ひょっこり エジプト

6 月5 日・ 土曜日・ 第4日目

本日のスケジュールは終日観光バスで、ルクソールを中心にした神殿巡りをし、巨大ダムを見学、今日の宿泊地アスワン迄の移動である。
 最初の目的地はルクソールから108㎞南に下がった[エドフ]である。
 午前中の観光に[コムホンボ神殿]の観光もあるのだが、此処で数年前反政府武装集団に日本人を含む観光客が銃撃され十数人が死傷している。
 その後エジプト旅行に来る人が激減してしまったために、観光収入が唯一のエジプトは、観光客の安全を期すとして、機関銃で武装した警察が観光バスの前後を護衛するようになった。
 警察の都合でホテル出発の時間が午前9時になった。
 バスの集結地はその都度変更になり、観光を予定しているバスが全部揃ってから、その集結地から出発と云うことになる。
 バスは方々のホテルから集まってくるらしく、何時に出発するのか判らないまま路上で待たされた。
 ガイドのアクラムは、観光ガイド以外に副業も兼ねていて、大変商売上手で商いに熱心である。初日から毎日[Tシャツ]を取り替えてきてはツアー客にアピールし、古代エジプト文字で本人の希望する名前を刺繍させたのを1枚1,500円・5枚買うと1枚おまけ、てな具合で注文を受けるのである。(サンプルは5・6点大小様々の寸法がある)
 アクラムが付け加えて云うには、
 「遺跡近くで物売りが同じようなTシャツを5枚ぐらいで千円・千円とうるさく迫ってきますが、あれは刺繍でなくて印刷です。それに生地もぺらぺらのもので、1回洗濯したらもう着られません。騙されないようにして下さい」と説明する。
 バスが集結したらしく、10時過ぎに出発となった。

 [エドフ・ホルス神殿]
 高さ47mの巨大な塔門に圧倒されながら、全体にびっしり彫られたレリーフの壁間を進むと入り口へたどり着く。
 エジプトに数ある遺跡の中でもっとも保存状態の良い遺跡だと云われている。
 この神殿の主である[ホルス神(天空の神)]像のレリーフがあちこちで見られ、第一列柱室にある柱の上部のパピルスをモチーフにした壁画には、当時の顔料の鮮やかな色で神々が描かれている。

【 エドフ神殿(Temple of Edfu)は、最高神[ホルス=アポロ]より、[アポロノポリス・マグナ]としてギリシア・ローマの時代に知られたエドフの町の、ナイル川西岸に位置する古代エジプトの神殿で、エジプトで最も保存状態のよい神殿の1つである。

[ エ ド フ ・ ホ ル ス 神 殿 ]
[ 第 一 列 柱 室 ]

 中庭、第1列柱室入口[のホルス像]
 ハヤブサ神ホルスに捧げられたこの神殿は、エドフのホルス神殿として知られ、プトレマイオス朝時代(紀元前332-32年)の紀元前237年から57年にかけて建造された。その壁にある碑文は、古代エジプトのギリシア・ローマ時代における言語、神話、宗教について重要な情報を提供している。特に、神殿に刻まれた建物の記載は[神殿の建設の詳細な記述を提供すると同時に、さらに創造の島のような本神殿ならびに他の神殿すべての神話的な解釈に関する情報を保持している]さらに[ホルスとセトとの長年の対立に関連する神聖な物語の重要な場面と碑文]がある。それらはドイツのエドフ・プロジェクトにより翻訳されている。
エドフは、[デンデラ]、[エスナ]、[コム・オンボ]、[フィラエ]を含むプトレマイオス朝時代に建造されたいくつかの神殿の1つであった。その規模は時代の相対的な隆盛を反映している。
 現在の神殿は[西暦紀元前237年8月23日に、まず列柱室、2つの横軸の広間、礼拝室に囲まれた聖舟の至聖所から成る]ところより始まった。建築は[トレマイオス3世(紀元前246-221年)]の統治時代に着手され、[プトレマイオス12世(紀元前80-51年)]のもと紀元前57年に完成した。建物は、やはりホルスに捧げられた初期の小さな神殿の場所に築かれたが、以前の構造は東西を向いており、現在の敷地のように南北方向ではなかった。
 崩壊した塔門(パイロン)は、現在の神殿のちょうど東にあり、碑文の証拠においては、新王国(紀元前1550-1069年)の支配者である[ラムセス1世(紀元前1295-1294年)]、[セティ1世(紀元前1294-1279年)]、および[ラムセス2世(紀元前1279-1213年)]のもとでの建設計画を示すものが見つかっている。
 [神殿の周柱式中庭、多柱室入口の正面西側]
 初期の建物の遺跡としての[ネクタネボ2世(紀元前360-343年)]の神殿は、内部の至聖所のなかに保存され、独立して立っており、神殿の聖舟至聖所は9つの礼拝室に囲まれている。
 エドフ神殿は、西暦紀元391年のローマ帝国での非キリスト教崇拝を禁止する[テオドシウス1世(379-395年)]の勅令に従い宗教的な建物として用いられなくなった。他のところと同様に、神殿に彫刻されたレリーフの多くは、エジプトを支配するために来たキリスト教信奉者により破壊された。
 現在に見られる、列柱室の黒くなった天井は、当時異教とされた宗教的彫像の破壊を意図した放火によるものと考えられている。
 何世紀にもわたり、神殿は吹き積もる砂漠の砂やナイル川によって堆積した川の沈泥の層の下12mの深さに埋没することとなった。地元の住民は、かつての神殿敷地の上に家を建てた。1798年に、唯一神殿の塔門の上部が視認されたことで、神殿がフランスの遠征によって確認された。
 1860年には、フランスのエジプト学者の[オギュスト・マリエット]が、砂地からエドフ神殿を発掘、清掃する作業に着手した。
 エドフ神殿はほとんど無傷であり、古代エジプト神殿の非常によい例であった。エドフの考古学的に重要であり、かつ保存状態の良い神殿は、ナイル川を巡航する多くの川船が頻繁に停留するエジプト観光の中心となった 】

 建物はほぼ完全な状態を残しており、エジプトの神殿としては[カルナック神殿]に次いで2番目に大きい、ホルス神に捧げられた記念建造物としては最も大きい神殿である。
 宗教儀式の際に神官がホルス神のシンボルとして選んだのは[ハヤブサ(列柱室の入り口前に置かれている)]である。
 至聖室の手前にある前室の天井が黒くなっていた。
 アクラム説明によると後のキリスト教徒達が台所として使用した為煤けてしまったのだそうである。(多神教の環境の中で育った我々日本人にはとても理解が出来ない事のように思えた)

 ホルス神殿のゲートを出た所はバザールみたいな土産店が所狭しと並んでいる。
 アクラムが注文を取っていたと同じようなTシャツは一枚千円と安くはなかった。大勢の子供達がまとわり付いてきて、30㎝四方のパピルスに絵を印刷したもの(実はサトウキビの偽物)を30枚千円・千円と押し売り合戦、中には50枚を千円に値切った人もいた。(この頃にはツアーの人達も駆け引き上手になり安く買うコツも習得してきたようである)
 日本に持ち帰ってエジプトのお土産としてプレゼントしちゃうのだろうか? しっかりした店で買えば同じ大きさのが一枚800円程だったが、それならエジプトだけにしかないお土産として申し分ないのだろうが?

 次のコムホンボ迄はエドフから南へ約70㎞の所である。
 いざ出発というのに動き出す気配がない? 暫くしてから集団移動中の他のバスが故障してしまって、修理が済み次第合流しますから待って下さいという説明があった。
 警察の護衛なしには安全に旅行が出来ない国なのか? もっともコムホンボについても日本政府から[渡航の是非を検討して下さい]と言うお達しが出ていたのを承知していたが、そんなことで足止めされると、何か損をしたような気になるものである。

 [コム・ホンボ神殿]
 コム・ホンボとはアラビア語でオリンパスの丘という意味で、ナイル川に突き出た丘の頂上にこの神殿が建っている。

豊穣と世界の創造の神であるワニの神[セベク]に捧げられた神殿
[ハヤブサの神ハロエリス]捧げられた神殿

 [プトレマイオス6世時代(紀元前180年)]に建て始められ、ローマ皇帝[アウグストゥス(同50年代)]時代に完成した。(発掘は1893年)
 コム・ホンボ神殿は[ワニの神ソベク]と[ハヤブサの神ハロエリス]の2神に捧げられた。(中庭の南には今でもワニのミイラが保管されている)
 この神殿に限って通路が左右一本ずつあり、塔門の入り口や部屋の入り口も二つ、至聖所も南北の二つに分かれていて、神殿全体が二重構造なのである。
【 コム・オンボ神殿は、プトレマイオス朝の時代(紀元前332-32年)にエジプトのコム・オンボの町に建設された、珍しい二重神殿である。 神殿はのちのローマ支配時代(紀元前30-紀元後395年)にいくらか増築されている。
建物の[二重]構造は、2神のために重複した中庭、広間、祭壇や部屋があったことを意味する類のないものである。神殿の正面より向かって右側半分は、[ハトホル]や[コンス]とともに豊穣と世界の創造の神であるワニの神[セベク]に捧げられた。
 一方、神殿の左側の部分は、大ホルスの別名で知られるハヤブサの神[ハロエリス]に捧げられている。神殿は変則的で、すべてが主軸を中心に完全な左右対称である。
  第18王朝(紀元前1550-1295年)の[トトメス3世(紀元前1479-1425年)]の遺物も発見されているが、現存の神殿は、プトレマイオス6世[フィロメトル(紀元前180-145年)]の治世の初めに開始され、他のプトレマイオス朝の王、特にプトレマイオス13世(紀元前51-47年)によって増築されて、内側と外側の多柱式の広間を建設した。最も外側となる部分は、前庭とともにローマ時代に築かれた。
 神殿の大部分は、ナイル川や地震で、そして後に他の事業にその石を使用した建築業者によって破壊された。内側のレリーフの一部は、かつて教会として神殿を使用したコプト教徒により損傷した。台地の南側にあるすべての神殿の建物は、残骸が片づけられ、1893年に[ジャック・ド・モルガン]によって修復された 】

 この遺跡は今まで訪れたエジプトの神殿と建築様式が違って、ギリシャのアクロポリスのような形をしていた。
アスワンからナイル川で50㎞に位置していて、川を行く船を監視出来る岬の上にある為、エジプト軍にとって重要なアスワンに次ぐ第二の軍事拠点であった。
 6月といえども此方の気温は高いので、観光客はほんの僅かしか訪れてこない。
 アクラムの説明で、当時の医療器具が壁に刻まれているのを見た。
 現在の外科手術で使われているのとほぼ変わらないメスや鋏、臓器を押さえるヤットコのような器具(材質までは判らない)なんかが刻まれているのには目を見張った。
 機関銃を持った警官が監視してくれる中を、ゆっくり・どっぷり遺跡の中に浸ることが出来て、シーズン・オフも悪くないのではと云う気になったものである。

 コム・ホンボからアスワンまでは35㎞(約30分)である。
 いつ武装警官の車と分かれたのかは知らないが、バスをホテルの渡し船の乗り場前で一旦下車し、別のバスに乗り換えて昼食のレストランへ向かった。

 いよいよアスワン観光である。

 [切りかけのオベリスク] 
 町の中心から1㎞南へ下った所に古代の石切場跡があった。
 高さ30m程の岩ばかりの小山で、そこに切りかけのオベリスク(長さ41.75mの赤色花崗岩)が残されている。

[ 切 り か け の オ ベ リ ス ク ] 

 もし完成していたらエジプト最大だったろうと言われているが、切り出しの最中に岩の亀裂が見つかり中止されてしまったのである。
 作成途中のオベリスクが残っていたお陰で、古代の石切技術が解明でき、貴重な教材として観光コースになっている。
 まず岩に切り込みを付け、そこに木の楔を打ち込む、次に楔を水で濡らすと膨張するので、自然に岩が割れるのだという。
 切り口には殆ど凸凹が無く、滑らかに切れるのだそうである。
 昼食後で時間は2時過ぎ、岩山の中腹にある横たわったオベリスクの近くまでよじ登った。
 もし完成したとして、この巨大なオベリスクをどうやって船に乗せるのだろうか? そして何処に建てるつもりであったのだろう?
 そんな想像を巡らしながら岩山の上に立ってみると、此処の暑さは半端ではなかった。
 雲一つ無い灼熱の太陽光に、花崗岩の照り返しが眩しく、帽子とサングラスなしには数分も居られない所で私達は観光をしているのである。
 ちなみに温度計を腰に下げている女性に此処の岩山での温度を尋ね、自分でも温度計を覗いてみたら、なんとなんと、54度もあった。 
 赤道直下の国々を旅行してもこれほどの暑さを体験したことはなかったが、さすがはエジプトだと、うんざりしつつ納得した。

 切りかけのオベリスク見学を終えてバスに乗り込んだら、そんなに冷えていない冷房が何とも涼しく、生き返ったかのように感じたものである。
 アクラムからのプレゼントですと甘く味付けをした[ナツメヤシ]を箱から取り出して配ってくれた。(独特の甘苦いねっとりした種入りは私にはノーサンキュウーだった)
 何のことはない、これもエジプトの土産にどうですか? と注文を取り始めた。
 12㎞南方の地点にアスワンハイダムがある。

 [アスワンハイダム]は驚くなかれ幅が3,600m、高さ111mもある巨大なダム(体積はギザのピラミッドの92倍、2億379万㎥・東京ドーム約64個分)である。
 ドイツとソ連の協力によって1970年に完成、翌年に貯水を開始した、エジプトが誇る現代の巨大建築である。

[ ア ス ワ ン ・ ハ イ ・ ダ ム ]の人造湖
[ ア ス ワ ン ・ ハ イ ・ ダ ム ]

 アスワンハイダムから上流に向けてできた人工湖の長さは、全長500㎞(エジプト領で350㎞、スーダン領で150㎞になり、幅は平均10㎞、面積は琵琶湖の7.5倍)である。
 当時の大統領ナーセルに敬意を表してナセル湖と名づけられ、広さは約3,240kmに達する。
 これによって、古代より人々を悩ませてきたナイル川の氾濫を防ぎ、国内の電力供給を安定させた。
 供給される水は不足がちの農業用水を安定させ、砂漠の緑化もおこなわれたが、一方でナセル湖ができたことにより、ナイル川流域の数々の貴重な遺跡や村落が水没した。

【 アスワン・ハイ・ダム は、エジプトの南部、アスワン地区のナイル川に作られたダムである。アスワンダムは2つあるが、現在ではアスワンダムと言うとアスワン・ハイ・ダムを指すことが多い。
 古いアスワンダムは、[アスワン・ロウ・ダム]とも呼ばれている。
 1901年に完成し、以降数度にわたって拡張された。アスワン・ハイ・ダムは、アスワン・ロウ・ダムの6.4km上流に建設され、1970年に完成した。
建設目的は、ナイル川の氾濫防止と灌漑用水の確保であるが、ロウ・ダムだけでは力不足であったために、当時のエジプトのナセル大統領がソビエト社会主義共和国連邦の支援を受けてアスワン・ハイ・ダムを国家的事業として計画を立てた。高さ111m、全長3,600mの[巨大ロックフィルダム]である。
 アスワン・ハイ・ダムの巨大な貯水池ナセル湖の名は、ガマール・アブドゥン=ナーセル大統領の功績をたたえてつけられた。アスワン・ハイ・ダムの完成によって、毎年のように起こっていたナイル川の氾濫を防止するとともに、12基の水力発電装置が210万kwの電力を供給している。
 ダムにより出現したナセル湖から供給される水は不足がちの農業用水を安定させ、砂漠の緑化も行われた。その一方で、ナイル川の生態バランスを破壊したなどの批判もあるが、ナセル湖の漁業はとても活発で、豊富な水産物は重要な食料として活用されている。今では、周辺の遺跡とともに、観光地となっている。
ナイル川では、毎年夏に洪水が発生していた。これがナイル川流域に肥沃な土壌を形成することに役立っていた。しかし、19世紀中盤にこれまでの水路を深く掘り下げ、夏運河と呼ばれる通年灌漑用の水路とすることで農業生産高が激増した。これにより流域の人口が激増すると、ナイル川の洪水は必ずしも農業生産に不可欠なものではなくなり、逆に住居や農地を押し流す洪水をコントロールする必要が発生した。
 ナイル川は、アスワンのすぐ南で急流が続いており、船舶の航行が不可能となっている。そのため、アスワン(エレファンティネ)は古代エジプトにおいては長く南の国境とされ、ここより南はヌビアとして別の文明圏であると考えられていた。一方でこの地形はダム建設には最適であったため、上述の理由によりナイル川へのダム建設が必要とされるようになると、エジプトを保護下に置いていたイギリスによって調査がおこなわれ、1901年、アスワンのすぐ南にアスワンダムが建設された。これにより治水能力は大幅に向上したものの、いまだナイル川を完全にコントロールできたわけではなかったため、やがてより大規模なダム建設の必要性が認識されるようになった。
 アスワンダムだけでは不十分と考えたエジプト政府は、1952年にアスワン・ハイ・ダムの計画を始める。その後、エジプト革命で政権交代が起こり、イギリス主導で行われていた建設計画は中止された。
 いったん中止された計画だったが、ナーセル大統領率いる革命政府は、ダム建設によって大きな利益を得られると踏み、さらに革命によって近代化されたエジプトのシンボルとなると計算して、計画を再開した。
 建設へ向けて資金調達を始める。この計画に対しアメリカが資金援助を申し込んだものの、イスラエルを支援するアメリカとナーセルとの交渉は難航し、援助計画は破棄された。ナーセルは援助に代わる財源確保のために1956年にスエズ運河国有化を宣言する。これはスエズ運河の権益を所有していたイギリスとフランスを激怒させ、両国はイスラエルを支援してスエズ奪回を画策し、第二次中東戦争の発端となった。この戦争によりエジプトは軍事的には敗北するものの政治的には勝利し、アラブ世界の広範な支持を得たナーセル政権は磐石のものとなった。さらに1958年、冷戦の影響もあり、ソ連が建設資金と機材の提供を申し出て、ソ連の企業ギドロプロエクトが設計で協力することになった。これにより、政治的にも資金・技術的にも巨大プロジェクトを遂行する準備が整った。
 1960年1月9日に起工式がおこなわれ建設が始まるが、資金技術面以外にも二つの大きな問題があった。水没地域の約9万人といわれる住民の移住と、同じく水没地域にあった、古代エジプトの遺跡群の保護の問題である。住民は主にルクソールからコム・オンボの間に開かれた30の新開地へと移住させることで解決した。
 ヌビア遺跡のアブ・シンベル神殿をはじめとする遺跡群は、当初そのまま水没させてしまう計画だったが、国際社会からの反対の声が強くユネスコの援助で巨額の費用をかけて湖畔に移築された。移築されたのはアブ・シンベル神殿だけではなく、アスワン・ロウ・ダム建設時から水没していたフィラエ島のイシス神殿や、カラブシャ神殿、アマダ神殿、ワディ・セブアなど10個ほどの遺跡が水面上へと移設している。
 総費用10億米ドルをかけて1970年に完成した。完成を記念した塔が湖畔に建てられている。
 その後、第四次中東戦争においてイスラエル軍によりペイント弾を投下された。このこともあり、現在では軍事施設にならぶ重要な防衛拠点として、軍が駐留して厳しい警備が行われている 】

 ダムの上からの眺めは遺跡ばかりのそれとは違い、周りには田園や木々が茂り、蓮の花をかたどったソ連との友好の記念塔もみえて、暑さも吹き飛んでしまった程である。
 ダムに向かう舗装道路がしっかり完備している。
 ところが砂漠から吹き付けてくる砂の量が半端ではない、数時間もすると舗装道路が砂に埋もれてしまうので、日に数回の砂掃除が欠かせないという。 ツァーの参加者達は35mm用のフイルムケース(プラスチック)にサハラの砂を詰めだした。土産にするのだという。それを見ていたアクラムが
 「日本人が来ると皆してサハラの砂を持っていくから、その内サハラには砂がなくなってしまう」と冗談を言っていた。

 アスワンハイダムを見学後、バスはアスワンのホテルに向かった。
 今日の観光はゆったり、スケジュール通り回っても時間的な余裕が出来たのか、一旦ホテルに入って3時間ばかり休息を取れることになった。
 夕方6時30分にロビーに集合し、ファルーカ(帆掛け船)セーリングを楽しんだ後、小島のレストランに案内してくれることになった。
 バスを降りる際に、アスワンハイダムで掛けていた筈のサングラスがないのである。
 旅行初日に帽子で懲りているから、サングラスなしでエジプト旅行が出来ないのも判っている。座席の周りをくまなく探してみたが見つからない。
 添乗員にサングラスがバス内で紛失したことを伝え、掃除をする際に注意して探してくれるようバス会社に電話連絡をして貰った。
 明日も同じバスとは限らない。バスが変わるとなるとサングラスは諦めなくてはならないだろう。明日以降の[眼の保護]対策をどうするか? 紛失というアクシデントだけでは済まないことになるから心配になった。

 「ISIS ISLAND HOTEL」はナイル川の小島・イシス島全体がホテルになっていて、全室ナイルビューだ。
 バスを降りた所が船着き場で、ホテルには定期便の大型渡し船で行き来する。約10分ぐらいでホテルに到着した。
 此処アスワンのナイル川は、今まで旅行してきたナイル川(両側が畑でその外が砂漠)とは全く違った顔をしている。

「ISIS ISLAND HOTEL」のある[イシス島]
「ISIS ISLAND HOTEL」

 水は青く澄んでいて流れが速い、岸辺には岩の間から草木が生い茂っているし、これをオアシスと云わずなんと呼ぶのだろう?
 船上から眺める町並みも、此処がエジプトか? と思わせる近代風のたたずまいを見せ、岸辺の砂山がこれと対照的であり融合しているのだ。
 岸辺には大小様々な船が係留されているし、特に[ファルーカ]の数が多いのには目を見張った。(ファルーカ・ボデイの赤や青の原色がナイルに溶け込みトロピカルな雰囲気を醸し出す)
 同級生の田中初枝さんから[アスワンの風景と夕陽を撮ってきてね]と頼まれたが、なるほど此処は絵になるわいと思ったものである。
 ホテルに着くまでの束の間だった。 船上の展望台に出て、嬉しくなってくる美しさと、綺麗で新鮮味いっぱいの風景を撮りまくった。

 島全体が一つのホテルとは贅沢なレイアウトである。
 ガーデニングも行き届いており、むろんプールもあるアスワンでの最高級ホテルだ。
 部屋割りが済んで2時間程の自由時間が出来たのを受けて即、水着に着替えた。
 渡し船の中で
 「この川の流れは速いですかね?」とアクラムに聞いてみた。
 私が泳ごうとする素振りでも関知したのだろうか
 「絶対に泳いじゃ駄目ですよ。この川にはワニが居ますから危険です」とけんもほろろに注意されてしまった。
 何処の旅行でも私はその国の川や海や湖で泳いできたのだから、エジプトのナイルで泳がなかったら旅行に来たという実感が湧かないではないか?
 浴室からバスタオルを拝借して、ビーチサンダルを履き、庭づたいに川まで降りて行く、ゆっくり身体を浸してから静かに静かに母なるナイルへ身をゆだねた。
 対岸で泳いでいる子供達の歓声も聞こえてくる。透き通っていて小魚が泳いでいるのが良く見える(透明度は高い)、水は思ったより冷たかったが流れはさほど強くはない。
 「あーあ気持ちがよい事よ。これが旅行の神髄だあー」なのである。5分もナイルに浸かれば気が済むのである。
 草むらからホテルのプールに上がっていったら、プールサイドで日向ぼっこをしていた白人の女性が、肩をすくめて、
 「ワニに食べられなかったですか?」と笑っていた。
 プールサイドから3本程飛び込みを御披露して、部屋の湯船に浸かってさっぱりし、夕食への準備も整った。
 そんなに強い日差しではないにしても暑さは残っているだろうと思い、甚兵衛を着てみた。
 皆さんから
 「涼しそうでいいわね」
 「甚兵衛には気が付かなかった。今度は私も持ってこよう」等と羨ましがれ、
 「そんなに荷物にならないし、結構涼しいですよ」と、暑さ対策をちょっと自慢したものである。

 午後6時30分にホテルロビーに集合し、すぐに[ファルーカ(一枚帆のヨット・定員50人ぐらい・長さ15m・幅5m)」に乗船した。

[ ア ス ワ ン の ナ イ ル 川 に あ る 石 碑 ]

 この時間にセイリングするのは日没に合わせているからで、25mもある帆柱に三角の帆を張るとその大きさに圧倒させられる。
 この日は無風だった、ファルーカは川上に進むことが出来ずにどんどん川下に流されてしまう。
 ヌビア人(エジプシャンでもアフリカンでもないヌビア民族として独特の言語、文化を持ち、ハイダムより南に住んでいる)の三人の船頭(叔父・甥の身内)が、中央に取り付けられている大きな重りを降ろし、一人が舵を取り、7mもある長い太いオールを二人で漕ぎ、ファルーカを川上に押し上げようと頑張っていたがそれも諦めてしまったようだった。
 趣向を変えて、直径60㎝のタンバリンをたたきながら、お囃子みたいな単調な繰り返しの唄を歌い出し、我々にも一緒に合唱するようにリードする。
 はじめはためらっていたツアーの皆さんも、段々雰囲気に乗りのりし、船頭の身振り仕草に合わせて踊り出した。
 ファルーカは結構広い、30人が立ってかなり力強いステップを踏んでもびくともしない。みんなして輪になって大声で歌う。丁度日没の時刻で、アスワンの夕暮れがそのダンスと唄に和んで、岸辺から砂山を墨絵に染めてゆく。
 この時期の日没は日本の夕陽のように真っ赤にならず、やや光を弱めながら砂山に沈んでしまうのである。 アクラムに聞いた所によると
 「真っ赤になって沈むのは冬の2月頃だけです。とても綺麗ですよ」と言っていた。
 ナイル川すれすれの目線から、沈み行く太陽をファルーカに重ねてシャッターを切る。

[ フ ァ ル ー カ ]とサンセット

 エレファンティネ島によって二分されたナイルの水は上流に向けて青みをまして、残照を受け止めて夢の世界を演出してくれた。

 アスワンの黄昏時の情景を心ゆくまで見せてくれ、ファルーカは小島のレストランへ運んでくれた。
 日中54度という気温を体験してきているだけに、夕食のレストランでの冷たいビールが楽しみだった。
 ところがこの魚料理レストランにはアルコールは一切置いてないのだというのである。
 ツアー客の皆さんもガックリ落胆の声が聞かれた。
 「そりゃないんじゃないの」当然添乗員に苦情が向けられる
 「旅行者の気持ちを汲んでいない。けしからん」
 「気配りが足りない」等々で険悪な雰囲気になってしまった。
 お国柄なのだから仕方がないと言ってしまえばそれまでだが、旅行の楽しみには食事の際の一杯が欠かせない(それは日本人だけではないだろう?)ビールやワインを置いているレストランが他にあるだけに旅行会社の手配りに不満が募る。
 ノンアルコールのビールを注文した人も何人かはいたようだったが、食事は簡単に終わってしまった。
 食後はホテルに戻る組と、町に繰り出す組とに別れ、それぞれ艀(はしけ)で送ってくれた。
 帰りの艀では甚兵衛姿の私が蚊の集中攻撃を受け、えらいめに合った。真っ暗になる船での帰りのことまでに気が回らなかったのである。
 ツアーB組の添乗員 白畑さんがかゆみ止めの塗り薬を持たせてくれたので大変助かった。

 昼間の休憩時間にすでに何枚かの絵ハガキにメッセージを書いておいたが、ホテルの売店で切手を買おうにも(他のお客さんも買いに来るからという理由で)6枚しか売ってくれないのである。 
 食事から戻ってホテルのバーに行ってみると、添乗員が二人で打ち合わせをしていたので、ビールをどうぞと振る舞いながら、二人にお願いしてそれぞれに行って貰って切手を6枚ずつ買って戴いた。
 ついでだから、上村君にサングラスのことを聞いてみた。
 「バスの中には落ちてなかったそうです。紛失届を出しておきましょうか?」と言う、私としてもまず出てはこないだろうと思っていたが・・・・。
 問題は明日以降の観光にサングラスなしで大丈夫だろうか? 空港の売店でサングラスを買えるだろうか? その事が心配だった。
 海外旅行先では毎回、シールに印刷してきた18人に絵ハガキをお出ししてきている。
 絵ハガキは観光先の物売りから直ぐ手にはいるけれども、何処の国も切手を買うのに、一苦労もふた苦労もさせられる。(エジプトはまだましの方であった)
 この日部屋に戻って、一人オールドパー12年ものをペットボトルの冷やした水で割り、ハガキにメッセージを書き上げた。
 絵はがき18枚は、ホテルロビーのポストに投函したし、これを成し遂げれば、あとは何の屈託もなしに多いに旅行を楽しめる。