうがないんですよ。どうしてですか?」
「上海にはカラスはおりません。烏は写真なんかで知っています。でも小さいときからカラスは一度も見たことがありません」
「そうなんですか? 鳥の住めないくらい空気が汚れているのでしょうかね?」
「20数年前はともかく最近の団地なんかでは自治会組織がしっかりしていて、生ゴミの管理なんかも徹底しているんだ。犬や猫それに烏の餌になるようなものは何も出さない。それにしても良くそんな事に気が付いたなあ? 余所の国の環境に目がいくなんざあ大したもんだ」
上海動物園の手前あたりで高架を降り一般道へ入り、動物園の前を通り過ぎ,滬(こ)青平公路をひたすら郊外に向かって走る。
途中道路沿いに,建設中の大型一軒家(3階建)が立ち並ぶ高級住宅地なども見えてくる。道路からもその豪華ぶりがうかがえる。(一軒八千万円?こうした住宅を購入する力を伴ってきた富豪が増えつつあると言うことだ)
出発して約一時間ほどで淀山湖のほとりにある水郷・朱家角に着いた。またの名を[珠街閣]ともいう。

【 朱家角(ジュジャジャオ) 】
朱家角鎮は中華人民共和国上海市青浦区に位置する鎮である。典型的な江南水郷古鎮であり、[上海第一大鎮]と称される。
朱家角には北大街、東井街、西井街、大新街、東市街、勝利街、漕河街、東湖街、西湖街など幾条もの古い街がある。その中の北大街は2005年11月に上海市の[上海市十大休閒街]の一つとして選ばれた。
[運河―水門―茶館―市]の商業施設の相関関係を示す構造や、鎮の求心的場所としての廟や寺も残されている。また、放生橋(高位の僧侶が魚を放した場所)の上からは、百数十年経た茶館(外部と鎮内部の取引の場)も見られ、古典的商業の仕組みも散見できる。鎮内では鶏肉入りの粽が名物で随所で売られている。朱家角は宋代に市場が形成され、明代の万暦年間(1573~1620年)に鎮(朱渓鎮)となった。水路の要所であった点から発達し、紡績業も発展しており、鎮としての反映は、近隣の鎮である、北周荘、南周荘を遥かに凌いでいたと言われている。
2000年に沈巷鎮が朱家角鎮に併合された。2006年、朱家角は[環球游報]聯合新聞の午報と全国31の都市類報紙による[中国最値得外国人去的50個地方]に選ばれた。
朱家角は古い水郷として有名な[古鎮]で明の万暦年間に出来た。面積は47㎢である。
日本では上海と云うと世界都市と云うイメージがあるが、朱家角は中国全土に及んだ文化大革命の波に飲まれることなく唯一、今もなお、古き良き時代の面影を残している上海の一部である。
1999年、揚州出身の江沢民国家主席がこの地を訪れ朱家角の街並みにいたく感動し、北京政府にそのまま残すよう指示、現在では街並みそのものが史跡として変わりつつある。
曲さんの説明では、上海、蘇州、杭州の周辺には[周荘][朱家角][同里][用直(ろくちょく)][烏鎮][西塘]の水郷古鎮があり、数年前にこれらの水郷全てが[世界文化遺産]に登録されたと話していたが、ガイドブックを調べたところそうした記述はされていなかった。(世界文化遺産に登録されていなくとも、朱家角は押しも押されぬ上海の文化遺産だと思った)
淀山湖畔に位置する朱家角の歴史は古く、1700年以上もの時代を遡った三国時代に始まる。

街の中には運河が網の目のように巡らされており、明代には水上交通により繁栄、商業の中継地として栄えた。これまで多数の優秀な人材も輩出している。
いったん街に入ると此処は別世界だった。白壁と瓦屋根の民家が連なる風景は昔ながらの江南地方の風景を今に伝えている。(上海のベニスとも呼ばれている)静かでゆったりとした町である。
駐車場から古鎮の入り口までは木造の古い看板や原色の幟(のぼり)や真っ赤な提灯が吊り下げられ、お土産屋や食べ物屋が、狭いスペースに引っ付き合って並んでいる。
朱家角は観光地でもあるし,ここで商店やレストランを営んでいる人たちの生活の場でもあるので,普段の生活そのものも見られる場所である。

幅3mほどの[北大街(商店街)]は明代そのままの石畳のストリートだった。
そんな歴史ある町だから、食文化も独特で豊富である。この一帯は[上海蟹]を大湖という湖で養殖をしているので上海市内で買うより安く、朱家角の粽(ちまき)は、[蓮新(レンコンの中に餅米を詰めて甘くにたもの)]や、豚の角煮がたっぷり入った特製粽など種類も豊富である。
蒸籠で饅頭をふかしたり、燻製の青豆など小吃類が店先に独特な朱家角料理(見た目ではグロテスク)が沢山並べられている。
狭い道路には盥やバケツに生きた上海蟹、烏亀(食用の石亀)、やアメリカザリガニ、田螺、小魚、河海老等々が入れられ並べてある。無論売り物で、秤(目方)で買うと直ぐに料理もしてくれる。(朱家角風リバーフード)
そうした食材が並べられている脇に、蓋付きの[木樽(マートン・直径25㎝・高さ30㎝)]がお日様の光が届く高さに干してある。それが幾つも並んでいる。
【 マートン(各家には便所がないので、夜間・家の中で使う簡易トイレである。現在の上海市内でも、古い家では金属にホーロー引きで仕上げたマートンを使っている。戦前日本軍が上海に進駐した際、綺麗で丁度いいと御飯を炊いて食べたが、上海人は笑って見ていたというエピソードもある)】
「若林さんこれは何だか判りますか?」(マートンを指さし)曲さんが聞く。
「糠味噌を漬ける樽じゃないですか?」
「いいえ違います。鈴木さんは判りますか?」
「マートンでしょう」
「鈴木さんは何でもよく知っていますね? そうです各家にある夜間用の便所です」
「えー! だって食べ物の隣に干してあるじゃないか?」と若林は一遍に気分が悪くなってしまった。
「朝になると女性のお年寄りが共同便所に捨てに行きます。その後、その河で洗い、天日に干して衛生的に使います」
「衛生的ったって、その河で食器を洗っているじゃないか? 彼処では洗濯もしているぜ」
「そうです。この運河は生活には欠かせない此処の人達の全てなのです」
「ここら辺のレストランじゃこの河で洗った食器で料理を出すのですか?」
「最後には(店によってですが)沸騰した水で洗うと思います。川の水を沸騰して飲み水にもしています」
運河の水は薄茶色に濁っていて、どう贔屓目に見ても綺麗とは言えない。
「・・・・・。」若林は唖然として、この辺りから余り喋らなくなってしまった。
古鎮には禅院,博物館,茶屋,などの観光スポットも見ものだが,運河にかかる大小36の石橋も見もので、どの橋も実際に渡ることができる。


私たちも5つぐらいの橋を見たり渡ったり、迷路のように入り組んだ路地につながる小さな橋から、白壁で瓦屋根の民家がひしめき合って並んでいるのを覗いた。
漕港河にかかる[放生橋]は1571年建造の石橋で全長は72m。(長江河口エリアで最大の橋)
もともと朱家角はこの古い石橋があるので有名になた。[秦安橋]も1584年の建造である。
数百年前にタイムスリップしたような佇まいの町中を15分ほど歩くと、船着き場に着いた。
遊覧船は長さ10m・幅2m・屋根付きの櫓舟、10人ほどの乗客を乗せられる。雇用施策なのだろうか? 船頭さんは皆お年寄りの男性ばかり。
客は曲さんを含めて我々3人だけ。日本の櫓舟は左側に櫓があるのに中国では右側なのだ。船頭が漕いでみろと云うので漕いでみたら、感覚は同じだった。
縦横に巡らされた運河を縫って、小船に揺られて運河の目線からゆったりと白壁と瓦屋根の風景を眺めるのだ。
小舟の屋根がくっ付きそうな低い石橋をくぐったり、お喋りをしながら洗濯している女性達を見上げたり、運河脇で楽しそうに飲食している観光客をやり過ごしたり、小舟は20分ぐらい遊覧を楽しませてくれた。
街は大きくないのでぶらぶら歩いても2~3時間はあれば十分だが、40分ぐらいの散策にした。
日本の縁日では珍しくなった十二支の粘土細工(細い竹籤にぶる下げる飾り物)や、葦切で拵える[龍]の置物なんかを実演販売していたし、縁日気分の屋台にも人が群がっていた。
せっかく来たのだからと[放生橋]も歩いてみた。橋の上から眺める街並みの中には3階建ての木造建築もあり、赤い提灯を長く数個つなげてぶる下げて昔風を醸し出している。その前の運河を気忙しく行き来する遊覧船がかさなると、いとも言われぬ[明]の風情が漂ってくるのだ。
橋のたもとでお婆さんが[金魚]のような魚を売っている(150円)。買い取って運河に流してあげれば功徳になるから、死後天国に行けるという仏教的な慈悲心なのだ。
[若林。安い天国切符だ。放流してやるかい?」
右手を横に振ってNOのジェスチャー。やけに大人しいのだ。
「タイの寺院なんかでは、小鳥を放つのや、亀を放流するのもあるんだ。その小鳥はちゃんと家まで帰ってくるそうだから、いい商売だよな?」
この日は水郷古鎮で新しい上海を写し取ろうと、カメラは最初から手にして方々の景色を撮りまくった。この旅で始めて本格的に写真に取り組めた。
快晴とまではゆかなかったが、まあまあの天気で雨の心配はしないで済んだ。放生橋から戻ってくると今日の朱家角観光は終了である。
「どうもお疲れ様です。お気に召しましたか? 今日のオプショナルツアーは食事付きです。朱家角でお食事をなさいますか?」と曲さんが言うと、
「嫌々、一刻も早く此処から出ましょう。さっきから気持ちが悪くって、此処で何かを食べるなんてとんでもないですよ」と若林はいかにも気分が悪そうだった。味噌も糞も一緒と言う昔ながらの、此処の習慣には付いていけませんと言うことである。私としてもマートンを売り物の食材の隣に干すのは止めて貰いたいと思ったが、
「イメージダウンになるからこうした事は止した方がよいですよ」と注意する観光客は居ないのでしょうかね? 有りの儘の生活を見られて話の種にした方がいいのでしょうか?
「それで若林はだんまりになっちゃったのか? そう言えば昔っから汚いとこが苦手だったよな」
「喉が渇いたからビールぐらい飲まないか?」
「嫌々!」右手を振って一秒でも早く帰ろうと出口に向かうのである。
曲さんに
「そう言うわけで、この河で洗った食器じゃ食べられないそうなので、上海へ戻ってから食事にしましょう」
帰りの車に乗ってから、若林がやっと落ち着いて話し出した。
「曲さん。朱家角にも[烏]は居ませんでしたね? それに雀とか野鳥もほんの数羽しか見ませんでしたが・・・・」
「そうでしたか? 私は気が付きませんでした」
「話は変わりますが、曲さんはお化粧はしないのですか?」曲さんは黒髪を後ろで束ねていて、紅もさしていないから、見た目より老けて見える。
「ええ。中国の女性は皆さん化粧はしません」
「曲さんは色白なんだからお化粧をしたらずっと美人になりますよ」
「そうかも知れませんが、中国人の女性には化粧をする習慣がありません。ごくまれに化粧をしている人が居ますが、水商売なんかの女性です」
「女子大学生なんかは皆さん化粧しているのでしょう?」
「いいえ。女子大学生でも化粧はしていません」
「そうなんですか? 日本じゃおませな中学生でも化粧をしますし、高校生も半分ぐらいかな? 女子大生なら殆ど皆さん化粧しています。それに主婦もそうだし、年を取ったお婆さんなんかの化粧も当たり前って感じですよ」
「え! お婆さんもお化粧をするんですか?」
「そうなんですよ。私が子供の頃外国人のお婆さんが化粧をしているのを見て、化け物のように見えたのですが、今では日本人のお婆さんが、その頃の外国人にも劣りません」
昼食は[中国麺料理]6人分ぐらいの大どんぶりに味付けの違った2種類の[中国麺]が出てきた。
中国料理もそろそろ鼻についてきて、ほんの僅かしか食べられなかった。
【 浦東新区エリア 】

上海市街地から黄浦江を挟んだ東側を、地理的関係から[浦東エリア]と呼ばれる(街の中心部がある西側は[浦西])この地区は、もともと人の住まない湿地帯だった。
1990年に経済特区として開放されて以来上海政府の号令のもと10数年、商業地域として集中的に開発され、今日では史上類を見ない速度で発展を続ける[中国経済を象徴する場所]として世界的に知られるようになった。
近代以降1980年代まで大都市の発展とは切り離されてきたこの523㎢の土地には、現在160万もの人が生活している。
現代上海を象徴する[東方明珠テレビ塔]や中国で一番、世界でも三番目に高い[金茂大厦]をはじめ、世界の名だたる外資系ホテルや高層ビルが所狭しと建ち並んでいる。
上海の空の玄関口である浦東空港はこの浦東新区の東南隅、長江河口に面した場所に位置している。

【 東方明珠塔(ドンファンミンジュー) 】
東方明珠電視塔は中華人民共和国上海市浦東新区陸家嘴金融貿易区に位置するテレビ塔である。上海テレビ塔(上海タワー)と呼ばれ、東方明珠塔(オリエンタルパールタワー)ともよばれる。外灘の万国建築群と川を隔て、468mの高さは、広州塔が完成するまではアジア第1位、世界ではカナダのトロントにあるCNタワー(553.3m)、ロシアのオスタンキノ・タワーに次ぎ、第3位の高さを誇る。
観光できる場所は、三つの大小の球体で球体はそれぞれ下から下球、中球、上球と呼ばれる。
下球の高さは118m、内部には[観光環廊]と[夢幻太空城]が設けられている。50人が乗れる2層式エレベーターが備えられ、毎秒7mの速さは中国ではここだけである。
中球の高さは295m、球体の内部はいくつかの階に分かれ、1,600人が観光できる展望台は1999年夏に開店した。[回転レストラン(一周1時間)]が有り360度の景色が楽しめ、ディスコ、ピアノバー及び20軒のカラオケボックスが常時営業している。
頂上にある上球[太空展望(宇宙船)]には、350mのところに外国人観光者向けの展望台が設けられている。ここから眺める360度の眺望はなかなかのもの、上海の街が一望できる。観光スペース、会議場ホール、コーヒーショップなどが作られている。
下球と中球の間に5つの小球があり、五つの球体には[空中旅館]と呼ばれる20の客室が用意されて豪華な高空ホテルとして使われている。
その他、[東方明珠万邦百貨店]が衣料品、工芸品、貴金属、食品などと品ぞろいも豊富に18,000㎡の売り場面積を持って営業している。
夜になると、ライトアップされたテレビ塔は、外灘の美しい夜景と一体になって、今では名実共に上海の新しいシンボルとなっている。
3つのダンゴを突き刺したような姿が出現すると、外国人観光客は勿論、中国各地からやって来た家族連れを中心に、毎日長い行列ができる賑わいを見せている。
エレベーターに乗るまでに30分以上の列が続く。
下球の展望台を二周りして上海をぐるりと眺め回したが、光化学スモッグのようなどんよりした空で、雲も厚く垂れ込め視界は良くない。(写真を撮る気にもならない・視界が届かず絵にならないのだ)
眺めが良ければ料金を払ってでも中球展望台まで登り、回転ラウンジでビールでも飲みたかった。
高速エレベーターの下は大ショッピング街だ。[明珠塔]そのものの大きさにも吃驚させられた。が、それ以上に、このスペースの広さは何なんだ? 中国人が手掛ける建築物は大昔からその規模の大きさに“唖然”とさせらる。
[金茂大廈]は明珠塔展望台から眺めただけだが、中国一のビルなので紹介をしておく。
【 金茂大廈(きんぼうたいか・ジンマオダーシャー)は浦東新区の陸家嘴金融貿易街に、1999年3月高さ450m、世界で三番目に高く中国一の高層ビルとして完成した。。
アメリカのシカゴのSOM設計事務所によって設計され、上海対外貿易中心株式会社が建設した。新東地区でも一際目立つ、全身が[メタリックシルバー]の超モダンな商業観光ビルだ。
敷地面積24,000㎡、地下3階、地上88階、最上階は観光用に一般開放されている。
直通の高速エレベーターは、わずか40秒(毎秒9.1m)で最上階まで運んでくれる。最上階からは上海が一望できる。〈大人50元(730円)、学生25元(365円)〉
3階から50階までは、オフィス;53階から87階までは五つ星の[ハイアットホテル]が入居している。中央に行くと54階から最上階まで吹き抜けになっておりホテルのフロアーが見え、巨大な空間を作り出している。
《 この[金茂大廈]の隣では、日本の[鹿島建設]によって3年前から世界一の[のっぽビル]基礎工事が開始されている 》 】
ビルは、上海地下鉄陸家嘴駅からすぐの場所にある。ビルのデザインは、仏塔など中国建築の形態を引用したポストモダン建築風のものであり、ビル全体が仏塔の屋根のようにリズミカルに分節され、階数が上がるごとに徐々に細くなる尖塔状になっている。
中国文化における吉数である[8]がビルのいたるところに使われている。全体の階数は[88]で、頂上から基部までが16段に分節されており、高さ16階の最下層から一段ごとに8分の1ずつ低くなっている。エレベーターや配管などを格納したビル中央部のコアはコンクリート製の立体耐震壁で囲まれているが、コアの断面は八角形になっている。コアを囲むようにオフィス空間が広がり、その外壁に8つの複合材料製スーパーコラムと8つの鉄製支柱が建ちビル全体を支えている。スーパーコラムや支柱とコアとの間は、高さ2階分のトラス構造の梁8つで連結している。
ビルは堆積した土砂からなる軟弱な地盤に建つため、基礎は深さ83.5mに達する鉄製のパイル1,062本で出来ており、各パイルは厚さ4mのコンクリートで覆われている。地下階を囲む鉄筋コンクリート製の土中壁は厚さ1m、高さ36m、周囲568mになる。
台風や地震に備え、秒速55m(時速200km)の風やマグニチュード7の震動に耐えられるよう先進的な構造設計技術が用いられ、鉄柱をつなぐ耐震ジョイントが風や震動の衝撃を吸収するようになっている。また57階の水泳プールも揺れを吸収する役割を果たす。外壁はガラス、ステンレス、アルミ、花崗岩からなるカーテンウォール構造である。
明珠塔見学を終えて、浦東エリア側から川沿いの遊歩道を散策して[バンド]を眺めた。

今回はバンドを歩く機会がなかった。バンド側から、浦東エリアの[世紀大道]ビル群を若林に見て貰いたかった。
バンは浦東と浦西を結ぶ[延安東路トンネル]を潜って[淮海中路エリア]に戻ってきた。
【 淮海中路 】
東側の地下鉄1号線[黄陂南路駅]と西側に[常熟路駅](通りの中間に[陜西南路駅])があり、この2駅を中心に繁華街を成している。(南京東路のように歩行者天国にはなっていない)
[南京東路]が東京の銀座なら[淮海中路]は六本木と言ったところ。廣陂南路駅と陜西南路駅の間は、高層ビルが建ち並ぶ新開発エリアである。
花園飯店の1階には[三越]が出店している等、ビルのテナントとして大型ファッションデパートが多い。
道路は狭いが、熟路駅寄り一帯は旧フランス租界地で、現在も洋館や並木道も残っている。黄陂南路駅にかけてが上海流行の発信地だと紹介されている。
バンは旅行会社の鑑札付きだから交差点脇の歩道に駐車できる。人混みをちょこっと歩いてみたが、これと云った買い物をするわけではないし、歩いていると偽物(時計とかバッグ)のブランド[物売り]がうるさく迫ってくるので煩わしくなってきた。
日本人観光客にとって中国の人混みは、こういった行商のしつこい攻勢で楽しみが半減させられてしまう。(中国に限らずどの国でも同じか?)
三越でトイレを借りて、早々と引き上げさせて貰った。
夕食は[上海海鮮料理]だったが、昨晩の御馳走が豪勢だったので、みすぼらしく感じてしまった。
上海観光はこれで終了である。
ホテルに戻ると借りた傘を返却し、100元を受け取る。
汪迎慶君と顧紅さんが待っていてくれた。
頼んでおいた烏龍茶(20gずつ真空パック詰めにしてある)と「ザーサイ」(40袋)を受け取る。
部屋で軽く飲み交わし再会を約束してお別れした。
大都市観光は東京の延長のようなきらいがあって、旅をしたという印象が薄い。
オプショナルを使って、数百年前にタイムスリップしたような水郷古鎮を訪れて旅の中身を工夫して正解だったと思う。
若林にはどのような上海が心に刻まれたのだろう?
こうしてのんびり旅の記録を書いている間にも、中国は音を立てて躍動し変革している。
日本に一番近い国との真の友好を願ってやまない。