友と往く上海の旅

5月14日(土曜日)・第三日目

日本と一時間の時差があるから、早く起きたつもりでも1時間は余計に寝ているわけである。
 6時前に目が覚めて、朝シャワーを浴びてから7時半に食堂へ行く。今朝は空き席が沢山あった。昨晩ホテルに戻ってから冷えたビールとオールドパーの水割りを飲んで寝たのだが、旅行日程はゆったりしたものだから、朝食にもビールを飲んだ。
 出発は昨日と同じ8時30分。今日もかなり激しい雨が降っている。昨日より気温が10度も低く肌寒さを感じる。今日は少し厚手の作務衣に着替えておいた。
 フロント脇のポーターカウンターへ100元の供託金を払って傘を2本借りた。(傘を返却すれば100元は戻ってくる)
 今日のスケジュールは[上海博物館]を見学し、[人民広場]を散策。ショッピングの後[麻婆豆腐]と[四川料理]の昼食である。
 曲さんのガイドを拾ってみた。
 「最近の中国はすっかり日本贔屓になりまして、商店の名前にも変化が伺えます。今まで[大飯店]とか[酒家・賓館・大廈]となっていた名称を[・・ホテル上海][ホテル・ニッコー]等と変えつつあります。[指圧院]が[マッサージ]、[商場]が[デパート]料理店なんかも日本名を使った[芙蓉][月善]等という店が増えています。その方がお客さんが沢山来ます」
 「反日デモで襲撃を受けた日本人経営の店がありましたよね? 看板に紙を貼ったりしても効果無いんじゃないの?」
 「あれは日本人の店ではないのです。日本形式の名前を使っていても、この店は中国人がやっていますという意味です」
 「それでね? 納得です」
 車は昨晩雑技団を見に来た人民広場迄やって来た。

 【 上海博物館 】

[ 上 海 博 物 館 ]

 [上海市人民政府庁舎]前の人民大道の向かい側に[上海博物館]がある。
 1994年から丸2年掛けて新館建築工事が行われ、長いこと閉鎖されていた博物館は人民広場に場所を移し1996年10月12日に全面オープンした。
 正面前には大きな噴水広場があり、地下レストラン街、地下鉄1号・2号線が交差している。
 市庁舎を挟んで、左側に[オペラハウス]と[上海美術館]右側には[上海城市規画展示館]も完成し、この一体はまさに上海の中心となっている。
 博物館の総床面積は38,000㎡。ほぼ方形の箱の上に、かまぼこ形のリングを乗せたような斬新な建物は21世紀をアピールしているようだ。《 横から見ると鼎(かなえ・食べ物を煮る道具)、上から見るとガラス張りの天井が漢代の鏡に見えるという特徴的なデザインの建物 》
 館内には貴重な文化財、1階には[中国古代青銅館]と[古代彫塑館]、2階は[歴代書法館][絵画館]と[古代陶磁器館]、3階は[古代玉器館][歴代銭幣館]、4階は[少数民族工芸館]と[歴代印館]が陳列されている。じっくり見るならたっぷり2日は掛かるだろう。

 博物館に到着したときは強いシャワーを浴びるような土砂降りだった。借りてきた傘は役に立ったが、車から玄関までの50m位歩くだけでズボンの裾がびっしょりになってしまった。
 この大雨なのに広場では(見ている人なんかいないと思うのに)勢いよく噴水が水の造形を作り出していた。
 40元(484円)を出せば、携帯電話形式の(日本語)説明器を借りられる。見学時間は50分なので、じっくり説明を聞きながらの見学とは行かない。
 私は何回も来ているから大体の陳列内容を知っているが、若林は初めてなので、一通り1階から各陳列館を覗いていった。
 若林にはどのような感動があったのだろう? 何せ今から6千年前からの出土品から始まる陳列物なのだから、どのコーナーを覗いても『ウーン』と成らざるを得ないのだ。
 展示にも工夫がしてあって、兎に角上海へ来たなら必見の場所といえよう。
 今日はこの雨じゃ写真にはならない。カメラはバスの中に置きっぱなしにした。
 [人民広場]散策がスケジュールにあっても、とてもじゃないけどそんな雰囲気ではない。ショッピングでも何でもいいから雨に濡れないところへ案内して貰うことにした。

 [シルク工場]へ案内された。
 繭から絹糸を造る紡績機械の実演見学の後、中国の絹についてや、繭からいかにして絹製品を加工するかなどの説明があった。
 この店も、前の上海旅行の際に連れてこられた所である。やはり観光客は少ない。我々の他に10人程度の日本人ツアーが入ってきただけだった。
 次のコーナーでは4人の女性が真綿の固まりを引っ張っていた。中国では一つの箱枠に二匹の蚕を入れて二卵性の繭を作らせていて、それは糸にせず(絡まってしまうから糸にはならないのだ)実演のように広げて布団綿を造っているのである。
 我々にも引っ張って見て下さいというので、曲さんも交えて藁半紙ぐらいの大きさの真綿を引いてみた。これが想像以上に力のいる作業で、足を踏ん張って思いっきり引っ張らないと簡単には延びないのだ。(千切れることはないそうだ。あんなに細い糸がいかに強いか吃驚させられた)
 此処のコーナーの女店員はこのような力仕事を一日中やっているのだろうか? 気の毒に思えた。
 こうして、シングル・ダブルベッド用に広げ、重ね具合で(目方で)夏・冬用の布団綿として売るのである。
 真綿の布団そのものは夏用で280元(4,091円)、冬用が450元(6,575円)と安いのである。ところがそのカバーが絹製で、一つに付き21,000円 もする。冬用をカバー付きで日本の三越で買ったら100,000円はしますと店員の売り込みは凄まじい。
 女店員にまとわりつかれ(妻が夏用の布団どうのこうのと言っていたのを思い出し)、じゃあ夏用を一つ買いましょうということになった。
 布団カバーを選ぶのにも種類が多いこと(ざっと50種類以上)、女店員が選んでくれるのは派手すぎて我が家のベッドには御免なさいだ。妻から苦情の出ないような穏やかで地味な花柄を選んでおいた。
 真空パックにするから持ち運びはそんなに、がさ張らないからと、女店員の商魂はなお追撃の手を緩めない。気がついたら冬用もセットで買わされていた。
 二つの布団とカバーが一つの真空パックにされた。大きめのスーツケースぐらいに膨らんでいる。片手で下げて持ち運びするには大きすぎて重い。今日は車だから問題ないが、成田では宅急便に託すしかないだろう。
 若林が「日本に帰ったら俺が持っていってあげるから心配するな」と言ってくれたが・・・・?

 午後は再び市内観光。雨もようやく上がってくれそうだし、土曜日と言うこともあってか車の流れもスムーズだ。人民広場から約1時間[上海動物園]の方に向かって走ったところに、午後の観光目玉[龍華寺]があった。

 【 龍華寺 】

【  龍 華 寺  】

 上海最古の寺として知られる龍華寺は、市の南西郊外に位置する禅寺である。
 釈迦の弟子である弥勒菩薩が、龍華樹の下で仏様になったという逸話から寺の名前がつけられた。(龍華樹の下に弥勒菩薩を安置したのが寺名の由来という説もある。)
 三国時代の242年、呉の孫権により建立されたと伝えられているが、当初の建築物は太平天国の乱で焼失した。現在のものは、清の光緒年間(1875~1908年)に再建されたものであり、更にその後の文化大革命時に破壊された個所も修復されている。
 境内の伽藍は、五進殿堂式になっていて、南側から[弥勒殿][天王殿][大雄宝殿][三聖殿][方丈樓]の順に整然と並び、東西両側には[鐘楼]がある。
 此処に置かれている[大鐘楼]は高さ2m・重さ6,500トンもある。
 天王殿には、弥勒菩薩をはじめとして四天王(文化大革命の時破壊されたが、世界中の華僑の寄贈で新しく造り直されたばかり)等の仏像が安置されている。
[蔵経楼]内には、貴重な経典と共に、1598(明の万暦26)年[神宗皇帝]から下賜された高さ2mの仏像が安置されている。 

[ 蔵経楼・高さ2mの仏像仏像 ]

 三経殿の東側にある牡丹園には、樹齢100年を超す牡丹があり、春には一斉に咲き揃った美しい景色が楽しめ、寺の西側にある[龍華公園・桃の名所](普段は人影もまばらで静かだが)ともども大勢の人で賑わうのだそうである。

高さ40.4m高さ40.4mの[ 龍 華 塔 ]

 龍華寺のシンボルは、寺の南側の道を隔てた場所にそびえる龍華塔である。もともとは寺の建立と共に築かれたが唐代の末期に破損し、宋代の977年に再建された。1000年以上の歴史を持つ龍華塔の高さは約40.4m。八角形の七層から成り、各層の軒先には鈴が吊してある。木とレンガで造られている仏塔である。現在は老朽化が著しく登ることはできない。

 伽藍を見学していたら再び雨が強く降り出した。借りてきた傘はバスの中だし、[五百羅漢]堂に入って雨宿りをしたが一向に止みそうにない。曲さんが携帯電話でバスを呼んでくれた。一本の傘に身体を寄せ合ってバスに乗り込んだ。
 バスは再び市中心地の南側を東西に走るストリート[准海中路]へ登って来た。

 この日は 汪や馮家族と夕食を一緒に摂ることに約束してあり、曲さんと運転手の李さんにも一緒して頂くように話してあるから、ツアーの夕食[中国茶宴]はキャンセルした。
 曲さんと馮君とで連絡を取って貰っているから、予約した時間にレストランに行けばいいだけになっている。
 夕食までまだ時間はたっぷりある。ツアーのスケジュールは[上海錦兆芸術博物院(工芸商店)]見学が残っている。時間調整にもなって丁度いいか? そんな気持ちで博物院に降りた。
 
【 上海錦兆芸術博物院 】は国営で、中国伝統工芸品と現代芸術品を集めた展示館である。創立に漕ぎ着けるまで各方面の協力を取り付け、念入りに準備したので15年掛かったという。
 一階は芸術品の展示館、二階は工芸品や旅行記念品などのアートショップです。とまあ学芸員(店員?)は説明するのだ。
 紫檀や黒檀の彫刻は幅も高さも厚みもあって精妙、現代中国の匠の技が見事な芸術作品を創り上げていた。
 [瑠璃の茶碗][景徳鎮の陶磁器][瑪瑙の香炉][白檀の扇子][翡翠の彫刻][紫水晶の玉][象牙の彫刻][玉の彫像]等々どれをとっても素晴らしく、国宝級芸術作品のオンパレードだ。
 現代中国の芸術品との説明だが、歴史的な伝統を受け継ぎ、現代の技術と研究の工夫を加味した作品は胸にじんと伝わってくるものがあった。
 一通り見学を終えたから、芸術院を後にしようと思ったところ、此方へどうぞと2階の別室に連れて行かれた。
 4段になっている硝子ケースが幾つも並べてあって、先に別々に説明を受けた作品の小さめのが飾ってあってあり、この中に10点の工芸品が入っている。(好きなケースの中の作品全てをそっくり買えと言うのだ)
 現在開かれている[愛知万博]の後、2010年には[上海万博]の開催が決まっているのだとも力説する。
 「何の話をし出したのやら?]私は博物館見学のつもりでいたから
 「ああそうなの?」程度にしか聞いていなかった。
 すると女性学芸員はさらに熱を帯び、力を込めて話し続けるのである。
 「この作品の一つ一つは60万円以上もします。10点全部お買い上げになると、今回に限り上海万博特別キャンペーン中なので、実際は250万円するところを120万円でお分けします。とてもこんなチャンスはありません。大変お得です。先生如何ですか?」と売り込みを始めたものである。(そう言えば前回もここへ連れて来られたような気がした。酔っぱらっていたからあまり記憶がなかったが、同じ様な事を言っていたのを思い出した)
 [そんなに安いのなら貴女が買いなさい。私は要りません」相手にしないつもりで相槌を打ったのがいけなかった。
 若林にもあれこれ迫っていたようだ。曲さんは脇に畏まって成り行きをじっと見守っている。旅行会社としても[博物院(商店)]に協力して何かを買わせようというところなのか?
 「トイレは何処?」すると他の女店員が来て、
 「こちらです」とマンツーマンでトイレまで案内してくれ、出てくるのを待ち構えていた。
 そして追い打ちのつもりなのか
 「先生、もう一度ゆっくり御覧下さい」
 「もう充分見せて貰ったからもういいよ」
「先生お茶が入りましたからどうぞ」と他の女店員が応接室に案内する。
 「要らないよ。家にはいろんな国の古芸術品が沢山あって、硝子ケースに入りきれない位だ。第一家が狭いから、こんなのを買っていったら奥さんが角を出すよ」
 今回の旅行では衝動買いはしないつもりで来ているし、これらの工芸品を見ても特別欲しいと思う物もない。年金生活に入るのだから、そろそろコレクション収集も卒業しようと考えてもいた。
 この日は藍染めの作務衣を着ているから、店員にしてみれば格好の《カモ》に見えたのだろう? それに[反日デモ]のあおりを受けて日本人観光客が来なくなってしまった。
 店としても必死なのである。(後になって気付いた)芸術院の売り上げノルマに、まんまと乗せられてしまったのだと。
 「曲さんもう出ましょう」
 「せっかくお茶を入れてくれたんですから、召し上がってください。時間はまだ早いですから。今晩の餐庁(食堂)は此処からそう遠くないところです」 若林ももうウンザリといった感じだ。
 「先生。幾らなら買いますか?」女店員はいよいよ値切り交渉に掛かってきた。
 「要らないって言ってるでしょう。第一高すぎるよ。私は骨董品の専門家だよ」とまあ適当にからかってはいたのだが・・・・・。
 「お姿を見れば判ります。先生、幾らなら買いますか値段を言って下さい」お茶も飲んだし立ち掛けて玄関に向かいながら
 「そうだな? 50万円なら買ってあげるよ」
「とんでもないです。どれをとっても一つ60万円もする物ですよ」女店員は半ば呆れ、怒って出て行ってしまった。
 別の店員が
 「先生もう少しお待ち下さい。熱いお茶を入れました」と引き留める。
 「見ててみな。またひつこくやって来るよ」
 若林はまさか? と言うような顔をしていた。曲さんも私があまり法外な金額を言ったのでふざけていると思ったらしい。
 「先生、もう一度御覧になって下さい。(ケースの)扉が開いておりますから手で触って、石の素晴らしさを確かめて下さい」女店員は3人掛かりになってきた。
 若林は呆気にとられているし、私は「もう充分見たから」要らない要らないの仕草で右手を振る。
 そこへ今度はきちんとネクタイを締めた男性がやってきて、
 「私は当博物院の館長・総支配人の朱中偉です」と名刺を差し出した。
 「はあ、そうですか」
 「先生、これは実に傑出した作品ばかりです。120万円はお安いと思いますが」
 「要りませんと断ったところです。あまり店員さんが熱心だし、幾らなら買うかと聞くから、中日友好のためだと思って、50万円なら買ってもいいよと応えたところです」
 「いくら何でもそんなにお安くは出来ません。どうでしょう? 私の責任で後5万円勉強しますから如何でしょうか?」
 「だから要らないと言っている。中日友好の為に50万円なら協力してあげますよ」
 「ちょっと失礼します」館長は他の店員に呼ばれたよな格好を取って席を外した。実は電卓を引っ張り出して何度も計算を繰り返しているのだ。中国でこういった土産物を買うときの交渉で、どの店でも行う常套手段の光景なのである。
 「飽きちゃったろう? ああやって何回も来るのが中国式なんだよ」
 「鈴木よう、いくら何でも50万円にはならないと思うよ」
 「はじめっから買う気はないし、第一あんな物を買っても狭い我が家に置くところがないよ。それに神さんが角を出しちゃうよ(笑)」
 案の定、朱館長がもう一人の男性を引き連れてきて
 「先生、色々検討しましたが、後10万円お出し願えませんか? 60万円で如何でしょうか」
 「私は50万円なら買ってあげると言っています。それ以上は払いません」
 「曲さん帰りましょう」
 朱館長はもう一人の男性店員と中国語で何やら相談していたが、
 「結構です。50万円でお売りします。先生はこの道のプロのようですから、それにしても御商売が上手ですね」ときたものである。
 「そう? 50万円にするの? じゃあ買わない訳には行かないやね」若林は
 「本当に買うのか」と怪訝な顔をしていた。
 「有難う御座いました。お支払いやお届けについてはこちらの店員が御説明します」
 まさか50万円までは負けないと思って適当に切り出した金額だったのだが、今更要らないとは言えなくなってしまった。
 いろんな国を旅行して、どうしても欲しいという[骨董品]のたぐいを購入するときは、現地ガイドを引き込んで、オーナーを呼び、友好をひけらかし、かなり値切って買ってきた。
 こういった今回のようなケースでは、負けろ負けられないの駆け引きを繰り返している内に、負けさせることが面白くなって、ついつい余計なものを買ってしまう。
 だが今回の場合は、金額が大きいだけに言い値の6割までは負けないと思って50万円ならばと答えたが・・・・、売るんですねえ? どっちが徳をしたのか判らない? どえらい衝動買いになってしまった。
 女店員が新聞を二つ折りにしたような大きさで赤い絹表紙の[嘉賓題名録(冊子・中も赤い漉き紙)]を持ってきて、中国に長く保存しますから御記帳をして下さいと言う。
 黒のマジックで 住所・氏名・生年月日・電話番号とローマ字で名前を書かされた。この冊子には数人の日本人の名前が書き込まれていた。(一昨年桂林で[七宝屏風・90万円]を買ったときにも同じ様な冊子に記帳している)
 「錦兆芸術博物院のサービス趣旨は、[誠(事実に基づいて誇張はない)]と[信(約束を守る)]です。お買い上げになった逸品はケースの中の物をそっくりお届けします。お客様に不満足なところがありましたら、無条件で返品することが出来ます。先生がお買い上げになった芸術品は、全部純天然の原材料から作られたものです。どの作品も全て中国手工芸の芸術家が、力を尽くして作り出した努力の結晶です。全部純天然の宝石の原石から作られたので、少し斑点、不純物、瑕(キズ)みたいなものがある点に付きましてはお許し頂きたいと思います。申すまでもなく、瑪瑙、翡翠、アメジスト、白玉などの収蔵価値に変わりは御座いません」クドクド長い説明があった。別の女店員が
 「どうぞ此方へお出で下さい」と案内をする。
 私が選んだケースの前で、陳列物を一緒にポラロイド写真撮影し、作品だけ写したもの一枚を私に手渡した。
 「もう一枚は[栄誉証書]に貼り、荷物と一緒に梱包します。別な物は絶対に入れません。御安心下さい」と実に丁重であった。
 代金の中には日本の私に家までの郵送料・保険・通関料・日本国内の税金などが含まれていること。クレジットカードで支払う場合本日のレートであること。(7月4日の支払いでは38,461元が507,366円だった)
 商品は45日以内に届ける。売買契約を取り消した時の条件などの説明があった。
 ようやく開放されてほっとしたという感じだった。

 バンは汪や馮の待つ[餐庁(レストラン)]へ直行である。
 [偉い時間を取らせてしまって悪かった。つくづく自分の馬鹿さ加減に呆れているよ」
 「鈴木先生は本当に商売が上手です。先生、あそこは国営なんですよ。今まで負けさせたお客さんを見たことがありません。私は吃驚しました」と曲さん。
 「中国ではどんな店でも交渉次第で安くできますよ。10万円の石の彫刻を2万円で買ったこともありますから、今回だって最初から40万円で頑張ったら買えたかも知れませんよ」
 「先生、あれは高価なものですから日本で売ったら大変です。10倍もの値段で売れますよ」
 「だけど良くあそこまで安くしたよなあ。あれで儲かっているのかな?」
 「損してまで売らないから。ああいった物の値段は我々素人には判らないよ。買い得だったかどうか?」
 「先生、あれは絶対お買い得です」
 「所で毎日お土産屋ばかり連れて行かれるのじゃいい加減ウンザリだよな?せっかく上海へ来たのにこんなんじゃ心に残る旅にならないだろう? どうだろう、明日の予定は[宋慶齢(1893~1981年・孫文夫人・世界平和と人類進歩事業に貢献してきた人物として有名)故居]とか[一全大会会祉(1921年7月31日に中国共産党の第一回全国大会が開催された旧フランス租界地の建物)]見学とショッピングだから、水郷のオプショナルを買ってそっちへ行かないか?」
 「ショッピングはもう沢山だ。今日は大雨ん中[魯迅]の家も見たし鈴木に任せるよ」
 「そう言う訳で曲さん、明日は近いところの水郷へ行きたいな。出来れば帰ってきて上海タワーには登りたい。明日の予定はキャンセルして、オプショナルで水郷へ行ったら幾ら掛かるの?」
 「上海からそう遠くないところに[明代]の町並みも見られる半日コース[朱家角]が食事付きで370元(5,405円)です。此処はとても綺麗な水郷で人気もあります」
 「それじゃあそれで決まりだ。ハイ、二人分740元」前金で支払っておく。今晩の食事代が幾ら掛かるやら? 後はそんなに元を使う所もないと計算した。
 バンは6時ちょっと前に餐庁に着いた。店は開店前で、まだ汪君達は来ていない。予約の部屋に案内して貰い、皆が集まるまで待つことにした。
 今夜のお客さんは 汪(45歳)とその意中の人 顧紅さん(現在夜間の大学「看護士課程」に通学している看護婦・40歳)と姉 汪秀宝さん(48歳)、汪の長男の娘 秀華さん(19歳)そして 馮輝(50歳)と李媛夫人(43歳)である。そしてガイドの曲さんと運転手の李さんが加わる。
 いつもはこの倍ぐらいの人達で賑わうのだが、個室は結構華やかになった。
 料理を注文するのに、李媛さんと秀宝さんで譲り合っていたが、いざ注文となってもウエイターと何やら口論を始めちゃって、40分以上も掛かっていた。
 「なかなか決まらないですね? 待っている人が飽きちゃうよね」曲さんも心配そうに
 「随分熱の入った口論をしていますね?」と心配そうだ。
 兎に角飲み物を運んで貰って、集まってきた人達とは曲さんの通訳で近況報告をして貰うことにした。
李さんは運転だからと烏龍茶しか飲まない。李さんは運転中には吸わなかったが、かなりのスモカーだった。
 曲さんは、汪や馮から私との出会い、日本で世話になった話、私と会えたことで留学中多いに助かったことなどを話されて感動していた。曲さんからもお礼を言われてしまった。
 私は今日の観光で、真綿の布団を買ったこと、定価250万円だという[石の芸術作品10点]を欲しくは無かったのだが、行きがかり上、50万円で買ったことなどを通訳して貰った。
 やがて料理が運ばれてきた。一つ一つの料理に味付けや料理方法を注文するので、それで時間が掛かってしまうのである。
 一つの料理は5~6人前、それが幾種類もの食材を使って、それぞれ異なった味付けでテーブルの上に運ばれてくるのだ。ざっと数えたところ40品目にはなっていた。
 ビールは旨くない。せっかく高級料理店に来たのだからと、上等の[紹興酒]を温めて貰う。
 いつもなら[毒蛇]や[蛙]の料理も出てくるはずなのに、今夜はどうしたのか? 聞いてみたところ、最近の上海は衛生面にうるさくなって、ああいった食材は禁止になってしまったのだという。地方に行けば今でも食べられるところがあるが、かなり田舎に行かないと食べられないそうだ。
 私が上海へ寄る時には、必ず汪や馮達と合うことにしている。彼等も私と会う為に、何はさておいても駆けつけてくれる。
 時間的余裕があれば彼等の家を訪問したり一緒に旅行をするのだが、ツアーで来た時はホテルに集合して貰うか、今夜のような会食をするようにしている。
 宴が盛り上がってきて、私に唄を歌えとせがむので、日本でも滅多に歌わない[草原情歌]を御披露した。若林が一番吃驚したのではないかと思う。私が唄を歌ったのを見たのは初めてだと思う。
 若林もリクエストされていたが、まだそこまで酔いが回ってはいなかったようだ。
 汪秀宝さんにリクエストをした。彼女は合唱団に所属していたことがあっただけに、本格的なソプラノで歌曲を歌ってくれた。
 次には私に[股割]を見せろと言いだした。18年前に始めて彼等の所へ遊びに来た時に、私の日課であるミニ体操(腕立て伏せや股割・ブリッジ)を見られた。それを覚えているから、みんなと会う度に股割をせがまれるのである。
 宴会の個室は狭いので、扉の外の廊下に尻を着き、股割を御披露した。今でも毎朝腕立て伏せと股割は続けているので、さらりと御披露できた。
 身体の硬い普通の人から見ればよっぽど凄いことに見えるのだろう? これには曲さんも李さんも感心しきりであった。
 充分に飲みかつ食べてお開きとなる。食べきれずに残った料理は、彼等がパックに詰めて家に持ち帰るので無駄はない。
 代金は1,400元(20,454円)だった。彼等の一ヶ月の給料が平均2,000元なのだから、何時も通り私の主催(接待)となる。横浜の中華街で同じ様な飲食をしたとしたら、一人に付き一万円以上は取られるだろう。兎に角豪勢な御馳走であった。
 曲さんと李さんから「どうも御馳走様でした」とお礼を言われたのには恐縮した。
 李さんにお願いして、汪君の連れ4人をバンに乗せて貰った。
 バスの中で[ザーサイ]のことを思い出した。90グラム入りのパックで味付けになっている。一袋が7角(10円22銭)と考えられないほど安い。
 これがお粥に良く合うし旨いので、何時も土産に買って帰る。若林にもたいした荷物にならないし土産になるから持って帰るといいと、それぞれ20袋ずつ買ってくれるよう汪君にお願いした。
 烏龍茶、ザーサイは明日ホテルまで持ってきてくれることになった。
 ホテルの近くで皆は降りた。李さんにはお礼に200元のチップを渡す。タクシーの方が安かったかも知れないが、特別に乗せてくれたことが嬉しかった。